故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

三豊市山本町の逆瀬池

2013年04月30日 12時36分31秒 | 日記

今朝は5時前に目が覚めた。天気予報のとおり雨である、もちろん今日の歩きはお休み。すぐに起きたものの、さぁ~何をするか?新聞もまだまだ来ない。取りあえずテレビを付けてみた、見るでもなくボケ~っと。パソコンを、メールや知人のブログをチェック。歩きのない朝を長~く感じた。 朝の内は雨だったがミキばーちゃんの買い物に運転手で。

昨日は、以前から気になっていた三豊市山本町の六地蔵峠までドライブをと車を走らせた。が、寄り道等で変更あり。3回に分けてみます。目的地に向かっていたら、こんな標識が「さぬき百景・逆瀬池」が、右折して寄り道を。

 

少し走ると池の堤に。車を止めて、しばらく歩いてみた。さすが「さぬき百景」いい景色だ。

 

逆瀬池の説明。

 

誰もいない池の周りを歩く。

 

土手のお地蔵様

 

暫く歩き、引き換えしの場所から。 桜の木がたくさん見える、花見時期には良いかも。

 

蕨が生えていたので採ってお持ち帰り。少なかったようだ、もっと頑張って採ればよかった。

 

車の場所に帰り、展望台のようなものが見えたので上がってみた。遊具等があるが、草が伸びて歩きにくい。桜の木がたくさん。 

ここから池を。

 

「名鏡や山瀬ふちどる桜かな」と詠めば良いのかなぁ~。 つつじと。

 

降りて車に。阿讃山脈を目指し南へ南へと。続きは次回で報告します。

では、この辺で。じゃ~またネ


丸亀お城まつり と 高杉晋作が上海へ向けて出航

2013年04月29日 16時57分50秒 | 幕末史

今日もいい天気だ。5時からの歩きになった。

 

目指すは、丸亀城へ。5月3日~4日が丸亀お城まつりだ。そのため、準備が進められている。搦め手門には門や看板が。

 

再び、外に出て東へ、堀の外を歩くことに。北東からの石垣と天守閣。

 

天守閣と大手門を、木々で石垣が見えなくなっている。

 

イベント会場には提灯、テントがセットされている。

 

お城まつりのこの時期にはこんな看板も。

 

西側入り口にも。

 

西から見た天守閣。

 

白鳥でなく黒鳥。

 

5月3日と4日だから、皆さん是非来てくださいな。

ところで今日は何の日と言うと。今日は、高杉晋作が藩命で上海へ向けて出航した日だ。                           文久2年(1862)4月29日に長崎を出航した。高杉晋作は上海で、清が実質的に欧米の植民地となっている様子を見聞した。上海で見た光景は、晋作を愕然とさせることになった。アヘン戦争に負けた影響で、欧米の植民地化となった悲惨な姿を見た晋作は、このままでは、日本は清国と同じ運命をたどることになるとの思いにかりたてられた。この上海視察により、高杉晋作が将来進むべき道を決定付けたと思う。

今日はこんな感じで、じゃ~またネ


田村池のWダイヤ富士と善通寺

2013年04月28日 11時27分19秒 | 日記

今朝も起きたのは4時40分、天気の確認、パソコンの確認等とチェックを。家を出たのは5時10分、西から北へと歩き5時30分に田村池へ、白鳥はまだ出てきていない。大井池をぐるりと廻り、田村池に、5時45分の写真がこれダブルダイヤモンド富士だ。

 

その後は東へ東へと飯野町へ、讃岐富士がずいぶん近くなった。   土器川東の土手を南に南に。高速道路下を西へ、郡家町⇒三条町⇒田村町⇒土器町⇒飯野町⇒川西町⇒郡家町と歩き、帰宅は何時もと同じ7時15分だった。14,018歩の歩きだった。

昨日は善通寺に行ってきた。この寺は、弘法大師空海が生まれた所。父の佐伯善通卿の名をとり善通寺とした。

先ずは五重塔へ。ん~っ何だ?4月27日から5月6日まで『五重塔特別公開』と、ラッキー。300円を支払い中へ。毎年ゴールデンウイーク中は公開されるそうだ。

 

心柱は6材を継いだもので、五重屋根裏から鎖で吊り下げられ礎石と心柱の間は6㎝の隙間がある。(確認したが撮影禁止のため写真はなし)その周りに金剛界四仏(阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)を安置している。造営には塩飽大工の初代橘貫五郎・2代目貫五郎と大平平吉の棟梁かかわっている、ここでも塩飽大工が。この塔は4代目で明治35年に完成した。上がれるのは2階まで、階段がものすごく急。外へ出てみた。

