故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

乙女姉さんが亡くなった日

2012年08月31日 18時37分35秒 | 幕末史

今朝は何時ものお城の歩きから途中変更してダイヤモンド富士を見に土器町西の宮池に。6時頃池の土手に着くとすでにカメラの三脚がずらりと並び大勢の人が。先日とは違った顔も、意外や意外今朝は女性の年輩カメラマンが増えている。それと、夏休み最後の日だからか小学生位の子供たちの姿も、ここの土手も6時半ともなれば誰もいない。みんな撤去。

午後からは、琴平へ「私の一品展」を見に行ってきた。懐かしいものや江戸中期の絵画など、目の保養ってところかな。

 

今日は坂本龍馬の姉乙女姉さんが亡くなった日だ。

坂本 乙女は天保3年1月1日(1832)~ 明治12年8月31日(1879)は、土佐藩郷士坂本八平と幸の三女。

本来は留で、「乙女」は「お留」への当て字であるとも。

薙刀がうまく、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも優れた、文武両道の人物だったという。身長5尺8寸(約174cm)・体重30貫(約112kg)という当時としては(現在でも)大柄な女性であった。

弘化3年(1846)に母・幸が死去すると龍馬の母親代わりとなり、書道・和歌・剣術などを教え、また龍馬の夜尿症を治したこともあった。安政3年(1856)、典医・岡上樹庵と結婚して一男一女をもうけるが、家風の相違や夫の暴力・浮気などが原因で慶応3年(1867)に離婚し、実家に戻る。龍馬のよき理解者として、相談に乗ったり励ましたりしたという。晩年は養子の坂本直寛と共に暮らす。明治12年(1879)死去した。享年48。

って事で今日はこの辺で、じゃ~またネ

 


日柳燕石が亡くなった日

2012年08月25日 16時57分41秒 | 幕末史

今朝は早く目が覚め、4時10分だった。起きて少しの間ボケーっとして4時50分に家を出た。外は暗くて走っているのは新聞配達のバイクくらいだった。5時10分を過ぎると薄暗くなり周りも何とか見えるようになり丸亀城に着くと、もう歩いている人、ジョギングの人。先ずは1周を回り大手門の方から登ってみた、最初の見返り坂がきつくどのくらい登ったのか振り返って見てしまった。だから名前が見返り坂???どうだかね。天守閣前広場で一服して反対の搦め手側へ降りたが、帰宅までの足取りは重く時間がかかったように思う。平坦地しか歩いたことがないのでお城のアップダウンでも、さすがに堪えた。

午後からは、初めての会で日柳燕石の話を聞きに行った。漢詩がメインで難しかったが、もう少し聞きたかったかな?と思う時間だった。

その後は琴平の町内をブラブラと。この暑い中観光客はあの階段を登るんだなぁと思いながら帰った。

で、今日は何の日は、その日柳燕石が亡くなった日だ、慶応4年(1868)の今日、讃岐を代表する勤皇の志士「日柳燕石」が新潟県柏崎市で亡くなった。9月8日に明治と改元される2週間ほど前のことである。また柏崎市には『日柳燕石先生御墓所』という墓碑が建っている。私は行ったことはないが写真だけは見た。(笑)また琴平町榎井には遺爪と遺髪を葬った日柳家墓所がある。

燕石は那珂郡榎井村旗岡(現在は琴平町榎井)の豪農、加島屋惣兵衛と幾世の間に5人兄弟の末っ子として生まれたが兄姉は幼い時に亡くなり、実質一人っ子のように大事に育てられた。諱は政章、通称は長松のちに長次郎といい、燕石のほか柳東と号した。

燕石は8歳になると母方の伯父岩崎青崗(儒学者)へ入門、15歳には金毘羅の宮医・三井雪航に入門し詩文を学ぶ。書を読みあさり、思案し、詩作にふける燕石気遣った母の幾世は花街の遊興を勧めたというのである。金もあり場所も近いし親も認めているから大っぴらに遊べたであろう。そんななか燕石は料亭の主人の養女と恋仲となり跡取の道之助(三舟)と女の子を産む。しかし燕石25才の時に金毘羅阿波町の質商の娘、比佐と正式に結婚する。しかし、二十歳前から遊興の味を覚えた女性遍歴はすさまじく囲った愛人は14~15人ともいわれ花街の女性ばかりであった。

燕石は弘化元年九州への旅に出る、讃岐からあまり出なかった燕石は港町長崎を訪ね巨大なオランダ船に驚き、海外事情なども確かめ1ケ月余りの旅を終えたが途中で下関に一泊した際、長州の志士と会合したという。その後の燕石は全国の勤皇の志士との交友が広くなった。崇敬していた松平左近にも単独で会うなど地元の志士、美馬君田・井上文郁・奈良松荘・長谷川佐太郎・村岡箏子、宗四郎母子等志士との交友を広げた。・・・・・・・。慶応元年には高杉晋作がおうのと一緒にやってきた。燕石は金毘羅金山寺町に隠れ家を用意し匿った。閏5月3日高松藩の手入れが入るとの情報があり、燕石は古市麦舟を案内役として充てた。象頭山を山越えして伊予見峠より財田村に、そして川之江に出て船で長州へ向かうものだった。その後燕石は3年間獄舎で拘束されるのである。慶応元年鳥羽伏見の戦いで朝敵として追討され土佐藩兵の高松進駐を機に釈放される。

