故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

丸亀の城西界わいと佐久間象山の暗殺

2013年07月11日 09時35分21秒 | 幕末史

昨夜は何度も目が覚めて寝苦しかった。それでも4時半には起きて5時前から歩いてみた。   ここは昔、番町といっていたが今は〇番町とか数字が入り呼び名が変わってしまった。昔の地名も残してほしいものだ。この場所も武家屋敷が並んでいたはず、今は静かな朝の住宅地、当時に思いをはせながら歩いてみた。   これは「鍵曲(かいまがり)」見通しを悪くして、敵の進入を防ぐために作った道路。城下町ではよく見かける。山口県の萩や長府ではたくさん見ることができるが、今の丸亀ではここだけでないだろうか。北を見た所。藩政時代には正面にも建物があって行き止まりにも見える。

 

反対に南を見たところ。

 

この付近でも現代建築の真新しい建物が増えている、でもよく見ているとこのようにいい感じの建物がある。右の方には石の門もあり旧家だろう?

 

 その後は丸亀城を一周して6時半頃に帰宅。朝食後は草抜きを1時間ばかり、汗をたっぷりとかいてシャワーを浴びサッパリと。 

 で、今日は何の日で、京都・三條木屋町で攘夷派志士が佐久間象山を斬殺。元治元年7月11日のことである。象山は天保10年(1839)に江戸で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。 ところが天保13年(1842)松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、洋学研究の担当者に命ぜられ、象山は江川英龍の下で、兵学を学ぶことになる。象山は西洋兵学の素養を身につけて、藩主真田幸貫に『海防八策』を献上し高い評価を受けた。また、江川や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功した。    それ以後、象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになり、嘉永2年(1849)に日本初の指示電信機による電信を行う。またガラスの製造や地震予知器の開発に成功した。嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。    嘉永7年(1854)再度来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗という事件が起こった。象山も松陰に連座し入獄、その後は文久2年(1862)まで、松代での蟄居となる。  元治元年(1864)に象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。 当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏地である、その危険な京都の町を供を連れずに移動するような行動をとっていた。 同年の7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺された。 現在、暗殺現場(京都市中京区木屋町御池上ル)には佐久間象山遭難之碑が建てられている。

今日は暑そうだから引きこもりと思ったが。歯の状態が良くない、食事中は傷みがあるし、水などがしゅみるから歯医者だけは行っておかないと。  って事でこれまで、じゃ~またネ