龍の声

龍の声は、天の声

「日本の古文書」

2018-10-23 06:41:09 | 日本

◎九鬼文書

九鬼文書 「くかみもんじょ」と読みます。ご存じのように綾部九鬼家に伝わるもので あり、古史のみでなく、たいへん広い範囲の内容を含んでいます。超古代史 の中では、信憑性の比較的高そうな文書のひとつです。一部古代文字の春日 文字で書かれた部分があるようです。伝説では、天児屋根命が天孫降臨の頃 (180万年前)に書いたものを奈良時代に藤原不比等が書き直したといわれま す。綾部ということから、大本教の出口王仁三郎に大きな影響を与えたと いわれています。 竹内文書・宮下文書・上記とともに、神武天皇以前のいわゆる「ウガヤ朝」 の存在を書いています。


◎竹内文書

竹内文書武烈天皇の命により平群真鳥が、当時存在した古文書を当時の現代の文字に 直したものである、とされています。実際にこの文書を世に出したのは天津 宮の竹内巨麿で、明治政府の天津教弾圧で出版ができないまま本体が太平洋 戦争の空襲で焼けてしまいました。現在は天津教の当時の信者が部分的に書 き写していた断片の寄せ集めでしか見ることができません。 創造神・元無極躰主王大御神以来の歴史を記述。天津教にとっては、今でも たいへん重要な文書です。


◎宮下文書

宮下文書 「富士古文書」ともいいます。孝霊天皇の時代に日本に渡来した徐福が富士 山大神宮の神官から見せられた古文書をもとに漢文で書いたものを天智天皇 10年に中臣藤原物部麻呂という人が書き直したとされています。 富士山の神であり皇室の祖先神でもある木花咲耶姫命が、富士の火口に飛び 込んでこの山の守護神となったくだりの記述は有名。実際、木花咲耶姫命が 富士山の神とみなされるようになったのは近世からですのでこの文書も江戸 時代初期より以前の時代までは遡りません。 なお徐福というのは中国の秦の始皇帝(在位BC221-210)の命により東方の仙人 の島へ不老不死の薬を探しに行ったといわれる人で、日本では徐福は日本に 来たのではないかという説が根強くあります。


◎上記

上記 「うえつふみ」と読みます。鎌倉時代の初期に豊後国の大友義能が編纂した とされています。比較的歴史家系の研究者の多い文書です。元々は豊国文字 と呼ばれる古文字で書かれていたようです。


◎物部文書

物部文書 秋田の唐松神社に伝わる古文書です。饒速日命が鳥海山に降臨してから7世紀 の物部氏の滅亡までの記述があります。物部文字(アヒルクサモジ)にも言及 されているようです。


◎但馬故事記

但馬故事記 平安初期の嵯峨天皇の命により編集が始まり、平安中期の円融天皇の時代に 完成した「但馬国司文書」の一部とされ、明治時代に兵庫県の小田井県神社 の大石繁正が発表しました。兵庫県地方の饒速日命伝承をまとめたものでは ないかともいわれています。


◎甲斐古蹟考

甲斐古蹟考 山梨県の錦村の旧家に伝わっていた文書。手力雄神との関連も指摘される、 佐久大明神の伝承が書かれています。大正時代に須田宇十が整理編集して 出版しました。



◎春日文書

春日文書 この文書は古代の有力氏族のひとつ春日一族に伝わっていたとされる文書で 昭和に入ってからも「見た」という報告があるが、実物はまだ世に出ていない。


◎秀真伝

秀真伝 「ホツマツタエ」と読みます。ホツマ文字と呼ばれる独特の古文字で書かれ た五七調の美しい文書でファンも多い。景行天皇の時代に意富多多泥古こと 三輪季聡が撰修したとされています。 江戸時代にも非常に注目されていた文書ですが、全編が世に出たのは戦後の ことです。五七調という形式が成立したのはかなり新しい時代であることと 美しすぎることもあって「間違いなく偽書」と判断する人が多いのですが、 チャネリング系の古書である可能性もあると思われます。恐らくは江戸時代 初期の成立か?また思想的に非常に興味深いものがあり、日本の神について 考えたり、太占の研究をする際には、貴重な資料です。性別について昔から 両論のある天照大神を男神とし、八人の妃神がいたとする記述は有名。


◎三笠紀

三笠紀 「ミカサフミ」。秀真伝の姉妹文書であり、同じくホツマ文字で書かれてい る五七調の文書です。景行天皇の時代に三笠臣という人がまとめたとされて います。実際、秀真伝の著者と近い関係の人が執筆したものと思われます。


◎東日流外三郡誌

東日流外三郡誌 「つがるそとさんぐんし」と読みます。寛政5年にまとめられたとされ、戦後 和田長八郎(秋田孝季)が発表しました。ほかの超古代史とは一線を画し、 東北地方の独特の神系統について記述されており、縄文文化の研究者は一度 読んでおきたい文書でもあります。












「宮下文書を学ぶ②」

2018-10-22 06:18:38 | 日本

山梨県富士吉田市明見周辺にて発見された古文書群である。なかでも宮下源兵衛氏の保管するものが最も多く、よって『宮下文書』ともいう。
数多い古文書のうち神代から太古史に至る部分は、不老不死の秘薬を求めて富士に渡来・定着した徐福一行が子孫七代に渡って編纂したものであるという。古文書は小室浅間神宮(阿祖山太神宮)の宝物として保管され、大宮司宮下氏が代々これを守ったという。
時間が経つとともに文書は逸散したという。時間とともに腐朽するか、または時の権力者(足利尊氏も名を連ねている)の迫害に遭って焼却されたと伝える。第六十七代大宮司宮下宗忠のとき、領主である秋元喬知の苛政を責めたため、大宮司職を剥奪され古文書の多くも失われたという。以後、一族は残片を保護のみに徹したが、徳川幕府が消滅し文明開化を目の当たりにするに及び、明治十六年二月二十二日に再び公開したという。
小生が確認したのは富士古文書そのものではなく、これらをまとめた『神皇記』『富士史』『長慶天皇紀略』である。ここでは、南北朝時代関連の記事のみ扱う。
有名な記事としては、
護良親王及び雛鶴姫に関する伝説
富士南朝に関する伝説
がある。戦後に出現した自称天皇のうち、三浦天皇は富士南朝・三河南朝の末裔を称している。
最初に注記しておく。史実を期待してはいけない。宮下文書著者の空想と民間伝承と軍記物語の結合体と見るべきである。


◎概要

1,後醍醐天皇時代
北条高時が執権となった当時、鎌倉幕府に往時の活力は無かった。
後醍醐天皇はこれを察知した。倒幕の好機であると考えた天皇は、計画を実行するに十分な軍事力を得る為、各地の有力者に密使を派遣した。富士十二郷には万里小路藤房が派遣され、大宮司宮下義高(三浦氏を称したという)に綸旨をもたらした。義高は天皇の御志に賛同し、嫡男六左衛門義勝を藤房につけて楠木正成の館へと向かった。これ以外にも、忠義の心篤き者が各地にて次々と名乗りを挙げた。すなわち、楠木正成・三浦義勝・井伊道政・児島範長・名和長重・河野道長・菊池武時・北畠親房である。
かくして天皇の帷幕に集った八人を、「二心なき八将」という。八将は各自の分担を決め、己が意志を血判状に込めた。分担の内訳は以下の通り。なお、秘密中央裏大将の役割は、諜報活動にある。軍勢を動かさず、諸国の状況を天皇方に知らしめ、場合によっては謀略を用いる。
元帥:後醍醐天皇
副元帥:尊雲法親王
副帥:万里小路藤房
西表大将:楠木左衛門尉正成
東表大将:北畠陸奥守親房
中央秘密裏大将:三浦六左衛門義勝
副将:井伊遠江介道政・児島備後守範長(高徳の父)・名和小太郎長重(長年の弟)・河野伊予介道長・菊池肥後守武時
また、表根拠地を河内金剛山に、裏根拠地を富士谷(宮下氏の根拠地)に定め、それぞれ軍事活動の中心・諜報活動の中心とした。
義勝らは更に味方を募り、二十七士がこれに応じた。
--
宮方は幾度とない敗北に耐え、ついに鎌倉幕府を滅ぼした。新田義貞が分倍河原合戦に敗れた際、味方に加わって反撃の契機を与えた「三浦義勝」は、かの宮下義勝のことであるという。また、義勝は義貞に献策した。
「請う、義貞自ら二万の精鋭を率いて稲村ケ崎に向かい、海岸の防塁を攻撃せよ。予は干潮を見計らって裏山から奇襲をかけ、以て幕府軍を牽制す。」
義貞は策を採用し、鎌倉占領に成功したという。
--
天下は定まり、年号は建武と改められた。天皇親政が進むなか、護良親王と足利尊氏の対立が表面化した。親王は政争に敗れて捕らえられ、鎌倉にいる足利直義の監視下におかれた。楠木正成は、親王の皇子である万寿王を保護し、義勝に依頼して富士谷宇津峰南城に潜伏させた。万寿王は「皇国を再興すべし」という意を込めて興良親王と名乗り、常陸国平定にあたって陸良親王と改名したという。
中先代の乱が勃発するに及び、直義は淵辺伊賀守に命じて親王を暗殺した。雛鶴姫は親王の首級を発見し、松木宗忠らがこれを捧持して富士谷に向かった。残った二人の家来は、身重の姫を守護しつつ、富士谷を目指した。津久井郡青山村で供養塔を建て、更に秋山嶺の麓に至ったが、無情野にて民家に泊まろうとして断られ、秋山嶺で皇子を出産して死亡した。皇子は綴連王といい、大事に養育されたが、十二歳で亡くなった。親王の首級は富士神宮に納められた。
--
湊川の合戦において正成は戦死した。このとき足利尊氏に届けられた首級は偽物で、本物は富士神宮にて秘匿されたという。
--
2,後村上天皇
正平七年閏二月十三日、義勝は関東八州に動員をかけ、新田義宗らとともに鎌倉を攻撃させた。しかし、合戦は南軍の敗北に終わった。正平十年六月二十八日、義勝は新田義宗・脇屋義治・宗良親王とともに兵を挙げ、再び鎌倉目指して進軍した。尊氏は上野国にて敗れて武蔵国石濱に追い詰められ、基氏もまた鎌倉を放棄して上総に逃れた。が、宮方に裏切り者相次ぎ、戦況は逆転した。義勝は親王らを逃がした後、殿軍をつとめて踏みとどまり、自ら死地を求めるように戦死した。義勝の首級は縁者の手によって密かに回収され、富士谷に送られた。
義勝の戦死とともに、尊氏は陰大将の存在を感知し、仁木頼章らに富士谷を捜索させた。松木宗忠は護良親王の首級を朝日山(石船神社)に隠し、楠木正成の首級もまた上野国新田郷花見塚に移されたという。宮下義高は幕府の追求を受けたが、義勝病死を噂として流布させてこれを逃れた。
--
3,長慶天皇
文中三年正月、長慶天皇は皇太弟に譲位した。後亀山天皇である。
(この章では、脇屋義隆・新田貞方らが霊山城に拠り奥州に転戦したことを記す。内容は『底倉之記』にほぼ同じ。)
天授三年、脇屋義治は富士谷にあったが、足利幕府の天下いよいよ定まり追求が厳しくなるに及び、伊予にいた新田義宗に救援を求めた。義宗は義治ともども伊予で病死したかのように見せかけ、富士谷に向かった。
天授五年九月五日、長慶院は富士谷に遷幸した。八月十五日、楠木正興・正光、和田正久らに警護されて出発し、摂津から伊勢、駿河まで海路をとった。(この後、三浦義利に賜ったという院宣が引用されているのだが、言葉遣い・書式に疑問あり)
天授六年二月二十日、富士勝山谷東沢深山に御所を造営した。長慶院はかつて紀伊国玉川宮に住んでいたことがあったので、御所も玉川宮と命名された。この地を宮原と称するようになり、その前を流れる川を玉川と呼ぶようになった。
北条時行は、宗良親王が薨ぜられると、出家して法鏡禅師と名乗り、諸国を放浪した後、富士谷に落ち着いた。元中九年、七十四歳にて死去。
元中七年、後亀山天皇は長慶院に対し、兄弟で皇統迭立することを提案した。
元中九年、両朝は合一したが、尹良親王など、幕府に屈せず吉野に残る者もいた。
応永十七年、長慶院崩御。
--
以下略。