自由の身となった燕石は、長州の木戸孝允を訪ね京都から長州・長崎を旅する。長州では初めて高杉晋作の死を知り、墓を弔い詩を読んでいる。

その後、北越掃討の軍が進められ木戸の推薦で総督官付の日誌方として6月22日京都を発し7月15日夕刻柏崎の本陣に入った。しかし燕石は柏崎へ来る途中から病にかかり、刀を杖にしてよろめくようにたどり着いたとの事である。かなりの高熱が続きそのまま寝込んでしまった。そして25日に息をひきとったのである。52年の生涯だった。

 

下関長府の功山寺内の萬骨塔。燕石の名前が入った石もあるよ

って事で今日は長文になってしまった。じゃ~またネ


ダイヤモンド富士 と 白虎隊自刃の日だ

2012年08月23日 11時37分07秒 | 幕末史

今朝の歩きは5時より前に家を出て、何時ものように丸亀城を目指していたが、目前で止めた。何故かというと、今日あたりから丸亀市土器町の宮池でダイヤモンド富士が見られるというのでその宮池に向かった。別に宮池でなくとも見れるのだが毎年テレビなどで紹介されるので途中変更して行ってみた。5時10分の写真がこれだ、宮池でなく途中から。

 

 宮池の土手に到着すると、ご覧のようにカメラを構えた人が集まっていた。

 

 6時10分頃、讃岐富士の頂上付近より太陽が!!!。話をした人は昨日から1週間位は毎日来る予定だと。それでもお気に入りに写せるかどうかは分らないそうだ。ある人は日曜あたりが場所的には最高だとか?みんな写真が趣味なのか豪華なカメラを三脚に据えたり、肩にも別のカメラを抱えて移動する。携帯で写していたのは私だけだろうな。取りあえず私なりに写しているので見てください。(雲が少し邪魔をしているけど)

 

 皆さんも興味があれば見に行ってください。いいカメラを持ってね、来週の水曜あたりまでが見ごろだそうです。

 

で、今日は何の日、今日23日は白虎隊自刃の日だ。

1868(明治元)年の今日、戊辰戦争で会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した。

会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの班に分けており、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていた。会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると白虎隊も実戦に参加し、越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げていた。

この日、飯盛山にいた白虎隊の士中二番隊員が、城下の町に火の手が上がったのを会津城が落城したものと思い、20人の隊員全員が自刃した。

その中で一命を取り留めた者がいた。その飯沼貞吉は維新後を生き抜き、1931年に79歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の最期の様子が現在に伝わったのである

その後の会津藩は降伏により、藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。明治2年に容保の嫡男容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(青森県むつ市)に斗南藩を立てた。が藩士たちの開拓は苦難の連続であった。

という事で、今日はこの辺で、じゃ~またネ


生麦事件の日

2012年08月21日 17時56分29秒 | 幕末史

朝夕は涼しくなってきたが日中はまだまだ暑く、今日も35度を超えたようだ、今朝は4時40分から歩きに出た。今日もコースを変更したが約30分は暗くて周りが良く見えなかった。でも久しぶりに通ったらやっぱり家やマンションがいつの間にか増えている。その反面空き家も増えているようだ。昨日は工事の関係で昼寝が出来なかったが今日はその分まで寝てしまった。

という事で今日は何の日は生麦事件がおきた日だ。生麦事件は、文久2年8月21日(1862)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件である。

尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)となった事件である。

今日はこの辺で、じゃ~またネ


高杉晋作の誕生日

2012年08月20日 18時59分22秒 | 幕末史

近頃の挨拶は「暑いですね」「いつまでも暑いですね」が定番となっている。暑いという言葉が自然と出てくる時期だ。今朝は朝5時に家を出てコースを変えて歩いてみた。いつもと違う道を歩いていると珍しいものや新発見が。時には犬嫌いの私に向かって、いきなり「ワン・ワン・ワン」と横から吠えてくる。そんなんで一人うろうろしながら歩いている。不審者には見られないだろうなぁ~。帰宅後は何時ものように念入りに新聞と、朝ドラ「梅ちゃん先生」を見て昼寝を。しかし、今日は違うぞ、家の前で工事が!!!ユンボやダンプでガチャ~ン、ガタガタ、ぶる~ん。これは寝てはおれない。出かけよう、先ずは北に「ダメだ、今日は月曜日だ」図書館や資料館は定休日だ。では、西へ西へ走っても走っても当てのないドライブ。昼前には帰宅、昼御飯だけは我が家で。午後も工事の車がやかましい。ミキばーちゃんの送迎で坂出へ、その後東へ東へ走って走って、見つけた喫茶店で一休み。週刊誌等で1時間以上一人でコーヒー1杯を。外へ出たなら暑い暑い。暑い車の中へ。帰宅後は田んぼで肥料蒔きを、水の中で足を取られて何回か転びそうになりながらの作業、何とか1日が終了って感じだ。

って事で、今日は何の日?今日は、高杉 晋作の生まれた日だ。天保10年8月20日(1839)長州藩の尊王攘夷の志士として活躍し、奇兵隊を創設して、長州藩を倒幕に方向付けた。萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)・みちの長男として生まれ、諱は春風。通称は晋作、東一。字は暢夫。号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、宍戸刑馬等。

10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾を経て、嘉永5年(1852)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術を学び、免許を皆伝された。安政4年(1857)に久坂玄瑞に誘われ吉田松陰の松下村塾に入り学んだ。

慶応元年には長府藩士に狙われ、おうのと一緒に琴平の日柳燕石に匿われた。

今日はこの辺で、じゃ~またネ