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【小倉百人一首】92:二条院讃岐

2014年10月10日 04時29分59秒 | 小倉百人一首
二条院讃岐

わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

本名は不明だが、父は源頼政。
頼政は清和源氏の中でも摂津源氏の流れになり、頼朝らの河内源氏とは別系統となる。


清和 貞純      <摂津源氏>          
天皇━親王━経基━━満仲┳頼光━頼国━頼綱━仲政━頼政┳仲綱
     <源氏初代>  ┃              ┣頼兼━頼茂
            ┃              ┣広綱(仲綱の養子)
            ┃              ┗二条院讃岐
            ┃<河内源氏>
            ┗頼信━頼義┳義家━┳━義親━━為義━┳義朝━┳義平
                  ┣義綱 ┣義国┳足利義康 ┃   ┣頼朝━┳頼家
                  ┗義光 ┗義忠┗新田義重 ┃   ┗義経 ┗実朝
                               ┣義賢━木曽義仲━義高
                               ┗行家
                     



頼政の摂津源氏は代々摂関家に仕え、院政期にも歴代上皇の信任を受けていた。そのためか頼政も和歌には優れていた。

平清盛が台頭するきっかけとなった保元・平治の乱でも平清盛と同じ陣営にいたことから、河内源氏が平家によって壊滅的な打撃を受けたときも政界に生き残り、武士としては破格の従三位の高位に上る。ちなみにそのきっかけは、当時四位だった頼政が詠んだ

 のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな

という歌が清盛の目に留まったことだといわれている。
ちなみに三位以上は公卿となり、貴族の中でもごくごく限られた人しか登れない高位だったことから清盛の、頼政に対する信頼の高さがうかがえる。

が、皮肉にもその清盛をまっさきに裏切ったのが頼政であるところが歴史の面白さ。
1180年、後白河上皇の第三皇子である以仁王とともに反平家の兵を挙あげたのだ。ちなみに以仁王が挙兵した理由は、異母弟の高倉(母は清盛の義姉・滋子)からその子である安徳(母は清盛の娘・徳子)へ遷った皇位を手に入れるためと思われる。
頼政は当時77歳。夢のような高位に昇り満ち足りた晩年だったと思われるが、一か八かの挙兵に加担した理由はいまいち謎。『平家物語』では清盛の息子の宗盛が、頼政の息子である仲綱に侮辱を与えたことだと記しているが、説得力ある学説では、以仁王の養母だった八条院暲子(鳥羽の皇女で、美福門院らからすさまじい量の荘園を相続していた)に頼政が仕えていた関係といわれている。ちなみに以仁王の令旨は、同じく暲子に仕えていた源行家が全国に届けた。

この令旨が発覚した時点で清盛は頼政が挙兵したとは思っていなかったらしく、以仁王の討伐を頼政にも命じていた。

この挙兵は事前にことが露見した(といっても発布から1カ月後)ことと、頼りにしていた延暦寺が中立の立場をとったことによりすぐに劣勢に立たされ、立てこもった園城寺はすぐに陥ちたため、平等院に逃げ込みそこで戦死する(平等院の前に碑がある)。以仁王もその後討ち取られた。ただし、頼政の二人の息子は伊豆にいたために戦火にはあわずにすみ、後に頼朝の配下となる。ちなみに異母弟の範頼や義経など、同族は徹底的に冷遇する頼朝だが、なぜか摂津源氏に対しては優遇しており、頼政の子・頼兼とその子の頼茂は大内裏守護の地位についている。ただ、頼茂は承久の乱がおこる直前に、将軍位につこうとした、という理由で西面の武士(後鳥羽上皇の直属武士団)によって討たれている。

この歌の解説にうつると、和歌の世界では”袖”といえば涙を拭くものと相場が決まっているのだが、常に鳴きぬれているためにいつもぬれている袖を、沖の石に例えたことが斬新と評価を受けた。
もっとも彼女の歌でもっとも有名なのは

 世にふるはくるしき物をまきのやに やすくも過る初時雨哉

という歌で、これは後世、数多くの連歌・俳句等で本歌取りされている。
また、彼女は父・頼政の所領であった若狭の地で地頭職にもついており(鎌倉幕府では女性の地頭を認めていた)、後には伊勢の所領をめぐって、鎌倉まで訴訟に行ったことでも知られている。

ちなみに頼政の息子広綱の子孫は後に太田道灌で高名な太田氏の祖となる。