つむじ風

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モモ

2022年02月12日 15時18分51秒 | Review

ミヒャエル・エンデ/大島かおり訳/岩波少年文庫

 2005年6月16日初版、2021年11月5日第34刷。これも何かの紹介で、いつか読みたいと思っていた本の一冊である。何と「岩波少年文庫」ということで、児童文学に類するものだとは思わなかったが、ここで投げ出す訳にもいかず、シブシブ読み始めたのが本当のところ。

 最初は、どうということもない話から始まるが、83pあたりから「灰色の男たち」が登場する。どうやらここからが話の本筋らしい。「灰色の男たち」は人間から時間を盗む時間泥棒である。
 この辺は、現代社会に対する批判的な部分だと思われるが、この「時間」の扱いが、先日読んだ「時と永遠」と重なって、とても興味深い部分だった。古くからある人間にとっての「時間性」の問題、認識論の問題だからである。「時間性」の問題は「モモ」の中でもほぼ同様の認識であったように思うが、その先が異なる。

「モモ」は「永遠性、不死性」を求めている訳ではない。ただ「人間らしい生活」を取り戻したいだけである。「灰色の男たち」は「時間性」の破壊的な、壊滅的な側面なのだが、そこに「永遠」と称して、宗教的な飛躍を求めないところが現代的なのだと思う。
 しかし、「時間の国」やその「境界」は登場する。カメの「カシオペイア」はその案内人である。そして時間を司る「マイスター・ホラ」の助けを借りなければならなかったことは、やはり宗教的飛躍の側面でもあるように思う。「神」ではなく「マイスター」というところは、いかにもドイツ人なのだが。そして、語り口だけは確かに「少年少女向き」なのだが、実際これを読んで現代の「少年少女」はどんな感想を得るのか知りたいものだと思う。

 この作品は1973年の出版だから、もう50年近くも前のことである。「モモ」の話は「過去の話でもあり、将来の話でもある」と言っている通り、無関心、無気力、すべてのものに対する不満が蔓延し、致死的退屈症によって現代人は「灰色の男」になってしまっているのだろうか。そう思うといかにも寒気がしてくるのだが、本当は誰の心の中にも「モモ」は存在する。それを呼び覚ましたいというのが、著者の本音ではなかろうか。




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