人の真の本性は歓喜です。
それゆえ、人は常に明るい顔をしていなければなりません。2/4/2003
ポニョ:先日の会話の中で心に残ったのが、宇宙が創造された時には全てが愛だった。でも自分の世界に対する見方が正しくないのでこの世界は愛で満ち溢れているのに、自分の周りに悪を見たり敵を作ったりするってとこやったな。
ヨシオ:人間が動物から生まれ変わり進化していく過程で自らの中に獣的な性質を宿している為に、いろんな間違いを犯したりしてカルマを作り、それがまた自分に返ってくる。人はそれを不運だとか苦しみだとか言って嘆くけれど、それらは実は全部自分が作り出した物なんや。それらを全て幸せな気持ちで受け入れ、何が自分の身に起ころうがそれは神様からのプレゼントだと思えば苦しくなくなるやろ。
喜びや苦しみは皆さん自身が作り出しているものです。
喜びも苦しみも神が授けるものではありません。
他の誰でもなく、あなた自身があなたの苦しみの原因です。
この真理を知りなさい。
霊的な視点から見るなら、苦しみもこの世の関係も幻です。
それらは現実に存在するものではありません。
人は明けても暮れても迷妄の生活を送っています。
人として生まれたからには真理を体験すべきです。
肉体は一定の期間成長し、その後、弱って老いぼれます。
生まれることも成長することも、体という、現実には存在しないものと結びついています。
けれども人は、体を現実に存在するものと思い、そのために苦しむのです。
~自分は体ではなく、この世にあるすべてのものは何も自分のものではない、ということをひとたび悟ったなら、苦しむことはなくなるでしょう。
この世のすべては皆さん自身が作り出しているものです。
実在するものは何もありません。25/12/03
ポニョ:言うは易し行いは難しやけどな。そういう事が自然に出来るようになったらすごいよな。
ヨシオ:人生を歩んで行くって事は、出会いと別れ、得る事と捨てる事が付きもんやろ。生まれた時は誰でも裸で生まれて来て、誰も指輪やネックレスなんかつけて生まれて来る赤ちゃんなんて見た事ないやろ。
ポニョ:それって面白いやろな。赤ちゃんが札束がぎっしり詰まった財布や銀行の通帳や小切手を持ってたり、キャッシュカードや不動産の登記簿謄本を持って生まれて来たら。
ヨシオ:でも全ての赤ちゃんは、人の目には見えないけれど、とても大事な物を携えて生まれてくるんや。それはカルマなんや。
ポニョ:この世に何十億人もの人が住んでいるけれど、一人を除いて全ての人類はカルマが理由で生まれ変わって来るもんな。でも神の化身だけはカルマを持たずに、自らの意思で生まれ変わって来るってババは言っておられたよな。
ヨシオ:でも俺たちは自分がどんなカルマを持って生まれて来たのか、この世に生を受けた途端に忘れてしまうんや。だからこの世に生を受けた後に、自分が持っているカルマによっていろんな災難が降りかかって来たら、それを自分以外のせいにして他人を責めてみたり、自分の不幸を嘆いたりするんや。以前も言ったと思うけれど、カルマの法則って自分が過去に犯した間違いを償わしてくれる愛の法則なんや。人に頭を打たせて他人の気持ちが分かるようにさせたりして、その人が霊的にレベルアップさすための法則なんや。だから人生の上で何が起こっても、それは自分にとって最適な試練であって、それらは神様からの贈り物だと看做せば悲しむ事なんて無くなるし、逆にその試練がきっかけとなって自分自身がもっと謙虚でへりくだる事が出来るようになり、愛に満ちた人に変貌を遂げていく事が出来るんや。
ポニョ:以前、苦しみは自分からの贈り物というタイトルの記事を紹介したよな。人は苦しみや悲しみを経験して初めて他人の悲しみや苦しみが理解出来るもんな。そして同情心があり慈愛に満ち溢れたおいらのような素晴らしい人が出来上がるんや。
ヨシオ:あのね。ポニョを幸せな愛に満ち溢れた状態にさすのは別に特別な事をしなくても、何か美味しいものを食わせば簡単になるやないか。それでなくてもいつもニコニコしてるのに。何かいつもニコニコ顏が出来る秘密でもあるんか?
