“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

アルゼンチン債 秩序揺るがす強欲主義

2014年08月04日 12時59分39秒 | 臼蔵の呟き

この主張が論じるとおりです。アルゼンチンの国債がデフォルトになったと判断されたことの経過は、あるにしても、国が企業と同じレベルで判断、論じられることの異常さは、アメリカの強欲主義と談じられても当然です。多くの債権者が、その借金の減額に応じているのにもかかわらずに米国の投資会社だけが優遇されるなどはありえないことです。

新自由主義の政治経済の典型的な、凶暴さが向きだしになっています。国家を破綻させても自らの利益を確保するとの主張、姿勢は、許される話ではありません。イラク政権を転覆し、アフガニスタンへの軍事介入、米軍による威圧、アフガニスタンデフォルト問題と続き、アメリカが世界から孤立することは確実です。このような行動が、アメリカ以外の国から歓迎されるはずがありません。

<東京新聞社説>アルゼンチン債 秩序揺るがす強欲主義

 アルゼンチンの十三年ぶりのデフォルト劇は同国政府の対応の拙さはあるとはいえ、金儲(もう)けにあざとい米国強欲主義が主因だ。自国流を押し通すやり方を改めないと国際金融秩序も揺るぎかねない。

 話は込み入っているが、簡単にいえばこうだ。アルゼンチンは二〇〇一年に経済危機からデフォルト(債務不履行)に陥った。借金のために米国などで発行した国債を償還できなくなった。

 国債を買った人に借金の減額を募り、九割以上の人が応じた。しかし、借金減額に応じない人も残った。そこに目を付けたのが米投資ファンドである。減額に応じない人から国債を安く買い取り、全額返済を求めてニューヨークで訴訟を起こした。

 すると連邦地裁はファンドに全額返済しなければ、借金減額した人への返済も認めないと命じた。驚いたアルゼンチン政府は不当だと米最高裁に上訴したが退けられた。同政府は借金減額した人との契約で「より良い条件を他の債権者と結ぶことは禁止」されているため、ファンドの要求をのむことはできない。結果、利払い期限が来て一部がデフォルトと見なされた-という経過である。

 なぜ、こんな「理不尽」なことが起きたのか。まず「米国の裁判所はおかしい判断をした」というのが一般的な見方である。判決は「債権者を公平に扱わなければならない」との契約条項を重視した。だが、債権者の大半が同意した借金減額案を反古(ほご)にする、あまりにファンド寄りの判決に疑問の声が強いのである。

 アルゼンチン政府も対応が甘かった。多くの債権者が合意すれば債権者全体を縛れる「集団行動条項」を契約に入れておくべきだった、と国際金融筋は指摘する。

 とはいえ窮状につけ込んで金儲けする「火事場泥棒」のようなファンドの強欲主義こそ問われるべきである。高額報酬の弁護士らで強力な訴訟対策をとり、法の盲点を探る。「全額返済(約千三百億円)を勝ち取れば十六倍もの利益が上がる。まさにハゲタカ」との批判は免れまい。ファンドの意に沿う判決を出した米司法制度や、強欲主義を黙認するような米社会への不信感も高まった。

 先に新興五カ国(BRICS)は米主導の国際金融秩序に反発して独自の開発銀行設立を決めた。今回の「ごね得」がまかり通るならば、あしき前例となって今後のデフォルト時の処理を難しくするなど代償は高くつきそうである。


長時間労働の摘発と改善を

2014年08月04日 10時58分01秒 | 臼蔵の呟き

長時間労働、過労死、精神疾患に悩む労働者が多発していることは報道されている通りと思います。毎日社説では、社会の問題として曖昧に論じています。しかし、事の本質は社会との曖昧な指摘では済まされません。

第一の問題は、労働法規のなし崩し的な改悪と、労働ルールの緩和による働く側の権利、健康問題が無視されることです。このことが顕著になったのは、小泉、竹中規制緩和政策の中で、労働法規の規制緩和が進み、労働者の権利が一方的に改悪されたことに端を発しています。したがって、8時間労働、週40時間規制、残業賃金の割増率を引き上げるなどを徹底することが必要です。

