故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

禁門の変と近隣のイベント

2013年07月19日 07時34分35秒 | 幕末史

今朝の歩きは5時15分からの1時間と少し。 6時半になると時間が気になる。シャワーを浴びて、朝ご飯を食べて、新聞を斜め読みして、それからあれこれ。

明日の近隣のイベント。丸亀市飯山町の飯山北コミュニティセンターで「桃喰うまつり」がある。桃の早喰い選手権・桃の種飛ばし選手権が、21日の日曜日にはJA坂本撰果場・桃直売所で試食・販売コーナーも。

 

また、丸亀市郡家町の神野神社内の由賀神社では夏祭りが、これは観光化した祭でなくて昔からの豊穣を願った祭です。20日6時からは冷やしうどんの無料食い放題もある。

 

今日は何の日で、禁門の変が起こった日である。元治元年(1864)7月19日の事である。蛤御門の変・元治の変・元治甲子の変ともいわれる。  京都政局を主導していた長州藩は、文久3年(1863)会津藩と薩摩藩らによる八月十八日の政変の結果、藩兵は京都を追放、藩主親子の毛利敬親と毛利定広は国許へ謹慎を命じられ政治的な主導権を失った。京都や大坂に潜伏していた長州尊攘派の志士は、回復を目指していた。各地の尊攘派の間でも長州藩の京都政局復帰を望む声が高まっていった。長州藩内でも、事態打開のため京都に乗り込もうと積極策が論じられた。積極策を主張した中心人物は来島又兵衛、真木保臣。桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞らは慎重な姿勢を主張した。池田屋事件の変報が長州に届くと、慎重派の周布政之助・高杉晋作・宍戸真澂らは藩論の沈静化に努めるが、福原元・益田親施・国司親相ら家老の積極派は、挙兵を決意する。6月24日、久坂玄瑞は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉った。薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾市郎平、久留米藩士大塚敬介らは、長州藩兵の入京を阻止するとの連署の意見書を提出する。朝廷内部は強硬派と宥和派が対立、18日夜には有栖川宮幟仁・熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。が、会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。久坂玄瑞は朝廷の退去命令に従おうとしたが、来島又兵衛・真木保臣に押され挙兵してしまう。19日、京都蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突し、戦闘となった。一時長州勢は京都御所内に侵入したが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転し敗退。御所内で来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らは自害した。   って事で今から出勤します、なので今日はこの辺で。じゃ~またネ