里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

菅谷村の歴史散歩 その1 大沢喜一 1966年

2009-05-08 22:29:00 | 大蔵

   まえがき
 本稿は私達郷土の偉大なる先人達が残した足跡を山野に尋ね、歴史的考古学的探求を主眼として、祖先が逞しく生き継いてきた、有形無形の文化財を調査して、更に次代の人々に伝えることは、私達共同の責任でなければならないと考え菅谷村の歴史散歩と題して諸賢の協力と御指導を仰ぎ逐次菅谷村の歴史と文化財について回を重ねていきたい所存であります。
 何分にも浅学の身分なれば誤りあるは必定と存じますので何卒御理解ある御叱正御鞭撻を賜わりますよう御願い申し上げます。

   大蔵の館
 武蔵国比企郡大蔵の館(たて)は別名大蔵堀(ほり)の館(やかた)とも称し、東国源氏の一拠点として重要なる位置を占め、勇武絶倫所謂関東武士の典型を発揮して上武相の地を縦にした。大蔵源氏の棟梁帯刀先生源義賢の居城址である。
 館址は槻川と都幾川が合流する所の台地上、御所ヶ谷戸の地に位置し、東面は太平記で名高い笛吹峠、正平三年(1348)武蔵合戦古戦場に通ずる鎌倉街道、往事の上野信濃越後本道に面する要衝(ようしょう)の地である。
 本館址については、新編武蔵風土記稿大蔵村の頁に昔帯刀先生義賢が武州大蔵の館と聞こえしは当所にてとあり。
 又古城蹟村の西方にあり方一町許、構の内に稲荷社あり……カラ堀及び塘(とう)の蹟残れり、此より西方に小名堀ノ内と伝あり、昔は此辺までも構の内にて帯刀先生義賢の館跡なりと伝えている。館址は東西170メートル、南北215メートルを算し、東西南の三面に土塁、湟の遺構が存している。
 土塁の高さ2.4メートル湟巾4メートルにして入口は東面するものと考えられる。本館址は土塁、湟の一部が破壊されるも、平安京末期における武家館の代表的な存在として、その資料性は高く評価されている。
 義賢は源氏の統領として東国に地盤を確立した。清和源氏鎮守府将軍陸奥守義家の家督、六条判官源為義の次男(母は六条大夫重役の女)として生まれている。
 早くより近衛天皇の東宮時代に仕えて、帯刀長となり帯刀先生義賢と称した帯刀は春宮坊の舎人監の役人で、先生はその長官を意味するもので、皇太子の侍従武官長である。
 保延六年(ほうえん)(1140)に至り源備(みなもとのそのう)と宮道惟則(みやじのこれのり)の争いに関係して帯刀長をやめさせられている。その後東国に下り上野国(群馬県)多胡(たこ)郡多胡の庄に館を構えて以来、上野国武蔵国における多くの武士達が義賢に従い、源氏勢力の中心となっていた。
 此の頃既に別館鎌形の館は構えられていたらしく、久安元年(きゅうあん)(1145)に至り、義賢の夫人藤原氏〔周防守(すおうのかみ)藤原宗季(むねすえ)の女(むすめ)〕と嫡子仲家が京より下りて、鎌形館に来住し、翌二年81146)には女子が産まれている。後の親鸞上人の母吉光御前である。
 仁平元年(にんぺい、にんぴょう)(1115)義賢は、武蔵国比企郡大蔵郷の豪族、大蔵九郎大夫経長(武蔵守村岡五郎良文の後裔にして野与党の頼意の弟経長が大蔵郷に住して、大蔵九郎大夫と称す)の娘を娶り、大蔵屋敷(経長の館)の南御所ヶ谷戸の地に館を構えて、上野国多胡の館と共に大蔵の館を根城として東国源氏の一拠点とした。義賢の居館は御所谷(やつ)と呼ばれ、大蔵様と尊称されていることからも、上武相の地における武士達の信望あつく、律儀で忠実温厚な武将であったろうと想像される。
