故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

台風の接近で大雨警報

2013年10月25日 19時14分00秒 | 日記

今朝は、台風27号の影響で大雨警報が発令された。それで私の仕事も休みになった。

それではと、雨の中丸亀城内の菊花展を覗いてみた。

 

行ってみれば誰もいないし、こんな感じで網をかけられている。

 

ただ一つ、この小さいのは網もなく、よく見える。山に樹木が生えているように菊の枝が。うまく作ったもんだなぁ~。

 

早々に見学を止めて、坂出の「ふれあい市場」と「いただきさんの海鮮食堂」に。

 

ふれあい市場は9時00分~17時00分。いただきさんの海鮮食堂は11時00分~14時00分と17時00分~21時00分となっており、水曜日が定休日になっている。時間が早かったので食堂は開店前だった。観光客の団体さんも利用できるように席数は多い。この市場は坂出と丸亀の魚市場が合併して10月1日にオープンしたばかり。あらためてゆっくりと来てみよう。 その後は図書館や友人とのランチとコーヒーを楽しんだ。

今回の台風は本土への上陸の可能性はなくなったが雨量が多く、災害が気になるところ。皆さんももう一度周りの確認を。って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


山口県光市の伊藤公資料館を見学

2013年10月24日 18時57分56秒 | 幕末史

光市の山間部を走り、周りは殆ど田んぼ。その中に伊藤公資料館はある。

旧伊藤博文邸。この建物は伊藤博文が自ら基本設計したもので、清水組(現清水建設)が施工した。明治43年5月に完成したが、その前年10月26日に伊藤はハルピン駅で凶弾に倒れ、この館を見ることはなかった。

 

襖の下張り墨書。階段下の物置から襖が見つかり、その下張りから出て来た墨書。山口県熊毛郡東荷村 故伊藤公別邸建築場 清水組出張所 行 と書かれている。

 

その後伊藤公資料館を見学、ちょうど長州ファイブ英国渡航150周年記念企画展『歴史に刻まれた5人のサムライ』というのをやっていた。

 

これは伊藤博文生家、天保12年9月2日この地で生まれた。伊藤一家が萩へ移り住んだ翌年に倒壊したが大正時代に復元された。その建物も老朽化したため平成3年に生家のあったこの地に復元された。

 

内部の人形、説明と共に。

 

安倍総理の書碑

 

では、今日はこれまで、じゃ~またネ


山口県柳井市の幕末史の旅

2013年10月22日 19時03分00秒 | 幕末史

先日、妻と二人で広島市に住む長男宅を訪ねた。その時1日早く出かけ、山口県東部、柳井市にある月性展示館に行った。幕末時に海防五策をたてて外夷に備え、士農工商を問わず志の有る者をもって新しい軍制作りを主張した「内海杞憂」は、後の高杉晋作の奇兵隊結成の元となったという。その月性という人物を見てみたいのが目的であった。

 

先ずは柳井市の白壁の町並みを歩いた。歩いていると何故か倉敷の美観地区を思い出した。雰囲気が似ているのか、でも観光客は少なかった。

 

町歩きを終えて、国道188号線を東に向かって走る。妙円寺という浄土真宗本願寺派のお寺がある。お寺の門を入ると正面が本堂である。

 

門の右脇にその日の本来の目的地、月性展示館がある。本堂左側には月性が嘉永元年春に開いた清狂草堂(別名・時習舘)がある。郷土民族資料館の前に受付があり入館料200円を支う、住所・氏名を記帳し、書き終わると受付の女性が「私が今から説明しますから、しばらくお待ちください」と言い、大きい封筒に入った資料を戴いた。

 

最初は清狂草堂である。

 

雨戸を少し開け、中を見せてくれた。屋根は藁ぶきで8畳が2つ並んだ質素な建物である。何故か懐かしく心和らぐような気分。この小さな2室で幕末に月照から教えを受けた若者は、動乱の中へとつき進んでいった。

 

清狂草堂の右横には月性の墓があり、自然と手を合わせた。

 

続いて寺門の西側に「男児立志の詩」の碑がある。天保14年夏京阪遊学に際し作られたものである。

『男児 志を立てて郷関を出づ 学 若し成る無くんば復還らず 骨を埋むる何ぞ期せん 墳墓の地 人間到る処 青山有り』

訳=男児がいったん志を立てて故郷を後にしたからには、「万が一学業が成就しないのなら死んでも帰郷しない」という決意を持ち続けるべきだ。先祖と同じ墓地に骨を埋めなければならないということもない。世の中どこにでも活躍の場はあるし、どこにでも骨を埋める場所はあるものだ。