人から人へと微笑みを広げなさい。
あなたの嘆きや不幸を人に語って悲しい世の中を一層悲しくするのですか。
あなた自身の悲しみを慰めるために神の御名を唱え、御姿を黙想しなさい。
あなたが自分の悲しみに打ち勝って、他の人の模範となりなさい。真善美pt138
ポニョ:別に秘密ってものは無いぜよ。生まれつきニコニコしてる顔なんや。でも人によく聞かれるので、おいらはこう言っているんや。朝一番、誰でも洗面所に行って顔を洗ったりする時に自分の顔を鏡で見るやろ。その時に鏡の中の自分の顔がどんな顔かしっかり見てみるんや。幸せそうな顔かな?寝不足の顔をしてるかな?それともその日にテストや嫌な事をしなければいけない事があるから、鬱陶しい顔をしてるかな?このように今日はどんな顔をしてるのかなと思って自分の顔を見るんや。その時に幸せそうな顔をしていなかったら、鏡の自分に向かって、自分がこれ以上幸せな顔が出来ないくらい思いっきり幸せな顔をしてみるんや。そうすれば、あゝこれがおいらの元々の顔や。こんな幸せそうな顔をして一日中過ごせたらええなって思うんや。そういう風にして毎朝起きる度に鏡を見ながら自分の顔を作っていくと、いつもニコニコした笑顔が自然に出来上がるんや。さっきも言ったように、これはおいらが人に聞かれたら言っている事で、本当は別においら自身は努力しなくても、生まれつきこんなヘラヘラ笑っているような間の抜けたような顔なんや。
信者はいつも微笑みをうかべていなさい。
喜びを顔からにじみ出させなさい。
その喜びは、あなたが内なる神性を体現したときにこそ出てくる喜びなのです。
もしあなたが幸せでないとしたら、それはあなたがその神聖さを体現していないからなのです。SS8月p,203
ヨシオ:間の抜けた狸顔ってしっかり当たっているやないか。俺はポニョはとても良いカルマを持っていると思うで。生まれつきいつも幸せそうな顔が出来るって凄い事やもんな。なかなか普通の人には出来ない事やろ。
ポニョ:あのね、狸顔はないでしょう。この前から我慢して聞いているけれど...。前にも何回かポンポコポニョ狸とかっておいらの事を呼んでいるけれど、それって結構当たってるよな。
ヨシオ:なんや。文句を言うのかなと思って構えて聞いていたら、そういうふうに呼ばれて嬉しかったんか?おもろい性格やなポニョ吉は。
話は戻るけれど、この世に神様の意思が入っていないものって何一つ無いんや。全ては神様が意思されて存在し、動かされているんや。昔まだ日本語バジャンが無かった頃に、日本のサイセンターの為に27曲ぐらいバジャンを作ってテープに録音して送った事があるんやけれど、その中の一曲の詞はイスラム教の聖典コーランの一節から取ったんや。その一節にはこんな事が書いてあった。
見えざる秘界の宝の鍵は
神の御手にあるなれば人知るすべも無かりけり
陸と海にあるものは、神皆これを知りたもう
神知りたもう事なくて一葉も落ちる試し無し
暗き地中の種一つ、湿り乾きの違いさえ
天の御文に明らかに記されざるは無かりけり
陸と海にあるものは神皆これを知りたもう
(シルディサイ ドワラカマイの曲で)
ヨシオ:このコーランの一節のように、一枚の葉っぱが枝から外れて落ちる事も、その木の種が地面の中で水分に触れて湿気ているか、それとも乾いているのかまで神様は知っておられる。俺は窓の外にある、いつも白いオウムがやって来る何千も葉っぱが付いているユーカリの木をいつも見ているんやけれど、その何千もの葉っぱが朝陽に照らされて赤くなり、それらが一斉に風に揺れて細かく揺れ動いている光景は、この世と思われぬ程キラキラして綺麗なんや。そしてその内の一枚が木の枝からちぎれてヒラヒラと落ちて行くんやけれど、その木に付いている何千もの葉っぱの内のある特定の一枚の葉っぱが、俺が見ている時に枝からちぎれて落ちて行くって事を神さんは知っておられるんや。