人は、いつも集合体の中で、生きていることが多い。
コミュニティ、家庭、学校、会社、など・・・。
その中に存在する“目に見えない力関係”には、
時々、閉口することも少なくはない。
巨大な力(パワー)の前では、自分の非力さを思い知り、
現実を受け入れるしかないことがあり・・・
それはまた、自分のプライドを度外視してまでも
甘受しなければいけないこともある。
人によれば・・・
そういう現実が、日々の中で「日常化」してしまって、
無理のない「折り合いの付け方」を体得していることも・・・。
そういう人は・・・(本人が違和感を感じていないようでも)
周囲からすると「大変だなぁ」と感じ取ることもある。
いろいろな形態と、いろいろな影響で、
集合体の中での「力関係」は、さらなる進化を遂げていく・・・。
一人で、たんたんと生きている私にしてみれば、
より冷静に感じられることがあって、そういう埋没した関係に
不可思議な感覚を抱く人々の存在や感情にさえも、ただ単純に
ありのままを受け容れ、拒否反応を抱くこともない。
複雑に折り合って、様々な感情も混ざり合って、
「それでも上手く起動していればいいのだろう」と、短絡的に
現状を感じ取っている。
しかし、巨大化した集合体の中では、「取り込み作業」も
行われていることがあり、それに関する変化には、誰よりも
敏感になっている自分を感じる。
人間の手によって、“何か”を加えない限り・・・・
自然に「強く、大きな力をもつモノが、小さなモノを取り込む」し、
時間がたってしまうと、小さなモノの存在した事実さえもが、
完全に消え去ってしまう時が・・・・いつか来てしまうのだ。
雄大な自然のサイクルもしかり。
田舎の家庭菜園でも、そうだ。 野菜を植えたとしても、
雑草を駆除しなければ、土地の養分は野菜にいくことなく、
ぐんぐんと伸びていく雑草に吸い取られてしまう。
地球上のあらゆる生命が抱える宿命のようなものだろう。
淘汰された命が、さらに生き残るためには・・・・
自分を変えて、環境に適応していくことが必要だ。
さらには、種を絶やさず、努力していくことも・・・。
人類には、記録して、次世代に伝える能力がある。
歴史から学び取る事例があるように、日々の行為や事実にも全て
起承転結は存在するのだ。
大きな力に取り込まれる前に、
まずは熟考して、知恵を働かせ、自分を喪失させないための
姿勢を確立することこそ、第一歩の進展ではないだろうか。
現代社会に存在する「大きな力関係」を変えることはできない。
だからこそ、せめて、その事実を見極めて、「知」の限りを
つくすような人生を送りたいものである。