@江戸時代の処罰・処刑は色々あるが、「鋸引き」など非常に残酷な処刑もあった。(首だけを地上に出し、庶民に不満なものはノコギリで首を引いても罰を与えないという、受刑者に恨みを持ったものが引いたとある・別冊記述)など庶民の恨みつらみを発散、あるいは罪の再発防止のための晒し首などは重罪人には当たり前の世界だった。その他この本では様々な処罰・処刑の説明が多く、残酷すぎてここでは割愛する。興味を持った箇所は、「解剖」に対する江戸時代の人々は「死体を切り刻む行為」はより重罰と意識が高かったこと、に対して幕府は医学用に志願者を募った。これは残される家族への償い(幕府が手当を出す)と寺で丁重に葬られることに賛同した人(余命短いと悟った病人・老人等)がいたと言う事。時代背景では病気・刑罰等の人間は武家・豪商でない限り、所謂「投げ捨て」(ゴミと同じ扱い)となる事だった。死んでもあの世の生きる自分(墓を持ち、皆から弔ってもらえる)を選んでいたことだ。死人に対する敬意を持っていた時代なのだ。(4代将軍徳川家綱の時代には火葬は不幸とされ土葬が主で、江戸末期・明治になって火葬となる・8代将軍吉宗の時代に御定書百ケ条に置いて処罰を文書化制定・別冊記述)
『大江戸残酷物語』 氏家幹人
- 太平の世の裏にある暗くて深い江戸の闇・当時の人々の心性(そして情念や情欲)は照らし出せないという確信は揺らいでいない。歴史は基本的に楽しいものではなく哀しいもの(悲哀と悔恨の連続である)
- 江戸時代の処刑
- 鋸引き・車裂き・釜茹で・火あぶり(火罪)・逆さ磔・引き回し磔・獄門
- 江戸は巾着切りの華だっというくらい盗人・スリが横行、江戸人口の1万人ほどいたという。盗まれた金は諦めるしかなく、他の物(文等)は町の髪結床に行けば交渉できた。
- 江戸の悪党で奇妙なのは「倒れ物」という人の家・店の前で倒れて金をもらうまで動かないという盗人商売もあった
- 江戸の処刑場は行楽地の様に子供も見学できた。が切腹においては武家で行い主の切腹から家臣の追腹切腹、家族の切腹、子供の切腹まで様々な武家の儀式として行われた。子供の切腹は扇子で腹を着る真似をさせる間に梟首する作法だった。
- 江戸には異状死も溢れていた。首吊り、水溺死、病死など、特に寄生虫、熱病、麻疹、痘瘡、胎毒、血痢、老病など。嫉妬、恨みなどで男の首と共に女性の死体を板に晒した川流しも有った。
- 「血達磨」伝説とは、浪人の兄弟が仕官を求めて細川幽斎を尋ねる。二人を雇うことになりある日幽斎の家が火事となる。重要な掛け軸を取りに火の中を兄弟が入り、掛け軸を持ったが帰りそうになく、腹を切り羽織に巻いて自分の腹割裂き腹ワタに仕舞い込んで亡くなった。鎮火後、その兄弟の腹から掛け軸が見つかり家(火)宝となる。その後明治・昭和に同性愛の終焉・逢引による諸説等「細川血達磨」として映画等になった。
- 江戸時代には藩主等は「生きた屍」として幕府の検視が認められるまで習慣的に生かされた。だが跡目相続は生きていたかのように相続させ家の断絶等を無くした。(法的なものは無視され習慣的が重視された)
- 江戸の刑場は小塚原(現在の南千住5丁目・広さ2千坪)と鈴がの森で数十万の死体が埋められ、死臭もひどく、犬の餌と成り果てたこともあった。その中で平賀源内は死体を掘り起こし妙薬として人体の部位を利用している。とくに安政の大地震では遊女が多く亡くなり、投げ込みだけで埋めることなく野鳥犬の餌になった。中には遺体の衣服を剥ぎ取り商売していたものもいた。武家・町人では火葬するが「階級」あり、「駕籠焼」15両、「釣焼」7両2部、「甕焼」3両等があった。
- 江戸時代死体を保存するために(裁断があるまで)塩付けにしていた。元大坂町奉行与力の大塩平八郎は、重罪として塩付け、その後引き回しの上、磔された。その他桜田門外の変の首謀者、天文学者高橋作左衛門(日本地図をシーボルトに渡した罪)も塩付けにされている。屍1体に塩7俵を使ったとある。内臓を摘出した後、塩は口、肛門、目から注がれ大瓶に入れられ執行まで保管された。
- 江戸時代には人の肝臓・腎臓等、さらには生肉も薬として噂も広がり、死体置き場からの捥ぎ取り、小遣い稼ぎをした者もあった。さらに医者が死体を掘り出し部位を摘出薬にした例も多い。
- 「刀の試し切り」に死体を重ねて利用した例も多く明治まで続いた。
- 晒し首は明治12年(1879年)で廃止。
- 人体解剖は1754年に山脇東洋が最初に行ったが杉田玄白は女性を解剖した。それは江戸時代試し切りで男性の多くが利用された為。その後解剖の志願者、梅毒で亡くなった34歳の女性が現れた。それは解剖での手当(十両)が家族に渡され丁重にお寺に葬られることを政府が約束した。
- 臓器の提供は昔からあり諸外国からも遺体を回収、医学提供で利用された。
- 会津と薩摩「箱館戦争」
- 会津藩士小姓が茶屋で薩摩藩士の槍を間違えて持ってきたことで、会津藩士がお詫びと交換しに薩摩藩邸に行くが、「間違えた小姓の首を出せ」と迫った。それを聞いた小姓は自殺し、その首を差し出したが、「過ちは主の所為であるから後日当人同士で引き渡しを」と迫った。会津藩は影武者を出し、薩摩無礼を正すべく決死の覚悟で参加、その槍の引渡しが「槍の鉾先を自分に向けて渡す」としたことに会津藩士はそのまま薩摩藩士本人の喉元を突き、刺殺した。それを見た他の薩摩藩士は恐ろしくなり逃げた。という説がある。