いい天気の昨日。仁尾町(現在は三豊市仁尾町)の「仁尾八朔人形まつりに行ってきました。
この八朔人形まつりの云われは、この地の領主であった細川頼弘が仁尾城を築き仁尾の町を発展させたという。
で。これがその仁尾城跡で現在は覚城院というお寺になっている。如何にもお城であったように見える。
その後、天正7年(1579)3月3日土佐の長曽我部元親の侵攻を受け落城となる。それ以後城主の命日にひな祭りは行わず、八朔の男の子の節句と一緒に女の子の節句を祝うようになったとか?その後いつからか元気な子供の成長を願って屋敷の一角に舞台を設け石・砂・コケ・松等で山川渓谷のミニチュアを作り、武者人形や古くから知られている名場面を再現する風習ができあがった。この町には伝統人形作りの業者が数件あり寄与したものと思う。初節句の家では工夫を凝らし技を競って人形飾りをしたという。盛んに行われてきた風習も、核家族化となるにつれ、すたれて全く見慣れなくなっていたが、仁尾町商工会の有志が中心となり平成10年「仁尾八朔人形まつり」として復活したものである。(内容は八朔まつり実行委員会のパンフレットより参考)
これがその飾りの一枚
中央下には鯛やお菓子等を飾っているがこの鯛も昔は団子で作っていた。でもこれは砂糖である。
右の馬は拡大すると
である。この団子馬は私の住んでいる丸亀でも男の子が生まれると節句には必ず作り飾られ、最後には切って近所に配られたものだ。(実はあまり美味しくはなかった。米の粉を蒸かした団子はあまり好きでなかったなぁ。私の実家でもまだ団子馬の骨組はあると思うのだが?)
私の住む町の言い伝えには昔、丸亀藩士で曲垣平九郎という馬術家がいた。あるとき3代将軍徳川家光が芝増上寺へ参拝した帰りに愛宕山の下を通りかかった時、山上に梅の花が美しく咲き誇っていた。家光は籠を止めて「誰か上の梅花を折ってくる来るものはおらぬか?」と行列の供に命じた。しかし険しい石段に馬の方がおじけつき途中で人馬ともども転落の始末。その時に行列の中から進みでたのが丸亀藩馬術指南の平九郎で。一気に石段を駆け上がり梅を一枝折って山上より見せたのである。家光は喜び手を振り平九郎を褒めたが、平九郎はそのまま降りるよう命じられらと勘違いし、下るときも馬に乗ったまま梅の枝を持ち下山したのである。家光は更に絶賛し平九郎を褒め称えたという。そんな、平九郎の武勇を偲び八朔の日にはだんご馬を作り子供の行く末を念じたと。これは我が亡き父が生前よく話をしていたことである。
人形まつり付近は道路が狭く駐車場もなく、見学者駐車場が設けられていた。見学が終り送迎バスで駐車場へ。とその時お連れさんのおばちゃんの一人が「タコ番ってこの近くじゃなかった」ってことで小前というお店に、以前は大変込み合っていて長蛇の列を作っていたのだが、今日はガラスキ。お持ち帰り用にしてもらい海岸の木蔭で食した。タコ玉番120円也 今日のお昼は安く上がったね。
ってことでその後は荘内半島1周のドライブで帰途につきました。 近郊の人は今日までだから見学してみては? じゃ~またネ。