サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

川の流れのように

2015-11-09 00:00:47 | 日記
私はどんな難しい問題も解決する能力を持っていますが、それをあたかも持っていない振りをしているだけなのに、それを見て私が単に奇跡を行う人で、それ以上の存在ではないと見るのは大変愚かなことです。SSIB1974c32

ポニョ:ここ数回にわたって信仰心と帰依の心そして神への愛について話して来たけれど、いろいろと話していると気が付いたけれど、結構奥が深いサブジェクトやぜよ。

ヨシオ:ヒスロップさんと一緒にインタビュールームにいた学生に、ババはこんな質問をされた事がある。「奇跡が先か信仰心が先か?」って。それで学生が「もちろん奇跡が先ですよ。だって人々はあなたの奇跡を見て初めて、ああやっぱりサイババ様は神の化身だったんだ。神様だったんだ。と気付くでしょう?」と言ったんや。でもババは「それは違う。信仰心が先だ。」と言われたんや。

ポニョ:ええ?そうなんや。おいらは学生の方が正しいと思ったんやけどな。だって人はババの奇跡を見ると驚くやろ。それで目覚めるやんか。その学生が言ったように、ババはやっぱり神様やったんやって気付くやろ。

ヨシオ:昔、ノルウェーから科学者がやって来て ババにお願いしたんや。「あなたが神の化身である事を人々に知らせる為に、あなたの奇跡を科学的に証明してみたいから私たち科学者が納得する限られた条件の中で奇跡をして欲しい。そうすれば誰もあなたがマジシャンだとか偽預言者だとか言わなくなるでしょう。」と言ったんや。ババは、それまでその科学者の前でたくさんの奇跡をされているのに、その科学者はババに対しては科学の実験の対象としか見ていなくて、何度も目の前で奇跡を見ているのに全然信仰心なんて湧き上がらなかったんや。だからババは「そんな事をしても無駄だよ。」と言われたんや。

ポニョ:そうかな?人々はそういう科学的に決められた条件の下で、ババの奇跡が科学者によって奇跡だと証明されたら、畏敬の念に包まれて神への信仰心が出てくるんと違うのんかな?だって、近い将来にババが世界中の空に現れるやろ。その空に現れられたババを見て人々は畏敬の念に包まれてババが神様だった分かるわけやから、やっぱり奇跡が先やぜよ。

ヨシオ:将来ババが空に現れたり、山脈を持ち上げたりして多くの奇跡をされるけれど、でもこのブログで何度も言っているように、その前に人々が神様を心から来て下さいと泣きながら神を求めるような状況が起こるんや。そのハートからの人々の叫び、神様を呼ぶ声に応えられてババが世界中の空に現れるんや。でないと意味が無い。

ポニョ:そうやろな。今この世界で現れても、また別のサイババブームが到来するだけで、以前にも記事にしたけれどグローバル企業がババのローブに自分の会社のロゴを入れてくれたら百億円出しますとか、今度マディソンスクエアーガーデンで奇跡のショーをしてしっかりお金を稼ぎましょう。とか言っていろんな興行師がやって来るんやろうな。そしてババと二年契約するとか、いやうちはもっと契約金を出しまっせ。とか言う輩が出て来るんやろな。

ヨシオ:いくらババの奇跡を見ても、その人が心に信仰心がない限りそれはその人にとってはただの奇跡のショーで、どこかの有名なマジシャンのショーに行って見て来たぐらいのインパクトしか無いんや。だからババはそういう事は無駄な事だと言われたんや。

ポニョ:という事はやっぱり信仰心が先だって事なんか。うーん、そうなんかな?やっぱりそうなんやろな。

ヨシオ:ババが奇跡をされるのは別に人々に神の力を見せびらかせているんではないんや。ババが手を回されて物質化されたりするのをマスゴミは、興味本位に面白がって取り上げるけれど、そのような奇跡はババの持っておられる神の力のほんの一部分で、ババは人々に自分が持っている神聖な力、至福の喜びを、少しでも帰依者の人たちに分け与えてあげようとされているだけなんや。

