2000年問題担当者の悲劇 8
at 1999 09/10 07:24 編集
家で使っている留守番電話兼ファックスソフトが2000年対応していないことがわかった。
周りのことばかり心配して、自分のところが抜け落ちていた。
このアパート自体も対応していないかも...
イタリアの思い出 1
at 1999 09/01 01:45 編集
イタリアに留学中の話
イタリア語学校の先生と、道を歩いていた時に、犬のふんがいっぱいあったので、「どうして犬のふんを拾わないのか」と聞いたら、「だって汚いじゃないか」と言われた。ごもっとも。
イタリアの思い出 2
at 1999 09/01 06:51 編集
語学研修は、マンツーマンで一日4時間、週5日、これを9週間行った。
頭の目の所くらいまで、イタリア語がせり上がってくる感じになった。
昼休みに公園でサンドイッチを食べながら、鳩を見て、「いいなハトは、イタリア語やらなくて良くて」とつぶやいた。
ミラノ支店勤務になってから、その話を課長にすると、彼も似たような経験をしていた。
彼の場合は、山の中の小さな村の家にホームステイしながら、イタリア語の学校に通っていたそうだ。
「いいなカラスは、イタリア語やらなくて良くて」とつぶやいていたそうだ。
イタリアの思い出 3 謎の東洋人 1
at 1999 09/01 15:33 編集
留学時代は、「こんなチャンスは二度と無い」とひげを伸ばしていた。ところが元々ひげの薄い僕は、格好良く生えてこない。中国の仙人のひげのように、あご先だけ。鼻の下はまばら。
それでも3ヶ月のばした。
ときどき、ミラノ支店の手伝いに行っていたが、現地の人からは「謎の東洋人ホーチミン」と呼ばれていた。
あるとき本社の偉い人がミラノ支店を訪問するという話になり、当時の支店長から「良い機会だから是非会っておいた方がいいよ。きちんとした格好をしてね」
泣く泣く、ひげをきれいさっぱり剃り、スーツを着て支店に行った。
支店長がその「偉い人」に、社員を現地の人も含めて一人一人紹介していった。
僕はあいさつの言葉を一生懸命考えていた。
僕の所まで来ると、支店長が僕を紹介してくれる前に「偉い人」は
「ハウドゥユゥドゥー(初めまして)」と英語で話しかけてきた。
全く予想できない展開に、日本語で準備していたあいさつは出てこないまま、握手に差し出された手を黙って握り返してほほえんでしまった。
今もあの「偉い人」は僕のことを現地採用の中国人だと思っているに違いない。
イタリアの思い出 4 謎の東洋人 2
at 1999 09/02 05:37 編集
留学が終わり、ミラノ支店勤務が決まり、ビザの書き換えのため一旦帰国した。
いよいよビザも取れて出発。喜び勇んで成田へ。
荷物のセキュリティーチェックのカウンターは、アリタリアとシンガポールエアが同じ所だった。
荷物をコンベアーに載せると、係の男性(日本人)が英語で「Singapore?」。ぶすっとして僕は「イタリアです」
12時間の飛行の後、ミラノに到着。いい加減なパスポートチェック。係の男性が(イタリア人)が英語で「観光か?」。僕は胸を張って「仕事だよ」。係官続けて「中華料理屋か?」
一日のうち2回も日本人と認識してもらえず(しかも一回目は成田で)、僕は結構ショック。妻は後ろで笑い転げていた。
イタリアの思い出 5 ハチ公
at 1999 09/02 05:37 編集
ミラノ支店勤務の時に、またまた本部のお偉いさんが来た。確か、常務だったと思う。
例のごとく、支店長が各社員を紹介する。
僕のところにやってきた。
支店長「彼が、XXX君です。」
常務「XXX君、君は何年入社かね」
僕「昭和60年です。」
常務「じゃあ、君もそろそろ中堅だね」
僕「ええ、ハチ公と呼ばれています。」
(注.中堅と忠犬をかけた駄じゃれをとっさに言ってしまったもの)
常務「....」(何も言わずに立ち去った)
これで僕の出世はなくなったと観念した瞬間だった。
