故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

今日のウオーキング

2015年02月10日 11時15分10秒 | 日記

今朝も早くから目が覚めたが、風の音が強い。 早朝歩きは止めて5時過ぎから一人でオカズや味噌汁を温めて朝食。寒いからか食べる速度が速い。 6時になると新聞を取りに外へ、やはり風が冷たい、さぶ~っつ寒寒寒寒、超寒 超寒 超寒 ! 新聞は、部屋の中はエアコンで温まっているが、まだまだ寒い火燵にスイッチonして入るが中々読む気になれない。  でもでも、今は冬だ、寒いのは当たり前。気を引き締めて9時半より歩きに、約1時間40分・12,000歩の歩きとなった。丸亀城から、新丸亀警察署あたりを。もうすぐ完成だ。

ここの警察署の管轄は、丸亀市と善通寺市と多度津町。今の丸亀署と善通寺署が一緒になる。

新丸亀警察署からすぐ、今度は丸亀野球場に。

まだ、工事中の時 何時だったか?

そして、今日の野球場。球場内部は完成。周りや道路の舗装工事のみとなった。

って事で、この辺で じゃ~またネ


この冬一番の寒波

2015年02月09日 06時25分30秒 | 日記

一昨日の土曜日に高松に行ってきました。県立ミュージアムで『守る・攻める・城と館』を見学。香川県内にはたくさんの城が、砦って言ったほうが良いのかも? 主要な城は、土佐の長曽我部に攻められて 後は配下に。見学後は一人で館内の喫茶室でランチを。うどんでないよ、たまにはご飯も良いかもと決定。 その後は菊池寛記念館に移動して、英名高校の田山泰三先生の講演を聞きに。何と会場は満員、予備のパイプ椅子が20~30個も。菊池家の系図を順に説明しながら藩校講道館のこと等、あれこれ 1時間半の講演。楽しく聞くことができた。

今朝は目が覚めたのが5時。 早朝歩きも ず~っと続いている。でも、でも今朝は無理!

なんてったって、風が強い。気温は氷点下。 北日本や日本海側に住んでいる人に こんなこと言うと怒られるかも。でもでも、ここは四国讃岐の片田舎。いつもとは違うんですよ! なんてったって風が強い。今の体感温度は何度だろう?    って事で、今朝の早朝歩きはお休みに。

パソコンで、メールやブログをチェック。後は新聞を読んでと・・・・んっ、今日は新聞も休刊日だ。  そんなんで、こんなんで午後は仕事の予定です。じゃ~またネ。


今朝はラジオ体操はないの?

2015年01月23日 11時58分00秒 | 日記

今朝、目が覚めたのが4時半。起きるにはまだ早いと思いながらも自然と起きてしまった。  起きてしまえば何時ものとおり天気予報と健康チェック。

天気予報はNHKのデーター放送で3時間ごとの天気を。今日は6時も9時も曇りとなっている、折りたたみの傘を胸に忍ばせて、血圧測定も。今朝も体調OKだ。5時20分から早朝歩きに出かけるが、外は真っ暗で誰にも会わない。では、いつも通り丸亀城へと向かう。丸亀城だと早朝歩きの人もいて「おはようございます」という声掛けはできそう。お城に着くとお堀の外回りと内回りを1回づつ。時刻は6時35分だ。 あれ~っ、ラジオ体操をしている人が全くいない。ラジオの音も聞こえない。どうしたのかな~ァ この搦め手広場で体操を見ない時はなかったのに・・・?  何時もと違うぞと・・・心配はしていないけど、  帰りにはようやく周りが明るくなり周囲が見えるように。そんなんで帰宅は7時15分。

9時からは先輩とコーヒータイムに。くだものをママさんから差し入れ。うれしいなぁ。これだけでも私の心はルンルンに・・・

午後はお仕事に。さぁ~頑張って行ってきます。


アイリスまつり

2014年05月20日 17時34分09秒 | 日記

今朝の早朝歩きは、4時40分からになった。南へ南へと歩き善通寺市与北町~丸亀市垂水町~郡家町へ。そんな中で昨日のニュースで郡家のアイリスが満開。たくさんの見物人が来ているというので、帰りに寄ってみたのだが、柵がしてあり中には入れない。

