故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

郡家町重元・辻界隈

2013年07月31日 18時10分34秒 | 日記

今朝の歩きは5時前から1時間40分間位。 まぁ~何時もと同じだな。 昨夜は久しぶりに雨が降った、だから今朝は水やりをしている人は見かけない。 最近、雨が少なく四国の水瓶・早明浦ダムもドンドン貯水量が減っている。昨夜の雨では全く変化ないだろう。 歩きの途中、丸亀市郡家町重元の天満宮に寄ってみた。 この鳥居は背が低い、私が手を伸ばせば届くような高さだ。

 

その前に阿吽の狛犬が。狛犬って、多くは外を向いていると思うのだが、ここの狛犬はお互いに見詰め合っている。 最近になって狛犬の表情が気になるようになってきた。これからは注意してみよう。  その狛犬の阿像。鳥居に向かって真横を向いている。

 

反対側の吽像も阿像を見ている。

 

本殿。

 

境内にある大きな碑 『松幢軒華楽先生碑』と書いてある。 近くの字・地頭にいた、沼野半平の頌徳碑である。華道・茶道の極意を極めた人で、京都の家元より讃岐会頭職を授けられた。明治43年に73歳で亡くなったという。

 

その天満宮から東へ行ってみた。 郡家の辻に建つ、高畠一渓 筆塚 である。 

 

横の説明を読んでみると、一渓は池の坊花道総華鑑であった高畠和吉の長男として生まれた。幼少から絵を好み郡家大林の大西雪渓について写生画を学んだ。画号を師から一字戴き「一渓」とした。一渓の絵は浄土真宗興正寺派郡家別院の襖絵や春日神社で見ることができるそうである。 改めてこの近辺には、文化人が多く出た所なんだなぁ~と。 碑の裏にも何か書いてあるが、木が生い茂って読めない状態であった。  って事で今日はこれまで。じゃ~またネ


明治天皇が崩御した日

2013年07月30日 18時08分28秒 | 歴史

今朝は、4時40分ごろに外に出てみると細い雨が降り出した。歩きは無理かと思ったが家の中に入り、準備して外に出ると雨は止んでいた。傘を持って歩きに出たのが5時を少し廻った頃。丸亀城まで行き、違った道で帰る途中の畑の中。綺麗な蓮の花が咲いている。

 

近寄って見る。

 

栽培している人がいたので少しだけ話を。連作はダメとか、写真をよく撮りにくる。花だけを切って持って帰る人もいて困るとも。花を途中で切ってしまうと、そこから腐って その苗はもうダメだとか。警察にも届はだしているとか。 泥棒さん、黙って持って帰るのは止めようネ。 結局、傘は必要なかったが、帰宅後に雨は降り出し出勤時には傘が必要となった。             それで今日は、明治天皇が崩御した日だ。

明治天皇は幕末の動乱期に即位した。薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。次第に討幕派が優勢になり、将軍・徳川慶喜が慶応3年10月15日(1867)に大政奉還行い、明治天皇はこれを勅許した。だが徳川幕府の統治機能は存続したため、対抗策として討幕派は12月9日(1868)に王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言。反発した旧幕府勢力と明治元年(1868)正月に京都南郊で軍事衝突した。鳥羽・伏見の戦いである。勝利した新政府軍は旧幕府勢力を「朝敵」・「賊軍」とし、明治2年にかけての戊辰戦争を経て、徳川幕府の時代は終わった。  江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改められた。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869)に再び東京に移り、そのまま東京に居住した。 明治2年6月17日には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなり、明治4年7月14日に廃藩置県を断行した。また、明治3年正月3日に神道の国教化と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉具視や大久保利通らは、天皇を主体的君主として育成するため、宮廷改革も行なった。  明治45年(1912)7月30日122代明治天皇は崩御した。 倒幕・攘夷派の象徴・旗印として、また近代日本の指導者と仰がれた。明治大帝とも呼ばれた。   って事で今日はこの辺で、じゃ~またネ


長崎海軍伝習所の開設

2013年07月29日 19時01分10秒 | 幕末史

今朝も5時前から6時半までの1時間35分間を西へ向いて金蔵寺付近まで歩いた。 27日にオープンした善通寺市原田町のファミリーマートを横目に。 早朝なのかお客さんは少ない。

 

路地から農道へ、あげくの果てには畦道を歩く。勝手気ままな歩き、何処へ行くやら。  名前は分らないがサボテンの花が。

 

帰宅後は、シャワーを浴びて朝食を済ませ、新聞を斜め読みして出勤。朝は慌ただしい。 

今日は、長崎に海軍伝習所が開設した日である。安政2年(1855)7月29日の事である。  黒船来航後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めた江戸幕府は、オランダ商館長の勧めにより幕府海軍の士官を養成する機関の設立を決めた。オランダ海軍からの教師派遣などが約束され、ペルス・ライケン以下の第一次教師団、後にヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の第二次教師団が派遣された。さらに練習艦として蒸気船「観光丸」の寄贈を受けた。最初の目標は、オランダに発注した蒸気船2隻(咸臨丸と朝陽丸)分の乗員養成とされた。そこで安政2年(1855)に第1期生として、幕府伝習生37名が入校した(勝海舟も)。さらに、翌年の安政3年(1856)には第2期生として長崎地役人などからなる幕府伝習生12名が臨時に追加された。 また、幕府伝習生以外に諸藩の伝習生の受け入れも行われた。安政2年(1855)から、計128名(薩摩藩16名・肥後藩5名・筑前藩28名・長州藩15名・佐賀藩47名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)が伝習を受けた。「咸臨丸」と同型の「電流丸」を発注していた佐賀藩出身者が最も多く、活動も活発であった。 築地に軍艦操練所が新設されると、安政4年(1857)3月に総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地に教員として移動した。そのため、長崎海軍伝習生は45名程に減った。その後、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する財政負担が大きいことが問題となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになった。安政6年(1859)に長崎海軍伝習所は閉鎖された。閉鎖後、練習艦「観光丸」は佐賀藩に貸与され、三重津海軍所で運用をつづけられた。長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の日本海軍でも活躍した。     って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