そんなこともあり、僕は海外勤務10年すぎてもまだ帰れずにいる。
貧しかった話 1
at 1999 09/02 15:24 編集
子供の頃、家は貧乏だった。幸せなことに、当時はそれに気が付いていなかった。
大学に入って、東京にある県人会の学生寮に入り(月3万円、朝晩食事付きの破格の条件。あまり裕福でない家庭の子供が入る)、そこで誰が一番貧乏だったかと自慢しあったことがあった。 僕が一番貧乏だった。信じられないくらいみんな貧乏で、最後はほとんど笑い話になり、みんなで笑い転げた。
おかずはいつも一品だった。コロッケ一個でご飯を一杯食べる。カレーライスが良く出たが、「形のある」肉が無いことも時々あって、ひき肉だったり、ソーセージだったりした。(それはそれでおいしかったのだが)
朝は味付け海苔一袋でご飯を一杯食べる。確か一袋5枚入りだった。一枚をそのまま醤油をつけてご飯にくるむのではない。まず、その一枚をさらに4つに切り、醤油をつけて、それをご飯の上に置いてそれで食べる。こうすると、味付け海苔だけでご飯一杯何とか食べられる。隣で食べている妹は、まだ我が家の状況を理解するには小さすぎて、海苔でご飯をくるくるまいて食べていた。
社会人になって14年、いまだに朝食で味付け海苔が出ると、最初に海苔を4つに切ろうと手が動く。 貧乏癖はなかなか抜けない。
貧しかった話 2
at 1999 09/03 05:36 編集
大学に入った年に、生協のアンケート用紙が届いた。「あなたは、アンケート対象に選ばれました。実態調査にご協力ください」というものだった。
田舎からぽっと出の僕は、これは、まじめに答えなければいけないと思った。
「親の所得」という項目があった。僕は、田舎に電話をして、父と母親の所得を確認し、記入した。当時で、二人合算の所得が290万円だった。
しばらくして、アンケートの集計結果が送られてきた。
「XX大学の家庭の平均収入は650万円!!」
翌年父は、細々と続けていた自営の繊維工場を廃業し、僕は授業料免除の申請をして認められた。
方言はすばらしい 1
at 1999 09/05 02:12 編集
うちの田舎では、「うんこ」のことを「アッパ」と呼ぶことがある。
東京に出てきて、県人会の学生寮で生活するようになってしばらくしてからの話。
ある日の夕食、食堂でテレビを見ながら食事をしていた。
コマーシャルになって、いきなり「アッパマン、アッパマン、アッパマン」と流れてきた。
何事かとみんなテレビに釘付けになった。
「週刊アパートマンション情報」のコマーシャルだった。
きたない話でごめんなさい。
方言はすばらしい 2
at 1999 09/04 06:44 編集
うちの田舎では、カエルのことを「ギャル」と呼ぶ。
東京に出て、「ギャル」という言葉が流行したときには、少し変な気がした。
「サーファーギャル」「AVギャル」
カエルのはだかなんて、いつも見ているぞ。
夏になると、夜カエルの大合唱でうるさくて眠れない。
うちの田舎においでよ。夜はギャルが集まってきて、遅くまで騒いでいるよ。君を寝かせてくれないよ。
今年の3月に田舎に帰ったとき、雨の日の夜、玄関先でギャルが雨宿りをしていた。
田舎のカエルのくせに軟弱なやつ。
方言はすばらしい 3
at 1999 09/05 02:53 編集
「あっぱ」と「ぎゃる」と続いたところで、何人かの方は、私が福井の出身だとわかったに違いない。
田舎からぽっと出の僕などは、学校でも口べたであまり話をしないから、東京弁はなかなか覚えられなかった。周りのみんなもそうらしく、大学時代の県人会学生寮では、共通語は福井弁だった。
にもかかわらず、中には東京弁を巧みにあやつる人たちがいて(東京で予備校通いをした人たちだが)、そういう人たちは「ええかっこしぃー」と石を投げられ、いじめられていた。
学生寮には、着信専用の電話が二台玄関の所にあって、電話がかかってくると呼び出しを受けて、玄関で話すことになる。
