故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

防府市の三田尻御茶屋を訪ねて

2014年04月02日 19時05分53秒 | 幕末史

防府市の旅、最終回。三田尻御茶屋を訪ねた。ここは 承応3年(1654)に、長州2代藩主・毛利綱広により建築される。三田尻は、萩城からの萩往還の終点で、瀬戸内海側の長州藩玄関であった。参勤交代や領内巡視時の藩主の宿泊・休息施設・迎賓などの為に造られた。7代藩主の重就は、隠居した翌年天明3年(1783)に三田尻御茶屋の大規模な改築を行う。改修後、重就は移住し、晩年の6年間を過ごしている。当時は「三田尻御殿」とも呼ばれた。 嘉永4年(1851)13代藩主・敬親が行った改築で現在とほぼ同じ規模になった。文久3年(1863)には、八月十八日の政変で三条実美ら公卿が七卿落ちで長州へ逃れてきた。その時、大観楼棟に約2ヶ月滞在し、藩主敬親や高杉晋作らと面会している。さらに、敷地の北側に招賢閣が建てられ、三条らの会議場所となった。招賢閣には幕末の志士達が滞在したが、その建物は現在残っていない。

毛利藩といえば、この家紋。

一文字三星の家紋が有名であるが、下の図にある8つの紋も使われていたという。英雲荘の中をよく見ていると、襖や釘隠し等でたくさん見られた。襖等は右端の向オモダカ紋・釘隠し等は左端の紋が使われていた。

 

いろんな所に家紋が。

 

釘隠し・畳の淵・シャンデリアと、色々な所に家紋が施してある。

 現在残っている建物では最も古いこの大観楼、江戸中期の天明年間に書かれた絵図にあるからそれ以前の建物。公的な場で、藩主はこの「御書院一ノ間」で来客や家臣と面会した部屋。

 

 長州藩最後の藩主、毛利元徳は明治3年以降、この三田尻御茶屋を居住の地とし、長男 元昭(幼名、興丸)の守役として久坂玄随の未亡人、文も生活をしていたことがある。 また、文久3年8・18の政変で京都を追われた三条実美ら七人の公卿は、この三田尻御茶屋に入り、約2ヶ月間滞在した。高杉晋作もここで会っているとか。

御書院一ノ間の真上にあたる西ノ間は藩主や、限られた者だけが使った。真下の一ノ間の上にあるので、この部屋は限られた者だけが入室できた。襖の向こうに見える階段を上がりこの部屋に入る。家臣や面会の者は東側の別な階段を使い東ノ間に入った。

 奥座敷楼は玄関から一番奥にあり、毛利家当主と家族の居住と場所であった。

 

 

 外の発掘調査中の庭より英雲荘を。大正5年に多々良の毛利邸に移り住むまでここで生活をしていた。

 

見学を終え、英雲荘のすべてを丁寧に案内してくれた職員にお礼を述べた。すると、隣にいた女性職員より、その後の見学地への案内図、手書きの食事処等を手渡され、三つ指を突きこの玄関まできて私を見送って戴いた。超~感激・・・(嬉~)。

 

今回の防府市内は9時30分~17時30分・時間不足のため幕末関係で見学出来なかった場所は次のとおり 残念。

○桑山招魂場  ○護国神社  〇宮市本陣兄部家  〇文化財郷土資料館(入替休館) 〇毛利博物館  〇萩往還の道標  その他山口市へ足を延ばせば、大村益次郎の関係や井上馨関係等々、まだまだ見学場所が多数ある。次回は2日位の予定で必ず行ってみたい所である。って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


防府天満宮の幕末

2014年03月29日 10時55分01秒 | 幕末史

山口県防府市の幕末を訪ねての続き。防府天満宮に行ってきました。 

 

