藤井聡太棋聖が王位も獲得した。
昨年度、悲願の初タイトルを獲得した木村一基王位から4連勝での奪取で、これで史上最年少の二冠達成。
もう、何から何まですごすぎて、今さらなんか記録を達成しても、
「まあ、藤井聡太なら、それくらいはね」
驚きもしない状態になっているが、いやいやとんでもない。
この「二冠獲得」というのは、信じられない偉業であって、かつての名棋士たちも、そんな簡単にやってのけられたわけではない。
そこで前回は、谷川浩司九段が「21歳名人」になったあと、二冠目を取るのにどれだけ苦労したかを紹介したが(→こちら)、今回は羽生善治九段の「二冠」ストーリーを。
羽生善治は1985年に、藤井聡太や谷川浩司と同じく「中学生棋士」としてデビューした。
その後、毎年のように8割近い高勝率をあげるも、なぜかタイトル戦に縁がなく、19歳2か月での竜王獲得まで待つことに。
これだって、今見れば充分すごい記録だが、当時の感覚では「やっとか」という感じで、
「ちょっと時間がかかったな」
と思ったほどだから、いかに羽生が図抜けて強く、また期待もされていたかが、よくわかる。
そんな若き羽生竜王は当然
「羽生時代到来」
「棋界制覇」
を期待されたが、その後はやや失速し、「谷川名人」と同じく翌年の防衛戦までタイトル戦に出られなかった。
また、将棋の方もタイトルホルダーになった責務感だろうか、完成度が上がった代わりに、最大の武器である魔術的な勝負手や、なりふりかまわない粘着力が影をひそめるようになってしまったのだ。
今振り返れば、それはまだ荒かった将棋をブラッシュアップするべく試みていた時期だったようだが、このころは真剣に
「スランプでは?」
「肩書など気にせず、のびのび戦ってほしい」
ファンに心配されたものだった。
そのブレは竜王を獲得してすぐの1990年、第49期B級2組順位戦で早速あらわれてしまう。
初戦で当たった前田祐司七段はNHK杯優勝経験もある強敵だが、ぶっちぎりの昇級候補だった羽生からすれば、ここで負けるようでは上が見えないところ。
だが、ここでは前田が力を出すと同時に、羽生にひるむような手が続いてしまう。
もっとも得意なはずの、中終盤でのねじり合いで、競り負けてしまうのだ。
横歩取りからの力戦で、先手の羽生が苦しい。
ここでは、しれっと▲96歩と突くのが羽生好みの一着のはずで、そうやって「どうぞ好きにしてください」と手を渡せば、後手も決めるとなると難しく、まだアヤがあった。
本譜は▲45歩とするも、これが凡手で、以下前田の「体重攻め」の前に、あえなく轢死。
思わぬ番狂わせで、これで
「大本命は羽生」
「一枠はすでに決まり」
という戦前の予想が大混乱におちいる。
さらに、第2戦目でも、57歳のベテラン吉田利勝七段による空中戦法「吉田スペシャル」に完敗し、まさかの開幕2連敗。
さすがに、そこからは力を出して残りを8連勝するも、時すでに遅しで、順位上位の森安秀光九段と島朗七段に、同星ながら頭ハネを喰ってしまう。
「棋界制覇」どころか、これで名人になるのが、確実に1年遅れてしまうことに。
しかも、負けた相手が森下卓、中村修、島朗、脇謙二といった昇級候補ではなく、やや下り坂だった中堅、ベテランの棋士だったこともショックだった。
羽生の苦難は続き、その後の竜王防衛戦では谷川王位・王座に1勝4敗のスコアで完敗し、一瞬で無冠に転落(そのシリーズの詳細は→こちら)。
この負け方は内容的にもハッキリ差があり、「羽生時代」の話は、
「谷川が強すぎるので持ち越し」
という、あつかいになってしまったほどだった。まさに、「振り出しに戻る」である。
谷川浩司もそうだったが、羽生もまた、初タイトル獲得後は決して本調子とは言えない結果が続いた。
どうやらこれは、棋史に残るような大天才でも、容易には乗り越えられない壁らしい。
羽生の場合、ターニングポイントはこのあたりだったようで、無冠転落から4か月後に南芳一から棋王を奪って、ここでホッと一息。
その翌年、福崎文吾から王座を奪って、ようやっと複数冠達成。
羽生はここから一気に「七冠王」ロードを爆進することになり、その後も常に多数のタイトルを保持。
「一冠」(2004年に王座のみの時期があった)になったのも、わずか3ヶ月だけ(!)という高位安定を25年近く続けた。
それを思えば二冠までに初タイトルから3年、デビューから7年というのは、意外なほどかかっている印象がある。
18歳で二冠になった藤井聡太が、いかにスゴいことをやってのけたか、実によくわかるではないか。
(渡辺明「二冠」編に続く→こちら)