昔、とても傷付きやすい星やんが落ち込んでいた時に俺はこう言ったんや。その頃ダルシャングランドは砂が一面に敷いてあって、蟻とか小さい虫たちがよくウロウロしてたんや。俺は「そんな事で落ち込んだらあかん。ババは全てをお見通しや。ダルシャンでババを待っている時に、蟻が星やんが脚を組んで座っている砂の上を、右脚から左脚に歩いて横切っているやろ。ババがダルシャンに出て来られたら、『今、僕が座っていると場所に蟻が這って行きましたが、右脚から左脚まで一体何歩で行きましたか?』とババに聞くとババは『そうじゃな。脚が6本あるからそれらの歩数を全て数えたら、お前の右脚から左脚まで、その蟻は七千二百八十四歩かけて歩いたな。』と言ってくれる。それぐらいババは何でも知っておられるんや。今星やんが悩んでいる事も、全ては起こるべくして起こっているんや。なんの偶然もない。ババはそういう事が起こるのをお許しになられているんや。そういうダルマに反した行為をしている人の中にもババはいるんや。どうして俺たちは全てを神がコントロールしている世界の出来事に対して、いちいち落ち込んだり悲しんだりせなあかんねん。全てはババがコントロールされているんや。俺たちはがしなければならない事は、何が起こっても全てを神に委ねて幸せな気持ちで受け入れる事や。」と。
ポニョ:そういや星やんは、本当にすぐに落ち込んでいたよな。めちゃ傷付きやすい性格やったからな。おいらと正反対やったな。でも傷付いても自分ですぐに立ち直っていたけれどな。
ヨシオ:そうやったな。この二元の世の中の全てに神を見れる人は、たとえ頭に来たり落ち込んだりしても、それは一時的な事で後に尾を引かないんや。先日愛が先か信仰心が先かという話をしたけれど、信仰心って直ぐに身につくものでは無いんや。何度も人としての生を繰り返し、何度も何度も過ちを犯して頭を打ち、数え切れない程人に迷惑を掛けて後悔し、涙が枯れる程人に頭を下げながら心から謝って謝り尽くした人が、最後に行き着く先が神なんや。その人が自分のそれまでの人生を振り返って気づく事は、自分の周りにいた全ての人が、実は自分を鍛えて自信を持たせ、人の悲しみや苦しみが分かる愛に溢れた人間にする為に、神様が姿形を変えて自分の前に現れて来られた人々だったという事なんや。その事に気付いた人は、自分がどんな試練にあっても発する言葉はただ一つしか無いんや。それは「こんな試練をいただいて本当に有難うございます。」という感謝の言葉なんや。そのように全てに感謝が出来る人は、どんな事があっても神様がされていると分かり神への信仰心が深まり、その結果、神への愛もその人の中で、その人が歩む人生の一歩一歩ごとに大きく膨らんで行くんや。
ポニョ:人は死んでも次の生に携えて行けるものが一つあるって言ってたよな。それは神への愛やって。だからそのように全てに感謝して信仰心を深めて行けば、神への愛は貯金箱の中のお金のように増えていくってわけやな。今日はええことを学んだな。嬉しカルカルやな。世俗的なものはどれだけ努力して得たり貯めたり蓄財しても次の生に持って行けないんやけれど、神への愛だけは次の生にまで貯めて持って行く事が出来るんやな。という事は人生における最良のお勧め投資物件ってわけや。
ヨシオ:ポニョはめちゃ実利的人間やな。愛が投資物件って俺が言っている事とちょっと違うと思うけど…。
神もまた、時にはあなたに困難を課します。
しかし、それはただあなたのために、それがあなたにとって良いことであるからこそするのです。
喜びも悲しみも神の贈り物です。
それらは神の恩寵です。
だれにも神のリーラ〔遊戯〕を理解することはできません。1/3/03朝
それゆえ、人は常に明るい顔をしていなければなりません。2/4/2003