 

その左側には前半の詩が『二十七年 雲水の身 又師友を尋ね三津に向かう 児鳥反哺応に日無かるべし 忍びて廻る北堂 垂白の親』

訳=生まれてからの27年間、行方が定まらず諸国を巡っている私は、再び師友を尋ねるため三津浜へ向かう。小鳥が反哺するように親に対して恩返しする日もなく、忍んで別れる母親は、頭が薄くなって年老いている。

 

最後に月性展示館へ。こじんまりとしているが2階建ての立派な建物である。展示物はそれほど多くはない、館内でも受付の女性の本当に親切丁寧な説明に恐縮し見学を終えた。

 

月性は文化14年(1817)に周防国遠崎(現・柳井市遠崎)の妙円寺に生まれる。母の尾上は岩国の光福寺の住職、祇城(ギジョウ)に嫁いでいたが、不縁となり妙円寺に戻った。その時すでに一子を宿していた、その生まれた子が月性であった。幼名を知円、名を月性、号を清狂と名乗る。

村田清風・吉田松陰・秋良貞温・僧黙霖と意気投合し、憂国の気概をもって交わり、思想的な影響を与えた。

幕末当時、日本各地に私塾があり学者・先覚者が多くの弟子を教えていた。その中で毛利藩では、西の松下村塾・東の時習舘と並び称されていたという。西の松下村塾の門弟たちには、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・伊藤博文・山県有朋・前原一誠・品川弥二郎がいて、尊王攘夷から明治維新に至る討幕の舞台での立役者で明治政府の中心人物である。松陰が教えた2年余りの短期間にこれほどの人材を育て上げたのは素晴らしいことだと思う。東の時習舘(清狂草堂)の月性は僧侶であったが千篇を超える優れた詩を作った詩人でもあった。清狂草堂で月性の教えを受けた門人には、赤根武人・世良修蔵・大洲鉄然・大楽源太郎・入江石泉・和真道・天地哲雄・芥川義天等がおり、志士の交流の場となっていて維新の原動力となる人材を育成している。第3代奇兵隊総督の赤根武人や奥羽鎮撫使参謀の世良修蔵等は現在の歴史から軽蔑されたように伝えられているが、もっと評価されても良いのではと思う。地元の人の中には吉田松陰は日本中で知らない人が居ないほど有名なのに・・・。同じ呼名であるために「月性」と「月照」が同人物であるかのように扱われている。見方によれば月性は吉田松陰以上に明治維新における功労者であるはずなのに知名度があまりにも低い。なぜか一部分にだけ光が射していないような気がするが?・・・。


台風が反れたので稲刈りを

2013年10月09日 19時54分00秒 | 日記

今朝は5時に起きて外を見た。霧のような雨が降っている。実は稲刈りを予定していて、半ば諦めかけていたのだが台風がそれて日本海の方に。だから望みを。なにしろ11日の金曜日から予定がびっしり。 そんなんで今日は歩きは止めて田んぼの視察に。夜中の少しだけの雨で濡れてはいるが大したこともない。それなら稲刈りをしようと。 7時半に田んぼにいって角の方だけ手刈りを。あとはコンバインで、何とか1日で終わり。片付け等をするとすべてが終わったのが7時だった。 すぐに風呂に入り夕食で今日の予定は終了。これは昨日の歩き時に見つけた季節外れの彼岸花。石垣の隙間から。

 

道路の舗装の隙間から。

 

草花の生命力ってスゴイなぁ~   今日の言葉= 『物事が順調にいっている時こそ、最も警戒すべき時である』

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


百姓泣かせの雨

2013年10月05日 06時53分34秒 | 日記

しばらくブログの書き込みが出来ていなかったけど久しぶりに。今朝も5時過ぎには目が覚めたけど外は雨、歩きは中止に。それで6時には朝食を済ませた。今日は土曜日、お休みだけど特別に仕事が入った。しかしこの雨、どうなるものか 何しろ外での仕事なもので? でも、準備はしておかないと。 しばらく雨が降らなかったけど久しぶりの雨。 この時期の雨はいらない、稲の収穫時期だからなぁ~。今日と明日で稲刈りを予定していた人は多いと思う。私も来週9日の水曜日に予定しているのだが?? 台風の影響とかで雨の予想。 困るんだけどなぁ~ 百姓泣かせの天気だ。  って事で今日はこの辺で。今から仕事に出かけます。じゃ~またネ