サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

悲しみにさよなら微笑んでさよなら

2015-10-12 00:00:15 | 日記
“あなた自身が自らの身を正せば、他の人も正すのです。
なぜならあなたは、他の人を自分から分離したものとは考えないからです。
他の人の批判、あら探し、それはすべてあなたのエゴから出て来ていることなのです。
あなた自身の欠点を探しなさい。
あなたが他人に見る欠点は、あなた自身の性格が反映しているだけなのです。
些細なことにくよくよせず、心を至高の神に結びつけなさい。
そうなれば、あなたは良い人々とだけ交わるようになり、あなたの力も変わってくるでしょう。
すべての人を神の子どもと見、あなた自身の兄弟姉妹とみなしなさい。
愛の心を培い、常に人類の平和と繁栄を念頭に置きなさい。人を愛しなさい。”

ポニョ:先日の会話で亡くなった人が恋しいのは、その故人の中にある愛が恋しいのであってその故人の悪い性質が恋しいのではないという話をしたけれど、その人の中にある愛という事は、神さんって事になるぜよ。だから神さんを恋しいんや。

ヨシオ:全てを神と見做せる人は、亡くなった人を恋しく思う前に、その人の中に神を見る事が出来ているんや。だからその亡くなった人を自分が愛おしく思っているのは、実はその人を通じて現れている神様を愛おしく思っていると知っているから身近な人が亡くなっても、その故人に対して恋しがったり愛おしがったりして悲しまないんや。

ポニョ:でも、その故人が持っている特有の性質に裏付けされた個性は、どの人の中に一様にあるのではないから、その人が死ねばもうそれで終わりやぜよ。

ヨシオ:そういうアートマを包んでいる霊体は、多かれ少なかれエゴや欲望、獣的な性質を持っているから、それらを通じて現れる故人のキャラを愛おしく思っているんであればそれは別の問題や。つまり執着心がそこに関与してくるんや。もし執着心が関与し出すとキリがなくなってしまうんや。

ポニョ:というと、例えば亡くなった人の性質だけではなくて、その人の趣味やその人が執着していたもの、またその人がこだわっていた物までを懐かしく思ってしまうと、どこまでその故人を愛おしく思うのかキリがなくなるって事やな。

ヨシオ:故人の身体を通じて現れていた神の愛を見つけてそれを愛おしく思う様にすれば、その愛は普遍的なものとなって、その人の中に見つけた愛を他の全ての人の中に見つける事が出来るから、親しい人や自分の身内が亡くなっても悲しまなくなるんや。

ポニョ:今のあんたの話を聞いていて思い出したのが、以前娘さんをアシュラムに連れて行って亡くされたあんたの友達の話や。

ヨシオ:彼らに一番最後に会った時はもう立ち直られていて、大工さんの仕事を始められていたな。でもこんな事を言ってた。この世から得られる幸せは全て一時的なものやということがよく分かったって。
今は年寄りや困ってる人の家を、施しだけのお金をもらって修理するのが楽しみやそうや。
その年寄りの中に神さんが見える。神さんと一緒になった娘が「お父さん良くやってるね」って言ってるのが分かるって言ってた。
そして俺に、今まで友達でいてくれてありがとう。僕はもう大丈夫や。神さんがいつでもどこでも誰の中にでもいてるって事が分かったから嬉しい。いつも神さんと一緒やという事がよく分かったから幸せなんや。と言っていた。
もう仙人みたいになってたな。
世俗にまみれた俺たちより、ずっと上のレベルの高いところにおられたな。

ポニョ:本当に頭では分かっていても、そういう自分の子供の死をさっと受け入れられる人って少ないよな。

ヨシオ:多分その次女さんは前世は聖者で、ほんの少しだけのカルマを持って生まれて来たんやろな。その反面、ポニョや俺たちは長生きしそうやな。

もしヨギがいくばくかのカルマを持って生まれ変わってきた場合、その魂が子宮の中にいる間や,子供時代を不憫に過ごすなどして短期間にカルマを支払ってから死ぬ。
その場合,それが最後の生まれ変わりとなる。

子供は愛と至福で溢れています。成長すると、子供はおもちゃを愛し始めます。
それから遊ぶことを愛し、徐々に友達を愛するようになります。
青年になると人生の伴侶を愛し、次に自分の家族を愛し、次第に職業や地位や財産への愛を持つようになります。
このように愛は様々な方向に流れるに任され、その為に愛は薄められ、ついには執着へとなり下がってしまうのです。