 

続いて金堂、善通寺の本堂である。お参りをすませ中へ、正面に薬師如来坐像が(これも撮影禁止)。

 

外に出ると旧礎石が石垣の一部に。 

その後は御影堂へ。弘法大師誕生時の邸宅跡である。戒壇めぐりと宝物館へ。

先ずは戒壇めぐり、真っ暗闇の中を左手を壁にそえて歩くと明るくなってきた。ここが空海の母の部屋があった場所、弘法大師の誕生地の真下になるという。大師の声を聴き、再び一寸先も見えない暗闇を進む。明るくなったところが出口で先に進むと産湯の井戸と宝物館へ。   最後に年間行事を参考まで。

そんなんで今日もこれで。じゃ~またネ


藤まつり と 七卿の錦小路頼徳が亡くなった日

2013年04月27日 16時03分41秒 | 日記

今朝は4時50分からの歩きになった。当てもなく東西南北路地から路地を歩いていると、こんな張り紙が!! 虎屋が閉店。

 

3月31日で閉店してたんだ。 高級うどん店で私は入ったことがなかったが、建物は明治初期に建てられた純日本家屋を使用していたとか。日本庭園を見ながら、うどんを食べるって贅沢。私たち庶民には入れないようなうどん店だった。でも残念だね。

 

大井池の野鳥を見ながら約2時間の歩きだった。

 

昨日は、高松市飯田町にある岩田神社に先輩を誘って行ってきた。通称「孔雀藤」と呼ばれる藤を見るためだ。岩田神社に到着。案内ののぼりで迷わずに行けた。

 

先ずはお参りを。

 

どこかの幼稚園の園児が大勢見に来ていた。

 

これが「孔雀藤」と言われる藤の花。紫色の花房を付、最大2㍍にもなる。香川県の自然記念物だと。でも手入れは大変だろうな。

 

岩田神社の行事にも4月27日から5月5日まで「ふじまつり」と書いてある。

 

神社を出ると花を売っていた。これは変わった水仙だ。値段は一つ400円だったかな?綺麗だと思って写真だけ。

 

久しぶりに男同士でのドライブ。コーヒーや食事と情報交換の時間であった。

今日は、錦小路頼徳が亡くなった日。元治元年(1864)4月27日。    唐橋在久の子として生まれのち、錦小路頼易の養嗣子となる。安政5年の廷臣八十八卿列参事件に参加し、以後尊皇攘夷派として活躍する。八月十八日の政変によって失脚し、三条実美、壬生基修、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、澤宣嘉とともに長州藩に落ち延びる、いわゆる七卿落ちである。これによって官位剥奪の処分を受けた。後に桑原頼太郎の変名を用いて長州攘夷派と行動をともにするが、赤間関の砲台視察中に病に倒れ、同地で30歳の生涯を閉じた。私もこの人に関しては名前位で殆どが分らないので。                                    辞世の句は「はかなくも 三十年の夢は さめにけり 赤間の関の 夏の夜の雲」である。

 では、今から畑仕事を。じゃ~またネ


花粉症に泣かされた日 と 京都見廻組が編成された日

2013年04月26日 13時57分23秒 | 幕末史

今朝は4時に起きて天気予報の確認。今日は良い天気で暖かくなりそう。で、5時20分頃歩きに出た。風は強く吹いてるが暖かい。つつじとミニアジサイが朝日に映えて綺麗だ。

 

しかし、何故か鼻がムズムズ、くしゃみも激しく何度も。そんなんで持っていたテッシュペーパーも無くなり早々に帰宅した。 でも1時間半ほどの歩きだった。  これは、朝の歩きに撮った、田村池の白鳥親子。ちゃんと親鳥が子供を守っているようだ。

 

今日は、京都見廻組が編成された日だ。

幕府は浪士取締りのため文久期に新撰組や新徴組を編成した。その後京都市中に潜入する尊攘討幕の浪士取締りのため,元治元年(1864)4月26日に改めて京都見廻組を組織した。旗本の次・三男から腕の立つ者を選んだが,人員不足に悩まされ,その活動の事跡もはっきりしない。ただ慶応3年(1867)11月15日,京都の近江屋に坂本竜馬,中岡慎太郎を襲撃したのは佐々木只三郎たちであったとされている。

さぁ~何処かへお出かけしよう。だから またネ