故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

長崎海軍伝習所の開設

2013年07月29日 19時01分10秒 | 幕末史

今朝も5時前から6時半までの1時間35分間を西へ向いて金蔵寺付近まで歩いた。 27日にオープンした善通寺市原田町のファミリーマートを横目に。 早朝なのかお客さんは少ない。

 

路地から農道へ、あげくの果てには畦道を歩く。勝手気ままな歩き、何処へ行くやら。  名前は分らないがサボテンの花が。

 

帰宅後は、シャワーを浴びて朝食を済ませ、新聞を斜め読みして出勤。朝は慌ただしい。 

今日は、長崎に海軍伝習所が開設した日である。安政2年(1855)7月29日の事である。  黒船来航後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めた江戸幕府は、オランダ商館長の勧めにより幕府海軍の士官を養成する機関の設立を決めた。オランダ海軍からの教師派遣などが約束され、ペルス・ライケン以下の第一次教師団、後にヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の第二次教師団が派遣された。さらに練習艦として蒸気船「観光丸」の寄贈を受けた。最初の目標は、オランダに発注した蒸気船2隻(咸臨丸と朝陽丸)分の乗員養成とされた。そこで安政2年(1855)に第1期生として、幕府伝習生37名が入校した(勝海舟も)。さらに、翌年の安政3年(1856)には第2期生として長崎地役人などからなる幕府伝習生12名が臨時に追加された。 また、幕府伝習生以外に諸藩の伝習生の受け入れも行われた。安政2年(1855)から、計128名(薩摩藩16名・肥後藩5名・筑前藩28名・長州藩15名・佐賀藩47名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)が伝習を受けた。「咸臨丸」と同型の「電流丸」を発注していた佐賀藩出身者が最も多く、活動も活発であった。 築地に軍艦操練所が新設されると、安政4年(1857)3月に総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地に教員として移動した。そのため、長崎海軍伝習生は45名程に減った。その後、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する財政負担が大きいことが問題となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになった。安政6年(1859)に長崎海軍伝習所は閉鎖された。閉鎖後、練習艦「観光丸」は佐賀藩に貸与され、三重津海軍所で運用をつづけられた。長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の日本海軍でも活躍した。     って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ



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