“子供は神の申し子と言われています。
子供のうちは、憎しみや怒りや嫉妬に駆られることはありません。
イエスは、子供にはどこにも悪いところが無いのだから、子供は神のようだと言っています。
子供のうちは、心にも身体にも何も悪いところはありません。
悪い心からおこる悪い感情が無いから、子供は美しいのです。
大きくなるにつれて、子供達に少しずつ悪い性質が身についてきます。そうなると、子供の持っている美しいものが失われてしまいます。
悪い心は、悪い言葉と悪い行いとなって、子供の美しさを無くしてしまうのです。
人の持っている美しさは、少しずつ無くなっていきます。


ポニョ:大工さんになったお父さんの様に、全ての人の中に神さんを見れるようになったら、神さんと一緒になった娘さんをどんな人の中にでも見れるから寂しく無くなってしまうよな。

ヨシオ:このように全ての人の中に自分が愛おしく思っている人や、大事な人...それは実は神御自身なんやけれど...の中に神さんを見る事が出来れば、自分が愛している子供や奥さんや恋人を失くしてどれだけ悲しくても、その哀しみから立ち直る事が出来るんや。そのように悟った人は自分の人生を振り返って見ると、自分は一人じゃなくていつも神さんと一緒だったという事が分かるんや。

ポニョ:そのような霊的な事を知らなかったら、この非情な世間を渡っていくのは難しいよな。
🎵悲しみにさようなら~微笑んでさよなら~一人じゃないよ~🎵やな。

ヨシオ:玉置の歌か?その歌を昔カラオケで歌った事があるな。

ポニョ:そういやあんた、ちょっとガラを悪くした玉置にも似てるよな。

ヨシオ:ガラを悪くしたは余計や。実はこの世にある全てのものは、儚いもので残酷なようにわざと作ってあるんや。自分の周りにあるものが実は真実ではなく全てはまぼろしだと達観した者だけが、そのまぼろしの中に真実を見る事が出来るんや。ポニョが以前、二律背反という言葉を使って難しいコメントをしてたやろ。神様ってそういう風に一方を否定する事によって、もう一方を肯定するようなセオリーを、この世界の中に創造の秘密として幾つか仕込んでおられるんや。

ポニョ:本当にこの世界は、神様が作られたゲームの中の世界みたいやぜよ。

ヨシオ:創造の秘密って人にすぐに分からせないようにわざと作られているよな。例えば、全てを諦めたら全てを得ることが出来るとか、全てが幻だと分かれば全てが真実だと悟れるとか、自分が自分ではないと悟れば真の自分が分かるとか、個々人に自由意志は無くて全ては神の意思だと悟った人だけに神様が自由意志を持つ事を許すとか、この世にある物は全ては自分に属さないという捨棄の心を養えば、全ての物は自分に属しているという事を悟れるとか、ちょっと捻った面白い世界を創造されたよな。

ポニョ:そんな話を聞くと神様の性格ってちょっと歪んでいるのかなって思っちゃうぜよ。それではここで以前、同じようなトピックについて話した記事を再掲しますね。

ポニョ:自分の中にある愛を拡げて世界を包むまで大きくしようと思っても、実際やるとなったら難しいよな。だって、自分を傷つけようとしているものや、極端な話、自分の家族や会社の敵にまで愛を広げるって、大きな神のような心の持ち主でないと出来ないよな。

ヨシオ:ラーマクリシュナ パラマハンサという聖者がこんな話をされていた。
街を歩いていた人が、強盗にあって頭を殴られ、身ぐるみ剥がされて通りで血を流して横たわっていると、警察が来て顔についた血を拭き取りながらこう聞いた。
「おい。大丈夫か。誰にやられたんだ。強盗の顔を覚えているか。何を盗られたんだ。」と。
それで、男は「あなた様の中におられる神様がこうして、あなた様を通じて私を介抱して下さっていますが、その同じ神様が強盗の中におられて、私を殴って物を盗って行かれ私のカルマを取ってくれたのです。ありがたい話です。」と言ったんや。
ラーマクリシュナ パラマハンサは、このような態度を取れるものこそが、本当の神の信者だと言っておられた。

ポニョ:それってすごいよな。おいらには絶対無理な話だと思う。あんたよりましやけど、すぐにカーッって来るし、おいらはまだそのレベルじゃないな。でもそんな人って、以前記事にしたおいらが車で足を轢いた坊さんみたいやな。

ヨシオ:あんたよりましやけどは、余分やろ。全ての人の中におられる神さん。その神さんを見て生きて行くっていわば究極の帰依の心やな。
もし、そういうことが普通に出来れば、その人は誰をも傷つけなくなるし、その人にどんな災害が降りかかっても幸せな気持ちでいれるし、また、全ての人や小さな生き物でさえも愛することが出来るようになる。

