教育番組の国際コンクール「日本賞」は今年で34回目になる。今年は56カ国から262作品が応募され、見事グランプリに輝いたのはカナダ「特別番組 差別を知る~ある小学校の試み」と言う作品。
カナダ・ケベック州の小学校で「ある実験授業」が行われた。以前、アメリカで行われたビデオを参考に女教師のアニー・ルグランが校長の許可を得て、担当した。
アニーは常日頃から生徒に慕われ、深い信頼を得ていた先生であった。
実験は2日間に渡って行われ、まず、予め生徒の数がちょうど半分になるように身長1m34cmを境目に「背の高いグループ(=A)」と「背の低いグループ(=B)」に分ける。
実験の第1日目、Aは頭の悪いグループ、Bは頭が良いグループと決め付けて授業でも休み時間でも徹底してAとBを差別扱いする。
思っても見なかったアニー先生の豹変振りに生徒たちはビックリして戸惑う。生徒たちの中には「先生を信じられない」とか「先生のやり方は間違っています」とか「背の低い人でも賢い人はいます」とか、教室のアチコチで生徒の呟きが始まる。それでも先生はガンとして「Aは賢い、Bはアホ」だと決め付ける。
すると当然の事ながら先生に対する不信感が生徒たちに芽生え、両者に溝が出来始める。背の低い(Bグループ)、クラスで1番の優秀な女の子が「アニー先生が1番好きだったのに」と泣き出した。
それでも先生はそんな事も無視して更に授業を続ける。
すると何時しか、AはA、BはBで纏まり、BはAを蔑み、AはBを敵視するようになり両者の間に「差別」意識が生じ始める。
実験の2日目、今度は2つのグループを全く逆さまにする。つまり、Aは頭の良いグループ、Bは頭の悪いグループと立場を入れ替える。
アニー先生が「昨日の(学)説は間違いでした」と、AとBに対する扱いを全く、逆にする。すると、第1日目になじ詰られていたAがその軋轢や反動もあって、Bに対して必要以上に「差別」扱いを行い始める。
益々、両者(AとB)の溝が増幅して行く。
そして、2日間の実験授業が終了した。生徒たちにして見れば考えても見なかった体験であった。
次の日、アニー先生が可愛い生徒たちを前にして、泣きながら「2日間の授業は実験だったのよ」と語り始める。生徒たちもそれに気付き、以前の「優しいアニー先生だ」と号泣する。アニー先生も生徒たちを我が子のように、しっかりと抱き締め、溢れる涙が止まらない。
2日間の溝はアッと言う間に埋まり、先生と生徒の深い絆が再び、結ばれた。
さて、この授業はどんな実験だったのだろうか。
それは「差別」を体験する(させる)事によって、「差別」を無くす授業だった。
実験授業が終わり、アニー先生が生徒たちに「差別をどう思いますか」と聞くと、生徒たちは異口同音に「どんな人も良い点と悪い点を持っています。だから、人を差別してはいけないと思います」と答える。
「人はみな平等」と言う「教え」を身を持って体得した(させた)授業だった。
更に、アニー先生にはもう1つの狙いがあった。
実はある生徒が「いじめ」に遭っていたのである。この「いじめ」を無くす事も念頭に置いていた。
そして、この目的も見事に解決されたのである。
この実験授業が良いか悪いかは判らない。後々の検証を経て、結果が示されるであろう。
しかし、少なくとも「差別」や「いじめ」を見て見ぬ振りをするのではなく、「体験」によって、生徒たちに体得させる事の重要性は否定出来ない。
それにしてもアニー先生の何事にも正面から取り組むと言う姿勢には感服する。
ところで、「イラクやアフガンでどのように使われようが海上給油艦はアメリカ艦船などに給油したらいい」「憲法9条を無くし、戦争を出来る国にする」と主張する人達は世界の各地で起こっている戦争の最前線で激戦を「体験」すればいい。
商売人(とは言っても街の小さな商売人)は儲けていると言う人は鉄くずと汗に塗れて鉄工所で働く「体験」をして見たらいい。
「女性は子供を生む機械」と言う人は我が身を持って、子供を生む「苦しみ」と「喜び」を「体験」して見たらいい。
「福祉や医療制度を益々、悪くして年寄りは早く死ね」と言う人は身寄りも無い、哀れな年寄りになった「体験」をして見たらいい。
「エイズ薬害事件で国や製薬会社の責任を認めない人」は危険な血液製剤フィブリノゲンを自ら、投与しエイズ発症抑制の薬を毎日、飲み続け、エイズ発症の恐怖と闘いながらの生活を「体験」すればいい