讃岐富士をバックに。

入口にはこんなものが。  また、苗も売っているらしい。

花も遠くの方から撮影なので分り辛い。今日の歩き時は晴れていて暑い位だったが、仕事中の3時には雨が降り出しだんだんと寒くかんじてきた。  今日はこれだけだけど、もう少ししたら、ブログの更新を頻繁にやるつもりです。 では、またネ


何年振りかの風邪ひき

2014年04月28日 10時02分54秒 | 日記

先週の土日を挟み、初めてのジェットスターを利用して東京へ行ってきました。 滞在期間中に山縣有朋ゆかりの椿山荘での食事や、世田谷の松陰神社へお参り。また、築地市場で奮発して握りずしを。息子や姪家族との楽しい時間を過ごした。が・・・昨日の早朝歩き時に丸亀お城まつりの準備中を見ながら。

約、2時間の歩きと帰宅後の畑仕事。その後、何故か喉や鼻がオカシイ~。  そんなんで、昨夜には風薬を飲んで早々とお休み。 今朝は早朝歩きは中止して6時過ぎまで熟睡。 毎日の早朝歩きのおかげか殆ど良くなったみたい。午後のお仕事も行けそう。 風邪を引いたのも3~4年ぶりくらいかなぁ~。

そんなこんなで久しぶりのブログ更新。今日はここまで、じゃ~またネ


防府市の三田尻御茶屋を訪ねて

2014年04月02日 19時05分53秒 | 幕末史

防府市の旅、最終回。三田尻御茶屋を訪ねた。ここは 承応3年(1654)に、長州2代藩主・毛利綱広により建築される。三田尻は、萩城からの萩往還の終点で、瀬戸内海側の長州藩玄関であった。参勤交代や領内巡視時の藩主の宿泊・休息施設・迎賓などの為に造られた。7代藩主の重就は、隠居した翌年天明3年(1783)に三田尻御茶屋の大規模な改築を行う。改修後、重就は移住し、晩年の6年間を過ごしている。当時は「三田尻御殿」とも呼ばれた。 嘉永4年(1851)13代藩主・敬親が行った改築で現在とほぼ同じ規模になった。文久3年(1863)には、八月十八日の政変で三条実美ら公卿が七卿落ちで長州へ逃れてきた。その時、大観楼棟に約2ヶ月滞在し、藩主敬親や高杉晋作らと面会している。さらに、敷地の北側に招賢閣が建てられ、三条らの会議場所となった。招賢閣には幕末の志士達が滞在したが、その建物は現在残っていない。

毛利藩といえば、この家紋。

一文字三星の家紋が有名であるが、下の図にある8つの紋も使われていたという。英雲荘の中をよく見ていると、襖や釘隠し等でたくさん見られた。襖等は右端の向オモダカ紋・釘隠し等は左端の紋が使われていた。

 

いろんな所に家紋が。

 

釘隠し・畳の淵・シャンデリアと、色々な所に家紋が施してある。

 現在残っている建物では最も古いこの大観楼、江戸中期の天明年間に書かれた絵図にあるからそれ以前の建物。公的な場で、藩主はこの「御書院一ノ間」で来客や家臣と面会した部屋。

 

 長州藩最後の藩主、毛利元徳は明治3年以降、この三田尻御茶屋を居住の地とし、長男 元昭(幼名、興丸)の守役として久坂玄随の未亡人、文も生活をしていたことがある。 また、文久3年8・18の政変で京都を追われた三条実美ら七人の公卿は、この三田尻御茶屋に入り、約2ヶ月間滞在した。高杉晋作もここで会っているとか。

