故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

坂出塩田跡の碑

2014年01月25日 17時27分23秒 | 歴史

今朝は昨日と比べて暖かいと思った。何時ものように5時に起きて5時半に家を出て北へ北へと歩き丸亀城を1周すると、調度6時半のラジオ体操の時間、付近には20人位がそれぞれ勝手に体を動かしている。第一体操と第二体操をすると6時40分。それから路地や農道・畦道を歩きながら帰宅。途中で同級生に会って話をしてたから帰宅は7時40分になっていた。午前中は畑をして、午後は丸亀市生涯学習センターの講習会に参加。終わった後はミキばーちゃんを迎えに坂出まで。これは坂出市にある『塩田跡記念碑』。

 

この辺り昔は、日本一の製塩地で塩田が広がっていた所。裏に廻って見ると、塩の町の歴史が。この辺りは慶長年間に海浜を埋め立てての製塩法を始めたとある。文政7年(1824)久米栄左衛門通賢は高松藩の財政を救おうとして藩主松平頼恕に建白し、塩田を造成した。やがて、塩田面積は115町6反の入浜式塩田を開いた。その塩田は昭和20年代に流下式塩田に改造したが、急激な社会情勢の推移により昭和47年に塩田による製塩方法は廃止され、栄光の歴史を閉じた。私の子供時代には坂出・宇多津の海岸には流下式塩田の竹のようなものが並んでいたように思う。その塩田跡は、今はホテルや商業地、また、倉庫街・工場地帯と変わっている。  って事で今日は塩田の話を。もうすぐ雨になるのか、曇って今にも降りそうだ。じゃ~またネ


寒い朝とコメダの珈琲店

2014年01月24日 18時43分57秒 | 日記

今朝も5時に起きた、歩きは5時15分から東へ東へと。讃岐富士登山口まで、帰りに知人と会い立ち話。すると知人の勧めで家の中に、そこは土間で何と薪ストーブが\(◎o◎)/!珍しいなぁ~。しばらくすると身体はポカポカと温まり、珈琲を勧められたり、気持ちは帰るのがオックウになっていた。こんなに温もるなんて良いもんだ。しかし気を引き締めて寒い中、帰路に。明るくなってきたら、今日は大霜だと分り、パチリと。田んぼも真っ白、ブロッコリーなどの野菜も真っ白、空豆の苗も冷たそうだ。

 

少し時間が経つと気温は上昇、暖かくなってきた。すると、ミキばーちゃんが天満屋ハッピータウンが明日で閉店するから行こうと。結局は運転手で善通寺市まで。この店もよく来たものだがこれが最後。入り口には黄色い張り紙がイッパイ張られて明日の閉店を知らせている。

 

中に入ると、店内はガラーンとしていてフードショップや宮脇書店はすでに無くなっている。商品も在庫限りの販売だから、少なくてお気に入りの服などはほとんどなかった。

昼頃になると物凄くいい天気、3月の気温だとか。では、ではと午後はお出かけ。高松市林町にある県立図書館へお調べもの。こんないい天気なのに何処か行くところはなかったのかと後で少々後悔。帰りには以前から気になっていた「コメダの珈琲」に。

 

中はこんな感じ。

 

おすすめメニューと普通のメニュー。

 

注文したのはアメリカンコーヒー400円。周りの人はみんな何かを食べているからと、ミックストースト550円。合わせて950円。コーヒーやトーストの写真は撮り忘れたのでメニューでみて下さい。 おかげで夕食は控えめにしたつもりでも、腹回りが苦しい。・・・(笑)    って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


四国の最北端へ

2014年01月23日 12時01分44秒 | 日記

今朝は5時起き。6時前より懐中電灯を持ち、腕には反射シールの腕章をつけて、7時半過ぎまでの約1時間40分の歩き、歩数計は11,000歩余りだった。昨日は四国最北端の竹居岬に行ってきた。観音崎・竹居観音寺の看板を下りて行く。

 

急な下り坂を下りて、突き当りに四国最北端・竹居岬のこんなものが。

 

ここ、観音崎(竹居岬)は、生駒親正が高松城の築城にあたり、城の鬼門の守り神として馬頭観世音菩薩を祀ったとも、その後高松城に入った松平頼重が寛永年間に馬頭観世音菩薩像を祀ったともいわれている。(案内板より)本堂にお参りして海沿いを進む。

 

途中、こんなところを見ながら進む。

 

一番奥に、自然に出来た岩窟。

 

同じ香川県に住んでいながら、全く知らなかった場所だった。これからも一人ドライブや夫婦ドライブ・仲間ドライブで、色んなところを探してみようと・・・。

って事で、今日はいい天気。午後からは何処かへ出かけようと。では、じゃ~またネ


久しぶりの温泉に

2014年01月20日 17時42分05秒 | 日記

 

今朝は少しお寝坊だった、起きたのは5時40分、でも朝ご飯を食べないから6時前には歩きに出かけた。 ギリギリで丸亀城のラジオ体操に間に合った。体操を終え城内を1周。御殿門前から月を眺めて。まだ暗い。

その後は陸上競技場方面へ。新しい丸亀警察署の工事も始まっている

帰宅は7時40分だった。昼からはホントに久しぶりに温泉に入ってきた。高松市国分寺町福家にある「かざし温泉」に。割引券があったので440円で入浴。ここは、男性は2階、女性は3階となり休憩室は1階に。浴室には大勢の人が入っていたが、休憩室には誰も見えない。一人で入ったものの落ち着かなくて早々に出てしまった。

朝、晴れていたのに午後になると曇って、今にも雨が降りそうになってきた。今6時、とうとう雨が降ってきた。

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


ペリー再来航の日

2014年01月16日 18時31分05秒 | 幕末史

今朝は5時40分から歩いた。今日も風は無風状態、でも昨日と同じ霜がおりて冷たい、これで風が強ければ歩いてないかも?金倉寺から金蔵寺駅あたりまで、約2時間の歩きだった。

 

今日はペリー再来航の日だ。

 

ペリーの黒船来航は嘉永6年6月3日(1853)に浦賀沖に現れ日本人を驚かせた。それまでに見たロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは全く違う黒塗りの船体の外輪船。帆以外に外輪と蒸気機関でも航行できる帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突から煙を上げていた。再来航を宣言し、日本を去ったペリー提督は、 宣言よりも早い安政元年の今日再来航してきた。安政元年(1854)1月16日伊豆沖に現れたのである。

軍艦7隻を率い 今度の艦隊は、前年よりも規模が大きく七隻の艦船が組まれて、三隻は蒸気船、四隻は帆船であった。江戸湾に入ったペリー艦隊はそのまま羽田沖まで進行して日本側を威圧した。幕府は寂れた横浜という漁村を交渉の場にした。幕府側は、林大学頭、町奉行・井戸覚弘、浦賀奉行・伊沢政義、目付・鵜殿長鋭の四名である。交渉は2月10日から10日間に渡り、4回の会議に及んだ。そして3月3日に日米和親条約が締結された。

  十二箇条の主な条約内容は、

  ○下田・箱館の開港と薪水・食糧の供給

  ○両港における遊歩区域の設定

  ○外交官の下田駐在許可

  ○最恵国約款の承認などで一方的な米国の要求を呑む形で決まり、いわゆる不平等条約であった。

また、明治12年1月16日福澤諭吉が東京府会副議長に選ばれたらしい。でも福沢はこれを辞退している。

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