今朝は早く目が覚め、4時10分だった。起きて少しの間ボケーっとして4時50分に家を出た。外は暗くて走っているのは新聞配達のバイクくらいだった。5時10分を過ぎると薄暗くなり周りも何とか見えるようになり丸亀城に着くと、もう歩いている人、ジョギングの人。先ずは1周を回り大手門の方から登ってみた、最初の見返り坂がきつくどのくらい登ったのか振り返って見てしまった。だから名前が見返り坂???どうだかね。天守閣前広場で一服して反対の搦め手側へ降りたが、帰宅までの足取りは重く時間がかかったように思う。平坦地しか歩いたことがないのでお城のアップダウンでも、さすがに堪えた。
午後からは、初めての会で日柳燕石の話を聞きに行った。漢詩がメインで難しかったが、もう少し聞きたかったかな?と思う時間だった。
その後は琴平の町内をブラブラと。この暑い中観光客はあの階段を登るんだなぁと思いながら帰った。
で、今日は何の日は、その日柳燕石が亡くなった日だ、慶応4年(1868)の今日、讃岐を代表する勤皇の志士「日柳燕石」が新潟県柏崎市で亡くなった。9月8日に明治と改元される2週間ほど前のことである。また柏崎市には『日柳燕石先生御墓所』という墓碑が建っている。私は行ったことはないが写真だけは見た。(笑)また琴平町榎井には遺爪と遺髪を葬った日柳家墓所がある。
燕石は那珂郡榎井村旗岡(現在は琴平町榎井)の豪農、加島屋惣兵衛と幾世の間に5人兄弟の末っ子として生まれたが兄姉は幼い時に亡くなり、実質一人っ子のように大事に育てられた。諱は政章、通称は長松のちに長次郎といい、燕石のほか柳東と号した。
燕石は8歳になると母方の伯父岩崎青崗(儒学者)へ入門、15歳には金毘羅の宮医・三井雪航に入門し詩文を学ぶ。書を読みあさり、思案し、詩作にふける燕石気遣った母の幾世は花街の遊興を勧めたというのである。金もあり場所も近いし親も認めているから大っぴらに遊べたであろう。そんななか燕石は料亭の主人の養女と恋仲となり跡取の道之助(三舟)と女の子を産む。しかし燕石25才の時に金毘羅阿波町の質商の娘、比佐と正式に結婚する。しかし、二十歳前から遊興の味を覚えた女性遍歴はすさまじく囲った愛人は14~15人ともいわれ花街の女性ばかりであった。
燕石は弘化元年九州への旅に出る、讃岐からあまり出なかった燕石は港町長崎を訪ね巨大なオランダ船に驚き、海外事情なども確かめ1ケ月余りの旅を終えたが途中で下関に一泊した際、長州の志士と会合したという。その後の燕石は全国の勤皇の志士との交友が広くなった。崇敬していた松平左近にも単独で会うなど地元の志士、美馬君田・井上文郁・奈良松荘・長谷川佐太郎・村岡箏子、宗四郎母子等志士との交友を広げた。・・・・・・・。慶応元年には高杉晋作がおうのと一緒にやってきた。燕石は金毘羅金山寺町に隠れ家を用意し匿った。閏5月3日高松藩の手入れが入るとの情報があり、燕石は古市麦舟を案内役として充てた。象頭山を山越えして伊予見峠より財田村に、そして川之江に出て船で長州へ向かうものだった。その後燕石は3年間獄舎で拘束されるのである。慶応元年鳥羽伏見の戦いで朝敵として追討され土佐藩兵の高松進駐を機に釈放される。
自由の身となった燕石は、長州の木戸孝允を訪ね京都から長州・長崎を旅する。長州では初めて高杉晋作の死を知り、墓を弔い詩を読んでいる。
その後、北越掃討の軍が進められ木戸の推薦で総督官付の日誌方として6月22日京都を発し7月15日夕刻柏崎の本陣に入った。しかし燕石は柏崎へ来る途中から病にかかり、刀を杖にしてよろめくようにたどり着いたとの事である。かなりの高熱が続きそのまま寝込んでしまった。そして25日に息をひきとったのである。52年の生涯だった。
下関長府の功山寺内の萬骨塔。燕石の名前が入った石もあるよ
って事で今日は長文になってしまった。じゃ~またネ