故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

駐車場で稲苗を

2013年05月31日 08時38分40秒 | 日記

今朝も毎度のことで4時前に目が覚めた。5時前より歩き出して、県内唯一の一級河川土器川へ。川の中の遊歩道を歩こうと思ったら、野良犬がたくさんいる。犬が大の苦手の私、仕方なく土手の上を歩いた。しばらく歩くと丸亀市立城東小学校に。 「 あいさつ 返事 正しいことばづかい 」 どこの学校にもよく似た言葉を書いているけど、小さい子供の頃からの教えで身に着けばいいね。 私たち大人でも その時その時の気分・気持ちで あいさつも上手くできなかったり、相手に嫌な思いをさせたりするんだよね。 気をつけないと。 

 

この辺まで来ると犬の姿はない。横の土器川に降りてみた。手作りの「こいのぼり」が対岸まで並んでいる。今朝は全くの無風状態だからこの通り、ぶら下がりの鯉のぼりって感じ。  子供の日は終わったけど頑張ってヨ。

 

その下には帽子をかぶった鯉だろうか? 微笑んでいるように見える。

 

旧土器農協の駐車場では、田植え用の稲苗が。最近はこんな苗を買って田植えをする人が増えたから。 丸亀地方ももうすぐ田植えが始まる。

 

その後は丸亀城を一周して帰宅時間は、7時15分であった。 最近、朝の歩きは日の出が早く日差しが強く、途中からは汗が出てくる。女性とすれ違っても顔も身体全体を防御してるからどんな人か分らない? でも、去年もそうだったが梅雨明けの頃から、朝の歩きから帰るとシャワーを浴びるように。 汗をイッパイかいた後のシャワーやお風呂って気持ちいいんだよね。 風呂の後の一杯がたまらなく美味いんだと。

そんなんで、今日は午前は坂出市での予定。午後は何処へ行くやら西・東ってところ。もうすぐ出発なのでこの辺で。じゃ~またネ


朝の歩きで 勤皇母子の墓をお参り

2013年05月30日 16時40分08秒 | 幕末史

今朝も目が覚めたのが4時前。すぐに起きてテレビのデーターを見ると曇りだと。梅雨に入ってから雨は殆ど降っていない。温度は4時半の温度は23度だった。 で、5時前から歩きだし塩屋町方面へ。この辺りはあまり歩いていないから、色んなものが新鮮に見える。 これは浄土真宗本願寺派の正宗寺。

 

このお寺の墓地に、高杉晋作を匿った丸亀の勤王家、村岡箏・宗四郎母子の墓がある。

 

貞靖は箏の号である。宗四郎の墓は傾いている。

 

高杉晋作は、愛人の「おうの」と従僕「民蔵」を連れて四国へ亡命してきた。慶応元年四月下旬の事である。馬関を出て道後温泉に七日間滞在、三津浜から船で多度津へ上陸した。(変名・備後屋助一郎)上陸した高杉は丸亀へ、丸亀で醤油醸造をしていた越後屋へ身を寄せたのである。越後屋は苗字帯刀を許された家柄であり、村岡家を名乗り母、箏子は円座の小橋安蔵、順二の勤皇一家の妹であり息子の宗四郎は伯父について漢学・歴史を学んだ勤皇家であった。葭町越後屋の蔵ではひそかに兵器を作り、地下の石室(八畳ほど)に隠していた。そこで高杉は丸亀の土肥大作ら同士と歓談をしている。ある日越後屋に潜伏していた晋作を倉敷の役人達が囲んだが、港まで人が通れるほどの下水道がありこの下水道から日柳燕石のいる琴平へ逃げている。 その後の晋作は長州へ帰り四境戦争の小倉口を戦い勝利するが、労咳のために27歳と8か月の短い人生を終える。燕石といえば高杉晋作を匿った罪で捕えられ獄へ。燕石は慶応4年になって出獄したが、その時すでに高杉はこの世の人でなかった。 また、宗四郎も捕えられ身体を束縛されて慶応3年に釈放されたが22歳の若さで亡くなっている。 この碑は、丸亀城の三の丸にある勤王碑である。丸亀の勤王の志士土肥大作と村岡宗四郎を顕彰した碑である。