「防府天満宮」は、菅原道真公が亡くなった翌年の、延喜2(904)年にできた日本で、〝最初の〟「天満宮」で、京都の「北野天満宮」、福岡の「太宰府天満宮」と並び、「日本三天神」といわれている。 が、野村望東尼が参詣した頃は「松崎天満宮」・「宮市天満宮」と称していたようである。明治6(1873)年に「県社」に列格「松崎神社」と称す。その後、昭和28年に、「防府天満宮」と改称した。ちょうど防府を訪ねた3月8日は晴天に恵まれ、天神様の梅の花も満開。

 

野村望東尼の像は報告済ですが、その望東尼像の近くに毛利重就公(英雲公)の像がある。

長州藩7代藩主で、財政の確立に務め、産業の開発、教育の振興を計り、藩中興の英主とあ仰がれる。特に宝暦13年(1763)撫育局(別会計)を創設し検地によって得た余裕を別途に貯蓄し、他への流用を禁じた。年を経て、その米銀は巨額となり、後年、長州藩の幕末維新期に於ける活動の財源となった。さらに重就は防府に愛着し、防長の殖産興業の中心となるべき所と着目、良田、塩田を開拓し、隠居後は三田尻御茶屋に住み、積極的に防府の発展に尽くした。8年の防府生活、寛政元年(1789) 三田尻御茶屋で没す。

 

少し下がったところに春風楼が。

建設を断念した五重の塔の一層部分軒下をそのまま床下に組み入れた建物。市内・瀬戸内海を見渡せる。 高杉晋作の諱と同じ『春風』とは・・・。

 

防府天満宮宝物館(歴史館)も見学。 展示物は少なく物足りない感じが。

 

この大専坊は毛利元就が防長両国を平定するまで参謀本部であった。また、幕末にはこの地方を警護する諸隊の屯所となった。

 

暁天楼(ぎょうてんろう)宮一にあった旅館の離れで1階が漬物置場、2階が隠れ座敷になっていた建物(復元)。高杉晋作らの志士たちが滞在したといわれ、彼らが墨で文字を書いた戸袋板が残っている。

 

2階には上がれなかったが写真があったので1枚。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~次回も防府の旅を、またネ

 

 

 

 


幕末の富海・飛船問屋大和屋政助

2014年03月26日 05時45分01秒 | 幕末史

防府の旅、続き。

富海は古くから漁業の町で、漁船で近くの島や港に荷物を運んだり、土地の人を相手に商売をしたり、さらに宮島参りの人を運んだりしていた。(PA富海より防府市富海を見る)

 

そのうち大阪に連れて行ってくれるよう頼まれるようになった。最初は断っていたが海面が穏やかな時には鞆の浦や琴平へと足を延ばしても無事に帰ることができたので、大阪まで船を走らせるようになった。船は2反帆・8石積み・2人乗り。1780年頃、河内屋平左衛門が萩飛脚を大阪まで受けあうことに始まり。主に米20俵が積めるくらいの小型船だった。富海の飛船は多いときは60隻~80隻くらい活躍していた。帆に風を受けて走り、風のない時は前と後ろに船頭がいて、ろを漕ぐ。飛ぶように速く航行したことから『飛船(とびふね)』と呼ばれるようになった。 順調に進んだときは、4~5日で大阪に着いたという。また、萩藩の役人達も利用し各地へ往来し、幕末には志士の活動にも飛船が利用されるようになった。富海は旧山陽道そのままの道なのか道路は狭く、漁協の駐車場に車を止め、船倉通りへと歩いた。飛船問屋が軒を連ねた高い石垣が残る通り。 当時の繁栄を思わせる。

 

飛船問屋大和屋政助の船蔵。

大和屋は屋号、本名は清水与兵衛という。文政3年(1820)~明治19年(1886)享年66。幕末時代、飛船等の町方世話役で勤王の志士たちの活動を支援した。嘉永6年(1853)12月徳山藩へ軍用金100両を献納したほか、文久3年(1863)には明治天皇の叔父にあたる中山忠光は幕府から追われる身となり10月に大阪から飛船で富海に落ち延び、この土蔵の2階でしばらく潜伏していた。また元治元年(1864)藩内の保守派に追われ萩を脱してきた高杉晋作を暴風雨の中「飛船」で馬関まで送ったという。   このような活躍をした飛船であるが、現在までに絵馬、図面、写真は見いだされておらず、船の形等を特定することはできていない。

