都内からセシウム検出!

2012年01月21日 | 環境 -

昨日は、福島第一原発の四号機に異変があるという・・・
そんな情報があって、密かに“ざわざわ感”が ただよっていた。

また、その一方、東京都下にて「セシウム」が検出されていて、
その理由としては ガレキの焼却などもあげられている。
その量は、日常では考えられない数値だと言っておこう。

最近の「雪」や「雨」を、そのまま身体に受けることは、
かなりのリスクを 知らず知らずに 受けているのかもしれない。


ガレキを焼却するときに、空中に放射能を噴出していけば、
除染を繰り返したとしても意味がない。

福島だけではなく、これは全国での問題になってしまった。



日本が「放射能汚染」と「被ばく被害」に侵されている時、
何が安全で、何が危険なのかの線引きが 難しくなった。

もちろん、福島第一原発の四号機の不穏な情報などは、
まだマスコミは取り上げてはいないし、確証がない状態ではある。
しかし、「何かが起きた後では、遅いのだ」ということを、
私たちは覚悟して、現実を受け取っていかなくてはならない。


特に、若い世代の人々や、子供たちには、
被ばく量を少しでも減らしてあげたいと、心から思う。




   いつも時々出かけていくお蕎麦屋のご主人が、
   「明日も雨? 雪かぁ? まいったなぁ~~」と
   頭を抱えていた。嘆息の声が、店内に響いた。
   お天気によって、売り上げが かなり違うようだ。
   私は、全く同じことを感じたが・・・
   理由は完全に違う観点(理由)からだった。
   そこの天ざるは、定期的に食べたくなる。
   大きなエビも二尾、野菜もふんだんで、
   てんぷらの油配分がちょうどよい。
   蕎麦も、なかなかのものだ。
   今日は、久しぶりに食べられてよかったと
   気持ちよく素直に思って堪能した。
   食べられる内に、こうして食べておこうと・・・
   マジで感じる自分がいた。



福島原発の被災者から

2012年01月21日 | 社会 -


私の知人に会った時・・・・
非常に切実な手紙を見せられた。
それは、福島原発が原因で、育った故郷を追われ、
被災している人からの「心の叫び」だった。

えんぴつで書かれた何枚にもわたる手紙。
そこには、私たちが知りえない現地の状況が、
克明に書かれていた。
不条理で、理解不能な「理不尽」ととらえられそうな・・・
社会には報道されていない現実だ。



  津波は天災で、その点からは被災者に変わらずとも、
  原発からの非難を勧告された人もまた被災者と呼んで
  いいのだろうか。
  私は、罹災者には変わらないだろうけれども、
  あえて「被害者」と呼びたい気持ちが強い。





19日の夜、会社は「新年会」だったが、
私は、その知人との会食会を選び、出向いたのだった。

そこで、こういうシリアスなものと出会うなんて・・・
「世の中」と「被災地」の温度差そのものだ。
私が、新年会「ただ酒が飲めますよ会」に出席しても、
得るものはなく、暖かい懇親もなく、鋭気ある社長の話が
聞けることもない。
そこに参加している人も「ただで食事して酒が飲める」としか、
考えておらず、短絡的で安易な“時間の過ごし方”だ。

福島の被災者の「生の声」である手紙は、胸につまるものがあり、
誰も気にかけてくれない「不透明な未来」についても書かれていた。
「政府も東電も・・・」というくだりがあり、当事者たちは、
もどかしい現実を抱えている。

これこそ危機感に満ちている。
人が生きていくうえで、何が最低限度必要なのか・・・と、
自分に置き換えて考えてしまう。
彼らには、選択権などなく、社会からの向かい風に立ち向かい、
それでも元気を出して、声をあげていくしかないのだ。
切迫感に満ちている。


政府も、東電も、全国民も、
福島原発のことを忘れてはいないだろうか。
あるいは、すでに終わったこととして、
線を引いていないだろうか。


私たちには、思い出すことであっても、
被災者の皆さんにとっては、日常生活である。

何も持たずに家を追われ、安心して暮らしていけない人々の
不安を解消することはできないけれど、せめて「声」に耳を傾け、
その「こころ」に寄り添うことはできるのではないだろうか。

被災している皆さんは、今、感じていることを、どこに伝えて、
誰にぶつけたらよいのだろう。
放射線の恐ろしさと、常に闘いながら、生きていく必要がある。


私が読んだ、その手紙には・・・
マスコミが報道しない「彼らの暮らし」と「切迫した思い」が
書かれていたけれども、もし読むことがなかったら、
現地の人々の考えも、強いられている現実も知ることはなかった。
社会の横暴とか、権威の押し付けとか、そんな疲弊した概念が
私の中に芽生えた時、耐えられない気持ちになった。
疲れている時こそ、感情は多感になる。だからこそ、余計に、
その手紙にくぎ付けになったのだろう。
しかし、その一方で、現実的には「向き合う自信がない自分」を感じ、
チャージしなければ・・・ということを思ったりもした。
けれど、これは、個人が解決できる問題ではなく、
もっと広い意味で、全国民に「現実」を知ってほしいと思う。
そして、「何を感じとるのか」を、全国民が体験してほしい。
まずは、そこがスタートラインだと感じる。