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明治政府の人材は幕府からの横滑り『幕臣たちは明治維新をどう生きたか』

2022-10-27 07:52:41 | 歴史から学ぶ
明治政府の初期に機能し始めた頃、結局幕末に攘夷と言いながら新政府は、諸外国の行政等を学び、製品、商売など多くを輸入・導入した政府の役職はトップを除いて横滑りの人材登用がされた者が多い、という。実際、政府機関、各種学校、軍隊など中には戊辰戦争で敵側にいた武士・軍隊(榎本武揚ら)も採用されているのには驚愕するが徳川幕臣で貴重で優秀な人材(岩瀬忠震・川路聖謨・小栗 忠順ら)も多く殺されたことは悲しい。徳川慶喜に伴った家臣は静岡藩に仕官、学問所、予備兵士、小商売、茶農業などを行なったという。
『幕臣たちは明治維新をどう生きたのか』樋口雄彦
「概要」江戸幕府の崩壊のなかで、敗者となった3万人を数える幕府直属の旗本・御家人らがどんな運命をたどったのか。そして明治時代をどう生きたのか。
ー明治維新時の幕臣たちの進路 大別すると3つ
    新政府への仕官(朝臣となり新政府に所属)約5,000名
        藩士13、764戸の内570戸が諸官省等出仕
        諸藩からの人材は蕃書調所・開成所の教官に任命、その後藩に帰属する
        朝臣には微禄者(全国の奉行所や天領の下級武士)がそのまま移行
        武芸者「腕力」砲術・剣術・槍術・柔道者を採用、陸軍海軍へ
            榊原健吉・高橋泥舟・山岡鉄舟・松岡万・中条景昭・井上八郎
        外国人警備のため300人も採用(町奉行は以下の同心ら)
        多くの旧幕臣たちは官吏・軍人・教師などに採用された
    徳川家(静岡藩)へ仕官(徳川家と共に駿河へ移住)約13,764名
        第十六代徳川家達 駿河・遠江に移住 茶園開拓・学問書・兵学校など開設
        江戸以外からも移住した各地の役人(大阪・京都・長崎)が戻り
        傘張・煙草切・木彫・版木・指物・飾細工・提灯張・凧・刀磨・袋物・機織
    帰農(武士の身分を捨てて帰農・帰商)約4,500名(内3千名が静岡藩に帰籍)
    その他(商人・陸海軍への従軍) 
        渋沢栄一など武蔵国の農民から良任に取り立てられにわか武士にその後商人
        韮山代官配属の志士は多くは陸海軍の士官に採用
        鷹匠約150名はリストラ
    海外亡命し、帰国後 
        元旗本塚原昌義外国奉行は博覧会事務局・内務省勧業寮となる
        武田成章砲兵頭(榎本武揚配下)は陸軍砲兵大佐になる
    一橋藩・田安藩 10万石の藩となる一定数の家臣を引き取る 学問兵学を教える
        一橋藩では国衛隊、田安藩では練士隊 軍備・兵士や指揮官を育てた
ー大久保利通
    出身藩に差別化せず優秀な人材を採用した内務省前島密(農民の出身元教師・鹿児島)
    大鳥圭介・人見寧・松平太郎・小笠原賢蔵・今井信雄など戊辰戦争の敵方武将
ーその他家族
帰商した代表的な人物は福澤諭吉慶應義塾を経営、益田孝は三井物産初代社長、津田仙は築地ホテル、娘津田梅子の津田塾大学、遠山金四郎景元の孫は帰農、寺田勇吉は高等商業学校の校長
美濃國旗本家臣横倉喜三次(近藤勇を斬った)も朝臣となった旧幕臣
作家 幸田露伴(利貞:坊主頭)の家も朝臣となった旧幕臣
戸田金堂(大垣藩主)東京銀座・十字屋書店経営は旧藩主
大目付勘定奉行旗本末代らの家老宮野三五郎は野田市の町長となる
旗本出身の亀井忠一は三省堂書店の創始者



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