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2013年07月28日 10時53分17秒 | 日記

今朝は目が覚めるのが少し遅かった。 でも、日曜日で休日なので、歩きで帰る時間が遅いだけで歩いた時間は何時もと同じ1時間半位だった。途中で、パラパラっと雨が降ったが大したことも無く帰った。帰宅後に予報を見ると昼頃に雨があるとか、皆さん畑をやっている人は一雨待っていると思うヨ。

昨日は、友人と愛媛県と高知県の境の瓶が森林道(UFO線ドライブ)を走ってきた。曲がりくねった旧道を通り、旧寒風山トンネル前に。このトンネルは西条市で路肩崩壊で通行止めに。現在は新寒風山トンネル(5,432㎞)が開通して楽ちんになった。

 

やっとたどり着いた寒風茶屋も本日は休業。

 

その前の駐車場は満車状態。

 

この横には、寒風山登山口が。皆さんここに車を置いて登っているんだ。

 

高い山の上だからか、あじさいが満開。

 

ふと見ると町道 瓶ヶ森線 全面通行止 16㎞先(瓶ヶ森の南)で山側崩壊のためだと。その上、復旧は未定であると。 仕方ない、でも ここまで来たのだから、行けるところまで行こうと走り出した。

 

素晴らしい景色だ。

 

伊予富士 登山口、こんなところを上って行くんだ。

 

ここの景色も最高! 

 

吉野川源流の碑が。でも、川は見当たらない。

 

源流の碑から50mも進まないうちにストップ。ここまでだ、

 

ここにも復旧は未定と。写真も。

 

残念だった、計画では石鎚スカイラインも走り、すべて制覇しようと思ったのだが。これはしようがないなぁ~と。でも、涼しさと素晴らしい景色を満喫した。 標高1200mで食べたコンビニ弁当は美味しかった。 その帰りには「道の駅・木の香」へ、ここは道の駅と宿泊施設と温泉が一緒になった施設。折角だからと温泉に。600円の入浴料と100円のタオル代だった。ショッパイお湯で、露天風呂に行くと横の川の流れ、せせらぎを聞きながらゆったりと過ごした。

 

予定とは違ったけれど、癒された1日だった。新寒風山トンネルを通り来た道を帰った。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


高橋是清の誕生日と丸亀高校の門の張り紙

2013年07月27日 07時48分16秒 | 歴史

今朝は4時40分から歩き丸亀城をぐるりと廻り市役所まで来ると、玄関に『祝 丸亀高校甲子園出場』の幕が。急いで作ったものなのか? 予想してなかったものなのか? 祝いの幕って感じがしない。でも頑張ったネ

 

その後丸亀高校正門横を通りかかると、門扉に『優勝 おめでとう お疲れ様』と、紐で括り付けてある。誰が付けたのか。卒業生か在校生か、それとも丸高ファンか? 

 

西側の門にも、南の門にも。すべての門扉につけてあった。

 

6時半には家に帰った。今日は仕事は休みだけど、友人と愛媛県の瓶ヶ森林道をドライブの約束がある。だから休日だけど早めの帰宅だった。

 

今日は、明治・大正・昭和の政治家、高橋是清が生まれた日だ。

 

嘉永7年(1854)閏7月27日に川村家の庶子として江戸に生まれ,仙台藩足軽高橋家の養子となった。横浜において英語を学び,慶応3年(1867)仙台藩の留学生として渡米したが,奴隷に売られるなどの辛酸をなめる。翌明治元年(1868)末に帰国し,森有礼の学僕となる。大学南校(東京大学)に入学,次いで教官3等手伝いとなったが放蕩のため辞職。以後多くの職業を経験したのち,明治14年文部省に入り,すぐ農商務省に代わり商標登録,発明の専売特許の制度の立案実施に当たり,専売特許局長となる。明治22年,辞職してペルーの銀山の経営に手を出したが失敗。財産を失う。明治25年、総裁川田小十郎の世話で日本銀行の建築所事務主任に就職、明治26年正社員となり下関の西部支店長となり成績をあげる。明治28年横浜正金銀行本店支配人に明治30年副頭取として経営に携わる。明治32年日本銀行の内紛に際し日本銀行副総裁となる。明治37年日露戦争時に外債募集のため2度の英米両国の出張、戦費および内国債償還のため、5回に渡り約9億円の募債に成功した。明治38年貴族院議員・明治40年男爵・明治44年に日銀総裁となる。原敬と積極的な財政政策について意見が一致し、大正2年(1913)の山本権兵衛内閣に蔵相として入閣して政友会に入党する。大正7年原内閣の蔵相として,鉄道,電話,教育などの支出を拡張して積極政策をとった。大正10年原敬の暗殺の後、首相総裁を引き継いだ。大正13年の第2次護憲運動の際には隠居して衆議院に当選し、加藤高明内閣に農商務相として入閣した。大正14年総裁を辞して政界を引退したが,その後も蔵相として田中内閣・犬養・斎藤・岡田の各内閣に入閣する。昭和恐慌後の景気回復を実現させ,「高橋財政」時代を築いたが,昭和11年の2・26事件の際暗殺された。 って事で本日もこれまで。もうすぐお迎えの時間が、瓶ヶ森の報告はまた後日に。じゃ~またネ