 此の年に義賢の夫人と仲家及び女子は、鎌形の館より京に帰る。
 仲家は後に源三位頼政に保護されて、六条蔵人仲家と称されたが、木曽義仲の旗挙の先立つこと三カ月あまり前、治承四年(1180)五月二十五日の宇治戦いに敗れて、翌二十六日に嫡子蔵人太郎仲光と共に討死にしている。従って仲家、義仲の兄弟は、顔を合わせたこともなく、もっとも近い肉親の父や兄弟の顔も知らずに世を去らなければならなかったとは、思えば薄倖な義仲であり、仲家であったといえよう。
 大蔵館址の中には、稲荷社西方に日枝神社が存して、都幾川の対岸には源氏の氏神として崇敬を受けた鎌形神社がある。
 当社は延暦十二年(793)坂上田村麿が筑紫の宇佐宮を勧請(かんじょう)と伝える古社で、八幡太郎義家、木曽左馬守義仲、右大将頼朝、尼御台所等の信仰厚く神田地(みとしろ)の寄進ありと社伝にあれば住古は過分の大社なりしことが知られる。
 境内の御平洗(みたらし)の筧(かけい)は、久寿元年(1154)誕生の義賢の次男駒王丸、後の旭将軍木曽義仲産湯の清水と伝えている。
 大正十五年(1926)二月十九日埼玉県指定の史蹟となった義仲産湯の清水地につき、鎌形八幡宮縁起は、七ヶ所の水を把て産湯に進られしとてあたり近き此面彼面に木曽殿清水、君清水、天井清水、照井清水、塩沢清水此外二ヶ所の名水八幡の社地にありと。
 又新編武蔵風土記稿鎌形村の項に、清水南の方にあり竹藪に間より湧水する小流なり木曽殿清水と呼べり……又此辺を木曽殿屋敷と呼べり此辺統て六カ所の清水ありと。
 木曽殿屋敷とあるのは、鎌形館を意味するもので付近には木曽殿坂、海道馬場、馬洗、木曽園橋(木曽殿橋)などの地名が存している。社宝として伝える銅製の革蔓〔懸仏(かけぼとけ)〕は、弥陀の坐像を鋳出し、安元二丙申天(1176)八月元吉清水冠者源義高にある義高は義仲の嫡子で十一歳のとき質子(ちし)として鎌倉の頼朝の許え送られて、頼朝の長女大姫と結婚させるという形で人質になっていたが義仲討死の折に、頼朝が極秘のうちに義高殺害を命じたことを大姫より知らされた義高は、信濃国(長野県)から連れてきていた同年の海野小太郎幸氏を身代わりにして、鎌倉を脱出して大蔵へ向う途中入間川原において、頼朝の追手堀ノ藤治親家のために元暦元年(げんりゃく)(1184)四月二十六日に誅殺されている(埼玉県入間川に存する八幡宮は義高の霊廟である)。当時五、六歳位であったと思われる大姫は、許嫁としての義高をこよなく慕っていたのであろう。八幡宮の社伝に此時大姫君愁傷の余永く漿水を断て日夜紅涙に沈み、文治三年(1187)に義高の菩提を弔うべく比企郡の岩殿観音へ参詣し当社八幡宮へも社参ありとある。
 久寿二年(1155)八月十六日義賢は、鎌倉の甥、源太義平(義賢の兄義朝の嫡子)の襲撃により、河越二郎大夫重隆(畠山重忠の父、重能の叔父)と防戦するも利あらず遂に大蔵の館において若冠十五歳の義平に討取られているがその原因は詳でない。
     『菅谷村報道』169号 1966年(昭和41)9月15日