またこのお寺には、法然上人櫂堀の井戸 というのがある。 承元元年(1207)に法然上人一行がこの地に上陸された時に、喉が乾きに真水を求めたが、海辺で、貰えなかった。その時、上人が乗って来た舟の櫂で砂浜を掘ると1mも掘らないうちに、真水が涌き出てきたという。 この井戸は、現在も絶えることなく真水が湧き出している。現在、正宗寺の事を「櫂掘(かいほり)さん」として親しまれているのは、こんな所以がある。この法然上人が使った「櫂」は、本堂で大切に保管されているとの事である。(井戸の写真は撮るのを忘れました)      って事で、今日はこの辺で。じゃ~またネ


久しぶりのドライブと食事

2013年05月29日 09時06分50秒 | グルメ

予報では朝まで雨になっていたが、5時前に外に出てみると降っていない。そのまま歩きに出た。今日は今津町という所まで、すると雨が降ってきた。5時前に外の確認に出たまま歩き出したもので、帽子も傘も持たずに出たのがここで気が付いた。どうしよう? 迎えに来てもらおうか? でもそれはダメだ、あいにく車は車検のために我が家にはないのだ。代車でもあればいいのだが、それも断っている。 しばらく濡れながら歩き、24時間スーパーで雨宿り。6時頃になったので諦めて帰ることに。 何のことは無い帰宅時にはチャント雨はあがっているんだから。気分は⤵ でも歩いた時間は1時間10分。8,495歩だった。

昨日は、先日に朝の歩きで久しぶりに会った友人と、約束のドライブに。行先は屋島・志度方面。そこで丁度昼食時間に寄ったお店。高松市三谷町の「はんなり茶房 こなから」外観はシンプルでこんな感じ。

 

中に入ると、カウンター席。

 

テーブル席。半個室でいい雰囲気。

 

座敷もあります。(写真はなし)  お昼のメニューを。

 

ランチの中から「はんなりなお弁当(限定30食)」というのを戴いた。900円で、プラス200円で珈琲とミニデザートが付いてくる。

 

見た目、男には少ないかなぁと思ったけど、充分で、静かに美味しく頂きました。創作料理って感じかな。そんなに急ぎ旅じゃないのでゆっくりと話を。 長尾にチョット寄り道して屋島へ。屋島寺からお土産店を通りブラブラと。風もあり曇っているので汗は出てこなかった。時々雨がパラパラと降ったが、傘を差すほどでなく調度いい日和かな。昔は屋島っていうと観光客が大勢いたのだが、今回は平日もあってか人影がまばらって感じ、少ないなぁ、寂しくなったね~。やはり有ったイイダコのおでんが。結局志度は時間の都合で取りやめ帰路に。

 

さて、今日は何処を散策しようか?西へ行こうか東にしようか?それとも北か南にか?気の向くままに行ってきます。          って事で、今日はこの辺で、じゃ~またネ


東禅寺事件のあった日

2013年05月28日 08時58分15秒 | 幕末史

高松地方気象台は昨日、四国地方が梅雨入りと発表した。平年より9日早いそうだ。これからの毎日ぐずついた天気が続きそう。 今朝は5時から傘を持って歩きに出た。途中でポロポロと雨が降ったり止んだりの天気。歩いている人も傘を持っている。

ここは丸亀津森郵便局前、「凡事徹底」とある。  当たり前のことを当たり前にやるのではなく、当たり前のことを人には真似できないほど一生懸命やるという意味らしいけど、これは四字熟語だな「本気」では中々思えないだろうけど、無理をしないで頑張ってネ

 

その後の田村池には 白鳥親子が。やはり今日も親鳥が子鳥を守っているようだ。 子供白鳥も大きくなったネ。

 

24時間スーパーの入口で、店内から出て来たオジサンはワンカップのお酒を一気に飲みほし2杯目はゆっくりと飲んでいた。朝の6時前だよ~ 私には判らない・・・。今日は短めの1時間ほどの歩きだった。

 

今日は東禅寺事件のあった日である。東禅寺事件は文久元年(1861)5月28日、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件である。また翌年の文久2年(1862)5月29日にも、東禅寺警備の松本藩士がイギリス兵2人を斬殺した事件があったので、この事件を「第一次東禅寺事件」と後の事件を「第二次東禅寺事件」と呼んでいる。

イギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に、5月28日午後10時頃、水戸藩脱藩の攘夷派浪士は東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した。外国奉行配下で公使館の警備に就いていた旗本や郡山藩士・西尾藩士らが応戦し、邸の内外で攘夷派浪士と戦闘し、双方が死傷者を出した。オールコックは危うく難を逃れた。攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗し逃走、討取られた者、捕縛された者。また逃げきれず切腹した者。逃走した者。浪士らはいずれも襲撃の趣意書を携帯しており、それには「尊攘の大義のため」実行した旨が記されていた。逃走した者はその後、坂下門外の変に参加し闘死したり、天誅組の変に参加した者もいるとか。事件後、オールコックは幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決した。