福井弁でしゃべっている人も、学校の友達からの電話を受けると、ふだん寮では使わない東京弁で応対することになり、自分も「ええかっこしー」だということをばらしてしまうのだが、周りから見ると、東京弁があまりになじんでいないのでおかしかった。
2000年問題担当者の悲劇 11
at 1999 09/06 05:41 編集
今日もジムに行って来た。
ジョギングの本に、次のようなことが書いてあった。
「一生の間に、心臓が収縮する回数というのは上限が決まっている。ジョギングによって持久力をつけることで心臓が強くなり、平常時の心拍数が少なくなる。よって長生きできる」
でもこれって、毎日走っている人は常に心拍数が高いままで、結果的に早死にするんじゃないのか。気がついたら腕の心拍数メーターは、170を超えていた。いけないいけない。
スパゲティーの話
at 1999 09/07 15:29 編集
田舎からぽっと出の私は、大学2年の夏に、アルバイトを始めた。
アルバイト先の女性と、昼ご飯に行くことになった。連れられるがままに、スパゲティー屋に行く。ちなみに私はこのときまで、レストランでスパゲティーを食べたことがなかった。
家で食べたことは何度かあったが、当然お箸で食べていた。
いきなりフォークとスプーンが出てくる。「なんじゃこりゃー」
相手の食べ方を観察し、食べ慣れているかのようにフォークにくるくる巻き付ける。
「巻き付けすぎた、口に入らない。」 食べるのが遅いと、食べ慣れていないのがばれてしまうと思い、会話もせずに必死で食べる。何とか、同じくらいに食べ終わった。
冷や汗たらたら。
そのあと何年かして、イタリアに留学・勤務となった。その頃までには、スパゲティーもかなり食べ慣れていたが、それ以上に食べるようになった。
ちなみに、イタリアの北部の方では、レストランでスパゲティーにスプーンは出てこない。
ペリエの話
at 1999 09/08 15:27 編集
田舎からぽっと出の僕は、大学一年の夏に、六本木に遊びに行くことにした。
夜は何となく怖そうだったので、昼間に行くことにした。
当時の若者向け雑誌「Popeye」だか「Hotdog Press」で、めぼしい「カフェバー」なるものに狙いを定め、どきどきしながら、とある日の昼過ぎに、一人で入っていった。
平日の昼間で、当然のことながら店はがらんとしていた。メニューが運ばれてきたが、どれもこれも結構な値段だ。
貧乏学生だった僕は、わりかし安いが、名前が派手な「ペリエ」とか言うものを、知ったかぶりして頼むことにした。
しばらくして、氷とレモンの入った水が運ばれてきた。
しかし、肝心のペリエはなかなか来ない。
忘れられているのかしら、お店の人に催促しようかしら、と考える一方で、ひょっとしたら、これがペリエかもしれないと思い始めた。
よく見ると、泡が出ているではないか。
なんだ、ペリエというのは、サイダーか。僕は安心してペリエを口に運んだ。
ところが、味がない。サイダーだと思っていたから、口は当然甘いものを期待していたから、はずれの気分だ。
「変わった飲み物だ」
店の中を見回すと、子供連れの家族がいた。子供はおいしそうにアイスクリームを食べていた。「アイスクリームの方がよかった」
30メートル防水腕時計の話
at 1999 09/09 14:12 編集
2年前、ロンドンマラソンを目指して走り始めたことがあった。
「ランナーズワールド」という雑誌が、ちょうど新規購読者向けに腕時計プレンゼントをしていたので、購読の申し込みをした。安っぽいデジタル腕時計なのだが、ストップウォッチ機能と、「30M Water Resistant (30メートル防水)」とあったのに惹かれた。
会社の後輩からは、「たったの30メートルですか、ダイビングするなら100メートルとか、200メートルとかないと駄目ですよ」と言われた。人のいい気持ちを台無しにするいやなやつ。(市坂くん、君のことだよ。)
どうせプールにしか行かないのだし、そこは水深2メートルだよ。
3ヶ月後、ジムに行って泳ぐことにした。