ポニョ:先日の会話の中で心に残ったのが、宇宙が創造された時には全てが愛だった。でも自分の世界に対する見方が正しくないのでこの世界は愛で満ち溢れているのに、自分の周りに悪を見たり敵を作ったりするってとこやったな。
ヨシオ:人間が動物から生まれ変わり進化していく過程で自らの中に獣的な性質を宿している為に、いろんな間違いを犯したりしてカルマを作り、それがまた自分に返ってくる。人はそれを不運だとか苦しみだとか言って嘆くけれど、それらは実は全部自分が作り出した物なんや。それらを全て幸せな気持ちで受け入れ、何が自分の身に起ころうがそれは神様からのプレゼントだと思えば苦しくなくなるやろ。
喜びや苦しみは皆さん自身が作り出しているものです。
喜びも苦しみも神が授けるものではありません。
他の誰でもなく、あなた自身があなたの苦しみの原因です。
この真理を知りなさい。
霊的な視点から見るなら、苦しみもこの世の関係も幻です。
それらは現実に存在するものではありません。
人は明けても暮れても迷妄の生活を送っています。
人として生まれたからには真理を体験すべきです。
肉体は一定の期間成長し、その後、弱って老いぼれます。
生まれることも成長することも、体という、現実には存在しないものと結びついています。
けれども人は、体を現実に存在するものと思い、そのために苦しむのです。
~自分は体ではなく、この世にあるすべてのものは何も自分のものではない、ということをひとたび悟ったなら、苦しむことはなくなるでしょう。
この世のすべては皆さん自身が作り出しているものです。
実在するものは何もありません。25/12/03
ポニョ:言うは易し行いは難しやけどな。そういう事が自然に出来るようになったらすごいよな。
ヨシオ:人生を歩んで行くって事は、出会いと別れ、得る事と捨てる事が付きもんやろ。生まれた時は誰でも裸で生まれて来て、誰も指輪やネックレスなんかつけて生まれて来る赤ちゃんなんて見た事ないやろ。
ポニョ:それって面白いやろな。赤ちゃんが札束がぎっしり詰まった財布や銀行の通帳や小切手を持ってたり、キャッシュカードや不動産の登記簿謄本を持って生まれて来たら。
ヨシオ:でも全ての赤ちゃんは、人の目には見えないけれど、とても大事な物を携えて生まれてくるんや。それはカルマなんや。
ポニョ:この世に何十億人もの人が住んでいるけれど、一人を除いて全ての人類はカルマが理由で生まれ変わって来るもんな。でも神の化身だけはカルマを持たずに、自らの意思で生まれ変わって来るってババは言っておられたよな。
ヨシオ:でも俺たちは自分がどんなカルマを持って生まれて来たのか、この世に生を受けた途端に忘れてしまうんや。だからこの世に生を受けた後に、自分が持っているカルマによっていろんな災難が降りかかって来たら、それを自分以外のせいにして他人を責めてみたり、自分の不幸を嘆いたりするんや。以前も言ったと思うけれど、カルマの法則って自分が過去に犯した間違いを償わしてくれる愛の法則なんや。人に頭を打たせて他人の気持ちが分かるようにさせたりして、その人が霊的にレベルアップさすための法則なんや。だから人生の上で何が起こっても、それは自分にとって最適な試練であって、それらは神様からの贈り物だと看做せば悲しむ事なんて無くなるし、逆にその試練がきっかけとなって自分自身がもっと謙虚でへりくだる事が出来るようになり、愛に満ちた人に変貌を遂げていく事が出来るんや。
ポニョ:以前、苦しみは自分からの贈り物というタイトルの記事を紹介したよな。人は苦しみや悲しみを経験して初めて他人の悲しみや苦しみが理解出来るもんな。そして同情心があり慈愛に満ち溢れたおいらのような素晴らしい人が出来上がるんや。
ヨシオ:あのね。ポニョを幸せな愛に満ち溢れた状態にさすのは別に特別な事をしなくても、何か美味しいものを食わせば簡単になるやないか。それでなくてもいつもニコニコしてるのに。何かいつもニコニコ顏が出来る秘密でもあるんか?