古老に聞く 重輪寺の大榧 安藤専一 1964年

2009-05-06 20:09:00 | 古老に聞く

   重輪寺の大榧(かや) 
 重輪寺は古里字神伝田に位置し、宗派は禅宗永平寺派に属する曹洞宗の寺院である。本尊は地蔵菩薩を安置している。
 新記*によれば『元は重林寺と書せり曹洞宗上野国群馬郡白川村龍沢寺末、旧里山と号す。慶長年中の草創にて開山理山銀察は寛永十年(1633)十一月二十五日化す』云々と記している。又他書には慶長元年(1596)草創となっているので之を信ずれば今より三百六十八年前建立の古刹である。当寺は古里及び西古里に渡って約百六十の檀家を持っているが、以前は郷党の信仰深かった同村瀧泉寺天台の宗門に属していた。この天台を去って禅門に鞍替し新寺院建立に踏切った檀家の非常決意と開山銀察和尚の熱意とが相融合してこの改宗事業が難無く成し遂げられたものと思う。
 当寺は豊臣秀吉の晩年で秀吉が明使の無礼を怒り朝鮮に再出兵したいわゆる慶長の役(1597-1598)の頃で、家康が征夷大将軍(1603)となり江戸幕府を確立したのはその数年後のことである。
 重輪寺は草創以来数度の大火に見舞われて焼失の憂き目に会い、これがため過去帳外古書類一切を焼失しているので題名の榧樹(かやのき)との由来は確証を得られないが寺院の風除けとして植樹されたことは察知するに難しくない。古老の言によれば、『寺の風除けとして成長の早いこの榧数本を寺地の東南に植えたもので、植樹は草創後五六十年と古くから聞き及んでいる』ということである。この古老の言を一応信頼して年表を繰れば開山銀察和尚の晩年の植樹ということになり、寺が毎年の東南より襲う津波風に悩まされ之に備えるため、時の総代らと相計ってこの植樹対策が実現化されたものと考える。
この榧樹は寺院東南部に位置して現在大小二本が各(おのおの)万朶**(ばんだ)を四方に拡げ巍然(ぎぜん)として寺前の大空を突き衆目を聚めている。
 調査によれば左記のとおりである。 
    樹高  約一八米(六十尺)
    目通り 約四米(一四尺)
    枝下  四米強(一五尺)
    樹令  約三百年
 以上大榧は近郷の名木であり、約三百年の郷土歴史を秘めるものとして、この文化財価値を大いに認め、又衆目を新たにして頂く意味をもってここに記したものである。
 昭和三十九年十月記 村文化財保護委員会 安藤専一
     『菅谷村報道』156号 1964年(昭和39)11月10日

*新記:新編武蔵風土記稿。
**万朶(ばんだ):多くの花の枝、多くの花。ここでは多くの枝の意。


古里の共和農事研究会、『共和』第6号発行 1952年9月

2009-05-04 12:17:00 | 1952年

   「第六号」はしがき
 近頃団結の必要性が心ある人によって提唱されて来た様である。ここでは戦中戦後の比較を論評する余裕はないが極めて自然的に我々の会員の間に湧き上がって来る意欲、それは団結へと言ふ事であった。期せずして我々は団結する。そこでは団結することに就いて如何なる疑問も憂慮も構はれる必要は決してない。其の効果が日一日と我々の掌の中に収められて来る。我々には団結、努力に依って収められる効果を収穫の喜びと呼ぶ。昨年迄の会員の諸努力が今年の麦作其の他を極めて有利に導いた様に、此の六号に収められた諸試験も又大いなる収穫の喜びをもたらす事を確信する。眼前に見える美しい稲の実に対し感謝を捧げると共に、諸君の健闘を祈り併せて収穫の悦びを期待して止まない。

   畑小麦品種比較試験 昭和27年度 担任 千野久夫 【データ略】
備考 試験も四年目だが1、2位を占めて居た61号が矢張一位だ。今年は春蒔【不明】の品種が好かった。64号はほき過ぎ、好調の27号はやはり取れなかった。67号は将来のびるであらう? なんとしても61号を強くすすめたい。間違のない作り良い品種である。

   畑裸麦品種比較試験 昭和廿七年度 担任 中村常男 【データ略】
備考 昨年裸については失望的な観測が行はれたが政府の買入値に依って或程度希望を持つ事ができた。農1は多收であるが小粒で品質を落ち、紅梅は腰弱く調製の困難の為、二つとも推奨できぬ。新しい赤神力は大粒品質良く多收の点で、更に又麦媛裸は立枯、倒伏に強く、年々平均して多收を得らるるので共に奨めたい品種である。

   畑大麦品種比較試験 昭和廿七年度 担任 安藤武治 【データ略】
備考 本年度麦は雨量は大分多かった。その為か如何か長稈種に比して短稈種ga何れも優位を占めた。昨年迄一番を持続した奴八萩が今年は最下位となった事は種々考へさせられる。肥料が多くなって当地でも関取の優秀性がでて来る。ビール麦は大いに奨めたい。

   田小麦品種比較試験 昭和27年度 担任 安藤宗市 【データ略】
備考 昨年は半湿田でやって、農林72号が第一位であったが、今年は乾田でやり、72は最下位になった。72は分蘖力強く耐湿性がない。半湿田裏作には適すると思ふ。
 61号は昨年は良くなかったが、今年は第一の成績であった。
 乾田には61号、64号、準乾田には26号、64号、半湿田には72号、26号が良いと思ふ。