それまで防水腕時計など持ったことがなかったので、時計をしたまま泳ぐことにした。
最初の25メートル。時計を見ると文字盤の内側が水滴で曇っている。
「きっと水から上がってしばらくすると元に戻るのだろう」
次の25メートル。文字盤の内側に水が入っている。
「きっと水から上がると、水が抜けていくのだろう」
結局トータルで200メートル泳いで上がった。
ところがしばらくしても文字盤の内側に水がたまったままだ。時間表示は消えている。
「不良品???」
家に戻ってから、眼鏡用の小さなねじ回しで分解し、中身を乾かしてから組み立て直した。
何とか時計は動き始めた。ライトは壊れたまま。
「30M Water Resistantというのは、ひょっとすると、文字通り、30メートル水に耐えたのだが、それ以上泳いだために、水が入ってきたのかもしれない。Water Proofを買わないといけなかったのだろう」
翌日、会社のイギリス人に確認したら、「それはただの不良品だ」と言われた。
2000年問題担当者の悲劇 12
at 1999 09/10 05:17 編集
今日は、危うく死にかけた。
99年9月9日、2000年問題の要注意日の一つだ。
朝7時に会社に入り、すべて動いているか確認。特に問題はないようだ。
朝早かったので、11時過ぎにはお腹がすいた。
オフィスの裏のエレベーターで、6階の自動販売機にチョコバーを買いに行くことにした。
このリフトは、通常は荷物用で、あまり使われていない。
「まずいな、これは古臭いし、2000年問題に対応していないかもしれない。おっこちないだろうか、閉じ込められないだろうか」と不安になる。
びくびくしながらエレベーターに乗る。ところがドアが閉まってしばらくしても、動かない。
「何だ!? 閉じ込められたか!?」
おっと、ボタンを押していなかった。
ようやく動き出した。小銭入れを出して、小銭を確認。ちゃんとチョコバーをかえるだけの分はある。見上げると、2階を過ぎた所。と、その時、「カキーン」激しい金属音がした。
「何だ!?」
足元を見ると、小銭入れから落ちた、1ポンド硬貨が転がっていた。
危うく心臓麻痺で死ぬところだった。
逆に言うと
at 1999 09/30 23:53 編集
うちの会社のM副社長と、K部長は、どちらも「逆に言うと」というのが口癖である。
二人で議論が始まると、逆に言うとの嵐である。二人の前に座っている僕は、意見がどちら側に行っているかを、消しゴムを動かしてフォローしている。
ふとしたはずみでどちらかが「逆に言うと」を言い忘れることがある。そうすると、片方は続けて「逆に言うと」と言うことになり、自分の言ったことを否定していることになる。
一度、会社の同僚と、本気で逆に言おうとしてみたことがあったが、とても難しかった。(大本君、協力ありがとう)
副社長「たけやぶやけた」
部長「それは逆に言うと「たけやぶやけた」ですね」
イギリス相続税入門 - 生命維持装置
at 1999 09/14 06:22 編集
イギリスの相続税の規定に、生前贈与の規定がある。
相続の後、本人が7年間生きていれば、相続税がかからないと言う規定だ。
とある大金持ちで、ばく大な相続税を回避するために、おじいちゃんに生命維持装置を使っているケースがあるらしい。
あと少しで7年になるということだ。
2000年問題担当者の悲劇 13
at 1999 09/15 07:08 編集
チェンジフリーズというものがある。「一旦2000年対応されたソフトは、いじるとおかしくなる可能性があるので、いじっちゃ駄目だ」というものである。
当社のあまり重要でないシステムの中に、対応が9月ぎりぎりになりそうなものがある。
本部の方はチェンジフリーズを9月とずっと言ってきており、間に合わないなら、来年のチェンジフリーズ開けまで、実施を凍結しろと言ってきている。
「対応しないと2000年で問題が発生するかもしれないのに、対応を止めろと言うのか????