考証
一、史実との対比

◎鎌倉攻めについて

宮下六郎左衛門義勝を三浦大多和義勝に附会し、倒幕計画の秘密陰大将(東表大将は北畠氏、西表大将は楠木氏だそうだ)として暗躍したとするが、どう考えても無理がある。『太平記』分倍河原にて新田義貞を勝利に導いたとする「三浦大多和六左衛門義勝」は、他の記録に見えない。『大多和家譜』によると「三浦大多和平六左衛門義行」または「彦六左衛門義勝」であり、新田勢に加わったとするが、『宮下文書』と符合する事跡も記されておらず他の記録にも見えない。 『大塚文書』では、五月二十二日葛西ヶ谷合戦に関連して「相模国御家人大多和太郎遠明」という名前が見えるので、これの同族かもしれない。

『天野文書』によると、新田軍が「稲村ケ崎の陣を駆け破って」鎌倉内部に進入したのは五月十八日で、一旦は撃退された。『和田文書』三木俊連の書状では、五月二十一日、新田氏義配下にあった三木勢が峰から駆け降り、霊山寺大門に拠る敵を追い落としたとする。『大塚文書』によると、同日鎌倉内部にて大館幸氏率いる軍勢が前浜付近浜鳥居脇にて合戦。義貞は、当初からこの攻略に力点を置いていた可能性もある。現在の稲村ケ崎は、地形が変化して道が消滅している。

◎雛鶴姫の伝説について

雛鶴姫は親王の首級を抱いていたとする伝承もある。『長慶天皇紀略』のこの部分には、何故か地元の正月の風習まで記されており、やたらと詳しい。
また、山梨県都留市秋山村付近一帯に伝えられる伝説と、護良親王首級および雛鶴姫の末路に関する記述がほぼ一致する。他所で述べた通り、同一人物に関する全く異なる伝説が各地にあるので、これは伝承と考えるべきである。
正平年間の鎌倉攻めについて

『長慶天皇紀略』『富士史』は、正平七年閏二月の南軍による鎌倉侵攻(『太平記』武蔵野合戦事)の後、正平十年六月二十八日にも再攻撃の敢行を記す。正平七年閏二月は前哨戦として扱われ、本格的な記述があるのは正平十年六月の合戦である。
ここでは『太平記』武蔵野合戦事と類似の記述(『長慶天皇紀略』では上野国合戦)が見られ、したがって原書と同じ間違いをおかしている。『太平記』では「南軍は武蔵野合戦にて北軍に勝利した後、鎌倉を占領した」という。が、『園太暦』三月四日条にあるように、まず尊氏は鎌倉を脱出して南軍の鋭鋒を避け、味方の集結を待ってから金井原・人見原で敵を破ったのである。

第一、正平十年六月二十八日の時点で宗良親王が鎌倉への進攻を企画していたのか。むしろ、越後・信濃の確保に重点を置いており、そのような余力は無かったものと見られる。
『三浦和田文書』(正平九年九月二十三日・翌十年四月七日付)によって中越で転戦していることが知られ、『園太暦』同年八月十七日条に「宗良親王が信濃で挙兵したため国中が騒動し、「駒牽」のための馬が献上できなくなったという記録がある。駒牽というのは諸国(南北朝当時は信濃望月牧の馬のみ)の牧場から献上された馬を天皇にお披露目する儀式で、八月十五日頃に行われた。信濃方面で決着がついたのは八月二十日の大合戦であり、南軍が大敗したことが『矢島文書』によって知られる。

第二、いや、そもそも尊氏が鎌倉にいたのか。正平八年七月二十九日(『鶴岡社務録』)尊氏は鎌倉を出発し、九月に京都へ戻った。その後は正平十年三月十三日まで、南朝及びそれに与同する旧直義党と延々二年弱にわたる京都争奪戦を繰り広げたことは『太平記』にも記されている。

第三、では、なぜ『宮下文書』は幻の正平十年六月の攻勢を記さなければならなかったのか。
それは、『太平記』鎌倉攻めにおける分倍河原合戦では義勝が活躍するものの(陰大将にあるまじきことだが)、正平七年の鎌倉侵攻には義勝が登場すらしないからであろう。読者が『太平記』を見たとき、不審に思うのは十分予想できる。これを避けるには、合戦そのものを創作するよりほかは無い。それも、正平十年三月まで尊氏が京都で合戦しているのは『太平記』にも記されていることなので、それ以降でなければならない。

第四、期日の辻褄は合っている。しかし、正平十年以降、尊氏が関東に下向したという記録は『宮下文書』以外に無い。


二、種本について

『太平記』などの軍記物語であると思われる。公家・僧侶による記録を参考にした形跡はない。
奥州における脇屋義隆の戦いについて

応永三年六月三日、足利氏満が十万騎を率いて奥州新田軍を攻めた旨を記す。『底倉之記』と比較するに、兵数は全く同じ、人名もほぼ同じ、表現も酷似している。
『底倉之記』:「射違ふる矢は夕雨の軒端を過るより尚繁く、打ち違ふる太刀の鍔音矢叫びの音は百千の雷の一度に鳴り落ちるかと夥しく」
『長慶天皇紀略』:「流れ矢雨のごとく飛び下り、戦闘の声、百雷の一時に堕つるがごとし」
但し、戦の経過は異なる。例によって富士谷が絡むから。

◎南北朝統一以後の記述について

『十津川之記』を参考にした形跡あり。登場人物も、『十津川之記』に特有の(他文献に見えず、よって想像上のものと思われる)名前が見られる。戦況の描写までも酷似している。湯浅城の合戦など、最後まで生き残って戦うのが楠木正秀であることが異なる以外、『十津川之記』にほぼ同じ。 長禄の変の期日も『十津川之記』に同じで、やはり間違いを継承している。
本稿でいう「長禄の変」は、「南朝遺臣によって持ち去られた神器を、赤松遺臣が二回にわたる襲撃で奪回するまで」の一連の事件とする。
『上月記(上月文書)』 『経覚私要抄』『大乗院寺社雑事記』など当時の記録は、長禄元年十二月に南朝皇胤二人を討ち取り、翌二年四月に悪党を入れて盗み出し神器奪還に成功した旨を記す。『上月文書』は、実際に襲撃を行った人物が、二十年後に当時を思い出して記したものである。

が、問題は後年に成立した質の悪い文献で、『南方紀伝(長禄二年六月二十七日、一回のみ)』『十津川之記(長禄二年七月二十五日)』『桜雲記(長禄三年六月二十七日)』は期日を間違えている上に、二度にわたる襲撃を混同している。新井白石の『読史余論』も『南方紀伝』準拠のため同じく間違えている。

もし『宮下文書』が当事者によって記され室町時代から保存されているものであれば、主と仰ぐ南帝が暗殺された日と神器を奪還された日を混同して記述することはあり得ない。書写を経ているとしても、そう間違えるものでも無いだろう。それとも、「書写に際して他文献を参照した」と強弁するのであろうか。ならば、もっと信頼できる史料を選択すべきである。
以上、『底倉之記』『十津川之記』との類似及び間違いの継承を指摘した。両書の成立年代及び作者は不明であるが、文化六年成立の『南山巡狩録』に参考文献として挙げられている。少なくとも、文体から察して江戸時代のものと思われる。
問題は、これら江戸時代に作られた軍記物が先か、それとも『宮下文書』が先かということだ。これについては、『宮下文書』を引用した歴史書を見たことが無いので、不明であると言わねばならない。

確かに、私は原書を見たわけではない。しかし、三輪氏が『宮下文書』を要約するにあたって、信頼性に劣る他文献(『底倉之記』『十津川之記』)を混入させることは無いものと信じている。

『宮下文書』の南北朝関連記事に信頼性は期待できないが、現地の伝承を調べる際には有益な情報もあるだろう。 伝承が先か、『宮下文書』が先か、という問題は残るが。
当サイトは、「たとえ信頼性の低い史料といえど、少しでも史実が含まれているかもしれない」という立場にある。が、『宮下文書』については、ここに要約を載せただけでも、かなりご都合主義が目立つ。「噂を流したところ、世の人はすぐに信じた」「死んだというのは実は身代わりで、本人は生きている」などという辻褄合わせがあちこちに出てくる。流石に辛い。
機会があれば、三河南朝、というよりは長慶天皇にまつわる各地の伝説についても、ごく簡単に触れたい。伝承間に連続性が無いため、深く追求するつもりは無い。













「宮下文書を学ぶ①」

2018-10-21 08:34:59 | 日本

宮下文書(みやしたもんじょ)とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の旧家、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。
大正時代には宮下文書をもとに三輪義熈『神皇記』が成立した。

高天原のあった場所を富士山としていることなのですが、「富士山」が現在の富士山のことを指しているのか、それとも飛騨高山あたりなのかについては、説が分かれているようです。

 
◎イザナギの治世にスポットを当た宮下文書の現代語訳

<出典> 美輪義熈著『神皇記』
<原典> 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674
 
<現代語訳(概略)>
イザナギ命は、別名をタニチ彦といい、クニサツチ命の5番目の御子でした。

舞鶴に居た国常立命に迎えられ、当時、副元帥として阿祖北地方を巡幸して、多くの悪神を退治しました。
(のちにあるように阿祖北とは九州の阿蘇ではなく加賀のことを言っているようです)
 
白山姫(のちにイザナミと呼ばれる)と結婚して、西国を統治しました。
 
生まれつき聡明で、よく人民を愛する方でしたので、人民は「敷島第一の知恵神」とあがめ奉りました。
皇后の白山姫もよく夫を助け、ともに83,010日間もの長きにわたり、西国を統治しました。
(白山信仰とはイザナミ信仰のことのようですね)
 
また周辺の国々を訪れて、国を興し、四海を平定しました。
(四海とは、北海道、東海道、南海道、西海道のことでしょうか?)
 
のちに、高砂の富士山中央高天原に帰りまして、日向高千穂峰の小室の「アタツ山」の穴宮を改造してここに住まわれ、周辺の国々を統治しました。
この都のことを「日向の大御宮の穴宮」といいます。

行政単位・ご祀神・法制度・衣服などに関する記述-------省略
(衣服は木の葉をツタで結んで、穴宮=洞窟に住んだといってますので、縄文時代のことようです)
 
夫婦には一人の娘と二人の息子がいました。
娘を大市姫といい、別名をオオヒルメといいます。(のちの天照大神)
息子は、月峯命と蛭子(ヒルコ)命の二人でした。
 
周辺の広大な御洲(平地)を、オオヒルメに譲り、天照大神と呼ばれました。
周辺の広大な御山(山岳)を、月峰命に譲り、月讀命と呼ばれました。
周辺の広大な御海(海洋)を、ヒルコ命に譲り、栄日子(えびす?)と呼ばれました。
(スサノオが登場しないことに注目!!)
 