御書院一ノ間の真上にあたる西ノ間は藩主や、限られた者だけが使った。真下の一ノ間の上にあるので、この部屋は限られた者だけが入室できた。襖の向こうに見える階段を上がりこの部屋に入る。家臣や面会の者は東側の別な階段を使い東ノ間に入った。

 奥座敷楼は玄関から一番奥にあり、毛利家当主と家族の居住と場所であった。

 

 

 外の発掘調査中の庭より英雲荘を。大正5年に多々良の毛利邸に移り住むまでここで生活をしていた。

 

見学を終え、英雲荘のすべてを丁寧に案内してくれた職員にお礼を述べた。すると、隣にいた女性職員より、その後の見学地への案内図、手書きの食事処等を手渡され、三つ指を突きこの玄関まできて私を見送って戴いた。超~感激・・・(嬉~)。

 

今回の防府市内は9時30分~17時30分・時間不足のため幕末関係で見学出来なかった場所は次のとおり 残念。

○桑山招魂場  ○護国神社  〇宮市本陣兄部家  〇文化財郷土資料館(入替休館) 〇毛利博物館  〇萩往還の道標  その他山口市へ足を延ばせば、大村益次郎の関係や井上馨関係等々、まだまだ見学場所が多数ある。次回は2日位の予定で必ず行ってみたい所である。って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ


丸亀の桜情報

2014年03月31日 18時52分43秒 | 日記

今朝の早朝歩きは、久しぶりに丸亀城へ。6時頃に到着。先ずは搦め手の桜。すでに満開状態。

 

ぐるりと廻りソメイヨシノの基準木を。今年の開花は3月26日だったと。

 

でも、この基準木には、花びらは少なく、まだまだの様だ。

 

うるし林の方へ行くと、満開近しってところだ。

 

帰りに蓮池公園に寄ってみた。これは1月12日早朝の写真。

 

これが同じ場所、今朝の写真。 ずいぶん雰囲気が違う。

 

子供用の遊具が建設中。小さい子供を遊ばせるには良いなァ~。

 

って事で。今日は丸亀の桜情報でした。じゃ~またネ


三田尻御舟倉跡

2014年03月30日 14時37分57秒 | 幕末史

 三田尻御舟倉跡

 

江戸時代の毛利水軍の根拠地で、藩主の参勤交代や平時の交通・不慮の水戦に備えて設置された。

防府市内には幕末関係の史跡がまだまだ残っている。次回は、三田尻御茶屋を

じゃ~今日はこの辺で。またネ

 

 


防府天満宮の幕末

2014年03月29日 10時55分01秒 | 幕末史

山口県防府市の幕末を訪ねての続き。防府天満宮に行ってきました。 

 

「防府天満宮」は、菅原道真公が亡くなった翌年の、延喜2(904)年にできた日本で、〝最初の〟「天満宮」で、京都の「北野天満宮」、福岡の「太宰府天満宮」と並び、「日本三天神」といわれている。 が、野村望東尼が参詣した頃は「松崎天満宮」・「宮市天満宮」と称していたようである。明治6(1873)年に「県社」に列格「松崎神社」と称す。その後、昭和28年に、「防府天満宮」と改称した。ちょうど防府を訪ねた3月8日は晴天に恵まれ、天神様の梅の花も満開。

 

野村望東尼の像は報告済ですが、その望東尼像の近くに毛利重就公(英雲公)の像がある。

長州藩7代藩主で、財政の確立に務め、産業の開発、教育の振興を計り、藩中興の英主とあ仰がれる。特に宝暦13年(1763)撫育局(別会計)を創設し検地によって得た余裕を別途に貯蓄し、他への流用を禁じた。年を経て、その米銀は巨額となり、後年、長州藩の幕末維新期に於ける活動の財源となった。さらに重就は防府に愛着し、防長の殖産興業の中心となるべき所と着目、良田、塩田を開拓し、隠居後は三田尻御茶屋に住み、積極的に防府の発展に尽くした。8年の防府生活、寛政元年(1789) 三田尻御茶屋で没す。

 

