今日は国民の祝日「みどりの日」だ。自然に親しむと共にその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ祝日。でもこれって、なかなか難しいな?元々は昭和天皇の誕生日だった。子供のころは天皇の誕生日をお祝いなんてそんなものはなく学校が休みになって遊べるから嬉しいそんなことしか思っていなかったけど。昭和天皇が生物学者であったから亡くなった後、みどりの日という祝日に変更された。
また、明日はご存知「こどもの日」だ。こどもの人格を重んじ、子供の幸福をはかるとともに、母に感謝する日(昭和23年7月公布された)。母に感謝するって父親には感謝しないのか?。昔から母の日は色々あったけど父の日は影が薄い日だった。父親って寂しいんだなぁ・・・・。
ところで、久しぶりに幕末維新史を少しだけ、明日は5月5日 新撰組の副長「土方歳三」が生まれた日だ。天保6年5月5日(1835年5月31日)~明治2年5月11日(1869年6月20日)
武蔵の国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)の農家の6人兄弟の末っ子、又は、10人兄弟の末っ子として生まれた。農家といっても豪農である大百姓であった。
父親は歳三が生まれる3ヶ月前に、母親は歳三が6歳の時に亡くなっている。長兄は失明していたため次兄夫婦に養育された。
実家の秘伝の「石田散薬」を行商しながら各地の道場で修業を積んだといわれる。天然理心流に入門していた時に近藤勇とも出会った。近藤道場の仲間とともに徳川家茂警護のための浪士組に応募し京都へ行く。
文久3年8月18日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新撰組となった。その後、芹沢鴨等を暗殺し、近藤が局長、歳三は副長となり権力を握った。近藤の右腕となり京都治安警護維持にあたった。局長は近藤であったが指揮命令は副長の土方より出されていた。
元治元年6月5日の池田屋事件では土方は四国屋へ向かったが誰もいないのが分かり池田屋に向かい、先にいた近藤らと新撰組1対で襲撃した。この事件は古高俊太郎を捕らえ土方の拷問により古高を自白させた。京都御所に火を放ち、一橋慶喜や松平容保等を暗殺、孝明天皇を長州へ連れ去るという内容であった。その襲撃計画を協議する場所が池田屋か四国屋で行なわれるという事を突き止めたのであった。
その時、丸亀藩土肥七助は對藩の多田荘蔵とで古高俊太郎を奪い還さんとしたが、長藩乃美織江に止められた。
慶応3年6月に幕臣に取り立てられたが同年10月14日慶喜は大政奉還し、江戸幕府は事実上の崩壊にいたった。その後戊辰戦争が始まり、負傷した近藤の代わりに新撰組を率いて戦った。しかし、新政府軍の銃撃戦の前に敗北した。
近藤勇は出頭し板橋近辺で処刑された。土方は大鳥圭介らが率いる旧幕府脱走軍と合流、江戸城無血開城がなると江戸を脱走、宇都宮での戦いで足を負傷し、会津で約3ヶ月間の療養生活を送ることとなる。この間に近藤勇の墓を天寧寺に建てたといわれる。全快した歳三は会津・仙台へと移動し新撰組は分裂するが榎本武揚率いる旧幕府軍と合流。奥羽越列藩同盟の軍儀に参加、同盟軍総督に推薦されたが崩壊し、同盟藩は次々と新政府軍に屈服した。その後、新撰組生き残り隊士に桑名藩士を加えて太江丸に乗船し、榎本武揚らと蝦夷地に渡った。
函館五稜郭では「蝦夷共和国」が成立、歳三は陸軍奉行並となる。
明治2年5月11日、新政府軍の函館総攻撃が始まり、弁天台場が包囲され孤立したため、籠城戦を嫌い僅かな兵を率いた。歳三は馬上で指揮を執っていた乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬し絶命した。享年35。
この函館戦争では丸亀藩士土肥七助も参戦したうわさもあるが定かではない。
辞世の句「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ」
「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちぬとも魂は東の君やまもらん」
墓所は 1. 東京都日野市石田 石田寺
2. 函館市船見町 称名寺
3. 会津若松氏東山町 天寧寺
4. 東京都北区滝野川 寿徳寺
5. 東京都荒川区南千住 円通寺
写真が入らず残念。
では、この辺で、次回を楽しみに待ってて じゃ~またネ。