ポニョ:それって、神の化身と一緒やんか。神さんって愛そのものやろ。だから、そういうふうに全てが愛って見れたら、その人は愛そのものになれるのと違うか。

ヨシオ:最初は誰でも、そんなレベルに行くのは無理やと思う。でも、自分の周りの人から、ほんの近くにいる人から始めてたらええ。人は、誰でもこの宇宙全てを愛せるだけの宇宙大の大きな愛を持っている。
愛は神さんそのもので、神さんは愛そのものや。自分の中にある愛を外に膨らませば膨らます程、その人はとてつもない神のパワーを得ることが出来る。
サイババさんは、私は自分が持っているこの愛の力をいつでも人々に分け与える用意があるけど、それを求める人は少ないって言ってられる。

ポニョ:でも、それって二律背反やな。

ヨシオ:おっ。なんか、ポニョが難しい言葉使いよったで。

ポニョ:ちゃかさんといてーな。たまには、おいらの涸れかけた英知の泉から湧き出て来る言葉を抑えきれない時だってあるんやから。

ヨシオ:涸れかけた、は余分やろ。禿げかけたやったら当たってるけど。それで、何が二律背反やねん。

ポニョ:だから愛って自分のエゴを無くさないと出て来ないやろ。自己中の人が、他の人のことを考えないのと一緒や。だから自分がしたとか、自分のものとか、という気持ちを無くして行けば行くほど愛が増えるから反比例してるやんか。一方を減らせば、もう一方が増える。
さっきの例で言えば、自分の中にある自分と思っているエゴを減らせば減らすほど、本当の自分である愛そのものが大きく育って行くということやろ。

ヨシオ:すごいこと言えるねんな。それって二律背反っていうんか。でもポニョの話を聞いてたら、えらい哲学者の話を聞いているみたいやったで。すごいすごい。本当にポニョの言う通りやな。自分が自分と思っている間はあかんねん。それはエゴやから。心の中にある椅子は一つだけしかない。全ての人は実は、その一つの椅子を巡って神さんと椅子取りゲームをしてるんや。

“エゴはどこから生まれるのでしょう。どうしていつもエゴに悩まされるのでしょう。
人間の持つ無知によってエゴが起こります。
~宇宙の大きさが分かっていたらエゴなど起こるはずはありません。
宇宙はどれほど大きくて、自分はそれに比べてどれほど小さいか忘れてしまったときに浅はかな考えが浮かぶのです。SGc31”

ヨシオ:クルクルと椅子の周りを回りながら音楽が止まると、神さんかそれとも自分のエゴかどっちかしか座れない椅子を取り合いをしてる。
その椅子を、神さんにどうぞ座ってください。と言って譲らないといけないのに、人は神さんに座らさないように自分が大きな顔をして椅子を取って、その上に踏ん反り返っている。

ポニョ:神さんと椅子取りゲームをして遊んでいるのが人生か。面白いな。最後には、絶対負けるゲームや。だって、その自分が争っている神さんが、本当の自分やったって気が付くんやろ。自分が、そっちやったって。こっちが自分やったって思ってたんは、鏡に映っていただけの自分やったってことが分かるから、最後はあっちが自分やてことは、自分が一つってことやろ。つまり、自分が、神さんやってことは……。

ヨシオ:そろそろストップしないと、耳の穴から煙が出て来てるで。頭の中がショートしてるわ。
もっと簡単に言えば、汚いエゴっていう水を含んでいるスポンジを絞って汚い水を出さないと、きれいな神さんの水をスポンジが吸えないってことや。

ポニョ:あっ。そっちの方が分かり易いわ。さっきのままやったら、なんか、自分がカントかデカルトとかソクラテスになりそうやった。

ヨシオ:なれるわけないやろ。ポニョは椅子取りゲームの達人にはなれるやろけどな。

“もしあなたに愛があれば、それで十分です。他のすべてのものがあなたに自動的に付加されるでしょう。
奉仕、犠牲、謙虚さ、信愛、自制というものはすべて愛に含まれています。
あらゆる徳性をあなたから導き出し、霊的にあなたを高めてくれるのは愛だけです。
愛のあるところには、エゴや憎しみや嫉妬といった、低級で卑劣な動物的性質はありません。STPSp114”

“エゴはどのようにしてあなたの心に入るのでしょう?
それは、あなたが真実の道を手放したときに、あなたの心に侵入するのです。
あなたが、真の自己を知らずに、世俗的な思いや感情を育てるときに、あなたは利己的になります。エゴを取り除くには、世俗的な思いや感情をコントロールしていなければなりません。”


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