第二の問題は、行政の民営化、民間機関への丸投げの進行です。そのことで本来、国が企業に法律に沿った企業経営を指導、点検すべきものが、点検ができない。(自民党政権と大手企業の狙いでもあった)行政の人員不足で指導点検ができない状況に陥らせた問題です。小さな政府を標榜し、本来は削減してはならない部署の人員を減らすことによって起きています。減らすのであれば、自衛隊員数、軍事部門などを減員すべきです。

第三の問題は、大手企業と自民党政権の癒着の問題です。大手企業は、政治資金などを通じて、自らの企業経営に必要な利益最大化策を、政治を通じて実現しようとしています。その内容が労働法規のなしくづし的な無力化です。企業は競争激化の中で、人件費の削減と利益に直結させようとしています。

<毎日新聞社説>長時間労働 働く人を使いつぶすな

 これでは働く人の健康や生活が守れるわけがない。平均残業時間が労使協定(月45時間)を大きく上回る月109時間など、牛丼チェーン「すき家」の第三者委員会は過酷な勤務実態を明らかにした。「恒常的に月500時間以上の勤務」「体重が20キロ減った」など従業員の悲痛な証言もある。「すき家」だけの問題ではない。コスト削減や値下げ競争の陰で従業員を使いつぶす企業は後を絶たない。長時間労働の解消は社会全体で取り組むべき課題だ。

 過労死や労災は年々深刻さを増しており、2013年度の労災補償状況によると、精神疾患の労災請求は1409人と過去最多だった。20代と30代で全体の半数を占めている。通常国会で成立した過労死防止法は、過労死の調査研究を行い総合的な対策を取ることが定められているが、長時間労働はもともと法律で厳しく規制され、違反すると懲役6月以下の刑罰が科されることになっている。残業に寛容な社会通念や働く現場の慣行が法規制とはかけ離れた実態を許してきたと言える。

 労働基準法は1週間の勤務時間を40時間と定めているが、労使協定を結べば延長が認められ、特別条項付き協定でさらに延ばすことができる。また、長時間勤務に関する労使の争いの多くは、時間外労働に対する割増賃金や未払い賃金と同額の付加金の支払いについてだ。労働基準監督署の指導や裁判所の判決によって労働者側が救済されるケースも多いが、刑事訴追に至ることは少ない。

 こうした違法行為を監視し調査する役割を担っているのが労働基準監督官だ。全国の労働局や労働基準監督署に配置されている。特別司法警察職員として悪質な違法行為の疑いがある企業に対して通告なしに立ち入り調査し、容疑者を逮捕する権限もある。ところが、先進諸国と比べると監督官の数は少なく、都市部では1人の監督官が3000以上の事業所を担当しているのが実態だ。民主党政権下での公務員削減によって毎年の採用人員が半減し、さらに監視機能が弱まっていると指摘される。昨年から増員に転じているが、横行するブラック企業への対応に十分手が回っているとは言えない。

 監督官庁によるチェックだけでなく、企業の自主的な取り組みも必要だ。人手不足の時代に劣悪な労働条件を強いるような企業に就職しようという人は集まらないだろう。

 これまでは賃上げや解雇規制が労働問題の中心的課題とされることが多かったが、深刻な過労死や労災をこれ以上看過するわけにはいかない。社会全体が働く人の生命や健康にもっと本気で取り組むべきだ。


サル化する人間社会 低下する共感

2014年08月04日 09時30分38秒 | 臼蔵の呟き

サルの社会と人間社会の違いを、食文化を通じて論じています。サルの行動が動物社会のモデルなのかも知れませんが、人間が人間としての価値、サルとの違いがどこにあるかは考えさせられる話です。

