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「観念論と坂本龍馬」

2015-10-07 07:16:46 | 日本

WiLL の門田隆将さんが、「観念論と坂本龍馬」の論文を掲載している。
以下、要約し記す。


◎国民の「命」を蔑ろにする政治家

安保法制をめぐる一連の騒動を見ながら、私は、ひとりの幕末の志士のことを思い起こしていた。土佐の脱藩浪士、坂本龍馬である。

過激な尊王攘夷論で知られる「土佐勤王党」の最初の加盟者だった龍馬には、有名なエピソードがある。開国論者の勝海舟を斬るべく勝邸を訪問したが、現実の世界情勢と日本に迫っている危機を諄々と説かれた龍馬は、不明を恥じて、逆に開国論者となり、その場で勝の弟子となった。勝自身が明治になってから語った『追賛一話』に出ているこの龍馬の逸話を思い出したのである。

一体なぜ、龍馬は、斬りにいった当の勝に会って、それまでの意見を変えたのだろうか。私は、龍馬が気づいたのは、現実を見ない「観念論」の危うさではなかったか、と思う。

当時は世界中の情報が飛び交う現代とは違い、多くの日本人は情報から閉ざされた社会に生きていた。土佐で生まれ育った龍馬も、そのひとりだ。

情報欠乏の中で、幅を利かすのは「観念論」である。現実には決して目を向けず、観念、言い換えれば空想の世界に浸る人は、いつの時代も少なくない。

しかし、龍馬は勝と出会って、世界の情勢というものを知った。過激な尊王攘夷論者たちは、外国船を打ち払うことに何の恐れも抱いていなかったが、鎖国を長くつづけてきた日本が「産業革命」を経た西洋列強に、とても太刀打ちできるはずがないという「現実」を龍馬は、瞬間的に悟ったに違いない。しかし、観念論にどっぷり浸かった人間には、彼我の力の差さえ冷静に分析することができない。「独善」こそ、彼らの特徴だからだ。

私は、国会前で「戦争法案をつぶせ」「徴兵制拒否」「憲法違反を許すな」と叫んだ人々を見て、そして国会で重箱の隅をつつく枝葉末節の議論を仕掛け、呆れるような観念論をぶっていた政治家たちを見て、「この人たちは、本当に日本人の命をどう考えているのだろうか」と、思った。

折も折、北朝鮮の『「拉致」救出国民大集会』が九月十三日、日比谷公会堂で開かれた。その場に来ていない政党は、「共産党」と「社民党」と「生活の党と山本太郎となかまたち」だった。それは、まさに“象徴”ともいうべきものだろう。最も大切な国民の「命」を蔑ろにする政治家、言い換えれば、観念論に陥った政治家たちに、いったい何を託すことができるだろうか、と思ったのである。


◎戦争法案という「空想」

九月七日、日本記者クラブで沖縄・石垣市の中山義隆市長が「現実的な脅威が高まっている。漁業者は不測の事態を恐れて周辺海域での漁を控えている。自衛隊と米軍が連携していかなる状況でも対応できる体制をつくるべきだ」と、安保法制への支持を表明した。

しかし、報道は少なく、気がつかなかった人は多いだろう。尖閣諸島(中国名・釣魚島)は、この石垣市に属している。現実に、中国は同島を「核心的利益」、すなわち自国の領土と表現し、「必要ならば武力で領土を守る準備はできている」と繰り返し表明している。中国が絶えず自国の公船をくり出し、領海侵犯をおこなうのは、「自国の領土である」というその強固な主張によるものだ。

幸いに、尖閣が日米安保条約「第五条」に定められた防衛義務の対象になっていることで、かろうじて中国は“最後の一線”を保っている。しかし、「いつ漁民に変装した人民解放軍が上陸してくるのか」と、石垣島をはじめ、多くの人々が戦々恐々としている。

残念ながら、アメリカとの共同防衛でなければ、尖閣を守るのは至難の業だ。それが日本の国防の現実である。しかし、そのアメリカの艦船が武力攻撃されても、日本は“知らぬ顔”を決め込む方がいいのだそうだ。

その第三国(ここではアメリカ)への武力攻撃に際して、日本人の生命、自由及び幸福追求の権利が「根底から覆される明白な危険がある場合」にのみ許される「必要最小限の武力行使」が、彼らにとっては、「憲法違反」であり、「戦争法案」なのだそうである。

憲法上、許された「自衛」の真の意味を理解せず、世界の果てまで行って、自衛隊がアメリカと一緒に戦争をする法案だ、というのである。どの条文をどう読めば、そんな「空想」が出てくるのだろうか。

中国や北朝鮮に手を出させないために、つまり、「戦争抑止」のために必要な法整備に、これほどの人々が反対したことに、私は違和感以上のものを覚えたのである。
「げに、観念論とはおとろしいもんぜよ」

維新の英傑、坂本龍馬のそんな声が聞こえたのは、私だけだっただろうか。










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