昨日の予報では雨。それならとゆっくり起きで5時20分だった、外を見ると地面は濡れていない。そこから起きて5時45分ごろから歩きに。念のために傘をポケットに入れていたが使う事はなかった。霧で霞がかった朝、今日も初めての道に路地から路地に西から南から北へとウロウロ、途中で認知症らしい(間違っていたらゴメンなさい)おばあちゃんから「私は今から田んぼをしに行かんといかんからここ開けて」と、声をかけられた。もちろん開けてはないけど。色々あったけど7時過ぎに帰宅。1時間20分程の歩きであった。
午後にはお出かけ虫がムズムズ、近場で多度津の桃陵公園へ。桜のチェックというところ。やはりここも週末が見ごろかな?
左の方に「一太郎や~い」の像。駐車場はもう少しで満車状態。
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少林寺拳法の建物をバックに。
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遊歩道ではこんな感じ。
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今日は何の日は、明治4年(1871)3月28日 長州藩主・毛利敬親「そうせい侯」が亡くなった日 だ。 毛利敬親の逸話を少し並べてみた。
○敬親が藩主に就任した頃、長州藩は財政難に苦しんでいた。敬親はそれをよく知っていたため、木綿服を着て質素な振る舞いを見せながらお国入りをしたため、民衆に感激されたという。
○藩政改革では人材育成に尽力し、家柄や年齢にこだわらず優秀な人材を輩出させた。吉田松陰もその一人。敬親は松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったという。
敬親の人柄は長州志士からも慕われており、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存する。
○家臣の意見に対し、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれ、政治的には賢明な藩主ではなかったとの評価もあって、藩政は家臣任せだったが、重要段階では必ず自ら決断したということである。
○慶応4年1868年閏4月14日、木戸孝允から版籍奉還を促された。全国の諸大名を納得させるために毛利家が率先して模範を示す必要があったためだが、敬親は了承した。木戸はホッとして退出しようとすると敬親は「待て」と呼び止め、「これほどの変革を行なうには、その時機を見計らうことが大事」と注意した。木戸はそれを聞いて敬親に改めて礼を述べ、かの藩主が恐ろしく聡明であることを感じ取ったという。
○ 司馬遼太郎は『世に棲む日日』の中で、「敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」。「ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」と書いている。
○清水義範は『偽史日本伝』(集英社)の短編で敬親を取り上げ、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」と評している。また版籍奉還後すぐ隠居した事から、私欲や野心が無かったと評している。
今日はこんなもんで、じゃ~またネ