   小麦農林六一号 畑麦作肥料試験 基肥・追肥適量調査 昭27 担任 安藤重喜 【データ略】
備考 此の試験は普通、元肥と追肥とに分けて施すN肥料について、更に窒素肥料の中、最も多く使はれる硫安について適量を知らうとしたものである。【元肥】6〆【追肥】4〆が一番で、次は5〆5〆であった。今年だけでは結論はでぬが追肥の比較的多いのが良かった。

   畑麦作肥料試験基肥・追肥適量調査(其の二 傾斜地) 昭27 担任 中村福■ 【データ略】
備考 培養品種農林61号。病害白渋病若干。平坦地と比較して多少違った成績が出た。7〆3〆が一番良い。7〆3〆又は6〆4〆が良いのではないか。5〆5〆が比較的良いのは61号で且、春雨の多かった故と思ふ。石N【石灰窒素】の時は元肥重点でも可と思ふ。

   馬鈴薯肥料試験 燐酸適量調査 昭和27年度 担任 田島三津也 【データ略】
備考 施用せる過燐酸石灰は成分16%。馬鈴薯の収量を左右するものは燐酸成分であると云はれてゐるが、実験して始めて確信を得た。テントウ虫ダマシの駆除をもっとやれば、差は更に大であった事であらう。10〆位が最も良い事がはっきりした。播種3月19日、種子は北海道産である。

   馬鈴薯ボルドー液、撒布試験 昭和27年度 担任 田島三津也 【データ略】
備考 種子は北海道産男爵。畝間2尺、株間1尺2寸
 馬鈴薯の栽培にボルドー液が非常に効果のある事がP施肥と同様、自分達の年で掴む事ができた。繁忙時、此以上の回数を望む事は無理であるが、畑は2回は是非やりたい。茎蔓を成可長く枯さない事が肝要である。

   昭和二十七年度産麦類生産費調査表
    一反歩の内訳 大麦四畝十歩 小麦五畝二十歩 生産費の内訳
項目 労働人員及施肥量 単価 合計金額 備考
完熟堆肥 350貫 65円 2275円 厩肥堆積せるもの
堆肥運搬 2人 250円 500円
堆肥引込及整地 3人 250円 750円
麦種子代
 大麦 3升 40円 120円 品種 好八萩
 小麦 4升 50円 200円 品種 農64号
肥料代 硫安10〆過石10〆塩加3〆  1750円
麦蒔諸作業 3人 250円 750円 播種器使用
中耕麦踏(第1回) 1.5人 200円 300円 麦踏(ローラ)使用
麦踏(第2回) 1.5時間 20円 30円 (ローラ)使用
追肥硫安 4〆200匁 103円 432円
追肥及土入作業 6時間 20円 120円
土入中耕(第2回) 1人 200円 200円
大麦の刈取作業 1人 300円 300円
大麦結束運搬 12時間 30円 360円 運搬リヤカー
大麦脱穀作業 1人 300円 300円 動力電動器
乾燥調製及俵装 1人 300円 300円
小麦刈取作業 2人 300円 600円
結束及運搬 8時間 30円 240円 運搬リヤカ使用
脱穀 14時間 30円 420円 電動機
乾燥調製及俵装 12時間 30円 360円
受検労賃 5時間 30円 150円
農電料金 10時間  50円

農機具消耗代 原価合計 耐用年数
大農具 27500円 30年 70円
小農具 12000円 5年 200円
莚其ノ他 5000円 4年 110円
衣料消耗代  370円

合計  11257円60銭

1.大麦4畝10歩の生産量 4俵 1俵当生産費は1210円15銭
2.小麦5畝20歩の生産量 4俵 1俵当生産費は1604円21銭となる。
 3等標準から差引いて見ると 大麦3等1575円-生産ヒ1210円15=364円85銭の純収入となる。
               小麦3等2000円-生産ヒ1604円21=395円79銭の純収入となる。
3.公租公課は含まれてゐない。

