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歴史の裏に隠された恨み

2019-01-06 07:47:54 | 歴史から学ぶ

@天皇を守護し、京の治安に務めた会津藩松平容保。それが戊辰戦争においては真逆の結果を招く悲惨な結果となってしまった。「錦旗」威力は今までの逆賊が「官軍」となり会津藩等が「賊軍」(逆賊)へと一変させた。そこに徳川慶喜は「恭順」という態度で「江戸城」を去るが、残された重鎮・老中などは斬殺、切腹、蟄居、さらに東北地方の各藩はさらに悲惨な結果をもたらした。 トップの判断は家臣含め多くの人々を巻き込み、判断次第ではその参謀などトップ以上の刑罰・処罰を受けたことは、現代社会でも当てはまるかもしれない。日本の企業トップは往々にして全てを把握していない、また個々の事業は「権限委譲」などと経営者の立場を履き違えている経営者が多い。だから「記者会見」など質問に答えきれない無知の経営者・役員が多いのは恥ずかしい。 「ワンマン」社長の権威と責任は、現代社会の企業に蘇らせる機会ではないだろうか。たとえそれが「独断・独占」と言われようが日本の企業の弱さは「話し合いばかり・会議ばかり・合意を求めて調整中」でロー・スピードと判断力不足の企業が時間とともに弱体しているとしか見えない。

『七人目の刺客』早乙女貢

  • 坂下門外の変と言われる安藤対馬守襲撃事件の余話である。幕末の事件であまり知られていない備中松山藩の悲劇を絵が空いた「伏刀記」、近藤勇が宮川勝田と名乗っていた若き頃に再開した女の物語である「一夜の客」、将棋たの戦い、白河戦争等を舞台に、全8編で幕末の動乱を名もない男たち、女たちの視点で鮮明に綴った。
  • 徳川慶喜「全ては錦旗のせいだ。錦旗を担ぎ出してくるなど卑怯な奴らだ。あれがなかったらなあ。錦旗に向かって発砲できるものか。そこが奴らの狙いだった。」鳥羽伏見の戦いで逃れ江戸に戻った慶喜、江戸には無傷の旗本8万騎がいた。大阪城に置き去りにされた家臣等は動乱の先陣を浴びた者の悲劇が待っていた。
  • 江戸では強盗団が出没し、放火殺人略奪など婦女を強姦して暴れた、それは西郷隆盛の指示による薩摩藩士益満休之助と輩下、それに浮浪浪人集団だった。それを取り締まったのが庄内藩と新徴組である。
  • 新政府の先鋒隊の参謀は傲慢無礼な態で嘆願書を受けとろうともしない。が、「預かるだけ預かってやる」と受け取った。だがそのまま大砲を曳いてどんどん進んでくる。
  • 「世良斬殺」東北数百万人の恨みを買った長州の奥羽鎮撫総督府付下参謀の世良修蔵は福島軍議局により捕縛、その後仙台藩家臣らにより斬首される。高杉晋作による長州奇兵隊は狂犬の集まりのようなもので、その冷酷非情さは、隊士に対する懲罰や、反対派の枚挙に暇のない斬殺などを繰り返していた。明治になって天下を取った長州人の人材の大半は幕末に死んでしまって、残ったものはカスだけだとも言われた。山県有朋などもそのカスであり彼らに殺戮された長州人は少なくない。特に島の荒風と血の嵐の中で世良修蔵は冷酷非情、残忍な性格が醸成されていた。「会津を叩き潰し、命令に従わなぬ東北人どもは皆殺しにする」とまで言張った。16歳の明治天皇は鎮撫使を派遣するつもりだったが、大久保利通、岩倉具視、三条実美らの考えはそこになく、情勢の判断は全て彼らの手腕にあった。その恨みは「7卿落ち」で孝明天皇時代の会津松平肥後守容保を憎んでいたことにある。