故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

大日本沿海輿地全図の完成、その時伊能忠敬は

2013年07月10日 09時51分20秒 | 歴史

昨日は歯科に行って虫歯治療を、銀歯詰めをして帰ったんだけど、食べるたびに傷みが。歯医者では「なれると思います。しばらく様子をみてください」と。 ん~ 本当かなぁ~ 忍々、耐えるのみかなぁ。 今朝は1時間半の歩きをして、帰宅後は約1時間の草抜きを。終わればシャワーを浴びてサッパリと。

 

今日は『大日本沿海輿地全図』が完成し幕府に献上した日。文政4年(1821)7月10日の事である。      『大日本沿海輿地全図』の作成は、江戸幕府の事業として測量が行われたものであるが、上総国出身で商人だった伊能忠敬が隠居後に幕府天文方の高橋至時に師事し、本格的に開始した。伊能忠敬は、私財を投じて、寛政12年(1800)から第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始。各地の測量には幕府の許可を要した。幕府は測量を許可したばかかりか全国各藩に伊能への協力を命じた。これは、その時点で西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになっており、国防上の観点から幕府も全国沿岸地図を必要とし、伊能の事業を有益と判断したため である。 蝦夷地測量の翌年の享和元年(1801)には、本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。文化元年(1804)には、東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉の上覧に供えた。  現在の計測値と比べても誤差の少ないものとなっていて、それまでの日本地図とは異なり、実測による正確・精密な地図の質の高さに幕府も驚き、その後の測量事業への支援を強化した。伊能忠敬らは文化13年(1816)の第10次測量まで(第9次測量には参加せず)日本全土を歩測した。伊能忠敬は文化15年(1818)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師・高橋至時の子である高橋景保が仕上げ作業を監督し、文政4年の今日「大日本沿海輿地全図」が完成し幕府へ提出した。   って事で、今日はこの辺で。じゃ~またネ