故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

大隈重信が第8代内閣総理大臣に任命と粟島へ

2013年06月30日 06時38分30秒 | 歴史

今朝の歩きは少しだけ。何故かというと、高知まで友人とお出かけするのだ。   私等が若い頃は3時間以上かかっていたのだが、高速道路が発達した現在は半分の1時間半弱で行けるようになった。

なので、今日も瀬戸芸の島、粟島からの第2弾を。港に降りて昼食場所の「ル・ポール粟島」へ。出迎えてくれたのはコレ! 『ここがル・ポール粟島だ~~~、何か食べる??』

 

外観はこんな感じの宿泊施設。

 

島には他にも宿泊施設はあるが、ほとんどがこの様な民宿だと。これは「宿いせや」

 

中に入るとすぐにフロントが。

 

かまわず進むとレストランに。この若い女の子が食事を運んでくれる。お客さんは、老人夫婦と、工事作業員風の男性5人、瀬戸芸の準備関係の若い女性3人と私たち。

 

で、注文は「スジ煮込み定食」コーヒー付きで750円だった。瀬戸内の島での食事だけど、魚介類は全くなし、予約すれば良いのかも?    魚料理なら民宿の方が良いのかもと?思ったけど。   まぁ味は〇だったかなと。でも食後のコーヒーはセルフのホットコーヒーにしたのだが、ホットでなくてぬるま湯コーヒーで感想は不味い。

 

不味いコーヒーの後味を消すために緩やかな山越えをして西浜海水浴場へ。もちろん今は誰もいない。

 

反対側を見ればこんな感じに。この粟島には他にも遠浅の海水浴場があるみたい。

 

まだまだ粟島については続編があるけど、また今度。今日は大隈重信が内閣総理大臣になった日だ。

第1次大隈内閣は、前外務大臣兼農商務大臣の大隈重信が第8代内閣総理大臣に任命された。明治31年6月30日から同年11月8日まで続き在職期間は132日間である。 与党となった憲政党のうち、旧進歩党系の大隈重信を首相に、旧自由党系の板垣退助を特に内務大臣に迎えて組織したため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣ともいう。   当時衆議院第一党であった憲政党の首班大隈重信と板垣退助に大命が降下して組閣された。首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠くが、軍部大臣以外を政党人によってかためたという点では、日本史上初の政党内閣であった。当時の制度上、軍部大臣は将官以外就任できなかった。また、爵位を持つ者には衆議院議員の被選挙権がなく、大隈は維新以来の功労で伯爵となっていたため衆議院議員に立候補できなかった。憲政党の分裂騒ぎもあり、組閣後4ヶ月余りで総辞職となった。

 

って事で。今から高知まで行ってきます。だからこの辺で、じゃ~またネ


瀬戸内芸術祭の粟島へ

2013年06月29日 08時31分02秒 | 日記

今朝は起きるのが何時もより少しだけ遅かった。だからって事もないけど、歩き始めたのが5時10分だった。ほんの10分位遅くなっただけだけど。 今日は土曜だから車の通行量も少ないと思い7時半頃まで歩いてみた。 行先は丸亀市と宇多津町にまたがる青野山(224m)の麓まで。まだ仕事をしていた時はこの辺の道はよく通っていたものだが、久しぶりに歩いてみると田んぼが少なくなって団地になり、商店がカラオケスナックになっていたり、ずいぶんと様変わりしていた。 今日は陽が射してきたからか暑くて汗が流れるほどの歩きだった。

昨日は秋の瀬戸内芸術祭の会場のひとつ、粟島へ行ってきた。詫間町の須田港から10時45分にこの船に乗って、約15分で粟島に着く。320円だったかな。 粟島汽船㈱の『あしま』の出航

 

港に着くと、やはりこんなものが! 

 

亀に乗った浦島太郎の絵があり、屋上には竜宮城のような建物が迎えてくれる。

 

ピンコロ地蔵=百になってもピンピンと??? いつまでも元気で?  フフフッツ(笑)

 

先ずは粟島ガイドマップを見て。  さ~ぁ何処へ行こうかなぁ~ 

 

近日中には粟島の案内を、お楽しみに!!

明日の30日は、山北八幡神社で「夏越の大祓茅輪くぐり」というのがある。半年に1度の心身清浄を図る全国的な神事らしい。午後3時からとの事である。

 

って事で、今日は例会があるのでこの辺で。じゃ~またネ


瀬戸内芸術祭の粟島へ

2013年06月29日 08時31分02秒 | 日記

今朝は起きるのが何時もより少しだけ遅かった。だからって事もないけど、歩き始めたのが5時10分だった。ほんの10分位遅くなっただけだけど。 今日は土曜だから車の通行量も少ないと思い7時半頃まで歩いてみた。 行先は丸亀市と宇多津町にまたがる青野山(224m)の麓まで。まだ仕事をしていた時はこの辺の道はよく通っていたものだが、久しぶりに歩いてみると田んぼが少なくなって団地になり、商店がカラオケスナックになっていたり、ずいぶんと様変わりしていた。 今日は陽が射してきたからか暑くて汗が流れるほどの歩きだった。

昨日は秋の瀬戸内芸術祭の会場のひとつ、粟島へ行ってきた。詫間町の須田港から10時45分にこの船に乗って、約15分で粟島に着く。320円だったかな。 粟島汽船㈱の『あしま』の出航

 

港に着くと、やはりこんなものが! 