二柱は、田場国真伊原の田羽山のふもとに祠を立てて、国常立夫婦の神霊を祀りました。
これを「豊受大神」といいます。
(伊勢神宮の外宮に祀られている神様です)
 
高天原に帰り、小室の日向のアタツ山の西尾崎という岩長峯に、毎晩怠りなく火を焚いて、皇祖神をはじめ、国常立夫婦とクニサツチ夫婦の大御神を祀りました。
世にこの火のことを「高燈」といいます。


二柱は、それぞれ153,500日(約420歳)にして、高天原の小室の日向の穴宮で亡くなりました。
ともに、その大宮の西尾崎にある岩長峯の御陵に葬られました。
 
この二柱は、イザナギ・イザナミと呼ばれるようになりました。
その御陵の前に社祠を造って、「高燈大神」として祀りました。
 
皇后の白山姫(イザナミ)は、はじめ父に代わり副元帥として阿祖北地方を巡幸して、多くの悪神を退治しました。
良い農民たちを親兄弟のように愛しましたので、阿祖北地方の農民たちは喜んでお祝いしました。
だから、この姫の居られた場所を「家賀野」といいます。
 
その姫が亡くなったことが知れわたると、農民たちは大挙してその家賀野原の家賀山の石川のあたりに祠を建てて、その神霊を祀りました。
(現在の石川県=加賀の白山比咩神社のことをいっているようですね。ククリ姫は何者かがあとから差し替えたのでしょうか?)
 
高天原の時代は天神七代、つまり185,000日で終わり、ついに豊葦原の瑞穂の国の時代(天照大神の治世)が始まります。
 

考察
以上のとおり、『宮下文書』の記述からはさまざまな論点が浮上してきますので、以下にメモしておきます。
 
(1) 活躍した舞台はどこか?
イザナギ・イザナミの時代は加賀の国を中心に栄えていたようですね。
 
『ウエツフミ』でも、このあたりは「越の国」と呼ばれており、ウガヤフキアエズ王朝のあった「豊の国」とは同盟関係にあったと書かれています。
 
「敷島」とはおそらく本州のことを指しており、その中心が高天原のある富士山、その西側に加賀があったようです。
『竹内文書』でも、もともと日本国の中心は「富山」であったとされていますので、富士山とは飛騨高山のことであるとする説のほうが、説得力があるように感じます。
 
なぜなら、
【1】現在の富士山は火山であり、その周辺の高原地帯には農作物(山の幸)が乏しく、文明が発達しにくい環境にある。
【2】大陸から船でやってきた徐福の一行が、いきなり富士山を本拠地にしたとは考えにくい。日本海側のどこかに上陸して陸路で富士山を目指すのは困難で、船団が太平洋側に漂着したとも考えにくい。
【3】この記述を徐福自身が書いたとすると、自分がやっと発見した聖地=蓬莱山を秘密にしておきたかったのではないか?
だから誰でも知っている「富士山」と「阿蘇山」をくっつけて、どこのことだか分からないようにしたのではないか?
(この技法は古事記でも使われており、熊本と宮崎がくっついて「タケヒムカヒトヨクジヒネワケ」というややこしい地名となっているが、ウエツフミではタケヒの国=熊本とクシヒの国=宮崎)
 
なお、『竹内文書』にも「イザナギは加賀の白山に葬られた」という記述があります。
詳しくは、こちら。
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/permalink/1336098836534863/
 
その後、天照大神の治めた土地は「豊葦原の瑞穂の国」と呼ばれており、「敷島」とは異なっていますので、このあたりから九州が舞台となっていったようです。
 
ニニギの時代には、ツクミチ島(のちの筑紫島)に侵攻したとされていますので、ここからは明らかに九州が舞台です。
 
ちなみに『ウエツフミ』でも、猿田彦は加賀の国で生まれたと書かれていますので、「天孫降臨」とは、先発隊として九州に入っていた猿田彦が、ニニギを新しい統治者として九州に迎えたということでしょうか?
(2) 三兄弟の構成が記紀とは違うこと
この文書では、スサノオが登場してきません。
多分、日向国と出雲国が合併(国譲り)したあと、出雲国に配慮して、ヒルコの代わりにスサノオが追加されたということでしょうか?

記紀では、どういう訳か月讀命の足跡も一緒に消されていますが、『ウエツフミ』においても、もともとは太陽・月・海の三宮信仰であったことが確認できます。
 
『先代旧事本紀』によると、「月讀命が豊受大神を切り殺し、スサノオが保食神を切り殺した」と書かれていますので、
【1】加賀の月讀命が豊受大神=国常立の領土を侵略して農作物を略奪した事件と
【2】出雲国のスサノオが保食神の領土である丹波国を侵略した事件
の2つは別物で、これが(意図的に?)混同されてひとつの逸話として伝わっているのではないでしょうか?
 
さらに、『飛騨の口碑』では出雲国の大国主のことをさんざん批判していますので(女たらしでふがいない人物として描かれている)、高天原=加賀連合国と出雲国とは仲が悪かったようです。
 
ちなみに、ヒルコは海を任された神様とあるので「恵比寿様のことである!」という私の解釈は当たっていたようですね。
 詳しくは、こちら。
 
(3) 消された信仰体系
「白山信仰」がイザナギ・イザナミ信仰のことであり、「豊受大神」が国常立のことであることは、ほとんどの人が忘れかけているようです。
それにしても、これらの神様を消し去らなければならない理由が何かあったのでしょうか?
 
(4) 最後に残る問題点
最後に残された問題は、逆にここに書かれていない下記の事実です。
【1】イザナギ・イザナミは淡路島を訪れた痕跡が無く、国生みを行っていないこと
【2】イザナミが黄泉の国を訪れていないこと
【3】イザナミはオオヤマツミやカグツチを始め多くの神々を生んでいないこと
の3点なのですが、多分、他の誰かの逸話が、イザナギ・イザナミの逸話として集約されて、神道体系の一本化が行われたのではないでしょうか?
 
まだまだ『宮下文書』の記述は続きますので、またレポートさせていただきます。















「ブロックチェーンの技術の未来」

2018-10-20 06:26:10 | 日本

3年以内に誰もがブロックチェーンの恩恵を受ける通貨、選挙、医療、流通・・・続々と始まったプロジェクトについて、河西 泰さんが掲載している。
以下、要約し記す。



仮想通貨としてのイメージが定着しつつあるブロックチェーンだが……
「ブロックチェーンが世界を変える」ーーそう言われて久しい。
しかしその萌芽を感じとっている人は、まだまだ少ない。むしろ、ブロックチェーン技術の代表格ともいえる仮想通貨の度重なるハッキング騒動が、ブロックチェーンに対する我々のイメージに暗い影を落としたと言える。
 
ブロックチェーンは本当に世界を変えられるのか? 仮想通貨ウォレットアプリ「Ginco(ギンコ)」を開発し、京都大学在学中にGincoを起業した森川夢佑斗氏は「少なくてもここ5年、いえ3年以内には、多くの人が知らず知らずのうちに生活の一部としてブロックチェーン技術に触れることになるはず」と断言する。ブロックチェーンの技術の未来を聞いた。


◎ブロックチェーンの実証実験は至る所で始まっている
 
今年(2018年)8月28日、茨城県つくば市は、ブロックチェーン技術とマイナンバーを活用したインターネット投票の実証実験を行ったことが話題になった。もちろん国内初の取り組みだ。

「まずは、改ざんできないというブロックチェーン技術の最大の特長を活かしたサービスが実証実験の段階に入ってきています。海外ではウクライナをはじめ、ブロックチェーン技術による投票システムがすでに実用化されている国もあり、この分野での活用はかなり早い段階で身近になるはずです」
 
ブロックチェーンというと、ついビットコインに代表される仮想通貨を思い浮かべる人も多いことだろう。ともすれば、仮想通貨からの連想でネガティブな印象を持っている人いるかもしれない。
 
しかし、つくば市の取り組みと時を同じくして『ブロックチェーンの描く未来』を上梓した森川氏は、仮想通貨はブロックチェーン技術にとって『第一の波』に過ぎないと言う。
「たとえばビットコインからブロックチェーンという言葉を知ったという人も多いはずです。それはそれで、ブロックチェーンの技術を認識してもらう上で非常に重要な役割だったと思います。ただしブロックチェーン、イコール仮想通貨といった認識で止まってしまうのは残念です。仮想通貨はブロックチェーン技術の一部でしかないからです」
実際、我々の身の回りではすでにブロックチェーン技術が応用され始めている。
 
たとえばダイヤモンドの販売でブロックチェーン技術の活用が始まっているのをご存じだろうか。

ダイヤモンドのマーケットでは質の低いダイヤモンドを偽装したり、ダイヤモンドではない石を偽って販売するなどの問題があった。さらには、紛争やテロ組織の資金源として悪用されているという指摘もあり、品物や流通経路に関しての偽装問題が後を絶たなかった。
 
そこに登場したのが「EverLedger」(エバーレッジャー)というプロジェクトだ。
「ダイヤモンドは通常、個人の目では真贋の区別がつきにくいため、鑑定士による証明書の発行によってその品質などの保証が行われてきました。しかし、この証明書の発行や保管には、これまで大きなコストがかかっていた。EverLedgerのプロジェクトは、ダイヤモンドのサプライチェーン(原料調達から商品が消費者に届くまでの全工程)や取引履歴をブロックチェーン上に記録することにより、低コストかつ改ざん不可能な情報管理を可能にしたのです。ブロックチェーン上で、ダイヤモンドの真贋証明書や、サプライチェーンの情報を管理することが可能になれば、消費者は、そのダイヤモンドが本物であるかどうか、どういった過程を経て生産されたものかをいつでも参照することができるようになります」
 そして、この「EverLedger」のプロジェクトは、ダイヤモンドだけではなく様々なものに応用可能だと言う。

「そもそも、サプライチェーン管理の中で起こる問題を解決しようとするのがEverledgerのプロジェクトです。消費財が私たちの手に届くまでには多くの企業同士の取引があり、そうしたプロセスのなかで一貫して透明性を保つのは、企業にとっても最重要の問題となっています。他にも、ブランド品の流通管理に用いられる『VeChain』(ヴィチェーン)や『Seal』(シール)などに代表されるように、サプライチェーン・マネジメントの効率化はブロックチェーンの得意分野のひとつです」


◎医療分野との高い親和性

我々に身近なのは、医療分野における活用だろう。イギリスで生まれた「MedicalChain」のプロジェクトは、今年の7月に実用化に向けた実験が始まったばかりだ。
「『MedicalChain』は、医療記録をブロックチェーン上に記録し、患者・医師だけではなく、研究機関、保険会社なども情報保有者の許可によって、ブロックチェーン上の記録を参照することを可能にするプロジェクトです。患者の医療記録をブロックチェーン上で一括管理することによって、診察や治療の記録などを、違う病院でも参照できるようになります。これにより、患者が逐一病状を説明したり、医師が他の病院への紹介状を書いたりする手間とコストを削減することができます」

「さらに保険会社は、正当で偽りのない情報を入手できるため、保険料の決定に役立てたり、保険詐欺の被害から免れることができます。医療関係の情報は、患者自身の身体に関する情報です。こうした情報をブロックチェーン上に記録できるようになると、医療機関の都合に左右されることなく、個人の意思決定のもとで自由に利用できるようになります」

イギリスの「National Health Service」(国民保険サービス・NHS)はそのほとんどが国費で賄われる公費負担医療だが、その額はイギリス国家予算の25%に相当する。コスト削減には病院間でカルテを共有するなどの方法が考えられるが、一か所にしかないカルテをいかに共有するか、情報の機密性を保つかが課題になっていた。『MedicalChain』はそうした課題を解決するものとして大きな期待が寄せられているのである。
 
この他にも、医療分野においては多くのブロックチェーン技術が活用されつつある。
「処方箋の追跡・管理を行う『Medi Ledger』や、臨床機関の情報プラットフォーム『Simply Vital Health』が開発されています」