」
at 1999 09/10 07:24 編集
家で使っている留守番電話兼ファックスソフトが2000年対応していないことがわかった。
周りのことばかり心配して、自分のところが抜け落ちていた。
このアパート自体も対応していないかも...
イタリアの思い出 1
at 1999 09/01 01:45 編集
イタリアに留学中の話
イタリア語学校の先生と、道を歩いていた時に、犬のふんがいっぱいあったので、「どうして犬のふんを拾わないのか」と聞いたら、「だって汚いじゃないか」と言われた。ごもっとも。
イタリアの思い出 2
at 1999 09/01 06:51 編集
語学研修は、マンツーマンで一日4時間、週5日、これを9週間行った。
頭の目の所くらいまで、イタリア語がせり上がってくる感じになった。
昼休みに公園でサンドイッチを食べながら、鳩を見て、「いいなハトは、イタリア語やらなくて良くて」とつぶやいた。
ミラノ支店勤務になってから、その話を課長にすると、彼も似たような経験をしていた。
彼の場合は、山の中の小さな村の家にホームステイしながら、イタリア語の学校に通っていたそうだ。
「いいなカラスは、イタリア語やらなくて良くて」とつぶやいていたそうだ。
イタリアの思い出 3 謎の東洋人 1
at 1999 09/01 15:33 編集
留学時代は、「こんなチャンスは二度と無い」とひげを伸ばしていた。ところが元々ひげの薄い僕は、格好良く生えてこない。中国の仙人のひげのように、あご先だけ。鼻の下はまばら。
それでも3ヶ月のばした。
ときどき、ミラノ支店の手伝いに行っていたが、現地の人からは「謎の東洋人ホーチミン」と呼ばれていた。
あるとき本社の偉い人がミラノ支店を訪問するという話になり、当時の支店長から「良い機会だから是非会っておいた方がいいよ。きちんとした格好をしてね」
泣く泣く、ひげをきれいさっぱり剃り、スーツを着て支店に行った。
支店長がその「偉い人」に、社員を現地の人も含めて一人一人紹介していった。
僕はあいさつの言葉を一生懸命考えていた。
僕の所まで来ると、支店長が僕を紹介してくれる前に「偉い人」は
「ハウドゥユゥドゥー(初めまして)」と英語で話しかけてきた。
全く予想できない展開に、日本語で準備していたあいさつは出てこないまま、握手に差し出された手を黙って握り返してほほえんでしまった。
今もあの「偉い人」は僕のことを現地採用の中国人だと思っているに違いない。
イタリアの思い出 4 謎の東洋人 2
at 1999 09/02 05:37 編集
留学が終わり、ミラノ支店勤務が決まり、ビザの書き換えのため一旦帰国した。
いよいよビザも取れて出発。喜び勇んで成田へ。
荷物のセキュリティーチェックのカウンターは、アリタリアとシンガポールエアが同じ所だった。
荷物をコンベアーに載せると、係の男性(日本人)が英語で「Singapore?」。ぶすっとして僕は「イタリアです」
12時間の飛行の後、ミラノに到着。いい加減なパスポートチェック。係の男性が(イタリア人)が英語で「観光か?」。僕は胸を張って「仕事だよ」。係官続けて「中華料理屋か?」
一日のうち2回も日本人と認識してもらえず(しかも一回目は成田で)、僕は結構ショック。妻は後ろで笑い転げていた。
イタリアの思い出 5 ハチ公
at 1999 09/02 05:37 編集
ミラノ支店勤務の時に、またまた本部のお偉いさんが来た。確か、常務だったと思う。
例のごとく、支店長が各社員を紹介する。
僕のところにやってきた。
支店長「彼が、XXX君です。」
常務「XXX君、君は何年入社かね」
僕「昭和60年です。」
常務「じゃあ、君もそろそろ中堅だね」
僕「ええ、ハチ公と呼ばれています。」
(注.中堅と忠犬をかけた駄じゃれをとっさに言ってしまったもの)
常務「....」(何も言わずに立ち去った)
これで僕の出世はなくなったと観念した瞬間だった。
そんなこともあり、僕は海外勤務10年すぎてもまだ帰れずにいる。