いよいよ梅雨に食中毒に気をつけて元気に夏を迎えよう。って事で今日はこの辺で、じゃ~またネ


河田小龍生家跡地と坂本龍馬記念館

2013年05月27日 14時55分59秒 | 幕末史

昨日に引き続き高知の幕末見学を。昨日の長岡謙吉の師匠で河田小龍は、文政7年(1824)10月25日、高知城下浦戸片町(現在の高知市南はりまや町)水天宮下、御船方の軽格の藩士、土生玉助維恒の長男に生まれる。祖父の川田金衛門の生家河田家を継ぎ川田姓を名乗る(のち河田姓に)。

 

この場所が生家跡地で墨雲洞があった所。

 

幼少のころより島本蘭渓に画を学び、16歳のころ藩儒学者岡本寧浦の門下に入る。弘化元年(1844)、吉田東洋に従い京に遊学、京狩野家九代目の狩野永岳に師事する。ここで才能を認められた小龍は、嘉永元年(1848)多くの兄弟子たちがいるにも関わらず、京都二条城の襖絵修復に抜擢された。その後長崎で蘭学を学び、高知に戻った小龍は、自宅に画塾「墨雲洞」を開き、下級武士や町民たちを相手に絵や学問を教え始めた。この墨雲洞は、世の中の動きや日本の将来についての議論を交わす場ともなった。墨雲洞の塾生の中には、後に亀山社中や海援隊に参加することになる長岡謙吉や近藤長次郎、新宮馬之助、岡崎参三郎等がいた。尚、近藤長次郎は小龍の妻の甥である。  この絵は河田小龍が書いた絵で、我々がここで食事をするので「得月楼」の主人がわざわざ床にかけてくれたものである。

 

嘉永5年(1852)、米国より10年ぶりに帰国した中浜万次郎の取り調べに当たった。土佐藩の許可を得て、万次郎を自宅に寄宿させ、起居を共にしながら毎日役所に出頭させるなかで、万次郎に読み書きを教えながら(万次郎は日本語が分らなかった。日本で教育は受けていなかったし、10年という歳月が日本語を忘れさせていたのだろうか?)小龍も万次郎より英語を学び、お互いの友情を感じるまでとなった。万次郎から聞かされるアメリカの発展ぶり(鉄道、蒸気船、モールス信号、選挙制度など)に興奮し、万次郎が語る鎖国日本の現状、そして海外思想や世界情勢を知り、漂巽紀畧五巻を書き上げて藩主に献上した。そして同書が江戸に持ち込まれ、諸大名間で評判になると、万次郎は幕府直参として取り立てられることとなった。また、かねて親交のあった藩御用格医師・岡上樹庵の妻が、坂本龍馬の姉・乙女であったことから、小龍は外国の大船を買い同志を乗せ人・荷物を積み海洋に乗り出し、「『貿易』によって異国に追いつく事」が日本のとるべき道だと龍馬に説いた。龍馬は小龍の話に大いに感化されたと。明治31年(1898年)12月19日没。享年75。      

その後は、桂浜へ行き龍馬の像をバックに記念写真。そして、高知県立坂本龍馬記念館へ。

 

記念館前では龍馬像が「心をつなごう シェイクハンドぜよ!!」と握手を。 大勢の人と握手してるので龍馬さんの手は色が剥げて黄色く変わっていた。  館長さんの話では、これが1番の人気だとか。

 

館内では『漂巽紀略』に見る万次郎の世界展を見学。漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に無人島鳥島に漂着し、人間が近寄っても逃げない阿呆鳥を石を使って捕まえ食べていた。たまたま沖を通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助された。ホイットフィールド船長に気に入られ万次郎は仲間と別れホイットフィールド船長の養子となり、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学んだ。日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩での取調べの後、長崎に送られ、その後土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に帰った。吉田東洋ら藩の取り調べを受け、河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。約2ヶ月後に、帰郷が許され、漂流から11年目にして故郷に帰る事が出来たのである。 その後、万次郎は直参の旗本の身分を与えられ、生まれ故郷の地名「中濱」の苗字が授けられた。

館内を色々廻り説明していただいた。説明では万次郎は生涯船乗りでなかっただろうかと。

って事で今日はこの辺で。   じゃ~またネ