◎ブロックチェーンが普及するまでの段階
 
ブロックチェーンはインターネット上の技術なので、いくら「いくつものプロジェクトが実現に向けて動き出している」と言われても実感が湧かないだろう。
 
そうした実感を我々が得るまでの段階を森川氏は、「5つの波がある」と表現する。

「第1の波は『お金の技術』。これについては、2017年に私たちが経験した仮想通貨ブームとしてすでに実感していることです。

これに続く今後の第2の波は、セキュリティやデータの共有に焦点を当てた、管理システムの普及です。記録技術としての優位性を活かすことで、企業はデータの送信や検証に割いていたコストを大幅に削減できます」
このタイミングまでは既存のシステムの増強策としてブロックチェーンが活用される。

「第3の波が、さまざまなものをデータ化することでインターネット上の取引を活性化する流れです。この時点で改ざんもコピーもできない電子的なデータが固有の価値を持つようになるでしょう。同時に、スマートコントラクトを活用した、価値交換・価値取引が盛んに行われるようになるはずです」
ブロックチェーン上でスマーとコントラクト(契約の自動化)を行うことで、改ざんなどを防ぎ、また仲介業者を介さずとも個々が自由に価値を交換できるようになる段階である。

「第4の波は、一般への普及です。ブロックチェーンの基本的な仕組みが一般の人々に理解され、エンドユーザーのボリュームが一気に拡大していくことで多くのコンテンツが生まれてくることでしょう。ちょうどSNSが普及し始めた頃のインターネットのような時期です。

そして最後、第5の波は、インフラや公共施設が集中管理型から完全分散型へ変化することです。この段階では、法律および規制上の枠組みが、分散型台帳を通じた資産の所有権や取引をサポートするようになると私は考えています」
「行政システムも分散化されていき、様々な仕組みが個人を中心としたものになっていくことで、組織や個人が保有する資産の直接取引が可能になるほか、従来のインフラ所有者=仲介者が不要となり、完全なP2P取引が実現されます」
 
当然ではあるが、個人よりも国や政府といった旧来の中央集権的な仕組みそのものが、人々のライフスタイルに合わせて変化しようとしたときに、この波は加速していく。その点でも、前述のつくば市の投票システムのような例は、ひとつの始まりと言えるであろう。


◎ブロックチェーンが日常になる日はいつ?
 
ブロックチェーンの技術を使ったサービスやシステムが、これから私たちの生活の中に入ってくることは間違いない。
 
それはインターネットの普及により、文書連絡の手段が紙の手紙からEメールに取って代わられたようなものだ。サービスの普及とは、1つの変化が起これば一気に加速度を増して、まるで昔からあったように生活に取り入れられていく。
 
ブロックチェーンに詳しいある大学教授は、ブロックチェーンが普及する段階で、すでにブロックチェーンという言葉は消滅しているのではないかとも言う。
それはブラウン管がテレビとなり、もはやブラウン管のテレビ自体が消滅したのと同じことである。
 
ブロックチェーンが身近になるスピードを森川氏は「3年ないし5年内の話だ」と言った。
「日本にいると、『ブロックチェーンなんてまだまだ未来の話』と思うかもしれませんが、これまでもお話ししたとおり、海外での実用化はかなり先に進んでおり、日本でも、あとは法整備の問題などをクリアすればいつでも実用化されるところまで来ている分野も多いのです。5年以内、いや3年以内には、みなさんも何らかの形でブロックチェーンを使ったサービスに触れているはずです」
 
森川氏が提供する仮想通貨ウォレット『Ginco』(ギンコ)は、その未来を見据えた最初のインフラだ。

「ブロックチェーンの技術を使ったサービスが普及した際に必要となるのが、個人がブロックチェーンや仮想通貨を安心して扱えるインターフェイスです。どんなサービスであっても、最終的には個人の管理する秘密鍵に資産と権利が紐づくからです」
 
あらゆるサービスの基幹にブロックチェーンの技術が使われていく。その足音は近づいてきている。










「中朝事実とは、」

2018-10-19 06:01:24 | 日本

『中朝事実』を何故、われわれが学ぶ必要があるのか?

(荒井 桂先生)
山鹿素行が「中朝事実」を現わしてから、400年経った現在もまた、日本は中国の台頭、膨張政策の脅威に直面している。日本と言う国の本質や未来に向けた方向性が問われているいまのこの時に、「中朝事実」を改めて紐解いてみるのは大変に意義があることである。
さらに、戦後、日本人の心に弊害をもたらしたものの一つはGHQによる占領政策であった。GHQによる占領政策によって押し付けられた、いわゆる「自虐史観」によって日本の歴史を醜悪に歪曲して国民の誇りや自信、使命感を喪失させるに至った。ここにGHQによる占領政策の本来の狙いであったのである。
日本人自身が誇りと自信、民族としての使命感を取り戻し、しかもそれを健全で中正なものにするには、どうしてもこの自虐史観の誤りを正し、日本人としての姿勢を確かなものにしていく必要がある。
将来の展望と活路を見出す要諦は、まさに日本の歴史を正しく学び、知ることにある。その意味では、日本はいま精神的に大きな変革期を迎えていることは間違いない。



『中朝事実』(ちゅうちょうじじつ)は、山鹿素行が記した尊王思想の歴史書。寛文9年(1669年)に著わした。全2巻。付録1巻。山鹿素行は儒学と軍学の大家である。


◎『中朝事実』の内容

当時の日本では儒学が流行し、中国の物は何でも優れ日本の物は劣る、という中国かぶれの風潮があった。また、儒教的世界観では、中国の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。素行はこの書で、この中華思想に反論した。当時中国は漢民族の明朝が滅んで、万里の長城の北の野蛮人の満州族が皇帝の清朝となっていた。また歴史を見ると、中国では王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。中国は勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である。ただ、朝鮮の小中華思想は、中華から朝鮮への継承権の委譲とでも言えるものだが、素行の主張は攘夷や国粋といったスタンスである。


◎『中朝事実』は全13章から成り立つ。

第1章 天先章 
天孫降臨をはじめとする神話が皇室への結びついていく歴史が記されている。

第2章 中国章
日本こそが中華と称すべき優秀な国だと強調。

第3章皇統章
天照大神が孫の瓊瓊杵尊に下した神勅(天壌無窮の神勅)から連綿と続いている皇室の徳を称えている。理想の国を目指した孔子の説いた精神は外朝ではなく、太古からわが国に存在していると素行が述べるのは、まさにこの皇室の伝統にはかならない。
さらに日本が無窮の国体を維持する根底には、民の心を心としてきた皇室の至誠の精神があると述べ、その上で易姓革命によって王朝が消滅を繰り返した支那との根本的違いを明確にしていくのである。

さらに、
神器章 神道の三種の神器(勾玉、鏡、剣)が知、仁、勇の象徴であること。
神治章 人材の任用の在り方。
禮儀章 治平や外交の要は礼にあること。
化功章 わが国固有の政治の大道は外国人をも引きつけ数多く帰化していること。
等々、
様々な視点で他国にはない日本の優位性が綴られている。

このように江戸時代初期の時点で、早くも日本人の民族的主体性の確立を促すという先駆的役割を果たしたのが、素行であった。

 
◎山鹿素行の「万世一系」論

江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、天皇家の大変な古さと不変性という「万世一系」を強調した。山鹿素行は、神武天皇に先立つ皇統の神代段階は200万年続いたと主張している。『中朝事実』で下のように論じている。

ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。 — 山鹿素行、『中朝事実』


◎「中朝事実と乃木希典大将」

国を磨き西洋近代を超える!

元治元年 (一八六四)年三月、当時学者を志していた乃木希典は、家出して萩まで徒歩
で起き、吉田松陰の叔父の玉木文之進への弟子入りを試みた。ところが、文之進は乃木
が父希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、「武士にならないのであれば農民
になれ」と害って、弟子入りを拒んだ。それでも、文之進の夫人のとりなしで、乃木は
まず文之進の農作業を手伝うことになった。そして、慶應元 (一八六五)年、乃木は晴
れて文之進から入門を許された。乃木は、文之進から与えられた、松陰直筆の 「士規七
則」に傾倒し、松陰の精神を必死に学ぼうとした。
乃木にとって、「士規七則」と並ぶ座右の銘が『中朝事実』であった。実は、父希次は
密かに文之進に学資を送り、乃木の訓育を依頼していたのである。そして、入門を許さ
れたとき、希次は自ら『中朝事実』を浄書して乃木にそれを送ってやったのである。以
来、乃木は同書を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行してい
た。

日露戦争後の明治三十九年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝すると、山悪有明は、明治天皇に児玉の後任として乃木を参謀総長に任命されるよう内奏した。ところが、天皇は、「乃木については朕の所存もあることりやから、参謀総長には他のものを以て補任することにせよ」と仰せられた。そこで、参謀総長には奥保筆が任命された。
他日、山懸が天皇に拝謁すると、天皇は「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじやが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした」こうして、明治四十年一月、乃木は学習院長に任ぜられた。明治天皇は、就任に際して、次の御製

「いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ」

乃木は、学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、生徒の生活の細部にわたって
指導しようとした。この時代、乃木は自宅へは月に一、二度帰宅するだけで、それ以外
の日は寮に人って生徒たちと寝食を共にした。寮の談話室で、乃木は素行と『中朝事実』について、生徒たちに次のように語った。

「この本の著者は山鹿素行先生というて、わしの最も欽慕する先生じや。わしは少年時
代、玉木文之進という恩師から山鹿先生を紹介せられ、爾来先生の思想、生活から絶大
な感化指導を受け、わしが日本人としての天職を悟るに非常に役立つたというもの
じや」

乃木は『中朝事実』の真価について、「要はわが日本国本然の真価値、真骨髄をじや
な、よくよく体認具顕しその国民的大信念の上に日本精神飛躍の機運を醸成し、かくし
て新日本の将来を指導激励するということが、この本の大眼目をなしておるのじや」と
述べ、その序文については、次のように語っていた。 「人は愚かな者で幸福に馴れると幸福を忘れ、富貴に馴れると富貴を忘れるものじや。
高潔なる国土、連綿たる皇統のもとに生を享けても、その国土、その人愛になれると自
主独往すべき根本精神を忘却し、いたずらに付和雷同して卑屈な人間と堕する者が頻々
として続出する。これが国家存立の一大危機というものじや」 「どうじやな、ここの中華とは中朝と同じく日本国家の事じや。これは決して頑迷な国
粋論を主張しているものではない。

「よきをとりあしきをすてて外国におとらぬ国となすよしもがな」

と御製にもある通り、広く知識を求め外国の美風良俗を輸入して学ぶことは国勢伸張の
秘鍵ではあるが、。それは勿論皇道日本の真価値を識り、その大精神を認識した上でのことでなければならぬのじゃ。

盲滅法に外国人に盲従し西洋の糟を舐めて随善し、いたずらに自国を卑下し罵倒すると
いうのは、その一事すでに奴隷であって大国民たるの資格はない。国家興亡の岐路はそ
こにあるのじや。個人でも国家でも要は毅然たる独立大精神に生き、敢然と自主邁進す
るにある」 (岡田幹彦氏「乃木希典」展転社、平成十三年)

明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され、大正元年九月十三日に御大喪が行われ
ることとなった。殉死のこ目前の九月十一日、乃木は午前七時に参内して皇太子と淳
宮、光宮の三人が揃うのを待って、人ばらいをした。そして、「私がふだん愛読してお
ります書物を殿下に差上げたいと思いましてここに持って参りました。いまに御成長に
なったら、これをよくお読みになって頂きたい」とお願いし、自ら写本した 『中朝事実』を差上げたのだった。