ヴィブティを生み出すことは、神の栄光のほんの一部にすぎませんが、私はほんのわずかしか顕さないようにしているのです。
~人々に注目されようとして奇跡を見せびらかすことは、私の本性ではありません。
私は何の目的もなく、ただ喜びを分け与えるのです。
私が不思議な御業を楽しんでいるのはその為なのです。真善美p,152
私はどんな難しい問題も解決する能力を持っていますが、それをあたかも持っていない振りをしているだけなのに、それを見て私が単に奇跡を行う人で、それ以上の存在ではないと見るのは大変愚かなことです。SSIB1974c32

ポニョ:おいらがもし神の化身でそういう力を持っていたら、人々に物質化した物を与えまくるやろな。美味しいオクラの天婦羅とかダイヤモンドとか金の延べ棒とか何でもリクエスト通りの物を出してみんなを幸せにするやろな。面白そうや。

ヨシオ:あのな、そんな事をしたらめちゃたくさんの人がやって来て長い行列が出来て収拾がつかなくなるやろな。神さんはポニョにそんな力を与えたら、めちゃくちゃな事をするって知っておられるから絶対にそんな力を与えないやろな。だいたい神様って三つのグナ、つまり人が持っている三つの性質を超越したところにおられるからこそそういう奇跡が出来るのであって、そのグナに縛られている間はそういう奇跡は逆に人のエゴを膨らますだけなんや。特に性質が浄性な人は神の性質に一番近いけれど、そういう奇跡の力を持つと困った人や苦しんでいる人を見ると、その人の過去のカルマによってそういう苦しい状態にあるのにも関わらず、その人に同情して奇跡の力によって助けようとするので逆効果なんや。

ポニョ:ババが三つの属性を超えた存在ではなく、浄性な性質を持っておられたらダルシャンに出られたら忙しいやろな。「ああ君かぁ。久しぶりだね。確か以前インドに来たのは五年半前になるよな。お母さんは元気かい?少しリューマチで苦しんでいたよな。ヴィブティを与えるからお母さんに持って帰ってあげなさい。あれーお前は以前、インタビューをくれないって言って頭にきて帰って行ったよな。今回は来週の初めに呼ぶ事にしてるからそれまで待つんだよ。その時に君の息子さんの就職についてアドバイスをしてあげよう。」と色々お話ししながらダルシャンを与えられるから、賑やかになるぜよ。

ヨシオ:そうやろな。人々の欲望に付き合っていたらきりが無いもんな。昔あまり人がいなかった時は、ババは人々を一列に並ばさせて一人ひとり順番にいろんな相談に乗って上げておられたけどな。

ポニョ:シルディババもそうやったよな。でも人が増えて来たらそういうわけには行かないぜよ。

ヨシオ:俺たちは自分の中に神様がいるのを忘れて外に神様を探しに行ってるんや。その間、自分の中におられる神様は、無視されて寂しい思いをされているんや。全ての人が求めている答えは自分の中に深く沈潜したら見つけ出す事が出来るのに、人はそれをしないでいつも自分の外に出て行こうとするんや。

ポニョ:おいらの内側に真の幸せがあり、全ての答えがあるのにも関わらず外側に探しに行くって、まるで願望成就の木の下にいるのに、どこか遠くに欲しい物を見つけに行くようなものなんやな。でも自分の奥深くに沈潜するって難しいぜよ。仙人じゃ無いんやから。

ヨシオ:この世は実は大きな大きな川の流れのようなものなんや。その川は愛の川で、全ての人たちがポニョが大好きなカヌーに乗って川下りをしてるんや。ある人は早く漕ぎながら海まで行こうとし、ある人は川の流れに身を任せながら、ゆっくりと川の流れと同じスピードで流れて行き、ある人は逆に上流に向かって汗を流しながらパドルをしてるんや。またある人は川の途中にある水面から飛び出ている大きな岩にぶつかってカヌーの底に穴が開き浸水してパニックになっている人もいる。このように人、一人ひとりによって愛の大河を下っていく様は違うんや。でもどれほど多くの人たちがいろんな川下りをしようと最後には全ての人は大きな愛の川の圧倒的な水量に押し流されて海にたどり着くことが出来るんや。