   あとがき
 喜びの上に喜びを重ね、悲しみ上に更に悲しみを重ねてゆくのが人生の姿であらうが、私達が耕作を続けてゆく上にも私達の努力の不足と半ば不可抗的な天候の変転とに依って悲喜交々の道程を行かざるを得ない。
 併し昨年のあの旱天にも堆肥を畑全面に五寸以上にも敷きめた事によって皆無に等しかった陸稲作をして反当り二石五斗以上を得たる事実と、常に天候に対して戦を挑む技術研究陣の諸成果と相俟って天候を克服する努力は歩一歩前進してゐるのだと云ふ事は、私達の上に悲しみはより少なく、より多く希望を招来せんが為の諸努力に他ならない。
 努めて広い見聞と自らの努力とによって、やり甲斐のある農業に、他産業に比較して遜色のない文化をもつ農業たらしめたいと念願する次第だ。これも夢ではない。夢であってはならない。否これが実現への努力は勇猛果敢に遂行されねばならないと信ずる。
 研究会結成以来、いつしか数年の才月は流れた。然し省みて悔ない道であった事を喜びたい。星霜は幾度が移ったけれども、生れ変った日本は若い。日本の農業も将来性に富む様に私達農民も常に■■でありたい。
 私達はただ大地の命ずるままに、強い熱情をこの事に集中してよろこび深き農業たらしめたいと念じて止まない  以上

     共和農事研究会『共和』第6号 1952年(昭和27)9月


社会教育委員会菅谷部会発足 1950年9月

2009-05-03 13:09:00 | 1950年

   社会教育委員会菅谷部会発足
     結成総会 九月十八日
 「真理と正義を愛し、勤労と責任を重んじ、個人の価値を尊重すると共に自主的精神にみちた心身共に健康なる国民となる。」ことは、「民主的で文化的な国家を建設し、世界の平和と人類の福祉に貢献」せんとする日本人の大理想実現のために吾々に課せられた不可欠の要件である。そしてこのやうな国民の育成には単に学校学園に於てのみならず、家庭でも社会でも、凡そあらゆる機会に於て、努力が傾けられなければならない。本村では昨年十一月社会教育法に基いて社会教育委員会が設置されたが、まだ研究の段階にあって具体的な活動に移って居ない。そこで今度福田、宮前、七郷の三ヶ村と提携し、大いに此の委員会の活動を促進、強化することになったから今後の活動は期して俟つべきものがあると思ふ。
 四ヶ村連合会結成総会は秋晴れの九月十八日菅谷中学で開催された。四ヶ村委員は、来賓に村長、議長、比企郡連合会長、教育委員会出張所長、教育委員会社会教育課長等を迎へ、会則の議定、会長及び役職員の選任等の日程を終り、夕刻より懇談会に移って盛会裡に散会した。因に本村の社会教育委員は次の諸氏である。

 田幡順一、新藤義治、番場高一、福島楽、高崎達蔵、吉野賢治、田幡林太郎、関根茂良、福島新三郎、内田喜雄、杉田寅造、松崎五郎、小高正文、吉田熊吉

     『菅谷村報道』6号 1950年(昭和25)9月20日
※社会教育委員は1949年(昭和24)6月に制定された社会教育法により、菅谷村では同年11月に委嘱された。松崎、小高、吉田各氏は村内小中学校長である。


七郷青年団団結歌 1955年頃

2009-05-02 21:17:00 | 1955年

一、よぶよ大地がおいらをよぶよ
  若いおいらはいつまでも
  共にはげまし肩組み合せ
  きずけ七郷青年団

二、[    不明    ]
  若い同志の心は躍る
  咲いた花さえ実は結ぶ
  結べ七郷青年団

三、村は七色同志は一つ
  朝の太陽身にあびて
  一人二人と云わずにみんな
  歩め七郷青年団

七郷村青年団・七郷地区青年団役員 1946年~1961年


鎌形の農事研究会「みつち会」結成 1950年

2009-05-01 09:29:00 | 1950年

   「みつち会」支部結成 -若い篤農家で-
 「農作物と話が出来るやうになった。」と説かれる土の人丸木長雄先生の主宰する「みつち会」の支部が村の若い篤農家によって結成された。メンバーは次の諸氏である。
 中島金吾、内田稔、中島一雄、簾藤甲子治、岩沢康雄、吉野勇作、岩沢茂雄
 中島金吾君はその抱負を語る。「戦後に於ける異常な経済情勢から農村にも種々農業経営説が流行し、色々の研究会などが出来たが余り永続しなかった。吾々は丸木先生の指導の下にあくまで土と取組んで、地味ではあるが極く着実な経営を続けて行きたい。そこに又経営の新境地が開けて来ると信ずるのである。」と
     『菅谷村報道』1号 1950年(昭和25)4月20日

※丸木長雄氏には『甘藷栽培精説』(八雲書店、1945年)、みつち叢書『馬鈴薯の高度栽培』(生田書房、1949年)、同『稲』(みつち出版部、1954年)等の著書がある。