兎にも角にも、何もしないで口先だけでこのような主張をする人は真剣に物事を考えていない無責任な人種と言える。
カナダ・ケベック州の小学校で「ある実験授業」が行われた。以前、アメリカで行われたビデオを参考に女教師のアニー・ルグランが校長の許可を得て、担当した。
アニーは常日頃から生徒に慕われ、深い信頼を得ていた先生であった。
実験は2日間に渡って行われ、まず、予め生徒の数がちょうど半分になるように身長1m34cmを境目に「背の高いグループ(=A)」と「背の低いグループ(=B)」に分ける。
実験の第1日目、Aは頭の悪いグループ、Bは頭が良いグループと決め付けて授業でも休み時間でも徹底してAとBを差別扱いする。
思っても見なかったアニー先生の豹変振りに生徒たちはビックリして戸惑う。生徒たちの中には「先生を信じられない」とか「先生のやり方は間違っています」とか「背の低い人でも賢い人はいます」とか、教室のアチコチで生徒の呟きが始まる。それでも先生はガンとして「Aは賢い、Bはアホ」だと決め付ける。
すると当然の事ながら先生に対する不信感が生徒たちに芽生え、両者に溝が出来始める。背の低い(Bグループ)、クラスで1番の優秀な女の子が「アニー先生が1番好きだったのに」と泣き出した。
それでも先生はそんな事も無視して更に授業を続ける。
すると何時しか、AはA、BはBで纏まり、BはAを蔑み、AはBを敵視するようになり両者の間に「差別」意識が生じ始める。
実験の2日目、今度は2つのグループを全く逆さまにする。つまり、Aは頭の良いグループ、Bは頭の悪いグループと立場を入れ替える。
アニー先生が「昨日の(学)説は間違いでした」と、AとBに対する扱いを全く、逆にする。すると、第1日目になじ詰られていたAがその軋轢や反動もあって、Bに対して必要以上に「差別」扱いを行い始める。
益々、両者(AとB)の溝が増幅して行く。
そして、2日間の実験授業が終了した。生徒たちにして見れば考えても見なかった体験であった。
次の日、アニー先生が可愛い生徒たちを前にして、泣きながら「2日間の授業は実験だったのよ」と語り始める。生徒たちもそれに気付き、以前の「優しいアニー先生だ」と号泣する。アニー先生も生徒たちを我が子のように、しっかりと抱き締め、溢れる涙が止まらない。
2日間の溝はアッと言う間に埋まり、先生と生徒の深い絆が再び、結ばれた。
さて、この授業はどんな実験だったのだろうか。
それは「差別」を体験する(させる)事によって、「差別」を無くす授業だった。
実験授業が終わり、アニー先生が生徒たちに「差別をどう思いますか」と聞くと、生徒たちは異口同音に「どんな人も良い点と悪い点を持っています。だから、人を差別してはいけないと思います」と答える。
「人はみな平等」と言う「教え」を身を持って体得した(させた)授業だった。
更に、アニー先生にはもう1つの狙いがあった。
実はある生徒が「いじめ」に遭っていたのである。この「いじめ」を無くす事も念頭に置いていた。
そして、この目的も見事に解決されたのである。
この実験授業が良いか悪いかは判らない。後々の検証を経て、結果が示されるであろう。
しかし、少なくとも「差別」や「いじめ」を見て見ぬ振りをするのではなく、「体験」によって、生徒たちに体得させる事の重要性は否定出来ない。
それにしてもアニー先生の何事にも正面から取り組むと言う姿勢には感服する。
ところで、「イラクやアフガンでどのように使われようが海上給油艦はアメリカ艦船などに給油したらいい」「憲法9条を無くし、戦争を出来る国にする」と主張する人達は世界の各地で起こっている戦争の最前線で激戦を「体験」すればいい。
商売人(とは言っても街の小さな商売人)は儲けていると言う人は鉄くずと汗に塗れて鉄工所で働く「体験」をして見たらいい。
「女性は子供を生む機械」と言う人は我が身を持って、子供を生む「苦しみ」と「喜び」を「体験」して見たらいい。
「福祉や医療制度を益々、悪くして年寄りは早く死ね」と言う人は身寄りも無い、哀れな年寄りになった「体験」をして見たらいい。
「エイズ薬害事件で国や製薬会社の責任を認めない人」は危険な血液製剤フィブリノゲンを自ら、投与しエイズ発症抑制の薬を毎日、飲み続け、エイズ発症の恐怖と闘いながらの生活を「体験」すればいい
兎にも角にも、何もしないで口先だけでこのような主張をする人は真剣に物事を考えていない無責任な人種と言える。