少し下がったところに春風楼が。

建設を断念した五重の塔の一層部分軒下をそのまま床下に組み入れた建物。市内・瀬戸内海を見渡せる。 高杉晋作の諱と同じ『春風』とは・・・。

 

防府天満宮宝物館(歴史館)も見学。 展示物は少なく物足りない感じが。

 

この大専坊は毛利元就が防長両国を平定するまで参謀本部であった。また、幕末にはこの地方を警護する諸隊の屯所となった。

 

暁天楼(ぎょうてんろう)宮一にあった旅館の離れで1階が漬物置場、2階が隠れ座敷になっていた建物(復元)。高杉晋作らの志士たちが滞在したといわれ、彼らが墨で文字を書いた戸袋板が残っている。

 

2階には上がれなかったが写真があったので1枚。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~次回も防府の旅を、またネ

 

 

 

 


幕末の富海・飛船問屋大和屋政助

2014年03月26日 05時45分01秒 | 幕末史

防府の旅、続き。

富海は古くから漁業の町で、漁船で近くの島や港に荷物を運んだり、土地の人を相手に商売をしたり、さらに宮島参りの人を運んだりしていた。(PA富海より防府市富海を見る)

 

そのうち大阪に連れて行ってくれるよう頼まれるようになった。最初は断っていたが海面が穏やかな時には鞆の浦や琴平へと足を延ばしても無事に帰ることができたので、大阪まで船を走らせるようになった。船は2反帆・8石積み・2人乗り。1780年頃、河内屋平左衛門が萩飛脚を大阪まで受けあうことに始まり。主に米20俵が積めるくらいの小型船だった。富海の飛船は多いときは60隻~80隻くらい活躍していた。帆に風を受けて走り、風のない時は前と後ろに船頭がいて、ろを漕ぐ。飛ぶように速く航行したことから『飛船(とびふね)』と呼ばれるようになった。 順調に進んだときは、4~5日で大阪に着いたという。また、萩藩の役人達も利用し各地へ往来し、幕末には志士の活動にも飛船が利用されるようになった。富海は旧山陽道そのままの道なのか道路は狭く、漁協の駐車場に車を止め、船倉通りへと歩いた。飛船問屋が軒を連ねた高い石垣が残る通り。 当時の繁栄を思わせる。

 

飛船問屋大和屋政助の船蔵。

大和屋は屋号、本名は清水与兵衛という。文政3年(1820)~明治19年(1886)享年66。幕末時代、飛船等の町方世話役で勤王の志士たちの活動を支援した。嘉永6年(1853)12月徳山藩へ軍用金100両を献納したほか、文久3年(1863)には明治天皇の叔父にあたる中山忠光は幕府から追われる身となり10月に大阪から飛船で富海に落ち延び、この土蔵の2階でしばらく潜伏していた。また元治元年(1864)藩内の保守派に追われ萩を脱してきた高杉晋作を暴風雨の中「飛船」で馬関まで送ったという。   このような活躍をした飛船であるが、現在までに絵馬、図面、写真は見いだされておらず、船の形等を特定することはできていない。

近くの墓地には。その飛船問屋大和屋政助の墓に「尊攘義民大和屋政助墓」と刻んである。

同じ墓地内には「従六位 入江石泉翁之墓」もあった。

 

車の止めてある漁協の前には「伊藤・井上両公上陸跡地」がある。元治元年(1864)英国留学中の伊藤博文23歳・井上馨29歳は、英米仏蘭4ヶ国連合艦隊が馬関を攻撃するという情報を聞き、英国留学を中断して急きょ帰国した。6月24日早朝、姫島から小船で立ち、ここ「飛船問屋・入本屋磯七宅」に上陸した。パンフレット等では当時の庭と建物の一部と残っていると書いてあったのだが、私が訪ねた時は、建物は残っておらず、更地となった一角に案内板と碑だけが建っていた。最近になって壊されたのか廻り草一本生えていない土地だった。残念・・・・。

 

って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