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規制の緩和・逆転発想策『保科正之言行録』

2019-01-11 07:49:32 | 歴史から学ぶ

@伏せられた会津の功績・保科正之の仁心無私の政治家。幕末に置ける薩長対会津は戊辰戦争での悲惨な終結となったが、朝廷からの絶大なる信頼を得ていた会津が「賊軍」とされ歴史上、会津の、そして将軍の庶子として生まれ、2代目藩主保科正之の功績は影に隠された。だが、幕府の260年を継続させた基盤は正に3代将軍家光・保科正之の時代に確立された。その功績は今もってしても政治家、事業家へのインパクトは大きく、物の考え方、実践方法など参考にするものは多い。特に今までの法規制を緩和・逆転させた3大美事の発想はそれに値する。現代「民意に優しい政治」は少々見えない感がする(机上から拾い上げた言葉には実際の行動が伴っていない)。特に諸税など、つい最近の「出国税」など毎年500億円以上の収入の支出目的と詳細が不明である事など、今年導入される消費税10%は景気がどん底になろうと最後の安倍政権に取っては何も悩むことはないだろう。また厚生省等の調査資料の隠蔽問題など政治家・官僚に優しい政治ばかりで民意に沿っていないのがとても残念だ。

『保科正之言行録』中村彰彦

  • 兄家光の遺命を受けた正之は、四代将軍家綱の輔弼役を忠実に果たして徳川幕政を文治主義体制に導いていった。その行動は誠実無私、家臣や領民に対しては寛容と仁心を持ってことにあたり、彼の清廉な精神は会津士魂として後世まで多大な影響をもたらす。晩年、血を吐きながら惑乱することなく最後まで使命を務めた不出世の名君は、堂々たる死への準備を整える。彼こそ幕政時代の理想の政治家であった。
  • 将軍の庶子に生まれた保科正之は徳川の平和の基礎を構築、家綱に後世「三大美事」と讃えられる善政を行った、国許の会津藩には様々な福祉制度を実施して民に優しい政治を行い続けた不出世の名君は62歳であった。生涯肉親には恵まれず21歳で正光、22歳で秀忠、25歳で母、その後正室のお菊、翌年には長男も5歳で亡くしている。
  • 「三大美事」
  •             殉死の禁止(藩主等の死亡を追って追腹する事)
  •             大名証人制度の廃止(江戸に人質を置く事)
  •             末期養子の禁止(家督相続への緩和)
  • 江戸時代の三大政治家・実践者と3人の名家老
  •             岡山藩の池田光政、会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀
  •             尾張の成瀬隼人、紀州の安藤帯刀、会津の田中三郎右衛
  • 母は北条家の旧家臣神尾伊予の娘お静、側室。2代将軍徳川秀忠には正室のお江与の方があり、極めて嫉妬深い性格で懐妊は全て極秘にされた。「幸松」は老中土井利勝により武田信玄の第2女の老尼見性院に預け、19歳の時信州高遠2万5千石藩主保科正光の養子になる。将軍家光も正之の出生を認知しており、秀忠の死亡の時には正之に葬儀の責任者を指名、次第に徳川幕府での頭角を表し、出羽山形(最上)20万石の藩主となる。
  • 正之:朱子学・性善説・将軍の理髪役・輔弼役、正之は家光の「託孤の遺命」を最後まで遵守した。家光死後足掛け23年間江戸に滞在し幕政の舵取りを一身に捧げた。もちろん国許も疎かにせず指導・判断・裁判判決なども返答している。孟子の性善説は、人間は努力すれば仁・義・礼・智の4つの徳を兼備する事(徳川光圀は性悪説)
  • 正之の改革(会津藩23万石、預かり領5万石)
  •             離村した農民への懲罰なし(厳罰主義を否定)
  •             再審制度(正之自身が最終的に判断する)
  •             家臣への配慮(新旧家臣の上下の石高を不平無く与える)
  •             武士道(民に益する政策を優先・朱子学を奨励・会津士魂)
  •             減税・検地をやり直し(年貢の軽減・無償米貸付)
  •             社倉米の確保(救済措置のための備蓄制度)   
  •             領民保護策・福祉政策・救急医療(乞食・旅人でも助ける事)
  •             親孝行に表彰・労働力確保・親不孝者の追放
  •             防水・馬見ヶ崎川延長2万2千mの大洪水防止普請
  •             飢餓対策・雑穀推奨・加工販売、酒作りを制限(酒にして飲み干すを監視)
  •             能力のある人材の登用
  •             老養扶持制度90歳以上の貴賎男女に一人扶持(1日玄米5合)
  • 結果:1648年の11万人の人口が1680年には5万人増(当時日本全体の人口はあまり変動がなく、江戸中心・江戸に集中した)
  • 正之の行動
  •             明暦の大火 主家・難民を飢餓から救うことを第一、だが家族の次男を失くす。町の再建に16万両を用立てる
  •             江戸の人口を減らし物価の上昇を抑えた
  • 大江戸復興プラン
  •             大名屋敷の郭外移転と下屋敷の下賜
  •             寺院の移転 八丁堀・矢の倉・馬喰町・神田から深川・浅草・駒込・目黒等へ
  •             沼地の埋め立て・防火堤・火除け空き地(広小路)
  •             主要道路の拡張と両国橋・芝・浅草橋・神田川拡張
  •             天守閣の見送り(延期)
  •             玉川上水の確保
  • 「会津藩家訓」(現代訳・略)
  •             忠臣・忠勤すること
  •             武備を怠らず、上下の分を乱すな
  •             兄弟を敬い愛する事
  •             婦人女子の言うことを一切聞くな(お万の不祥事を懸念)
  •             主人を重んじ、法を守ること
  •             媚を求めず依怙贔屓するな
  •             心のねじ曲がった人材を採用するな
  •             賞罰は厳格にすべし
  •             政事は利害を外し会議は私意を入れるな
  •             社倉は民のために置く、他用に使うな
  •             若くて志を失い、遊びを好みおごるものは封印、蟄居させよ
  • 福島県耶麻郡猪苗代町見祢山の土津神社(山崎闇斎の1943字)は正之の業績が刻まれている