貧しかった話 1
at 1999 09/02 15:24 編集
子供の頃、家は貧乏だった。幸せなことに、当時はそれに気が付いていなかった。
大学に入って、東京にある県人会の学生寮に入り(月3万円、朝晩食事付きの破格の条件。あまり裕福でない家庭の子供が入る)、そこで誰が一番貧乏だったかと自慢しあったことがあった。 僕が一番貧乏だった。信じられないくらいみんな貧乏で、最後はほとんど笑い話になり、みんなで笑い転げた。
おかずはいつも一品だった。コロッケ一個でご飯を一杯食べる。カレーライスが良く出たが、「形のある」肉が無いことも時々あって、ひき肉だったり、ソーセージだったりした。(それはそれでおいしかったのだが)
朝は味付け海苔一袋でご飯を一杯食べる。確か一袋5枚入りだった。一枚をそのまま醤油をつけてご飯にくるむのではない。まず、その一枚をさらに4つに切り、醤油をつけて、それをご飯の上に置いてそれで食べる。こうすると、味付け海苔だけでご飯一杯何とか食べられる。隣で食べている妹は、まだ我が家の状況を理解するには小さすぎて、海苔でご飯をくるくるまいて食べていた。
社会人になって14年、いまだに朝食で味付け海苔が出ると、最初に海苔を4つに切ろうと手が動く。 貧乏癖はなかなか抜けない。
貧しかった話 2
at 1999 09/03 05:36 編集
大学に入った年に、生協のアンケート用紙が届いた。「あなたは、アンケート対象に選ばれました。実態調査にご協力ください」というものだった。
田舎からぽっと出の僕は、これは、まじめに答えなければいけないと思った。
「親の所得」という項目があった。僕は、田舎に電話をして、父と母親の所得を確認し、記入した。当時で、二人合算の所得が290万円だった。
しばらくして、アンケートの集計結果が送られてきた。
「XX大学の家庭の平均収入は650万円!!」
翌年父は、細々と続けていた自営の繊維工場を廃業し、僕は授業料免除の申請をして認められた。
方言はすばらしい 1
at 1999 09/05 02:12 編集
うちの田舎では、「うんこ」のことを「アッパ」と呼ぶことがある。
東京に出てきて、県人会の学生寮で生活するようになってしばらくしてからの話。
ある日の夕食、食堂でテレビを見ながら食事をしていた。
コマーシャルになって、いきなり「アッパマン、アッパマン、アッパマン」と流れてきた。
何事かとみんなテレビに釘付けになった。
「週刊アパートマンション情報」のコマーシャルだった。
きたない話でごめんなさい。
方言はすばらしい 2
at 1999 09/04 06:44 編集
うちの田舎では、カエルのことを「ギャル」と呼ぶ。
東京に出て、「ギャル」という言葉が流行したときには、少し変な気がした。
「サーファーギャル」「AVギャル」
カエルのはだかなんて、いつも見ているぞ。
夏になると、夜カエルの大合唱でうるさくて眠れない。
うちの田舎においでよ。夜はギャルが集まってきて、遅くまで騒いでいるよ。君を寝かせてくれないよ。
今年の3月に田舎に帰ったとき、雨の日の夜、玄関先でギャルが雨宿りをしていた。
田舎のカエルのくせに軟弱なやつ。
方言はすばらしい 3
at 1999 09/05 02:53 編集
「あっぱ」と「ぎゃる」と続いたところで、何人かの方は、私が福井の出身だとわかったに違いない。
田舎からぽっと出の僕などは、学校でも口べたであまり話をしないから、東京弁はなかなか覚えられなかった。周りのみんなもそうらしく、大学時代の県人会学生寮では、共通語は福井弁だった。
にもかかわらず、中には東京弁を巧みにあやつる人たちがいて(東京で予備校通いをした人たちだが)、そういう人たちは「ええかっこしぃー」と石を投げられ、いじめられていた。
学生寮には、着信専用の電話が二台玄関の所にあって、電話がかかってくると呼び出しを受けて、玄関で話すことになる。