※宗参寺(そうさんじ)は、東京都新宿区弁天町にある曹洞宗の寺院である。
ここに『中朝事実』を著わした山鹿素行の墓(国の史跡)がある。








「高須梅渓とは、」

2018-10-18 06:47:50 | 日本

高須梅渓(たかす ばいけい)1880年4月13日~1948年2月2日は、日本の文芸評論家、評論家。

大阪府出身。本名は芳次郎。為替貯金管理所勤務から1898年上京して早稲田大学文学部英文科卒。中村吉蔵らと雑誌『よしあし草』を発行、また『新声』の編集に加わり文芸時評で活躍、「国民新聞」「東京毎日新聞」「二六新報」などの記者を務める。のち明治文学史、水戸学の研究に専念、昭和期には国粋主義・軍国主義にはしった。1940年「大日本史に現はれた尊皇精神」で日本大学文学博士[1]。1901年『文壇照魔鏡』で与謝野鉄幹を攻撃したとされ、鉄幹から訴えられた。


◎著書

『暮雲』新声社 1901
『学生坐右訓』亀井支店書籍部 1906
『青春雑筆』美也古書房 1906
『中学作文要訣』博報堂 1906
『偉人修養の径路』実業之日本社 1907
『愛弟に与へし兄の書翰』高須芳次郎 (梅渓) 富田文陽堂ほか 1910
『百傑スケッチ 金言対照』博文館 1910
『学生文範 小品百種』求光閣 1911
『滑稽趣味の研究』実業之日本社 1911
『新時代普通文』実業之日本社 1911
『東西名婦の面影 金言対照』高須芳次郎 (梅渓) 博文館 家庭百科全書 1911
『婦人日常座右銘』高須芳次郎 (海渓) 編 博文館 家庭百科全書 1911
『スケッチ文集 美文評論』岡村盛花堂 1912
『平家の人々』岡村盛花堂 1912

(以下、芳次郎名義)
『ふらんす革命夜話』天佑社 1919
『明治大正五十三年史論』日本評論社出版部 1920
『近代文芸史論 上巻』日本評論社 1921
『日本近世文学十二講』新潮社 1923
『日本現代文学十二講』新潮社 1924
『ふらんす革命史話』日本学術普及会 1924
『東洋思想十六講』新潮社 1925
『孔子から孟子へ』新潮社 東洋学芸文庫 1926
『東洋文芸十六講』新潮社 1926
『老子から荘子へ』新潮社 東洋学芸文庫 1926
『日本思想十六講』新潮社 1928
『小池国三伝』小池厚之助 1929
『古代中世日本文学十二講』新潮社 1930
『古代日本精神』東方文学社 日本精神文化講座 1930
『日本学概説』東方文学社 日本精神文化講座 1930
『日本精神文化の王国(世界の現状を批判して日本精神文化に及ぶ)』東方文学社 日本精神文化講座 1930
『ふらんす大革命時代』日本学術普及会 1930
『日本は世界を征服せん』先進社 1931
『爛熟期・頽廃期の江戸文学』明治書院 1931
『国民の日本史』早稲田大学出版部 1932
第3篇 平安時代
第5篇 鎌倉時代
第10篇 江戸時代興隆期
第11篇 江戸時代爛熟期
第12篇 江戸時代頽唐期
『非常時の日本を如何にすべき乎』大阪屋号書店 1932
『明治大正昭和文学講話』新潮社 1933
『明治文学史論』日本評論社 1934
『日本精神とは何ぞや』日本精神協会 日本精神パンフレット 1935
『水戸学の新研究』明治書院 1935
『藤田幽谷・会沢正志斎・藤田東湖』日本教育家文庫 北海出版社 1936
『日本名文鑑賞』全8巻 厚生閣 1936
『水戸学派の尊皇及び経綸』雄山閣 1936
『赤穂浪士 随筆』高須梅渓 モナス 1937
『名文鑑賞読本 江戸前期』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 江戸後期』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 漢詩漢文』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 古代中世』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 明治前期』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 昭和時代』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 大正時代』編著 厚生閣 1937
『名文鑑賞読本 明治後期』編著 厚生閣 1937
『乃木将軍詩歌物語』新潮社 1938
『文章作法問答』厚生閣書店 1938
『支那文学十五講』新潮社 新潮文庫 1939
『日本二千六百年史物語』新潮社 新潮文庫 1939
『海の二千六百年史』海軍研究社 1940
『大日本史に現はれた尊皇精神』誠文堂新光社 1940
『皇道と日本学の建設』大阪屋号書店 1941
『国史精華読本』大阪屋号書店 1941
『徳川光圀』新潮社 新伝記叢書 1941
『日本科学の建設者』富士書店 1941
『日本精神の伝統』富士書店 1941
『藤田東湖伝』誠文堂新光社 1941
『水戸学徒列伝 水戸学入門』誠文堂新光社 1941
『水戸学の心髄を語る』井田書店 1941
『愛国詩文二千六百年』非凡閣 1942
『会沢正志斎』厚生閣 1942
『維新留魂録』大阪屋号書店 1942
『皇道を語る』二見書房 1942
『孔孟思想講話』新潮社 新潮文庫 1942
『戦時青年の進むべき道』富士書店 1942
『日本近世転換期の偉人』欧文社 1942
『日本思想読本』駸々堂書店 1942
『日本精神とその展開』大東出版社 1942
『日本はどんな国か』新潮社 新日本少年少女文庫 1942
『水戸学と青年』潮文閣 青年文化全集 1942
『水戸学の人々』大東出版社 1942
『水戸義公を語る』井田書店 1942
『大御心を仰いで』文松堂書店 1943
『近世日本儒学史』越後屋書房 1943
『思想戦の勝利へ』大東亜公論社 1943
『少国民の国体読本』玉村吉典絵 フタバ書院成光館 1943
『高山樗牛 人と文学』偕成社 1943
『東洋思想を語る』井田書店 1943
『光圀と斉昭』潮文閣 1943
『水戸学講話』今日の問題社 1943
『水戸学精神』新潮社 新潮文庫 1943
『物語大日本史 上,中巻』誠文堂新光社 1942-1943
『吉野朝の人々』潮文閣 1943
『老荘思想読本』葛城書店 1944
『作家に描かれた女性』万葉出版社 1948
共編著編集
『女子と宗教 女子修養の鑑』中村春雨共著 亀井支店書籍部 1906
『商用文鑑 文案資料』福井庄三郎共編 博文館 1911
『勤皇烈士詩歌物語』小島徳弥共著 創造社 1943


◎翻訳

『水滸伝物語』高須芳次郎 (梅渓) 編 富山房 通俗世界文学 1903
ロングフェロー『乙女の操』高須芳次郎 (梅渓) 訳 新潮社 1906
ウラジミル・セメヨノフ『日本海大海戦殉国記』明治出版社 1912
会沢正志斎『新論講話』詳註 皇国二大経典叢書 第1巻 平凡社 1934
山鹿素行『中朝事実講話』詳註 皇国二大経典叢書 第2巻 平凡社 1934
『大日本詔勅謹解 第2 道徳教育篇 第3 軍事外交篇 第4 神祇仏教篇 第5 政治経済篇 第6 雑事篇 第7 詔勅と日本精神及索引第1-7』日本精神協会 1934
頼山陽『日本文化史論 原名 新策』訳註 井田書店 1941
『藤田東湖の勤皇詩選』駸々堂 1943


◎編纂

『水戸学全集』全6編 編 日東書院 1933-1934
『藤田東湖全集』全6巻 編 章華社 1935-1936
『水戸学大系』全8巻 編 水戸学大系刊行会 1940-1941
『藤田東湖選集』編 読書新報社出版部 1943














『乃木将軍詩歌物語』 高須芳次郎著

2018-10-17 06:14:59 | 日本

◎乃木希典大将の父、希次は、
「常に、武士は外よりも内を修めることが肝要で、名よりも、實を重んずるようにありたい。」

「薄給の為、当時、ひどく貧乏して、衣食住の費用は、切り詰めるだけ切り詰めていたが、ただ、武器だけは、何人にも劣らぬものを用意していた。


◎「古来、すべての烈士功臣は、刻苦・悲惨の体験を積んだものの中から出て、気楽に飽食暖衣するお坊ちゃんの間から断じて出ない」と教訓した。


◎青葉若葉の色を愛し、ホトトギスの声に耳を傾け、緑陰に時ならぬ鶯が来て鳴くのを興味深く聴いた。昼寝を楽しみ、湯上りのときに�サッと吹いてくる青嵐に折からの暑さを忘れるのだった。


◎夏草に埋もれた村荘

◎寒月の下に物凄く見ゆる雪景


◎時に、齢(よわい)四十六、爽涼たる秋風に軍服を吹かれ、心澄み身健やかに、一気に、戦地へ飛んでいこうという壮士が胸一杯にこみあげて来て抑えきれない出征直前の心境が、ここに発露されて、乃木さんの風貌が躍如として迫ってくるのを覚える。


◎聖人の至道というのは、支那の道で、日本の道ではない。支那の道に採るべき点があるなら、先ず、皇国の威風即ち日本国体の尊厳を知り、天壌無窮の皇運を扶翼し奉ることを知った後でなければならない。この前後を知らなければ、正しい学問とは言えない。そこに乃木さんの燃ゆるような尊皇心が見える。

◎無限の感慨、夕日を軍服に浴びつつ

◎気魄、敵を呑んで、ぐんぐん押していくところに、乃木さんの長所があった。


◎「色あせて梢に残るそれならで  散りてあとなき花ぞ恋しき」
色あせて淋しく残る花にひとしい老人の死よりも、色鮮やかな花の若武者の死に心をひかれる。
一死、国に報じたい。

◎皇軍十万の中で、誰が一番、目覚ましく働いて、英傑の名を千載の下に残すのか

◎悲しみに打ち勝って、


◎昨日までは敵味方の間だったが、ステッセルが降伏すれば、もう互いに友人である。どこまでも、彼の面目を立てることが、武士道の作法であると乃木さんは考えた。


◎悲劇から悲劇へ、緊張から緊張へ、危機からまた危機へ、ぐるぐる廻る人生の走馬燈は、応接に暇がない。が、それも過去というページの彼方に没してしまえば、まるで范(ぼう)として一夢のようである。そう考えると、招魂祭に、祭壇を美しく飾って、心から戦死者の霊を涙のうちに慰めた事さえも、また一個の夢と化し去ってしまう。流れ、動いてやまぬ人生波乱の一沫、さういう気さえする。乃木さんはこうした点から、記念碑を立てて、永く戦死者の功を後世に伝えたいとも考え、暗にその意を詩にほのめかしたのである。


◎乃木さんは、どんなに、切羽詰まった場合でも、またどんなに多忙な時でも、若干のゆとりを持つ人だった。また、精神は、物思いのためにも、弾力を失わなかった。

◎紅葉や野の花で飾られた辺地の秋を探りつつ


◎『千五百秋 瑞穂の国の民草の しげりに茂る 御代ぞめでたき』 ちいほあき みずほのくにの たみくさの

皇室の繁栄と国運の隆祥とを謳歌した至誠の声を聴くことが出来よう。
今、日本がここを固めて皇威を発揚しつつある喜び

感興の湧くままに痛飲した。


◎勃勃たる雄心が、字句の間に躍り上がっているのを感じる。

◎厳格なうちにも、やさしい情味のあった面目を浮き彫りにした感がある。


◎かく皇軍は、天祖を初め、日本の神々に守護せられ、神の御旨によって動くので、必ず勝つというのが古来からの信念だった。昔を懐い今を考えるに、皇軍は常に、太陽の光によって祝福されているから、戦争には必勝であるという旨を述べ、わが国の古代史に想いを馳せた乃木さんの風格が、悠揚として迫ってくる。