 

亀に乗った浦島太郎の絵があり、屋上には竜宮城のような建物が迎えてくれる。

 

ピンコロ地蔵=百になってもピンピンと??? いつまでも元気で?  フフフッツ(笑)

 

先ずは粟島ガイドマップを見て。  さ~ぁ何処へ行こうかなぁ~ 

 

近日中には粟島の案内を、お楽しみに!!

明日の30日、山北八幡神社で「夏越の大祓茅輪くぐり」というのがある。半年に1度の心身清浄を図る全国的な神事らしい。午後3時からとの事である。

 

って事で、今日は例会があるのでこの辺で。じゃ~またネ


善通寺市の宮池と新羅神社

2013年06月28日 08時45分41秒 | 日記

今朝も4時半起きの5時から歩きになった。天気は曇り空。 朝早くから朝顔は元気、私も元気をもらって出発。

 

ここは善通寺市木徳町松浦にある宮池、この「宮池」って名の着く池はたくさんある。ほとんどが近くに神社がある。丸亀市にも郡家町・土器町に。 ここは宮池水辺公園として整備されていて散歩のコースにも調度良い。

 

以前紹介した善通寺市稲木町の前池に生息している天然記念物のオニバスが、この宮池でも「宮池オニバス復活プロジェクト」として地域でこのように活動している。

 

宮池の北側には新羅神社がある。ほとんどの建物が新しく見える。明治12年に火災で焼失し再建、平成11年にも不審火にあって炎上した。その後平成13年に再度建てたとの事である。 拝殿を。

 

この神社は仁和3年(887)智証大師が薬師如来を本尊とし金林寺の鎮守とした。神仏混淆の神社であったが、明治政府の神仏混淆を禁ずる廃仏毀釈の令により、金林寺は廃止され新羅神社の祭神のみが跡に残る。本殿も。

 

今朝の歩きも2時間余り。ポツリポツリと少しだけど雨にもあったが。    今日は秋の瀬戸内芸術祭会場の粟島へ行く予定なので、この辺で。粟島については後日の報告となります。どんな出会いがあるか楽しみ。じゃ~またネ


朝の歩きで発見!鶏鳴学館

2013年06月27日 11時38分17秒 | 日記

今朝も4時半起きの5時から歩きになった。曇り空の中、西へ西へと歩き、途中から気分が変わり北へ北へと変更。予定なしの気まぐれ男が行き当たりばったりの歩きに。 途中雨がポツリポツリと降ってきた、西の空を見ると雲がきれて明るくなっていた。 少しの間、バス乗り場の中で雨宿りをした。  ここは丸亀市南条町の外堀跡に建つ碑。「鶏鳴学館顕彰之碑」とある。

 

何の事かと丸亀市社会福祉協議会のHPを見るとこんなものがあった。  

 

明治36年(1903)10月、福島町遍照庵(現新浜町)の住職、蓮井麗厳によって鶏鳴学館は家庭の経済力ゆえに小学校を卒業できないまま家業や実業に就いている勤労青少年に、学業を教えることを目的として創立された。 修業年限は予科・本科・補習科とも各1か年で、学科は修身・読書・作文・習字・算術の5科目、授業時間は毎朝午前4時から5時30分までの早朝である。鶏鳴学館の名は、この早朝授業に由来されている。予科の入学資格は小学校4年以下で中途退学した者、本科は小学校5・6年で中途退学又は予科を卒業した者、補習科は高等小学校又は本科を卒業した者を受け入れた。年齢・職業ともまちまちであるが年長者がよく年少者の面倒をみ、共学共励の校風が培われた。明治43年内務省が模範的な改良事績として顕彰した事例の中に鶏鳴学館の名が挙げられている。それは児童たちが早朝の4時までに登校しなければならないため、家族の安眠を気遣って、児童の手足に細紐を結わえて紐の端を戸外に出しておくと、毎朝、班長や当番の者が迎えに来てその紐を引っ張って起こし、周囲の安眠を妨げずに目覚ましの合図とし、誘いあって登校したという逸話が残っている。創立時、蓮井麗厳に協力したのは、松田芳宙、桜井求吉、渡辺豊、小島信三郎、松田藤三郎などであり、初代の館主に長谷川和愛、館長に吉田喜代治が迎えられた。のち大正2年(1913)蓮井麗厳が館長となり、その死後は渡辺豊が継いだ。なお大正3年に「子守学園」を付設し、同4年には感化慈善・公益事業を目的とする財団法人に改め、同12年通町に、更に同14年1月、南条町に移転した。昭和34年、財団法人鶏鳴学館(理事長藤田協)より社会福祉法人丸亀市社会福祉協議会に土地、建物が寄贈された。その後、昭和54年に社会福祉センターとして新築され、平成21年3 月に城乾コミュニティセンターとして建て替えられ、城乾地区住民の地域活動の拠点として活用されている。

『仕事をする子どもに勉強を教えた鶏鳴学館(明治36年開設)』

 

すぐ南側には「北向き地蔵様」が、ここは昔からお参りしている人が多い。願い事を叶えてもらえるお地蔵様だそうだ。 わが身に何かあれば頼りたくなる心境は誰もあるからなぁ~。

 

その後もウロウロしながらの歩き。時間は2時間と少しだったけど、雨宿りの時間があったから11,489歩だった。 朝のうちに買い物に行きたいからとミキばーちゃん。スーパーまでの運転手だ。でも、そのスーパーで随分久しぶり、24・5年になるだろうか、昔に勤めていた会社で働いていた人に会った。お互いに年は取ったが、懐かしさに長く話をした。

 

午後には先輩とのティタイムの予定があるので、今日はこの辺で。じゃ~またネ