人から人へと微笑みを広げなさい。
あなたの嘆きや不幸を人に語って悲しい世の中を一層悲しくするのですか。
あなた自身の悲しみを慰めるために神の御名を唱え、御姿を黙想しなさい。
あなたが自分の悲しみに打ち勝って、他の人の模範となりなさい。真善美pt138
ポニョ:別に秘密ってものは無いぜよ。生まれつきニコニコしてる顔なんや。でも人によく聞かれるので、おいらはこう言っているんや。朝一番、誰でも洗面所に行って顔を洗ったりする時に自分の顔を鏡で見るやろ。その時に鏡の中の自分の顔がどんな顔かしっかり見てみるんや。幸せそうな顔かな?寝不足の顔をしてるかな?それともその日にテストや嫌な事をしなければいけない事があるから、鬱陶しい顔をしてるかな?このように今日はどんな顔をしてるのかなと思って自分の顔を見るんや。その時に幸せそうな顔をしていなかったら、鏡の自分に向かって、自分がこれ以上幸せな顔が出来ないくらい思いっきり幸せな顔をしてみるんや。そうすれば、あゝこれがおいらの元々の顔や。こんな幸せそうな顔をして一日中過ごせたらええなって思うんや。そういう風にして毎朝起きる度に鏡を見ながら自分の顔を作っていくと、いつもニコニコした笑顔が自然に出来上がるんや。さっきも言ったように、これはおいらが人に聞かれたら言っている事で、本当は別においら自身は努力しなくても、生まれつきこんなヘラヘラ笑っているような間の抜けたような顔なんや。
信者はいつも微笑みをうかべていなさい。
喜びを顔からにじみ出させなさい。
その喜びは、あなたが内なる神性を体現したときにこそ出てくる喜びなのです。
もしあなたが幸せでないとしたら、それはあなたがその神聖さを体現していないからなのです。SS8月p,203
ヨシオ:間の抜けた狸顔ってしっかり当たっているやないか。俺はポニョはとても良いカルマを持っていると思うで。生まれつきいつも幸せそうな顔が出来るって凄い事やもんな。なかなか普通の人には出来ない事やろ。
ポニョ:あのね、狸顔はないでしょう。この前から我慢して聞いているけれど...。前にも何回かポンポコポニョ狸とかっておいらの事を呼んでいるけれど、それって結構当たってるよな。
ヨシオ:なんや。文句を言うのかなと思って構えて聞いていたら、そういうふうに呼ばれて嬉しかったんか?おもろい性格やなポニョ吉は。
話は戻るけれど、この世に神様の意思が入っていないものって何一つ無いんや。全ては神様が意思されて存在し、動かされているんや。昔まだ日本語バジャンが無かった頃に、日本のサイセンターの為に27曲ぐらいバジャンを作ってテープに録音して送った事があるんやけれど、その中の一曲の詞はイスラム教の聖典コーランの一節から取ったんや。その一節にはこんな事が書いてあった。
見えざる秘界の宝の鍵は
神の御手にあるなれば人知るすべも無かりけり
陸と海にあるものは、神皆これを知りたもう
神知りたもう事なくて一葉も落ちる試し無し
暗き地中の種一つ、湿り乾きの違いさえ
天の御文に明らかに記されざるは無かりけり
陸と海にあるものは神皆これを知りたもう
(シルディサイ ドワラカマイの曲で)
ヨシオ:このコーランの一節のように、一枚の葉っぱが枝から外れて落ちる事も、その木の種が地面の中で水分に触れて湿気ているか、それとも乾いているのかまで神様は知っておられる。俺は窓の外にある、いつも白いオウムがやって来る何千も葉っぱが付いているユーカリの木をいつも見ているんやけれど、その何千もの葉っぱが朝陽に照らされて赤くなり、それらが一斉に風に揺れて細かく揺れ動いている光景は、この世と思われぬ程キラキラして綺麗なんや。そしてその内の一枚が木の枝からちぎれてヒラヒラと落ちて行くんやけれど、その木に付いている何千もの葉っぱの内のある特定の一枚の葉っぱが、俺が見ている時に枝からちぎれて落ちて行くって事を神さんは知っておられるんや。