福井弁でしゃべっている人も、学校の友達からの電話を受けると、ふだん寮では使わない東京弁で応対することになり、自分も「ええかっこしー」だということをばらしてしまうのだが、周りから見ると、東京弁があまりになじんでいないのでおかしかった。
2000年問題担当者の悲劇 11
at 1999 09/06 05:41 編集
今日もジムに行って来た。
ジョギングの本に、次のようなことが書いてあった。
「一生の間に、心臓が収縮する回数というのは上限が決まっている。ジョギングによって持久力をつけることで心臓が強くなり、平常時の心拍数が少なくなる。よって長生きできる」
でもこれって、毎日走っている人は常に心拍数が高いままで、結果的に早死にするんじゃないのか。気がついたら腕の心拍数メーターは、170を超えていた。いけないいけない。
スパゲティーの話
at 1999 09/07 15:29 編集
田舎からぽっと出の私は、大学2年の夏に、アルバイトを始めた。
アルバイト先の女性と、昼ご飯に行くことになった。連れられるがままに、スパゲティー屋に行く。ちなみに私はこのときまで、レストランでスパゲティーを食べたことがなかった。
家で食べたことは何度かあったが、当然お箸で食べていた。
いきなりフォークとスプーンが出てくる。「なんじゃこりゃー」
相手の食べ方を観察し、食べ慣れているかのようにフォークにくるくる巻き付ける。
「巻き付けすぎた、口に入らない。」 食べるのが遅いと、食べ慣れていないのがばれてしまうと思い、会話もせずに必死で食べる。何とか、同じくらいに食べ終わった。
冷や汗たらたら。
そのあと何年かして、イタリアに留学・勤務となった。その頃までには、スパゲティーもかなり食べ慣れていたが、それ以上に食べるようになった。
ちなみに、イタリアの北部の方では、レストランでスパゲティーにスプーンは出てこない。
ペリエの話
at 1999 09/08 15:27 編集
田舎からぽっと出の僕は、大学一年の夏に、六本木に遊びに行くことにした。
夜は何となく怖そうだったので、昼間に行くことにした。
当時の若者向け雑誌「Popeye」だか「Hotdog Press」で、めぼしい「カフェバー」なるものに狙いを定め、どきどきしながら、とある日の昼過ぎに、一人で入っていった。
平日の昼間で、当然のことながら店はがらんとしていた。メニューが運ばれてきたが、どれもこれも結構な値段だ。
貧乏学生だった僕は、わりかし安いが、名前が派手な「ペリエ」とか言うものを、知ったかぶりして頼むことにした。
しばらくして、氷とレモンの入った水が運ばれてきた。
しかし、肝心のペリエはなかなか来ない。
忘れられているのかしら、お店の人に催促しようかしら、と考える一方で、ひょっとしたら、これがペリエかもしれないと思い始めた。
よく見ると、泡が出ているではないか。
なんだ、ペリエというのは、サイダーか。僕は安心してペリエを口に運んだ。
ところが、味がない。サイダーだと思っていたから、口は当然甘いものを期待していたから、はずれの気分だ。
「変わった飲み物だ」
店の中を見回すと、子供連れの家族がいた。子供はおいしそうにアイスクリームを食べていた。「アイスクリームの方がよかった」
30メートル防水腕時計の話
at 1999 09/09 14:12 編集
2年前、ロンドンマラソンを目指して走り始めたことがあった。
「ランナーズワールド」という雑誌が、ちょうど新規購読者向けに腕時計プレンゼントをしていたので、購読の申し込みをした。安っぽいデジタル腕時計なのだが、ストップウォッチ機能と、「30M Water Resistant (30メートル防水)」とあったのに惹かれた。
会社の後輩からは、「たったの30メートルですか、ダイビングするなら100メートルとか、200メートルとかないと駄目ですよ」と言われた。人のいい気持ちを台無しにするいやなやつ。(市坂くん、君のことだよ。)
どうせプールにしか行かないのだし、そこは水深2メートルだよ。
3ヶ月後、ジムに行って泳ぐことにした。
