故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

田中 光顕の生まれた日

2012年09月26日 12時57分56秒 | 幕末史

今日も5時から歩きだしたが、今は5時はまだ暗い。出発時には懐中電灯を持って出るが途中からポケットに、だから小型のペンライトだ。取りあえずいつものコース丸亀城へ、お城に着くころは薄暗くなっていて周りは見えている。 帰りはコース変更して駐車場の中や路地裏経由で、そんな普段行かないところを通っていると新発見も時々。毎朝ご婦人が3人位で掃除している神社の本殿・引っ越し前の会社社屋・うさぎの離し飼い・新しいお家の建設・まだ薄暗いうちから行動している人々等々珍しい光景が見られる。

帰宅後は朝ご飯と新聞、それに今週で終わる朝ドラ「梅ちゃん先生」を見る。午後からは冬物野菜を植えるための畑を。もう遅い位だけど、雨で耕せなかったからネ。

そこで、昨日は田中 光顕が生まれた日だった。

天保14年(1843年)閏9月25日、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。

土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発されたぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃れる。薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。

慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。

維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。

政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。

1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町の別荘にて97歳で没した。

ってことで、今日はこの辺で、じゃ~またネ

 


講演会に参加

2012年09月23日 11時12分09秒 | 幕末史

昨日の事である。

昨日は岡山で幕末・明治維新講演会があった。

会場へは久しぶりのJRの電車に乗った。電車の中では周りをみると流行だか何だか、何処も彼処もスマホに夢中だ、大体が40才代以下の人である50才代以上になると文庫本や雑誌を読んだり、隣の人と話をしてる。時代だな~と。一時期の携帯電話(私が持っている物)が少なくなりスマホに。また、若者のファッションであるが、ジーパンにネクタイとベスト、それに帽子である。団塊世代にはまねが出来ないが、でも何か似合っているような。他に今にもズレ落ちそうなズボン、役目をしていないベルトはダラリん、この???には何とも評価ができない。

また20才台の女性で目立つのが長い付まつ毛だった。岡山駅から会場まで約15分間歩いた。

講演は、高梁市の歴史美術館主任学芸員の加古一朗先生による、「山田方谷と老中板倉勝静」の話である。内容は二人の関係から二人の人生についてで、大変分りやすい話であった。山田方谷では農民⇒郷士⇒備中松山藩の藩校有終館学頭⇒侍講⇒元締役兼吟味役⇒郡奉行⇒年寄役助勤⇒御勝手掛⇒年寄役・藩政の改革や人脈まで、また、勝静が老中として長州征伐・鳥羽伏見の戦い・江戸⇒会津戦争⇒仙台⇒函館戦争に参戦等々に至るまでを説明された

調度、昨日は 1868年会津藩主・松平容保が鶴ヶ城を開城し。会津藩が新政府軍に降伏した日である。慶応4年/明治元年(1868)、戊辰戦争の一つであり、薩長藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦争であった。

会津藩内の、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部は飯盛山で自刃したことは有名である。

会津藩は若松城に篭城して抵抗し、城外での遊撃戦も続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日、新政府軍に降伏した。

終了後はすぐ裏手にオムライスの店があったが店内には待っている人がおり別の中華そば店へ。広い店内に店員と唯一人の客である私が、食べ終わり出店するまで私だけ。店主さん大丈夫?って気持ちで。その後は岡ブラを。三丁目劇場発見や途中休憩しながら県立図書館まで。帰りもブラブラ美浜町の物産展等も見ながら、天満屋にもチョイ寄り。帰宅は5時前だったかな? もう少し涼しくなり連れもいれば夜までいたかも。

って事で今日はこの辺で、じゃまたネ


彼岸花のお目見え

2012年09月17日 14時37分39秒 | 日記

最近の天気は、晴れと曇りと雨が混ざり合って1日が終わる。

今日も晴れ3時頃から雨の予報だった、少しずれて2時半頃から雨が降り出した。

最近のテレビはDボタン(データーボタン)で丸亀の天気予報が3時間ごとに見られる、今日の予報は当たりだな。

今朝は何時もより少し遅れて、歩きに出た。丸亀城をめざし歩いていると、今年初めて彼岸花を見つけた。下の写真のとおりまだ蕾である。

体感的にはまだ夏であるが、間違いなく秋がそこまでやってきている。彼岸花・曼珠沙華・数珠花等の呼び名があるが

では今日はこの辺で、じゃ~またネ

 

 

 


子供の頃のおやつと言えば

2012年09月14日 17時40分26秒 | 日記

 

今朝も暗い5時から歩きだした。いつも通り丸亀城まで、しかし1周はせずに搦め手門跡でUターン。そこからいつものコースを外れて旧国道やら路地やらを通り近くの池の土手を。水面にはシイが(香川県の中讃地方での呼び名)いっぱい。

下の写真がシイの実だ

子供の頃には、これを一杯取って母親に焚いてもらいよく食べたものだ。たしか記憶では栗のような味(それほど美味しくはないか)だったと。

水は井戸水でタダ・燃料はマキ・味付けの塩くらいは買っていたかな?だからずいぶんと安上がりなおやつであったような。

今ではたぶん誰も食べないだろう。 ちょっと幼少の頃を思い出して書いてみた(昭和30年代の話である)。

って事で今日は何の日はないがこの辺で、じゃ~またネ

 


松平 春嶽が生まれた日

2012年09月02日 17時13分21秒 | 幕末史

今朝は目が覚めるのが早かった。4時に目覚めてしばらくはボケーッとしていたが外に出たらまだ暗かったが気持ち良い風が。しばらく外で椅子に座り東を眺めていたが夜明けはまだまだ。4時40分に家を出て、いつものコースでお城へ、日曜からか少し早かったのか歩きやジョギングをしている人が少ないように思った。帰りは近くの池を1周して帰るといつもの時間だった。

午後は久しぶりにカミさんのお供で買い物に。昼の暑いさなかの買い物でもお店の中は夫婦連れ・家族連れがたくさん見られた。

今日は、松平 春嶽が生まれた日だ。文政11年9月2日江戸城内の田安屋敷に生まれた。

春嶽は号で、諱は慶永。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。

弱冠11歳で福井藩主となる。元服し、将軍・徳川家慶の偏諱を賜り、慶永と名乗る。

由利公正、橋本左内らを抜擢し、翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。

嘉永6年(1853)、アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張するが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じた。

13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の慶喜を後押しする。幕閣では紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり、将軍世子は慶福に決定する。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議したが、安政5年(1858)7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。

井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると幕府の政策方針も転換し、春嶽は文久2年(1862)4月に幕政への参加を許される。

王政復古後の薩摩・長州の討幕運動には賛成しなかった。維新後の新政府では内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任。明治3年(1870)に政務を退く。

明治23年6月2日(1890)に小石川の自邸で死去、享年63。辞世の歌は「なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため 」。私にはよく分らない。昭和18年(1943)には福井神社が創建された。

ではこの辺で、じゃ~またネ