◎吉野に赴いて、満山の紅葉が錦を綴っている風光に対し、懐古の感に浸っている。
当年、悲壮な生に終始した南朝の人々は、いずれも一代の英傑で、よし、生前、志を得なかったにもせよ、事蹟は炳として千載の下に、錦を綴る紅葉のように照輝いていると深く感じつつ低回去るに忍びなかった様が結句に浮き彫りになっている。

◎満開の桜花を馬上に見て、雅懐を満たす。


◎『落葉声なく、秋雨寒し』


◎雪の暁に

◎乃木さんは、いつも東郷さんと、船中で形影相伴い、月清き夜は、盃をあげて、語りあうのが常でした。


◎「今の青年は、概ね惰弱の風に化せられて、いつの間にか、汗を流して働く精神をなくしてしまった。その上、国民はだんだん軟弱になる。艱苦欠乏に堪える気性が薄くなる。自分は非常に残念にこれを思う。」と、真実な警世の声である。


◎顧みると、乃木さんの一生は、「自分に相応しい死所を得て皇恩に酬い、武人として壮烈な生を終わりたい」という一事に尽きるような気がする。


◎乃木さんの歌には、「道」という言葉が、折々見えるが、それは、古道とか、皇道とかいう意味に用いられ、支那の儒教が日本に渡来する以前に、存在した『日本固有の道徳を指す』のである。山鹿素行が現わした『中朝事実』は、寛文九年に出て、賀茂真淵・本居宣長らの『日本主義運動』に先駆したのである。その『神教章』のうちには、漢学渡来以前、既に優れた道徳を個有し、政治もよく整っていたことを説き、日本こそ、中華(世界文明の中心)として恥ずかしくない国だという旨を明らかにしている。日本固有の道徳とは一口に申せば「君臣父子の道・敬神尚武の道」である。

これは将に、今日における『日本道義主義』そのものである。

いずれまとめる『わが半生の軌跡』続編の題名は、『夜明けの日々に!』とする。









黒田如水 [水五訓]

2018-10-16 06:13:16 | 日本

黒田如水 [水五訓]


一、自ら活動して他を動かしむるは水なり

二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり

三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり

四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり

五、洋々として大洋を充たし発しては、蒸気となり、雲となり、雨となり、雪と変、じ霰(あられ)と化し、凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)たる鏡となりたえるも、其(その)性を失はざるは水なり















「今上陛下の御譲位により我らは戦後憲法体制から脱却する②」

2018-10-14 08:02:22 | 日本

この度の、御譲位は、我々国民に、己の「真の憲法」は何かを問いかけているのだ。

天皇の百二十五代に及ぶ万世一系の歴史の中に、この度の御譲位と、時の体制を越えるという意義において相似た御譲位が為されているので、それを取り上げてみたい。
既に述べたように、このたびの第百二十五代の今上陛下の御譲位が、憲法=「戦後体制」を超えるものならば、第百八代後水尾天皇の御譲位は「徳川幕藩体制」を超えるものであった。
後水尾天皇は、文禄五年(一五九六年)にお生まれになり延宝八年(一六八〇年)に崩御された。
昭和天皇までの歴代天皇のなかでは、歴代最長寿の天皇である。
しかし、在位は一六一一年から一六二九年の十八年間に過ぎない。
後水尾天皇の育った時代は、関ヶ原の天下分け目の戦い(一六〇〇年)に勝った徳川家康が、徳川幕府の支配体制を整え始め、遂に豊臣宗家を滅ぼして(大坂夏の陣、一六一五年)、その支配体制を確立した時期であった。
大阪夏の陣の四年前に即位された後水尾天皇は、まさに徳川幕藩体制の確立期の中で、朝廷を幕府の統制下に置こうとする徳川家康の圧力に相対することになった。
幕府は、天皇と朝廷を統制するために京都所司代を置き、一六一五年には禁中並公家諸法度を定めて、幕府を超える権威を認めないことにするために、天皇が高僧や尼に紫衣の着用を勅許することを禁止し、皇族の入寺も禁止し、門跡寺院を廃止しようとした。この法度は江戸時代を通じて一切改定されていない。
これは、幕府が京都所司代を通じて天皇と朝廷を管理下に置くための法であった。
 
しかし、寛永四年(一六二七年)、後水尾天皇は、朝廷の従来の慣例通り、十数人の高僧に紫衣着用の勅許をお与えになった。これを知った将軍徳川家光は、法度違反であるとして勅許の無効を宣言し、京都所司代に紫衣を取り上げるように命じた。
しかし、朝廷は紫衣着用の勅許を無効とすることに強く反発した。
朝廷の官職の一つに過ぎない征夷大将軍が、天皇より上に立つことは自己矛盾であり「天壌無窮の神勅」に背くことになるからである。しかし、幕府は、朝廷に同調した大徳寺の住職沢庵和尚や妙心寺の住職を出羽国や陸奥国に流罪に処した(一六二九年七月二十五日)。
すると同年十一月八日、後水尾天皇は、突然、六歳の第二皇女興(おき)子(こ)内親王(明正天皇)に譲位される。
在位十八年、三十四歳。
以後、後水尾天皇は、上皇として、すべてご自分の子である後光明天皇、後西天皇そして霊元天皇まで四代の天皇の後見人として院政を敷かれた。
後水尾天皇は、生涯に三十余人の子供を生ませ、霊元天皇は五十八歳の時に生まれた御子である。
これを見ても、生涯にわたって強い存在感を幕藩体制下で発揮された天皇・上皇といえる。
幕府は、当初「院政」は禁中外の存在であるとして「院政」を否定していたが、後に徳川家光は後水尾上皇の院政を認めた。
しかし、上皇と幕府との確執は続く。
とはいえ、後水尾上皇(後に法皇)の存在は、幕府の諸大名を従わせる権力を超える権威として世の人心に強い印象を与え続けたことは確かである。

修学院離宮は後水尾上皇が建てられた離宮だ。
私は学生時代の最後の時期を修学院離宮の近くの修学院坪江町の下宿で暮らしていた。
幕藩体制の下では天皇は生涯にわたって京都の御所の外に出られなかった。
また、幕府は朝廷を資金的に窮乏状態に止めおき、後に高山彦九郎は、三条大橋の上で、
破れた御所の塀の隙間から皇居の灯りが見えるのを嘆き、涙を流した。
そして、大名も参勤交代の途上に京都に近づくことを許されていない。
大名が朝廷と接触することを幕府は禁じていたのだ。
このような中で、修学院離宮を造営した後水尾上皇の存在感は、まさに幕藩体制を越える権威であったといえる。
 
そこで、明治維新を導いた思想は何かと探れば、それは、天皇を中心とする國體思想だといえる。
従って、明治維新を成し遂げた幕末の志士たちの思想的バックボーンは、山崎闇斎を祖とする崎門学と水戸学、さらに、我が国は天皇を中心とする万邦無比の国であり我が国こそ中朝(中華)であると説いた「中朝事実」を著した山鹿素行、さらに本居宣長や平田篤胤の国学に発する。
この崎門学の祖である山崎闇斎(一六一八年生れ)と闇斎の弟子で幕末の志士が教科書として愛読した「靖献遺言」を著した浅見絅齋(一六五二年生れ)、また山鹿素行(一六二二年生れ)、そして、吉田松陰を始めとする幕末の志士たちが、その前に額ずき泣いた湊川の「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てた(湊川建碑)水戸光圀(一六二八年生れ)は、皆、後水尾天皇・上皇の御代(一五九六年~一六八〇年)に生まれた者である。
彼らは、もちろん、武家の権力である幕藩体制が天下の秩序であるなかで育った。
しかし、この盤石な徳川の権力を以てしても、覆うことのできない幕府の権力を越える権威があることを後水尾天皇そして上皇は体現されていた。
私は、明治維新に至る流れを生み出す源流に、水尾天皇・上皇の御存在があると思うのである。 

以上、後水尾天皇の御譲位が、後世に与えた静かでしかし底の知れない大きな時代を変えるうねりを概観し、それが幕藩体制から明治維新に日本を脱却させる導火線になったと述べた。
御自分の御譲位が遙か二百数十年後の明治維新の導火線になることを後水尾天皇ご自身が自覚されていたのではないだろう。
しかし、まさに後水尾天皇の御譲位は、徳川幕藩体制打倒に繋がるのだ。
そして、この後水尾天皇の御譲位と同様に、今上陛下の御譲位と上皇としての御存在は、
戦後体制=憲法を越え、再び日本を取り戻す導火線になる、とここで記しておく。
 
明治維新が幕藩体制を越えて天皇を中心とする近代国民国家としての日本を出現させたのは、我が国家の生き残りの為であった。
即ち、あの時、幕藩体制のままならば、我が国は欧米列強の餌食になり滅亡していた。
今、再び、我が国は、憲法=戦後体制を越えて天皇を中心とする国民国家にならなければ存続できない国際情勢の中に突入している。
現在の、旧体制からの脱却を促す内外の情勢は、幕末と酷似している。
この時に当たり、今上陛下が、御譲位によって、衆に先んじて!
憲法=戦後体制から脱却され憲法にない上皇となられる。
この、お国を救う御譲位のありがたさを、かみしめようではないか。





「今上陛下の御譲位により我らは戦後憲法体制から脱却する①」

2018-10-14 08:02:22 | 日本

西村真悟さんが、「今上陛下の御譲位により我らは戦後憲法体制から脱却する」について掲載している。
以下、要約し記す。



神武創業以来、万世一系の天皇と我ら民の姿、すなわち、我が国の國體なのだ。
 
天皇の統治を表現する古代やまと言葉は「しらす」である。
天照大神の「天壌無窮の神勅」により天皇が生まれる。
その神勅にある「宜しく、爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)いてしらせ」の「しらす」、また、万葉集第一巻冒頭の「初瀬朝倉宮に天(あめ)のしたしらしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)」の「しらす」だ。
これに対し、天皇以外の者の統治を表現する言葉は「うしはく」である。
そして、大国主命の国譲りの神話は、天照大神の使者が、大国主命に、「汝(な)がうしはける葦原の中つ国は、わが御子のしらさむ国」と告げると、大国主命は、自分の「うしはく国」を天照大神の御子の「しらす国」にするために譲ったという物語である。
 
では「しらす」と「うしはく」はどう違うのか。
「うしはく」は、ある地方の土地と人民を、我が物として、すなわち我が所有物として領有支配すること、である。
これに対して「しらす」とは、人が外物と接する場合、即ち、見るも、聞くも、嗅ぐも、飲むも、食うも、知るも、みな、自分以外にある他の物を、我が身に受け入れて、他の物と我とが一つになること、即ち、自他の区別がなくなって、一つに溶け込んでしまうこと、だ(元侍従次長木下通雄著「宮中見聞録」)。
 
大国主命は、自分が領有し支配する土地と人民を、天照大神の御子と自他の区別がなくなって一体となる国の土地と人民にした。
これが国譲りの話の尊さだ。
従って、美智子皇后陛下が大国主命を祀る出雲大社に参られて、「国譲り祀られましし大神の奇しき御業を偲びてやまむ」という我が国の誕生の不思議に深く思いをはせられた雄渾な御歌を詠まれた。
そして、ここから、「天皇のしらす国」である日本が誕生し、万世一系の天皇が百二十五代の今上陛下まで続いてこられている。
従って、明治天皇も今上陛下も、この「天皇のしらす国」の天皇として家族に語るように国民に語られたのだ。
まさにここに、我が国の國體、つまり紙に書かれない歴史と伝統のなかの「真の憲法」がある。
そして、今上陛下の御譲位は、まさしくこの天照大神の「天壌無窮の神勅」に基づく國體、
即ち「真の憲法」に基づいたで為されるのだ。
 