それまで防水腕時計など持ったことがなかったので、時計をしたまま泳ぐことにした。
最初の25メートル。時計を見ると文字盤の内側が水滴で曇っている。
「きっと水から上がってしばらくすると元に戻るのだろう」
次の25メートル。文字盤の内側に水が入っている。
「きっと水から上がると、水が抜けていくのだろう」
結局トータルで200メートル泳いで上がった。
ところがしばらくしても文字盤の内側に水がたまったままだ。時間表示は消えている。
「不良品???」
家に戻ってから、眼鏡用の小さなねじ回しで分解し、中身を乾かしてから組み立て直した。
何とか時計は動き始めた。ライトは壊れたまま。
「30M Water Resistantというのは、ひょっとすると、文字通り、30メートル水に耐えたのだが、それ以上泳いだために、水が入ってきたのかもしれない。Water Proofを買わないといけなかったのだろう」
翌日、会社のイギリス人に確認したら、「それはただの不良品だ」と言われた。
2000年問題担当者の悲劇 12
at 1999 09/10 05:17 編集
今日は、危うく死にかけた。
99年9月9日、2000年問題の要注意日の一つだ。
朝7時に会社に入り、すべて動いているか確認。特に問題はないようだ。
朝早かったので、11時過ぎにはお腹がすいた。
オフィスの裏のエレベーターで、6階の自動販売機にチョコバーを買いに行くことにした。
このリフトは、通常は荷物用で、あまり使われていない。
「まずいな、これは古臭いし、2000年問題に対応していないかもしれない。おっこちないだろうか、閉じ込められないだろうか」と不安になる。
びくびくしながらエレベーターに乗る。ところがドアが閉まってしばらくしても、動かない。
「何だ!? 閉じ込められたか!?」
おっと、ボタンを押していなかった。
ようやく動き出した。小銭入れを出して、小銭を確認。ちゃんとチョコバーをかえるだけの分はある。見上げると、2階を過ぎた所。と、その時、「カキーン」激しい金属音がした。
「何だ!?」
足元を見ると、小銭入れから落ちた、1ポンド硬貨が転がっていた。
危うく心臓麻痺で死ぬところだった。
逆に言うと
at 1999 09/30 23:53 編集
うちの会社のM副社長と、K部長は、どちらも「逆に言うと」というのが口癖である。
二人で議論が始まると、逆に言うとの嵐である。二人の前に座っている僕は、意見がどちら側に行っているかを、消しゴムを動かしてフォローしている。
ふとしたはずみでどちらかが「逆に言うと」を言い忘れることがある。そうすると、片方は続けて「逆に言うと」と言うことになり、自分の言ったことを否定していることになる。
一度、会社の同僚と、本気で逆に言おうとしてみたことがあったが、とても難しかった。(大本君、協力ありがとう)
副社長「たけやぶやけた」
部長「それは逆に言うと「たけやぶやけた」ですね」
イギリス相続税入門 - 生命維持装置
at 1999 09/14 06:22 編集
イギリスの相続税の規定に、生前贈与の規定がある。
相続の後、本人が7年間生きていれば、相続税がかからないと言う規定だ。
とある大金持ちで、ばく大な相続税を回避するために、おじいちゃんに生命維持装置を使っているケースがあるらしい。
あと少しで7年になるということだ。
2000年問題担当者の悲劇 13
at 1999 09/15 07:08 編集
チェンジフリーズというものがある。「一旦2000年対応されたソフトは、いじるとおかしくなる可能性があるので、いじっちゃ駄目だ」というものである。
当社のあまり重要でないシステムの中に、対応が9月ぎりぎりになりそうなものがある。
本部の方はチェンジフリーズを9月とずっと言ってきており、間に合わないなら、来年のチェンジフリーズ開けまで、実施を凍結しろと言ってきている。
「対応しないと2000年で問題が発生するかもしれないのに、対応を止めろと言うのか????
」