―大阪府警・捜査一課事件報告書―
黒川博行/角川文庫
2014年9月25日初版。
著者の初期の作品で以下六編を短編集としてまとめたものらしい。
・テトロドトキシン
・指環が言った
・飛び降りた男
・帰り道は遠かった
・爪の垢、赤い
・ドリーム・ボート
「テトロドトキシン」は、黒木刑事の活躍がほとんど無かったのがちょっと残念。それはどの作品にも共通しているようで、1つのスタイルらしい。最後に、鎚田記者が記事を出すまでの過程も興味深いが、大谷、瀬良の顛末まで書いて欲しかった。
「飛び降りた男」では、すっかり騙された。考えて見れば、ありそうなことではあるが。「下着を盗む時は、その所有者を確かめてからにしてはいかがか」という助言は納得できる。
「ドリーム・ボート」では、思い通りにならない人生の哀愁漂う作品で、警察モノとして一貫した作風、一流の「おかしみ」の中では珍しい。これも著者のチャレンジの1つかも知れない。
久々の黒川作品、歯切れよく、テンポ良く、絶妙の大阪弁(関西弁)のやり取り、が面白い。その中で起きる事件の裏に隠れた人間の欲望、喜劇悲劇と警察官の嘆きが交差する。あって無いような「誇り」だが、「笑い飛ばし」ながらの矜持である。
―巻之二十六―
佐伯泰英/祥伝社文庫
2011年12月20日初版。剣術大会が終わって後、話は一気に飛び、享保十六年(1731年)の秋から始まる。この間、登場人物の多くにいろいろな事があった。その中でも何と言っても清之助は、吉宗の覚え目出度く立家を許され、大目付にまで出世した。立派な千七百余坪の屋敷を拝領する三千百石直参旗本である。ここで最後のシナリオとして、大目付の立場から、東海道の巡察を命ぜられ、尾張領までやってくるのだが、惣三郎もまた火の粉を払いながら、火付けの元、尾張の安濃一族を殲滅するために尾張にやって来るのだった。
惣三郎は武人として最後まで戦い続けた。いや、本当は静かに暮らしたかったが、尾張がそれを許さなかった。清之助も父の武人としてのその姿を見届け、納得したかのように見える。惣三郎は結局、誰の為でもなく、清之助のため、家族のため、武士の誇りを賭して、その矜持を汚さんとする者を許さなかったのである。
最後の忍者屋敷の殴り込みはなかなか凄まじいものがあった。憤死である。シリーズの結末として、主人公の死をもって終わるというのは、いささか暗いが、清之助を江戸で待つ人々の事を考えると、安らぎもある。大目付はクビになったが同時に父が長年その任に就いていた「密命」は解かれ、幕府剣術指南役として続けることを許されたのだ。これこそ真に惣三郎が命を懸けて実現したかったことではなかっただろうか。主人公の惣三郎は昭和の父親像という評価もあるが、その意味ではかなり誇張した理想論ではないだろうか。実際は世間を捨てた蒸発人間であり、ホームレスであり、浮浪の民なのだ。実際、そんなにかっこ良くは行かないものだ。
密命シリーズが著者の時代小説のハシリということだが、どうしても先に読んだ居眠り磐音シリーズと比較してしまう。全体の印象としてはさほど違いは感じないが、細かな描写の丁寧さという点では、やはり磐音の方がキメ細かだったように思う。また、ストーリーの完成度の高さという意味でも磐音の方が勝っているように思う。著者はあらすじやプロットを立てないで書くということだが、いずれにしても、これだけ書いて少しも「筆が乱れない」というのは驚異的としか言いようがない。
―巻之二十五―
佐伯泰英/祥伝社文庫
2011年6月20日初版。享保十一年(1726年)上覧の大試合である。まさかと思ったが、凄まじい登場人物群だ。ここまでキャラクターを考えて準備するとは、圧巻という外はない。それはさておき、江戸時代という平穏な時代において、自らの剣技に自信と誇りを持つために、武士がこの大試合に命を懸けて臨むという設定は、判るような気がする。作中に何度も出て来るように「武芸でメシは食えない」時代なのだ。その矜持を保つことの難しさがここにある。
最後はやはり尾張代表の剣術家と清之助の対決だったか。それにしても、惣三郎が育てた佳次郎の最期は辛いものがある一方で、佳次郎と清之助が決勝で戦わずに済んで良かったのかもしれない。