人間性は、清められ、制御され、特定の方向に沿って導かれなくてはなりません。
そうでなければ、氾濫したガンジス河のように、それを無害であると考えて安心してくつろいでいる無数の人々に災難をもたらすでしょう。
手っ取り早く利得を手に入れようとする性急さは治さなければなりません。
後から手に入る利得のほうが、より長持ちし、より健全です。
集団の利益、村の利益、地域社会の利益、国の利益、あるいは、人類全体の利益になるように、個人の利益は断念しなければなりません。
理想、原理、法律、慣例、規範、習慣、行為――すべては意図と結果という二点に基づいて判断されます。
意図は純粋ですか?
それはプレーマ〔愛〕から生まれたものですか?
それは真理に基づいていますか?
それはシャーンティ〔平安〕をもたらしますか?
もしそうであれば、その行為や法律、慣習や振舞いの中には、ダルマが安置されています。
意図と結果は、あふれるゴーダーヴァリー河の水を安全に海へと導く二つの堤防です。
海はどれほどの河の水量も飲み込むことができます。1962年10月2日

ポニョ:あんたが言いたいことは大体読めたぜよ。つまりこの世の中にはいろんな人がいるけれど全ての人は神様に遅かれ早かれたどり着くから、自分の心の中に深く沈潜出来なくて神様の声が聞こえなかっても、焦らずに自分のペースで安全に目的地まで流されて行きましょうと言いたいんやろ。

ヨシオ:まあそういう事かな。でもこの愛の川を安全に下るには川の堤防を越えてはいけないという約束事があるんや。それは川を下っていると川の両側の堤防に大きく書いてあるから、海にたどり着くまでその標語を忘れずに川下りが楽しめるんや。

ポニョ:分かった。何が堤防に書いてある標語って。

ヨシオ:何やねん。また変な事を言うのではないやろな。

ポニョ:変な事を言うわけないぜよ。おいらは日本中の川を下ったんやで。川下りの名人や。だから川下りする時には何が必要か一番よく知っているんやぜよ。一つは無理をしないで下る事や。だって急流があったりしても、「ええい!やけくそじゃ。行くぜ~!」とか言ってきちんと調べもせず難度四とか以上の急流に突っ込んでいくと沈してえらい目に合うんや。二つ目は疲れて来たらしっかりメシを食って休息して英気を養ってから下り始めるんや。この二つやな。任せなさい。カヌーの川下りは。このポニョさんに。

ヨシオ:あのな俺は何も現実にある川下りの話をしているんではないんや。俺は例えとして川下りの話をしているだけなんや。何がしっかりメシを食うや。その愛の川の堤防にはこう書いてあるんや。一つは「神への信仰心を持てば英知を養う事が出来る」もう一つは「神を疑えば人生を滅ぼす」の二つや。

 川は二つの岸の間を流れなければなりません。
そうでなければ、村々が洪水に見舞われ、 言いようのない苦しみが引き起こされます。
川にたとえることのできる人生もまた同様に、 8つの文字で出来た二つの格言がその両岸となっています。
その二つの格言とは、「ゆるぎない信仰を持った人だけが英知を獲得することができる」(シュラッダーヴァン ラバテー  グニャーナム)と、「疑い深い人は滅びる」(サムサヤートマ ヴィナーシヤティ)というものです。
この両岸に守られたときに初めて、人生という川は恩寵の海に流れ込むことができます。
もし皆さんの人生の川がその両岸の間を流れないとすれば、人生が無駄 になる ばかりでなく、他の人々に害を与えることになるでしょう。
神を疑う人は、神の恩寵にあずかることができません。
誠実な目的を持たない人は、人生に成功することができません。
誠実な人は、与えられた機会がいかに小さなものであれ、最大限に活かします。たとえばそのような人は、いかに小さな火種からでも、大きな火を起こすことができます。
一方、 誠意に欠ける人は、たとえたくさんの火種を与えられても、火を起こすことができません。
その人は、無気力な態度によって、すべての火種を炭にしてしまうでしょう。
神に関することがらに対しては、この上ない誠実さが必要です。199/5/30

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