近くの墓地には。その飛船問屋大和屋政助の墓に「尊攘義民大和屋政助墓」と刻んである。

同じ墓地内には「従六位 入江石泉翁之墓」もあった。

 

車の止めてある漁協の前には「伊藤・井上両公上陸跡地」がある。元治元年(1864)英国留学中の伊藤博文23歳・井上馨29歳は、英米仏蘭4ヶ国連合艦隊が馬関を攻撃するという情報を聞き、英国留学を中断して急きょ帰国した。6月24日早朝、姫島から小船で立ち、ここ「飛船問屋・入本屋磯七宅」に上陸した。パンフレット等では当時の庭と建物の一部と残っていると書いてあったのだが、私が訪ねた時は、建物は残っておらず、更地となった一角に案内板と碑だけが建っていた。最近になって壊されたのか廻り草一本生えていない土地だった。残念・・・・。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


防府の旅・楫取素彦・文(美和子)

2014年03月23日 16時48分14秒 | 幕末史

今朝も5時起き。5時半から丸亀港からお城経由で1時間50分の歩きだった。城内では早くも5月のお城まつりの準備だろうかお化け屋敷の小屋が搦め手広場に設置されている。 早いなぁ~

 

今日は防府の旅、防府市桑山1丁目の大楽寺から。

 

この寺の南方、桑山裾に野村望東尼の墓はあったのだが、その望東尼に並々ならぬ配慮をした楫取素彦の墓は大楽寺の一般の墓地から離れ、寺の南側に。

 

右側が楫取素彦の墓、左側は楫取家之墓となっているが裏面には美和子の名前が刻まれている。来年の大河ドラマは「花燃ゆ」が決まっている、ヒロイン文(美和子)を中心にどんな幕末・明治が描かれるか楽しみである。

 楫取素彦は、文政12年(1829)3月15日、長門国三隅村(現・長門市)侍医、松島瑞璠誠成の次男として生まれる。天保11年(1840)6月儒者・小田村吉平の養子となる。慶応3年9月楫取素彦と改称。吉田松陰の信頼が厚く、松陰の激論を受け止めて互いに信頼しあう。また「松下村塾」の相談にも乗り、時々訪問し援助を与えた。また、慶応元年に大宰府で知り合った坂本龍馬の長州への入国に協力し、薩長同盟を結ぶ、いとぐちを作ったともいわれる。明治政府では元老院議官・貴族院議員等々の重職を務め、群馬県知事時代には教育の普及に道徳教育を最重要し、また農業・養蚕で生糸を海外に輸出するなど群馬県政発展の基礎を築いた。

私生活では、小田村時代に松陰の妹寿子と結婚するが明治14年に43歳で亡くなった。 寿子が病死した後、やはり、松陰の妹・寿子の妹で、久坂玄瑞嫁ぎ、禁門の変により、22歳で未亡人になっていた文(美和子)と明治16年に、再婚している。楫取は、吉田家に信頼があったということだろう。 その美和子に看取られながら、楫取は、大正元年に、防府市岡村(現在PL教会の地)で亡くなった。現在防府市内で楫取素彦のかかわった石碑は7碑以上もあるという。なお、美和子は、大正10年に、79歳で没している。

お寺の北側駐車場へ帰る時、通路の右側にあの夏目雅子さんの墓があった。

昭和60年9月11日 

   西山雅子 芸名・女優 夏目雅子 27歳 と書いてある。  

って事で、まだ防府の旅は続きます。今日はこれまで、じゃ~またネ。