故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

明治天皇が崩御した日

2013年07月30日 18時08分28秒 | 歴史

今朝は、4時40分ごろに外に出てみると細い雨が降り出した。歩きは無理かと思ったが家の中に入り、準備して外に出ると雨は止んでいた。傘を持って歩きに出たのが5時を少し廻った頃。丸亀城まで行き、違った道で帰る途中の畑の中。綺麗な蓮の花が咲いている。

 

近寄って見る。

 

栽培している人がいたので少しだけ話を。連作はダメとか、写真をよく撮りにくる。花だけを切って持って帰る人もいて困るとも。花を途中で切ってしまうと、そこから腐って その苗はもうダメだとか。警察にも届はだしているとか。 泥棒さん、黙って持って帰るのは止めようネ。 結局、傘は必要なかったが、帰宅後に雨は降り出し出勤時には傘が必要となった。             それで今日は、明治天皇が崩御した日だ。

明治天皇は幕末の動乱期に即位した。薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。次第に討幕派が優勢になり、将軍・徳川慶喜が慶応3年10月15日(1867)に大政奉還行い、明治天皇はこれを勅許した。だが徳川幕府の統治機能は存続したため、対抗策として討幕派は12月9日(1868)に王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言。反発した旧幕府勢力と明治元年(1868)正月に京都南郊で軍事衝突した。鳥羽・伏見の戦いである。勝利した新政府軍は旧幕府勢力を「朝敵」・「賊軍」とし、明治2年にかけての戊辰戦争を経て、徳川幕府の時代は終わった。  江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改められた。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869)に再び東京に移り、そのまま東京に居住した。 明治2年6月17日には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなり、明治4年7月14日に廃藩置県を断行した。また、明治3年正月3日に神道の国教化と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉具視や大久保利通らは、天皇を主体的君主として育成するため、宮廷改革も行なった。  明治45年(1912)7月30日122代明治天皇は崩御した。 倒幕・攘夷派の象徴・旗印として、また近代日本の指導者と仰がれた。明治大帝とも呼ばれた。   って事で今日はこの辺で、じゃ~またネ



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