格差社会、貧困、1%富裕層が社会の富を独占するーーそのような先進工業国アメリカ、イギリス、日本などの政治経済のあり方を問われているように感じます。

<毎日新聞>サル化する人間社会 低下する共感 京大教授山極寿一

 人間以外の動物にとって、生きることは食べることである。しかし、それを実現するには、いつ、どこで、何を、誰と、どうやって食べるか、という五つの課題を乗り越えねばならない。現代の科学技術と流通革命は、その多くを個人の自由になるように解決してきた。24時間営業のコンビニエンスストアや自動販売機。車や飛行機などの輸送手段や、インターネットを通じた通信手段。電子レンジやファストフードなどの調理や保存などの技術。これらは私たちに、いつでも、どこでも、どんなものでも、好きなように食べることを可能にした。

 しかし、技術によっては変えられない課題もある。それは、誰と食べるか、ということだ。もちろん、移動手段の革新によって、遠くに住む知人や親族に会うことができるようになった。だが、誰と食卓を囲むかは、昔も今も個人の自由裁量によっては決められない。

 古来、人間の食事は栄養の補給以外に、他者との関係の維持や調整という機能が付与されてきた。いやむしろ、いい関係を作るために食事の場や調度、食器、メニュー、調理法、服装からマナーにいたるまで、多様な技術が考案されてきたと言っても過言ではない。どの文化でも食事を社交の場として莫大(ばくだい)な時間と金を消費してきたのである。それは効率化とはむしろ逆行する特徴を持っている。

 サルの食事は人間とは正反対である。群れで暮らすサルたちは、食べるときは分散して、なるべく仲間と顔を合わせないようにする。数や場所が限られている自然の食物を食べようとすると、どうしても仲間と鉢合わせしてけんかになる。だから、仲間がすでに占有している場所は避けて、別の場所で食物を探そうとするのだ。でも、あまり広く分散すると、肉食動物や猛禽(もうきん)類にねらわれて命を落とすおそれが生じる。仲間といれば外敵の発見効率が上がるし、自分がねらわれる確率が下がる。そこで、仲間と適当な距離を置いて食事をすることになる。

 しかし、食物が限られていれば、仲間と出くわしてしまうことがある。そのときは、弱い方のサルが食物から手を引っ込め、強いサルに場所を譲る。サルたちは互いにどちらが強いか弱いかをよくわきまえていて、その序列に従って行動する。それに反するような行動をとると、周りのサルがよってたかってそれをとがめる。優劣の序列を守るように、勝者に味方するのである。強いサルは食物を独占し、他のサルにそれを分けることはない。サルの社会では、食物を囲んで仲良く食事をする光景は決して見られない。

 けんかの種となるような食物を分け合い、仲良く向かい合って食べるなんて、サルから見たらとんでもない行為である。なぜこんなことに人間はわざわざ時間をかけるのだろうか。それは、相手とじっくり向かい合い、気持ちを通じ合わせながら信頼関係を築くためであると私は思う。相手と競合しそうな食物をあえて間に置き、けんかをせずに平和な関係であることを前提にして、食べる行為を同調させることが大切なのだ。同じ物をいっしょに食べることによって、ともに生きようとする実感がわいてくる。それが信頼する気持ち、共に歩もうとする気持ちを生み出すのだと思う。

 ところが、前述した近年の技術はこの人間的な食事の時間を短縮させ、個食を増加させて社会関係の構築を妨げているように見える。自分の好きなものを、好きな時間と場所で、好きなように食べるには、むしろ相手がいない方がいい。そう考える人が増えているのではないだろうか。

 でも、それは私たちがこれまで食事によって育ててきた共感能力や連帯能力を低下させる。個人の利益だけを追求する気持ちが強まり、仲間と同調し、仲間のために何かしてあげたいという心が弱くなる。勝ち負けが気になり、勝ち組に乗ろうとする傾向が強まって、自分に都合のいい仲間を求めるようになる。つまり、現代の私たちはサルの社会に似た個人主義の閉鎖的な社会を作ろうとしているように見えるのだ。

 昨年末に、和食がユネスコの無形文化遺産に登録された。今一度、日本文化の礎を見直し、和の食と心によって豊かな社会に至る道を模索すべきだと思う。