故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

須の土佐藩砲台跡

2013年09月30日 18時50分40秒 | 幕末史

今朝は目覚まし時計に起こされた。5時10分にセットしてあるが、それより前に目が覚めるので鳴ったことはなかった。久しぶりに目覚ましによる起床。でも起きてすぐに歩いたから何時も通り1時間は歩いた。

土曜日の須に行った。幕末に土佐藩は海岸防備のために砲台を築いたが、この須にも東・中・西の砲台が文久3年に完成。ここ西砲台は大砲薬室庫と共に7門が備えられていた。今は西浜公園として保存されて国の史跡に指定されている。龍馬も入港した時に伏見の寺田屋お登勢に無事を手紙で送っている。

 

ここでは銀杏の木があって地元の人が銀杏の実を拾っていた。私にお土産にと袋に入れてくれた遠慮なく戴くと、レシピまで教えてくれた。有難いなぁ~ 

 

その後、八幡山明星院大善寺にお参りした。急な階段を上って。本堂はこじんまりと。

 

市内を一望。太平洋も

 

二つ石大師。

 

須市内をのんびりとゆっくりと歩いて見学を。 いい感じの柳屋旅館。

 

帰りは武市半平太の像を見て帰った。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


須崎の坂本龍馬首切り地蔵

2013年09月29日 19時05分29秒 | 幕末史

昨日は寒いと感じ、今日は暑いと感じた。この時期は衣装選びに難しい。今朝の歩きでは寒かろうと長袖のポロで歩いたら汗が流れてきた。歩きの時間は1時間半程。帰宅後朝食を済ませて、高知県須崎市へ。そこで訪問した先が発生寺というお寺。

 

ここに「坂本龍馬首切り地蔵」がある。幕末時の住職、智隆和尚は勤王の志厚く、近隣の志士である郷士や庄屋たちの密会の場所であった。龍馬が2度目に訪れたとき熱論となって境内に安置されていた石仏地蔵を木刀で打ち落したのがこの地蔵である。(説明板による)

 

その地蔵供養のために城山から取ってきた松の木を植えたと伝えられる。松の木が枯れるたびに有志が植え替え今あるのは4代目だという。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


かあさん定食・おひるや

2013年09月27日 18時08分03秒 | 日記

今朝は寒くなるとの予報だったので、長袖のポロシャツを着て歩きに出た。思ったよりも寒くはなく快適に歩けた。秋だものね。

 

今日のお昼は丸亀市川西町の『かあさん定食・おひるや』に。11時半のオープンなので11時33分に店に入った。

 

店の中はこんな感じ。テーブルが3つで14席、カウンターが5席でお店は、女将さんが一人でやっている。だから早めの入店を。

 

メニューは全定食680円で単品と好きな2品を入れる盛り合せ定食。その他カレーライス。私はひとくちカツとエビフライ2品の定食を。

 

残念ながら写真が写っていなかった。野菜も多く・ご飯も大盛り・ボリュームたっぷりでお腹はイッパイ。しばらく動けないほどだった。  って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


三谷三郎池

2013年09月26日 18時34分18秒 | 日記

昨日の予報では気温が下がるとの予報だった。で、今日は最低気温が21度。朝の歩きは汗が出るほどだった。でも、しかし夕方の5時半の温度は23度と肌寒いと感じた。 明日の仕事は半袖でなく長袖を用意することに。今の時分は服装に悩む時期だ。朝が寒いと感じても昼間は暑くて汗が出るような時もある。だから風邪を引いて鼻をズルズルしている人も職場ではチラホラ。気をつけないとネ

ブラブラのドライブに立ち寄った高松市三谷町の「三谷三郎池」。この池は寛永5年(1628)生駒高俊の時代に、西嶋八兵近衛によって築造された。高松市の三谷町・上林町・林町・六条町・川島本町・由良町・木太町の田畑450ヘクタールに送られている。

 

昭和初期まで300余年の間は木造りの閘木であった。これは三郎池築造時から使われていた閘木が中にある、保存塔。

 

三谷三郎池の蛇。伝説の内容は?

 

池の周りは小運動に最適なハイキングコースになっている。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


住職を捨てて勤王活動をした美馬君田

2013年09月25日 12時06分09秒 | 幕末史

今朝は中々起きられず目が覚めたのが5時10分だった。だから、歩き始めたのが5時半、帰宅が6時半だったから、調度1時間の歩きだった。

 

今日は阿波より讃岐に来て活躍した『美馬君田』の紹介を。君田が生まれたのが文化9年(1812)3月15日。場所は美馬重清村谷口(現在の徳島県美馬市美馬町重清谷口)。父は鎌田治兵衛門。 名を援造といった。 誕生地の碑。

 

文政6年3月の時、願勝寺に入り僧となり、天保4年には第44世住職となる。が天保14年に寺を弟子に譲り隠居する。写真は君田社祀と昭和6年に建てられた君田翁之碑である。

 

隠居した君田は琴平で寺子屋を開き勤王討幕を図る。この頃から日柳燕石と常に行動を共にする。この写真は君田の塾に揚げられていたものである。

 

安政元年、姓を美馬とする。慶応元年閏5月に高杉晋作の讃岐潜入事件に連座して牢獄に4ヶ年入り、慶応4年1月に燕石と共に出獄する。その後は、燕石とは離れ琴平小学校の校長として子弟の教育に挺身する。 明治7年7月27日琴平でその一生を終える。琴平町内の君田の墓。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