故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

高橋是清の誕生日と丸亀高校の門の張り紙

2013年07月27日 07時48分16秒 | 歴史

今朝は4時40分から歩き丸亀城をぐるりと廻り市役所まで来ると、玄関に『祝 丸亀高校甲子園出場』の幕が。急いで作ったものなのか? 予想してなかったものなのか? 祝いの幕って感じがしない。でも頑張ったネ

 

その後丸亀高校正門横を通りかかると、門扉に『優勝 おめでとう お疲れ様』と、紐で括り付けてある。誰が付けたのか。卒業生か在校生か、それとも丸高ファンか? 

 

西側の門にも、南の門にも。すべての門扉につけてあった。

 

6時半には家に帰った。今日は仕事は休みだけど、友人と愛媛県の瓶ヶ森林道をドライブの約束がある。だから休日だけど早めの帰宅だった。

 

今日は、明治・大正・昭和の政治家、高橋是清が生まれた日だ。

 

嘉永7年(1854)閏7月27日に川村家の庶子として江戸に生まれ,仙台藩足軽高橋家の養子となった。横浜において英語を学び,慶応3年(1867)仙台藩の留学生として渡米したが,奴隷に売られるなどの辛酸をなめる。翌明治元年(1868)末に帰国し,森有礼の学僕となる。大学南校(東京大学)に入学,次いで教官3等手伝いとなったが放蕩のため辞職。以後多くの職業を経験したのち,明治14年文部省に入り,すぐ農商務省に代わり商標登録,発明の専売特許の制度の立案実施に当たり,専売特許局長となる。明治22年,辞職してペルーの銀山の経営に手を出したが失敗。財産を失う。明治25年、総裁川田小十郎の世話で日本銀行の建築所事務主任に就職、明治26年正社員となり下関の西部支店長となり成績をあげる。明治28年横浜正金銀行本店支配人に明治30年副頭取として経営に携わる。明治32年日本銀行の内紛に際し日本銀行副総裁となる。明治37年日露戦争時に外債募集のため2度の英米両国の出張、戦費および内国債償還のため、5回に渡り約9億円の募債に成功した。明治38年貴族院議員・明治40年男爵・明治44年に日銀総裁となる。原敬と積極的な財政政策について意見が一致し、大正2年(1913)の山本権兵衛内閣に蔵相として入閣して政友会に入党する。大正7年原内閣の蔵相として,鉄道,電話,教育などの支出を拡張して積極政策をとった。大正10年原敬の暗殺の後、首相総裁を引き継いだ。大正13年の第2次護憲運動の際には隠居して衆議院に当選し、加藤高明内閣に農商務相として入閣した。大正14年総裁を辞して政界を引退したが,その後も蔵相として田中内閣・犬養・斎藤・岡田の各内閣に入閣する。昭和恐慌後の景気回復を実現させ,「高橋財政」時代を築いたが,昭和11年の2・26事件の際暗殺された。 って事で本日もこれまで。もうすぐお迎えの時間が、瓶ヶ森の報告はまた後日に。じゃ~またネ



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