最期の惣三郎と清之助の立ち合いは、何とも言い難いものがある。イメージとして、いずれ息子は父親を超えること、世代交代が自然の理であり必然である。単にこの事を表現したに過ぎないのだが、老い朽ちていくことの哀しみが何とも悲しい。無敵を誇る剣術家やアスリートであれば尚のことである。この時、もし惣三郎の心中を察することが出来るとしたら、それはしの以外には考えられない。
―巻之二十四―
佐伯泰英/祥伝社文庫
2010年12月20日初版。尾張の二人が仕掛けた牛中、馬中の争いを避けて、先へ進む惣三郎と佳次郎。十二兼の里、地蔵堂の前でお婆に助けられ、尾張の追手四人と対峙、二人を斃して馬を得た。更に鳥居峠で追手の小弦太以下七人を斃し、先を急いだ。降雪で道に迷い、危うく遭難するところを馬に助けられた。艱難辛苦、七転八倒、とにかく先を急ぐ二人だ。そして、どうにか江戸の尾張上屋敷に辿り着いた二人だが、敵陣の真只中、油断も隙も許されない。惣三郎は老獪を発揮して大会出場権をもぎ取り、待機する。
菊屋敷の清之助にも付け狙う監視の目があり、謂れのない刃が突然降ってくる。それでも心を乱すことなく淡々と大会に備えていた。
この時、「老いた剣術家の業」とか「剣の妄執に憑かれた愚か者」とか憶測は乱れ飛んでいたが、惣三郎の本心は未だ伏せられたままだ。この奇行に著者はどのような理を考えているのか、大会の盛り上がりとともに、読者に投げかける謎である。
―巻之二十三―
佐伯泰英/祥伝社文庫
2017年5月20日初版。話は享保十一年(1726年)晩秋から始まる。惣三郎と佳次郎は、「出羽三山」を出たと思ったら何と長年戦ってきたはずの尾張の拠点、藩道場にやって来た。道場破りのようなものだ。惣三郎によれば、尾張から見て敵(清之助)の敵(惣三郎)は味方という屁理屈で説得し、ちゃっかり客分として道場で稽古をすることになるのである。そんな無茶な、と思うかもしれないが、そこは小説だ。何故尾張で、というのは長年の抗争で惣三郎に対する憎しみや恨みが渦巻いているからであって、単なる道場の稽古ではなく、そこは本気度が違う。惣三郎は、そのことが佳次郎にとって修行になると考えたのではないだろうか。
江戸に出る途次、清之助は鹿島の米津道場を立て直そうと懸命になる。そもそも決して多い門弟を抱えている訳ではないが、清之助の突然の厳しい稽古に音を上げて退所者続出。結局、清之助を含めて五人になってしまった。それでも五人は「同じ釜の飯」を食って、互いの信頼を深め、道場の再起を目指すのである。名前があるだけでは決して強くなれない。剣術は極めて現実的な世界である。
金杉みわは昇平の嫁になり、差配を兼ねて冠阿弥の家作で独立した。惣三郎と佳次郎は尾張が計画した最後の修行に挑戦しようと、江戸に向けて喜々として出立する。これもまた佳次郎が成長するための、惣三郎の「想定内」の修行なのか、いよいよ盛り上がり佳境に入ってきた。
―巻之二十二―
佐伯泰英/祥伝社文庫
2009年12月20日初版。いやいや、気仙沼の湊の戦いは、なかなか迫力満点のチャンバラでした。清之助さんは、相変わらずお強いですなあ。
賽の河原における掟破りの婆さまとの闘いはアニメ的な妖術の世界だ。困った時の幻惑チャンバラである。もともとイタコの世界だからそれほど違和感はないが、かと言って現実的な訳でもない。このような話しは、体験者だけが納得できるものなのかもしれない。
一方、惣三郎と佳次郎は出羽三山に分け入り、黙々と修行していた。一時は目標を失い、全てを投げ出したかに見えた佳次郎だったが、どうやら復活したらしい。
しかし、惣三郎が最終的に何を目指しているのか、どうもわからん。「佳次郎の剣者としての死から生への再生」は成ったと思うが、それだけが目的ではないはず。清之助が勝つことで、自分と同じ「影の仕事」をさせられることを恐れたか。或いは、・・・。本当に「老いた剣術家の妄執」ではないのかと疑いたくなってくる。これは完全に著者の術中に嵌ってしまったな。
―巻之二十一―
佐伯泰英/祥伝社文庫
2009年6月20日初版。金杉一家の女たち三人は飛鳥山の菊屋敷に気晴らしに、清之助は羽前、陸前国境の笹谷峠、八丁平を旅していた。一方、惣三郎と佳次郎は突然江戸を出て鹿島に逗留していたと思ったら、いつの間にか仙台に。惣三郎の意図が読めないということもあるが、一体この話はどういう方向に持って行こうとしているのか、皆目予想がつかない。そんなことで、着々と「上覧大試合」の日が近づいて来るのであった。
