故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

何年振りかの風邪ひき

2014年04月28日 10時02分54秒 | 日記

先週の土日を挟み、初めてのジェットスターを利用して東京へ行ってきました。 滞在期間中に山縣有朋ゆかりの椿山荘での食事や、世田谷の松陰神社へお参り。また、築地市場で奮発して握りずしを。息子や姪家族との楽しい時間を過ごした。が・・・昨日の早朝歩き時に丸亀お城まつりの準備中を見ながら。

約、2時間の歩きと帰宅後の畑仕事。その後、何故か喉や鼻がオカシイ~。  そんなんで、昨夜には風薬を飲んで早々とお休み。 今朝は早朝歩きは中止して6時過ぎまで熟睡。 毎日の早朝歩きのおかげか殆ど良くなったみたい。午後のお仕事も行けそう。 風邪を引いたのも3~4年ぶりくらいかなぁ~。

そんなこんなで久しぶりのブログ更新。今日はここまで、じゃ~またネ


防府市の三田尻御茶屋を訪ねて

2014年04月02日 19時05分53秒 | 幕末史

防府市の旅、最終回。三田尻御茶屋を訪ねた。ここは 承応3年(1654)に、長州2代藩主・毛利綱広により建築される。三田尻は、萩城からの萩往還の終点で、瀬戸内海側の長州藩玄関であった。参勤交代や領内巡視時の藩主の宿泊・休息施設・迎賓などの為に造られた。7代藩主の重就は、隠居した翌年天明3年(1783)に三田尻御茶屋の大規模な改築を行う。改修後、重就は移住し、晩年の6年間を過ごしている。当時は「三田尻御殿」とも呼ばれた。 嘉永4年(1851)13代藩主・敬親が行った改築で現在とほぼ同じ規模になった。文久3年(1863)には、八月十八日の政変で三条実美ら公卿が七卿落ちで長州へ逃れてきた。その時、大観楼棟に約2ヶ月滞在し、藩主敬親や高杉晋作らと面会している。さらに、敷地の北側に招賢閣が建てられ、三条らの会議場所となった。招賢閣には幕末の志士達が滞在したが、その建物は現在残っていない。

毛利藩といえば、この家紋。

一文字三星の家紋が有名であるが、下の図にある8つの紋も使われていたという。英雲荘の中をよく見ていると、襖や釘隠し等でたくさん見られた。襖等は右端の向オモダカ紋・釘隠し等は左端の紋が使われていた。

 

いろんな所に家紋が。

 

釘隠し・畳の淵・シャンデリアと、色々な所に家紋が施してある。

 現在残っている建物では最も古いこの大観楼、江戸中期の天明年間に書かれた絵図にあるからそれ以前の建物。公的な場で、藩主はこの「御書院一ノ間」で来客や家臣と面会した部屋。

 

 長州藩最後の藩主、毛利元徳は明治3年以降、この三田尻御茶屋を居住の地とし、長男 元昭(幼名、興丸)の守役として久坂玄随の未亡人、文も生活をしていたことがある。 また、文久3年8・18の政変で京都を追われた三条実美ら七人の公卿は、この三田尻御茶屋に入り、約2ヶ月間滞在した。高杉晋作もここで会っているとか。

御書院一ノ間の真上にあたる西ノ間は藩主や、限られた者だけが使った。真下の一ノ間の上にあるので、この部屋は限られた者だけが入室できた。襖の向こうに見える階段を上がりこの部屋に入る。家臣や面会の者は東側の別な階段を使い東ノ間に入った。

 奥座敷楼は玄関から一番奥にあり、毛利家当主と家族の居住と場所であった。

 

 

 外の発掘調査中の庭より英雲荘を。大正5年に多々良の毛利邸に移り住むまでここで生活をしていた。

 

見学を終え、英雲荘のすべてを丁寧に案内してくれた職員にお礼を述べた。すると、隣にいた女性職員より、その後の見学地への案内図、手書きの食事処等を手渡され、三つ指を突きこの玄関まできて私を見送って戴いた。超~感激・・・(嬉~)。

 

今回の防府市内は9時30分~17時30分・時間不足のため幕末関係で見学出来なかった場所は次のとおり 残念。

○桑山招魂場  ○護国神社  〇宮市本陣兄部家  〇文化財郷土資料館(入替休館) 〇毛利博物館  〇萩往還の道標  その他山口市へ足を延ばせば、大村益次郎の関係や井上馨関係等々、まだまだ見学場所が多数ある。次回は2日位の予定で必ず行ってみたい所である。って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