昔、とても傷付きやすい星やんが落ち込んでいた時に俺はこう言ったんや。その頃ダルシャングランドは砂が一面に敷いてあって、蟻とか小さい虫たちがよくウロウロしてたんや。俺は「そんな事で落ち込んだらあかん。ババは全てをお見通しや。ダルシャンでババを待っている時に、蟻が星やんが脚を組んで座っている砂の上を、右脚から左脚に歩いて横切っているやろ。ババがダルシャンに出て来られたら、『今、僕が座っていると場所に蟻が這って行きましたが、右脚から左脚まで一体何歩で行きましたか?』とババに聞くとババは『そうじゃな。脚が6本あるからそれらの歩数を全て数えたら、お前の右脚から左脚まで、その蟻は七千二百八十四歩かけて歩いたな。』と言ってくれる。それぐらいババは何でも知っておられるんや。今星やんが悩んでいる事も、全ては起こるべくして起こっているんや。なんの偶然もない。ババはそういう事が起こるのをお許しになられているんや。そういうダルマに反した行為をしている人の中にもババはいるんや。どうして俺たちは全てを神がコントロールしている世界の出来事に対して、いちいち落ち込んだり悲しんだりせなあかんねん。全てはババがコントロールされているんや。俺たちはがしなければならない事は、何が起こっても全てを神に委ねて幸せな気持ちで受け入れる事や。」と。
ポニョ:そういや星やんは、本当にすぐに落ち込んでいたよな。めちゃ傷付きやすい性格やったからな。おいらと正反対やったな。でも傷付いても自分ですぐに立ち直っていたけれどな。
ヨシオ:そうやったな。この二元の世の中の全てに神を見れる人は、たとえ頭に来たり落ち込んだりしても、それは一時的な事で後に尾を引かないんや。先日愛が先か信仰心が先かという話をしたけれど、信仰心って直ぐに身につくものでは無いんや。何度も人としての生を繰り返し、何度も何度も過ちを犯して頭を打ち、数え切れない程人に迷惑を掛けて後悔し、涙が枯れる程人に頭を下げながら心から謝って謝り尽くした人が、最後に行き着く先が神なんや。その人が自分のそれまでの人生を振り返って気づく事は、自分の周りにいた全ての人が、実は自分を鍛えて自信を持たせ、人の悲しみや苦しみが分かる愛に溢れた人間にする為に、神様が姿形を変えて自分の前に現れて来られた人々だったという事なんや。その事に気付いた人は、自分がどんな試練にあっても発する言葉はただ一つしか無いんや。それは「こんな試練をいただいて本当に有難うございます。」という感謝の言葉なんや。そのように全てに感謝が出来る人は、どんな事があっても神様がされていると分かり神への信仰心が深まり、その結果、神への愛もその人の中で、その人が歩む人生の一歩一歩ごとに大きく膨らんで行くんや。
ポニョ:人は死んでも次の生に携えて行けるものが一つあるって言ってたよな。それは神への愛やって。だからそのように全てに感謝して信仰心を深めて行けば、神への愛は貯金箱の中のお金のように増えていくってわけやな。今日はええことを学んだな。嬉しカルカルやな。世俗的なものはどれだけ努力して得たり貯めたり蓄財しても次の生に持って行けないんやけれど、神への愛だけは次の生にまで貯めて持って行く事が出来るんやな。という事は人生における最良のお勧め投資物件ってわけや。
ヨシオ:ポニョはめちゃ実利的人間やな。愛が投資物件って俺が言っている事とちょっと違うと思うけど…。
神もまた、時にはあなたに困難を課します。
しかし、それはただあなたのために、それがあなたにとって良いことであるからこそするのです。
喜びも悲しみも神の贈り物です。
それらは神の恩寵です。
だれにも神のリーラ〔遊戯〕を理解することはできません。1/3/03朝