故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

お花見 真っ盛り

2013年03月31日 18時18分39秒 | 日記

今朝の歩きは5時半から7時半の約2時間の歩きになった。曇り空であったので用心のために傘をポケットに入れての歩きに。今朝も行先は丸亀城に。

 

日曜日の朝という事もあって大勢の人が歩いている。うるし林や搦め手門前では、早くもゴザが敷かれ場所取りがされている。今日は三の丸から二の丸をグルグルと周り歩いてきた。

お昼は知人宅の庭でお花見を、お弁当におつまみで。私はお酒は苦手なのでお茶で。終わってチャリで西に東にウロウロ走りながらの帰宅に。そして、ミキばーちゃんの「何処へ行っきょんなぁ~」の声を背に、また3時半ごろにはお出かけを、何かを求めてウロウロと、でも収穫はなかったなぁ~。 最後には友人宅で1時間半ほど色々の話をして帰った。時計を見ると6時を過ぎていた。

相田みつをを久しぶりに。「根さえしっかりしていれば」を。信念を持って流れに逆らわずに生きろって事かな。

 

今日の記事は少なめだけど、明日からに  じゃ~またネ


丸亀城の桜の報告

2013年03月30日 17時37分26秒 | 日記

昨日から今日は丸亀城へ上がるぞ~と思っていたので、早く目が覚め、起きたのは4時半過ぎ、そこから見るでもないテレビを付けた。新聞はまだまだ来ないしと。歩き出したのは5時15分。お城に着いた時は明るくなっていたがカメラをオートにするとフラッシュが。先ずは搦め手の桜を。

 

うるし林と大手門前。昨日の写真と比べるとどうかな?やっぱり咲き進んでる。

 

讃岐富士をバックに。

 

二の丸の桜、天守閣は桜に隠れて見えません。

 

これが最高・二の丸北側から撮った天守閣と桜。

 

4月の6日・7日は「丸亀城桜まつり」が、イベントはこのように、来週ですよ。是非どうぞ

 

帰りに蓮池公園を廻ってみました。ここの桜は少し遅いようです。

 

こんな感じで丸亀城をウロウロと、今日は2時間ほどの歩きだった。

午後からは瀬戸内国際芸術祭の沙弥島会場へ行ってきました。詳細は後日に。

まぁ~こんな感じで一日が潰れてしまいました。じゃ~またネ


丸亀城の桜情報と平野国臣の誕生日

2013年03月29日 17時10分53秒 | 幕末史

今朝も相変わらず5時過ぎに目が覚めた。5時半前には家を出て丸亀城へ桜の開花確認を。南側の搦め手付近の桜はこんな感じです。

 

動物園址には こんなものが、お城まつりの準備が始まっているのか、お化け屋敷だ。たしか、お城まつりは5月のGW頃だと思うが。

 

うるし林と大手門をバックに。露店が出てるようだ。勿論朝の6時過ぎだから営業はしてないけど。

 

西側に廻り天守閣をバックに、天守は分りにくかった。霧がかかっているので上の方に薄らと天守閣が。

 

そんなんで、今日の歩き時間は1時間40分程度だった。午後は高松方面へドライブに、途中の里山や学校の校庭等には桜が満開近い所も。丸亀城は明日から来週あたりが見ごろかな? 明日はよい天気の様だから皆さん是非丸亀城へ。そして丸亀城の歴史にも触れてください。

それでは今日は何の日を、今日は平野国臣が生まれた日だ。

福岡藩士、通称は次郎、巳之吉。諱は種言、種徳。文政11年(1828)3月29日に生まれた。攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。

今日もいつもと同じような記事になったけど、じゃ~またネ


桃陵公園の桜と 長州藩主・毛利敬親が亡くなった日

2013年03月28日 17時01分43秒 | 幕末史

昨日の予報では雨。それならとゆっくり起きで5時20分だった、外を見ると地面は濡れていない。そこから起きて5時45分ごろから歩きに。念のために傘をポケットに入れていたが使う事はなかった。霧で霞がかった朝、今日も初めての道に路地から路地に西から南から北へとウロウロ、途中で認知症らしい(間違っていたらゴメンなさい)おばあちゃんから「私は今から田んぼをしに行かんといかんからここ開けて」と、声をかけられた。もちろん開けてはないけど。色々あったけど7時過ぎに帰宅。1時間20分程の歩きであった。

午後にはお出かけ虫がムズムズ、近場で多度津の桃陵公園へ。桜のチェックというところ。やはりここも週末が見ごろかな?

 

左の方に「一太郎や~い」の像。駐車場はもう少しで満車状態。

 

少林寺拳法の建物をバックに。

 

遊歩道ではこんな感じ。

 

今日は何の日は、明治4年(1871)3月28日 長州藩主・毛利敬親「そうせい侯」が亡くなった日 だ。 毛利敬親の逸話を少し並べてみた。

○敬親が藩主に就任した頃、長州藩は財政難に苦しんでいた。敬親はそれをよく知っていたため、木綿服を着て質素な振る舞いを見せながらお国入りをしたため、民衆に感激されたという。

○藩政改革では人材育成に尽力し、家柄や年齢にこだわらず優秀な人材を輩出させた。吉田松陰もその一人。敬親は松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったという。

敬親の人柄は長州志士からも慕われており、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存する。

○家臣の意見に対し、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれ、政治的には賢明な藩主ではなかったとの評価もあって、藩政は家臣任せだったが、重要段階では必ず自ら決断したということである。

○慶応4年1868年閏4月14日、木戸孝允から版籍奉還を促された。全国の諸大名を納得させるために毛利家が率先して模範を示す必要があったためだが、敬親は了承した。木戸はホッとして退出しようとすると敬親は「待て」と呼び止め、「これほどの変革を行なうには、その時機を見計らうことが大事」と注意した。木戸はそれを聞いて敬親に改めて礼を述べ、かの藩主が恐ろしく聡明であることを感じ取ったという。

○ 司馬遼太郎は『世に棲む日日』の中で、「敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」。「ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」と書いている。

○清水義範は『偽史日本伝』(集英社)の短編で敬親を取り上げ、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」と評している。また版籍奉還後すぐ隠居した事から、私欲や野心が無かったと評している。

今日はこんなもんで、じゃ~またネ


久しぶりに歩きの途中で雨が

2013年03月27日 16時21分37秒 | 日記

今朝も5時に起きたが、外は雨は降っていないが曇っている。5時20分頃から傘をポケットに入れて歩き出した。今日は東へ東へと土器川の中の遊歩道を歩く。ここから見た飯野山はまさに讃岐の富士山だ。 凸凹のない綺麗な山だ。

 

6時20分頃にポツポツと雨が。そこから傘を取り出して帰路に、それでも歩きの時間は1時間40分だった。

今日は雨なもので、お家で古い本の整理をと思ったものの、数の多さに↴ 手で持てる大きさに束ねたのが8つ。これも残そうか、あれも捨てがたいと。なかなか進まず、いつの間にかお昼寝に変更になっていた。

久しぶりの相田みつを 「アナタの主人公はアナタなんだよなぁ」 うんうん。

って事で今日は雨の一日なので。 じゃ~またネ