従って、そもそも昭和二十一年二月に進駐軍の総司令部(GHQ)の二十数人(外国人)が書いた憲法で、この度の御譲位が把握できるはずがないではないか。
我らは、この度の今上陛下の御譲位に際して、もうぼつぼつ、我が国の「真の憲法」は何処にあるのか!
それは、昭和二十一年二月に、GHQの我が国のことなど知らない外国人の若造が九日間で書いたこの憲法と題する、この、中学生の作文のような文書、こ、これが、我が国の根本規範である「憲法」そして「國體」なのか、それとも、我が国の神話に根源する歴史と伝統のなかにある眼前の天皇と、目に見えない「規範」が「憲法」なのか、事態の経緯と実相に基づいて、腹の底から決定する時である。









「歴史に学ぶとは、具体的に何を学ぶことなのか③」

2018-10-13 07:25:19 | 日本

さて、中共の習近平主席の「一帯一路」とは何か。

私が思い浮かべるのは、十九世紀後半の「露清密約」から始まったロシアによる「融資(銀行)と鉄道による満州侵略」である。
「一帯一路」は、これと同じだ。
すなわち、相手国に多額の融資をして「公共事業」を行う。
その公共事業に伴って中国人がなだれ込む。
このからくりは、かつてのロシアが満州でしたのと同じ、貸し付けと公共事業による侵略である。
それ故、この度、マレーシア、パキスタンに続いてモルディブも大統領選挙で、中共圏から離脱したのだ。
そのモルディブの大統領選挙の合い言葉は「中共の借金の罠に嵌まって中共の植民地になるな」であった。
世界は、中共と習近平の本質を見抜き始めた。
よって、安倍総理が訪中して、断じて為してはならないことは、世界が「罠(嘘)」だと見抜き始めた「一帯一路」に賛意を表することだ。


最後に、少し触れた痛恨の「露清密約」について記す。
これこそ、ロシアとシナ、つまりロシアのウィッテとシナの李鴻章が、我が国に対して行った世界的な欺しだ。
そして、現在も、プーチンと習近平の間で再び対日「三国干渉」と「露中密約」があってもおかしくはない。

以夷制夷(夷を以て夷を制す)、遠交近攻(遠きと交わり近きを攻める)、
借刀殺人(刀を借りて人を殺す)は古来シナ特有の、現在に続く民族の特性だからである。

明治二十八年(一八九五年)日清戦争において清国陸軍は平壌で壊滅し、北洋艦隊は黄海で壊滅した。
そして、四月十七日、下関で講和条約が締結された。
清国全権は、李鴻章とその息子李経方の親子だった。
この調印直後の四月二十三日、李鴻章の思惑通り、ロシアは独仏両国を誘って、我が国が条約で獲得した遼東半島を放棄せよと「勧告」してきた。
これが、東亜五十年の禍根、三国干渉だ。

明治天皇は、苦渋のなかでこの三国干渉を受諾される。
それから、五十年後の昭和二十年八月十日午前二時二十分、昭和天皇は、「明治天皇の三国干渉の際の御心持ちを偲び奉り自分は涙をのんで原案に賛成する」と御前会議で発言され、ポツダム宣言を受諾する旨、申し渡された。

この三国干渉と、それに続く、露清密約が、日露戦争と満州事変に続いてゆく極東の動乱の密かな発火点である。
三国干渉で、ロシアに頼ってまんまと遼東半島を取り戻した清国の李鴻章に、
翌年、ロシアの蔵相ウィッテは、モスクワで、密かに、「日本は必ず遼東半島を奪還しようとするので対日攻守同盟を結びたい」と提案する。
その結果締結されたのが露清密約だ。
我が国と世界は、この密約の存在を一九二二年のワシントン会議で初めて知るのであるが、その内容は、李鴻章が、鉄道の建設と露清銀行の設立、つまり、ロシアの満州に対する「鉄道と銀行による制服」を認めるものである。
すなわち、李鴻章は、巨額の賄賂をロシアから貰って、満州をロシアに売却したのだ。
現在、李鴻章の子孫は、名前を変えて大富豪としてアメリカに居住している。

この密約で建設が決まった東支鉄道は、シベリア鉄道と連結してザバイカルとウラジオストックを最短距離で結ぶことになりロシアの満州侵略の経路となり日露戦争の導火線となる。

さて、その日露戦争であるが、我が国と国民は、露清密約によって現実化したロシアの軍事的脅威を除去するために、血みどろになって満州の荒野に屍をさらし、満州からロシア軍を排除した。
そして、シナは、自らロシアに売った満州を、日本の血で取り戻すのだ。
この露清密約のからくりを、日本は、一九二二年まで知らなかった。
おのれ、露清!ロシアとシナ!我が国にとって、露清密約こそ痛恨の災禍である。

そして、今、習近平のシナ、中華人民共和国は、かつての清国のように中華の覇権を拡張しつつある。
その拡張の手段は、以夷制夷、そして遠交近攻、さらに借刀殺人、そして、
かつてロシアが満州でした「鉄道と銀行による制服」の現代版すなわち、「一帯一路」である。


<了>










「歴史に学ぶとは、具体的に何を学ぶことなのか②」

2018-10-12 06:13:00 | 日本

とはいえ、歴史は、中国の現実を見て中国を把握することこそ必要であることを教えている。
それ故、我が国の貴重なその系譜の先駆けである情報将校福島安正の明治十二年の清国偵察報告「隣邦兵備略」の結論を紹介する。
まさに、現在の習近平の中共を描写するが如き報告である(岡田幹彦著「日本を護った軍人の物語」)。

「清国の一大弱点は公然たる賄賂の流行であり、これが百害の根源をなしている。
しかし、清国人はそれを少しも反省していない。
上は皇帝、大臣より、下は一兵卒まで官品の横領、横流しを平然と行い、贈収賄をやらない者は一人もいない。
これは清国のみならず古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。
このような国は日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない。」
これ、現在の習近平の中共にも訂正する箇所はなく当てはまるシナ見聞記でもある。
情報将校福島安正、後の陸軍大将が偵察に基づいて記した結論、「このような国は、日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない」これは、まさに百四十年後の現在の我が国の結論でなければならない。
現在、中共は中国共産党独裁国家であり、本年、その主席の習近平は、任期なしの終生主席、つまり、皇帝となり、国民に対する言論統制を強化し、人民に密告を促し、自由を求める人民を牢獄に閉じ込め、ウイグル、チベット、モンゴル、満州の他民族をジェノサイドし続け、守銭奴のように世界の富を集め、中華民族の世界支配を夢想する。
このような中共は、人類の疫病神である。
中国共産党独裁体制は、人類の文明の名において打倒しなければならない疫病である。
 

次に、ロシア人は約束を破るために約束をする。
この言葉が真実であることを、我が国は民族の実体験として痛切に知ったではないか。

大東亜戦争終末に当たり、ロシア(ソビエト)は、日ソ中立条約を破り、満州と樺太と千島に軍事侵攻して数十万の日本兵と民間人を抑留して昭和三十一年まで十一年間も重労働に従事させ数万人を死亡させた 。
さらに、ロシアは、現在に至るまで、その時軍事占領した国後、択捉、歯舞そして色丹の我が国固有の領土を不法占拠して返さない。
しかし、他方で、現在のロシアのプーチン大統領は、我が国の安倍総理と何度も会談を重ねて、両者は、「シンゾウ」、「ウラジーミル」と呼び合って親密さをアピールしている。
これをどう受け止めればいいのか。
その理由は、単純であり、プーチンは、ロシアの西のクリミアとシリアで手がいっぱいで、東の日本から資金を引き出そうとして微笑んでいるだけだ、
と断言できる。
プーチンは、安倍総理に微笑みながら、我が国固有の領土の国後と択捉に平然とミサイル基地を建設し、南シナ海で中共軍と中ロ合同軍事演習をしているではないか。

また、プーチンは、ソビエトのKGBで出世した「共産党エリート」であることを忘れてはならない。
戦後ソビエトに十一年間抑留された北海道大学教授内村剛介は、著書「ロシア無頼」の中で、共産党エリートを次のように書いている。
「無理難題に処してたじろがず、手段を選ばない者が共産主義的エリート・コースに乗る。
・・・そしてこのオルガナイザーは、当然親友を裏切ることを屁とも思わない。
オルガナイザーは裏切り者でなければならない。」プーチンは、立派な大胆不敵な裏切り者である。
ソチで平和の祭典冬季オリンピックを開催して世界の目をソチに集めながら、その間に、ソチの南西のウクライナのクリミアを武力で併合する準備を整え、突如、クリミアに侵攻してそこを領有した。
これ、手段を選ばない、裏切ることを屁とも思わない共産党エリートの所業である。

このスターリンと同じ、ダッタンの皮を被ったルーシー、ルーシーの皮を被ったダッタン、が言うことを聞くのは、困ったときだけだ。
スターリンが日ソ中立条約を締結したのは、西からナチスドイツが攻め込んできたからだ。
ロシアが、アラスカをアメリカに超低価格で売却したのは、西のクリミアでの、イギリス・フランス連合軍との戦争でくたくたになり金に欠乏したからだ。
北方領土は、安倍総理とプーチンの「個人的友情」では帰ってこない。
彼との「友情」に頼れば、騙されるだけだ。
我が国が、プーチンを西でくたくたにさせ生命の危機を感じさせたときに勝機が訪れる。
 













「歴史に学ぶとは、具体的に何を学ぶことなのか①」

2018-10-11 06:07:02 | 日本

西村真悟さんが「歴史に学ぶとは、具体的に何を学ぶことなのか」について掲載している。
以下、要約し記す。



「民族の行動パターンに学ぶことだ」としたのは、古田博司筑波大学大学院教授だ(産経新聞、平成二十八年二月十日「正論」)。

古田教授は、この朝鮮半島に対して日本国民は、「助けず、教えず、関わらず」の「非韓三原則」で対応し、文字通り、対岸の火事を見るがごとくにして、日本からの援助を求める韓国内の声に耳を貸してはならないと説く。
そして、次のように言う。
「なにしろコリアは、豊臣秀吉軍の災禍いまだ覚めやらぬ頃、満州軍の侵攻を受けるや、『日本に助けてもらおう』という声が平然かつ澎湃として起こる国である。」
なるほど、我が国の明治維新後、数十年に及ぶ朝鮮の反日・侮日のなかで、我が国が朝鮮の宗主国である清国を打ち破り(明治二十八年)、さらに朝鮮が清国の次に身を寄せた帝政ロシアを打ち破った(明治三十八年)後に、朝鮮内には平然かつ澎湃として日韓併合を求める声が起こった。

我が国としては、日清戦争と日露戦争の切っ掛けは、ともに朝鮮が内部に清国軍、次にロシア軍を導き入れたからであったことに鑑み、朝鮮を安定化して、日清、日露に続く三度動乱の発火点になることを防がんとし、欧米列強も日本による朝鮮半島の安定を望んだので、我が国は、明治四十三年(一九一〇年)、日韓併合に踏み切った。
そして、我が国の、三十余年間に及ぶ朝鮮半島近代化に向けた努力は世界的に見て偉大な成果を挙げた。
しかし、この我が国の努力と成果に対する現在の南北朝鮮の我が国への恩を仇で返すが如き恨みの対応は、改めて古田教授の「非韓三原則」こそ、歴史に学んだ知恵であることを示している。
とはいえ、この朝鮮半島は、北はロシア、南西は中国に接した半島であり、歴史上、ロシアと中国の間を振り子のように揺れ動いて今日に至っている。
つまり、朝鮮は、ロシアと中国の「変数」である。
従って、我が国の主眼は、「変数」ではなく、このロシアと中国に如何に対処するかに注がれなければならない。
 
