堺北民主商工会

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目の付け所

2007年08月03日 10時10分09秒 | 世間の話
 明治時代に著名な彫刻家・高村光雲がいた。彼は1852年生まれで、明治から大正時代を生き抜いた(昭和9年没)仏師でもあったが、彫刻家としての「魚籃観音」はあまりにも有名である。
 彼が12歳の時、仏師である高村東雲のところへ弟子入りしたのは文久3年(1863年)3月10日の朝だった。
 光雲は初め、大工になるつもりで、奉公先も決まっていたが、急に方向転換をして仏師のところへ行く事になった。
 髪結床の主人が東雲のところへ彼を伴った。
 その主人の前で簡単な口頭試問が行われた。
 まず、そこにあった人物の置物を指して、東雲は「これは誰じゃ」と光雲に問うた。
 光雲は即座に「関羽です」と答える。
 すると、「ウム、良く知っていたな、感心!感心!」と言われ、次に「手習いと算盤(そろばん)は出来るか」と聞かれた。
 「そのいずれもを習った事がない」と光雲が答えると、
 「職人には字もソロバンも要らない。それで宜しいのだ」と言う事である。
 そして、早速に弟子入りを許してくれた。
 光雲はこんな口頭試問で良いのかと不思議に思ったが、その時、東雲は別の事を見ていたのである。
 即ち、彼(光雲)が玄関で脱いできた下駄であった。
 東雲はその時、親代わりの床屋の主人に向かって、「なーに、新弟子の人柄を見抜くには、履物の脱ぎ方を見るのが1番だよ。満足に揃える程の子供なら物になるよ」と語ったと言う。
 口頭試問などはどうでも良かったらしい。
 まず、人物を見ると言う事だ。

 さて、こうした礼儀で人物を見たとしたら、現在の若者の中で、どれ程の若者が及第出来るであろうか?
 そして、それにも増して若者をはじめ、国民の手本とも成るべき国の統治を司る政治家や役人は国民の前では耳障りの良い事ばかりを言っているが、果たして、キチンと靴を揃えて、玄関を入って来る人物はいか程、居るだろうか?

 一方、私達・国民も彼ら(政治家や役人)の偽りの成り振舞いや紛らわしいマスメディアの情報が乱れ飛ぶ中で、真実を誤魔化される事なく、高村東雲のように、彼等の本当の姿(本質)を見抜く、確かな「目の付け所」を持っていなければならないだろう!