清之助の身辺には妙な連中も寄って来るが、それより周りの人々に助けられ、余裕の稽古三昧の日々が続く。モテるというか、運が良いというか、人柄というか、人徳というか。それに対して、惣三郎と佳次郎が暮らす日々は厳しい修行が続く。しのがふと思い出した平家物語の「盛者必衰の理」は、著者が隠し持っている、それを暗示するものなのだろうか。
―巻之二十―
佐伯泰英/祥伝社文庫
2008年12月20日初版、2011年5月25日第7刷。享保十一年(1726年)が明けたところから話は始まる。清之助は春まで佐渡かと思ったが、運よく寄港した北前船に便乗して越後へ。途中で出会った姉弟を助けて、三国街道を行ったり来たり、なかなか忙しい。
かつて鹿島の道場で出会った門人と出会い、秋山郷切明という山奥で修業することになった。更に尾瀬の山小屋でも相変わらずの修業三昧。
惣三郎は上覧大試合の出場者掘り起こしのために、江戸の道場を訪ね歩く日々。そこで目に留めた新抜流の青年武士、何を思ったか即席に英才教育を施すことにしたようだ。惣三郎の武士に対する考え方からすると、いささか矛盾するようなことだが、そこにどんな思惑が隠されているのか、期待させる。
解説で「時代小説だからこそ描ける現代性」=ここに時代小説の可能性がある、という話しがあった。市井の人々の生活、日々の暮らしや悩みは今も昔もさほど変わらない。生活が単純であるだけ、象徴的な描写に成りやすい。現代における諸々の問題を単純化し、時代背景に貼り付けることで、よく見えなかった核心が、鮮明になってくる。そこに剣豪やヒーローの必要性はあまり感じないが、「密命シリーズ」や「居眠り磐音シリーズ」はいささか「ストレス解消」的な部分を感じるのは捻くれた見方だろうか。
―巻之十九―
佐伯泰英/祥伝社文庫
2008年6月20日初版。享保十年(1725年)、相変わらず尾張の影がチラつく惣三郎の周辺だが、今回は具足武者という仮想大会の様な連中が現われる。戦の無い江戸時代でも、この戦国武者のような連中の行動はちょっと異なものだったに違いない。それはともかく、武士の本分である武術が長く実践から遠ざかることで、弓を射ることも馬を乗りこなすことも儘ならなくなっていることに、見て見ぬふりをしなければならない将軍の心境はいかばかりだったことだろう。自らの体制が天下を治めているとすれば、それは自らが導き出した結果であることに愕然としたのではないだろうか。
176p「上野国吉井藩~先代藩主鷹司信清」ということで、ここでは「吉井藩」だったが、181p「上野国吉川藩~鷹司家」では「吉川藩」になってしまった。
著者の作品は登場人物もとにかく多い。よくダブったりしないものだと思うが、ここではちょっとうっかりしたようだ。焦りもあったかもしれない。
ともあれ、清之助は佐渡で脱税を働く一味を相手に大活躍、佐渡奉行、与力、同心から大いに喜ばれた。このところの懸案は解決したが、この先何が待っているのか期待したい。とにかくこの先、春を迎えるまで佐渡からは出られないのだから。
―巻之十八―
佐伯泰英/祥伝社文庫
2007年12月20日初版。享保十年(1725年)、清之助は尋常勝負で立ち会った相手との約束で、金沢から高岡へ旅に出ることに。この途中で相変わらず妙な連中に狙われるが、これを振り払いながら何とか高岡に到着。ここで意外な展開になる訳だが、この辺が今回の読み所か。
若い二人が周囲の反対を押し切って・・、という話しはよく聞く。しかし、その先が問題だ。その場に残り、与えられた状況の中で何とか頑張る(周囲の理解を得られるまで努力をする)か、周囲の家族や友人を捨てて二人で逃避行を選ぶかによって、その後の人生は大いに異なる。
著者の作品にもこの設定はときどき使われる。しかし、出奔、逐電した二人が幸せになるという設定は今のところ密命シリーズでも、居眠り磐音シリーズでも出てこなかったように思う。そして、多くは幸せとは縁遠い暮らしを強いられているように描かれている。そこには「自分たちのことしか考えない身勝手」があり、「社会に背を向けた者」の行く末があるように思う。
今回の作品の関 佐兵衛と新保屋お玉も二人が夢に見た人生だったとは思えない。実に悲哀に満ちた終焉だったが、この辺には著者の人生観が垣間見えるように思う。
江戸では、昇平の纏持ちとしての形がなかなか定まらず、悪戦苦闘の日々が続く。