ロシアは、長年にわたりモンゴル帝国の支配を受けていたが、その間、モンゴルの手下となって他のルーシー(スラブ族)を支配していた。
従って、ダッタンの皮を被ったルーシーともルーシーの皮を被ったダッタンとも言われている。
いずれにしろ、このダッタンの皮を被ったルーシーが、モンゴル帝国の衰退後に、我が国の織田信長と同世代の独裁者イワン雷帝によってモスクワに建国された小さな国がロシアで、以後、ユーラシアの北を東へ東へと勢力を伸ばし、清国との一八五八年のアイグン条約と一八六〇年の北京条約でウスリー以東の沿海州を獲得して、遂に西のバルト海から東の日本海にまたがるユーラシア大陸を支配する帝国となった。
この時、中国には、満州人の清帝国があり、朝鮮半島は清国に従属する李氏朝鮮が四百年間支配していた。
これが、明治維新によって近代化を目指す我が国が直面した東アジアの情勢であった。

この十九世紀後半、我が国の海を隔てた西にあるロシアと清国に対して国際社会は如何なる評価を与えていたのか。
現在にも通じる次の言葉がある。
「ロシア人は、約束を破るために約束をする。
シナ人は、そもそも約束は守るものだとは思っていない。」この言葉は、ロシアもシナも、子供に「嘘をついてはいけない」と教える我が国とは、正反対の文明であることを示している。
 
しかし、我が国は飛鳥時代以来、中国の四書五経を学び、江戸時代には中国を聖人君主の国と崇める風潮もあり、その風潮が維新後も続いて我が国の適切な対中政策を狂わす元凶となった。
このなかで、特に明治維新以降、四書五経や漢詩や漢文を通して中国を見るのではなく、適切な中国に対する国家戦略を構築する為に、中国文明の本質をえぐり中国の現実を把握する努力も続けられてきた。

現在においても、前者は、日中国交樹立以来、「日中友好」に浮かれるように始まった巨額の対中援助を生み出す流れにつながり、後者は、現実の中国による無法な尖閣諸島に対する領有要求と露骨な行動に目を塞ぐが如き「日中友好」の流れが、再び国策を誤ることに繋がると警告する。
しかし、まことに残念ながら、現在の安倍内閣においても、中共に気兼ねし、中共のご機嫌を損ねることを恐れ、安倍総理大臣は、靖国神社に参拝できず、中共の海空軍に尖閣諸島の領海と領空を侵されても、未だ、断固とした自衛隊による尖閣防衛体制を構築しようとしない。
そして、本年にアメリカのトランプ大統領が、本気で対中貿易戦争を仕掛け窮地に立つまで、戦後七十年の対日戦争勝利の大軍事パレードを行い、日中両首脳の会見でも無礼にもそっぽを向いていたあの習近平が、日中友好の素振りを見せれば、いそいそと今月、中共を訪問する。










「左派も右派も消えて朝日新聞叩きだけが残る」

2018-10-10 05:44:25 | 日本

池田信夫さんが、左派も右派も消えて朝日新聞叩きだけが残るについて掲載している。
以下、要約し記す。


⇒ 
私も2年前に『新潮45』に原稿を書いたことがあるが、当時はあまりカラーのはっきりしない雑誌だった。「45」というのは45歳以上の読者を対象にするということだが、いま紙の雑誌を読む人の平均年齢は60歳ぐらいだから、ターゲットが絞り切れていない。
 
かつてはルポルタージュを売り物にし、政治的には中道右派ぐらいだったが、1年ぐらい前から「右傾化」が目立つようになった。今年に入ってからの特集はこんな感じだ。

月刊総合誌は、終戦直後には左派が主流だったが、1970年代から部数が落ち、岩波書店の『世界』以外は壊滅した。朝日新聞社の『論座』も赤字が続いて、WEBRONZAという形で本紙に吸収された。『世界』は印刷証明付き発行部数を公開していないが、1万部以下で赤字だと思われる。
 
これに対して、右派誌は一時は元気だった。2014年に朝日新聞が慰安婦問題で誤報を認めたときは、WiLLは10万部完売したという。紙の雑誌しか読まない超高齢世代に、ターゲットを絞っているのだろう。
 
右派誌は「すきまビジネス」である。朝日新聞のような常識的な話はどこでも聞けるし、テレビでも見られるので、金を出して読む人は少ない。よくも悪くも世の中の常識とは違う話でないと、買ってもらえないのだ。
 
そういう「非常識」は冷戦期には、憲法改正だった。社会党は「非武装中立」を掲げ、憲法違反の自衛隊や日米安保条約を廃止すべきだと主張していた。自民党は憲法改正を党是に掲げていたが封印し、日米同盟で国を守る「親米保守」あるいは「護憲保守」になった。
 
この対立が、1990年代から変わってきた。社会党が非武装中立を放棄して自壊し、「革新」陣営が消滅した。その後は自民党主流の親米保守と、憲法改正を主張する「反米保守」あるいは「改憲保守」が対立してきた。
 
文藝春秋の『諸君!』が健在だった1970年代から80年代には、保守派がこうした問題を論じていた。それは今も意味のある論争だが、改憲保守のリーダーだった安倍晋三氏が首相になると、第2次内閣以降は親米路線を強めた。憲法改正案も公明党に配慮して「自衛隊の合憲化」という実質的な意味のない案になり、親米保守に近づいた。
 
このため右派誌にも論争がなくなり、安倍政権バンザイの記事ばかり載るようになった。執筆者も固定して3カ月ごとに同じ人が書き、テーマはいつも朝日新聞批判。最近は森友・加計キャンペーンの批判が多いが、こんなものは論争とはいえない。『新潮45』の消滅は、日本から左派も右派も消滅し、政策論争がなくなる現実を象徴している。







「夢のがん治療薬 オプジーボ」

2018-10-09 07:22:41 | 日本

抗がん剤はクスリの力で直接がん細胞を殺したり、細胞の増殖を防ぐものだ。しかし、免疫療法はそもそも人体に備わっている免疫システムに働きかけて、自分の力でがんを退治させるという治療法である。

いま、一つの薬が国家レベルの議論を巻き起こしている。小野薬品工業が開発した、がんの薬、オプジーボ(一般名:ニボルマブ)だ。

オプジーボは免疫チェックポイント阻害剤と呼ばれる薬。通常、がん細胞が体の中にできるとキラーT細胞という免疫細胞が、がんを攻撃する。しかし、がん細胞は攻撃されないように、免疫細胞にブレーキをかけるPD-L1という物質を作り出すことができる。オプジーボはその免疫機能のブレーキを外して、人間の身体が本来持っている、がん細胞を叩く力を発揮させる薬なのだ。


◎免疫力の「ブレーキ」を外す

かつてアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に在籍し、オプジーボ開発前の基盤的研究に携わった国立がん研究センター・免疫療法開発分野長の吉村清氏が解説する。
「免疫というのは、病原体やがん細胞といった異物を排除する機能のことです。がんはジワジワと体の中でできていきます。そして、がんができていく過程で、本来がんを攻撃すべき免疫機能が弱まって、がんの存在を許してしまうのです。つまりがんから『返り討ち』にあうのです」
病原体やがんなどを攻撃する機能を担うのが、「キラーT細胞」と呼ばれる免疫細胞だ。体の中にがんができると、「体内にがんという異物ができた」という信号を受けて、キラーT細胞は自動車のようにアクセルを踏んでがん細胞を攻撃しようと近づく。

「ところが、がん細胞は非常に巧妙でキラーT細胞が近づいてくると、『攻撃の必要はない』という偽の信号を送って、攻撃の手をゆるめさせてしまうのです。このブレーキ作用が原因でがんは生き延びることができる。

従来の免疫療法は、キラーT細胞のアクセル部分を強化させようという発想で作られてきました。ところがオプジーボは、『どんなにアクセルを踏んでもブレーキがかかっていれば動かない。ならばブレーキを外してしまおう』という発想で開発されたクスリです。その結果、今までとは段違いによく効く免疫薬が生まれました」(吉村氏)

キラーT細胞はPD-1、がん細胞はPD-L1というブレーキ役の分子を持っている。この二つが手を結んでしまうと免疫チェックポイントが働き、攻撃にブレーキがかかってしまう。
オプジーボはこの二つの分子が結合しないようにする抗PD-1抗体を含む。そのため、オプジーボが効くと、キラーT細胞は偽の信号に惑わされずブレーキが解除され、アクセル全開でがん細胞を攻撃することができるのだ。

「免疫療法の有効性はこれまでずっと『眉唾もの』だと言われてきました。実際、効いていると思われる症例もありましたが、統計学的に有意な差がなかなか出てこなかった。
それがこの3年ほどで、ようやく免疫療法が本当に効く時代がやってきました。手術、化学療法(抗がん剤)、放射線に次ぐがん治療の第4の柱として認められたのです。
'13年には世界的な科学雑誌の『サイエンス』が、科学界における最も画期的な事象を決める『今年一番のブレイクスルー』に免疫療法を選び、一般的にも認知されるようになりました」(吉村氏)

まさに時代の最先端をいく夢の新薬。だが、このクスリを開発し始めて実用化にいたるまでは15年という長い年月がかかっている。当然、そのあいだに費やされた研究開発費は莫大なものになり、それが薬価に反映されることになる。

「オプジーボの国内販売価格は、100mgがワンボトルで73万円です。肺がんの場合、患者さんの体重1kgに対して3mgが必要になり、60kgの人であれば1回の投与あたりで180mg、約130万円の薬代がかかります。投与量は患者さんの体重とがんの種類によって大きく変わってきます」(小野薬品広報部)

仮に体重67kgの男性が2週間に1回、1年間の治療を続けた場合、かかる薬価は約3500万円にも及ぶ。


◎もっとも、本当にこの金額を、患者が支払うわけではない。

厚労省が保険適用を認可しているクスリには高額療養費制度が適用されるので、患者は自己負担限度額を超える分は払う必要がないのだ。自己負担額は収入によっても異なるが、平均的には月15万円を超えることはまずない。

そうなると、患者負担分を除く3000万円超は国民の健康保険料から出ることになる。「薬価については、2年に1度見直しがあるので、今後、オプジーボの値段も変動する可能性があります」(小野薬品広報部)という声もあり、クスリが多少安くなることもあるだろう。
だが今後、オプジーボの保険適用範囲が拡大されることを考えると、新薬が国庫にかける負担は巨大なものになることは間違いない。

「'13年2月に経産省が発表した日本の再生医療や免疫療法の市場予測によると、今後、がんの免疫療法関連の市場がすべての医療分野の中で最も大きくなるだろうと見られています。'20年で950億円、'30年に1兆円、'50年には2・5兆円という具合です」(前出の吉村氏)
高額な薬価は今後、社会的に議論されるテーマとなるだろう。だが、どんなに高くてもがんが治るとなれば、それを求める人々の気持ちは抑えられない。前出の山﨑氏が語る。

「オプジーボはリンパがん、頭頸部がんなどあらゆるがん種に効くことがわかってきました。私
は皮膚科としてメラノーマが治る時代がやってきたなと実感しましたが、今後、おそらく人類ががんを克服する日もやってくると感じています。
かつて抗生物質がなかった時代は結核を治療するのに、感染症であるにもかかわらず外科手術をするようなこともあった。現在、結核で死ぬ人がほとんどいなくなったように、がんも克服できるはずです」

医学は着実に進歩しつつあり、夢の治療薬が一般の患者でも使用できる時代がきた。がんを恐れる必要がなくなる日は、もうそこまで来ている。

(「週刊現代」2016年4月9日号より)