龍の声

龍の声は、天の声

「文明の抹殺」

2017-01-31 07:43:05 | 日本

東京裁判における唯一の国際法の専門家であるパル判事はこの裁判を「文明の抹殺」だと非難した。ケント・ギルバート氏が掲載する。
以下、要約し記す。


上智大学の渡部昇一名誉教授は、「いまこそ東京裁判史観を断つ『パル判決書』の真実」で、要旨次の二点を冒頭に掲げて、東京裁判の無効を主張している。実に興味深い。

(1) 東京裁判での検察側の「これは文明の裁きであり、侵略戦争の指導者を罰することで将来の戦争勃発を抑止し、国際社会を安全にする目的を持つ」という主張は、「判決文のインクもろくに乾かないうちに」朝鮮戦争が起こり、世界の多数の国々が参加する事態となって崩壊した。東京裁判の判事国どうしで戦争をしている始末だ。「文明の裁判」などでは全くない。

(2) 東京裁判の裁判所条例(チャーター)をつくらせたマッカーサー元帥は、いわゆるA級戦犯処刑のわずか二年半後の昭和二十六年の五月初頭に、アメリカの軍事外交に関する最高機関のひとつである上院軍事外交合同委員会の場で、公式に東京裁判を全面否定する証言をしている。マッカーサーは、結論として、「したがって彼ら(日本人)が戦争に入った目的は、主として自衛のために余儀なくされたものである。”Their (Japanese) purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.」と証言している。

 そもそもなぜ裁判条例が作られたかと言えば、「当時、東京裁判を成り立たせる国際法は存在しなかった」からである。その裁判所条例をつくらせたマッカーサー本人が、「日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦争だった」と認めたことになる。
 裁判所条例の作成にはキーナン主席検事が加わっていた。これも全く不当な話で、告発する検事側が裁判の規定をつくるなど、検事側の論告にあわせて裁く裁判であったことを裏書きしている。
 マッカーサー条例(チャーター)について、パル判事は、「文明の抹殺」と、以下のように言葉を極めて非難した。

「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは、敗戦者を即時殺戮した昔と我々の時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである」
 








「日本人の手で、国民と文化・伝統を守り得る憲法を」

2017-01-30 08:34:20 | 日本

森 清勇さんが「日本人の手で、国民と文化・伝統を守り得る憲法を」と題して掲載している。これはなかなかいい内容である。
以下、要約し記す。



安倍晋三首相は今年になって憲法改正について頻繁に発言している。

憲法施行70年の節目や改憲が党是のこともあるが、より強く決意させているのは予測される国際情勢の激動に適切に対応する必要性の認識からではないだろうか。

元日に国民向けに発表した年頭所感では、昭和天皇の昭和62(1987)年の歌会始における

御製
『わが国の たちなほり来し 年々に あけぼのすぎの 木はのびにけり』

を引用して、廃墟から見事に復興した日本の姿をお歌いになったと紹介した。


 しかし、伸びた木も成長が止まり、横に枝を広げていくように、この頃から出生数は戦後最低を記録し、バブル景気に沸いた経済は長いデフレの序章となり、日本の転換期になったとの認識も示した。

それから30年がすぎ、70年間続いた戦後に、激動が押し寄せる予兆があることも事実である。
平和の謳歌でやや受動的になっていた日本が荒波に飲み込まれないよう、そして積極的平和外交で国際社会の共生を訴えつつ、他方ではしっかりと根を張る必要性の強調でもあったようだ。

1月5日の自民党本部での仕事始めの挨拶では、「新しい時代にふさわしい憲法はどんな憲
法か。今年はいよいよ議論を深め、だんだん姿、形を私たちが形作っていく年にしていきたい」と語り、「それぞれが責任を果たしていくことが求められている」と議員に自覚を促した。

その後の役員会ではさらに歩を進めて「戦後のその次の時代を拓く。未来への責任を果たさなければならないと強く決意している」と語り、「本年、・・・日本を世界の真ん中で輝かせるために新たな国づくりを本格的に始動します。この国の未来を拓く1年とする」と、「戦後」に区切りをつけ、「ポスト戦後」の新しい時代を拓くことを明確に表明したのである。

すべての原点が憲法の改正であることは言うまでもない。


◎元帥の意に反する「憲法の存続」

そもそも、現在の憲法がどのようにして出来上がったのか。今では明らかであるが、その嚆矢ともなった江藤淳の『1946年憲法―その拘束』でいま一度確認しておきたい。
マッカーサー元帥は日本が封建的であるとみていた。

そこで占領開始直後の東久邇宮内閣の近衛文麿副総理兼国務相を招いて、元帥は「第一、憲法ハ改正ヲ要スル。改正シテ自由主義的要素ヲ十分取リ入レナケレバナラナイ。第二、議会ハ反動的デアル。・・・コレヲ避ケルタメニハ選挙権ヲ拡張シナケレバナラナイ、ソレニハ(1)家庭、婦人参政権ヲ認メルコト (2)労務、物ヲ生産スル労働者ノ権利ヲ認メルコト」(引用は前掲書、以下同)であると述べている。

続けて、「自分ハ日本ノ憲法乃至法律上ノコトハ宜ク知ラナイ。唯日本ニ戦争ニ乗リ出サシタ権力アリトスレバ、コノ種ノ問題ヲ解決スル措置ヲ講ズベキ権力モアルベキダラウト考ヘル。・・・端的ニ言ツテ、日本ノ議会モ日本ノ官吏モ唯連合国ノ意思ノ下ニノミ存在シ得ルノデアル。吾々ハ日本ノ政府ニ依リ合理的ナ過程ヲ以テ所要ノ措置ガ講ゼラレルコトヲ希望スル」とも語っている。

「連合国の意思の下にのみ存在し得る」はGHQ(連合国軍最高司令部)が絶大な権力を持っているという圧力にほかならないが、一方では「合理的な過程を以て」というように民主主義的手段を歓迎する意向も示したのである。

そう言いながら、「之ハデキルダケ急速ニ行ワレナケレバナラナイ、然ラザレバ摩擦ヲ覚悟シテモ吾々自ラ之ヲ行ワネバナラヌコトトナルノデアル」と止めを刺すことも忘れなかった。
日本は幣原喜重郎が首相となり体勢を立て直して対処する。

松本烝治国務相が示した私案は「天皇ハ軍ヲ統帥ス・・・」(第11条)、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ戦ヲ宣シ和ヲ講ズ」のように、GHQの絶大な権力を認めつつも、「主権」はあくまでも日本が保持したものとしていた。

自分の意志を反映していないとみた元帥は、マッカーサー・ノートとして知られる3項目
(1)皇位の世襲・天皇の職務は国民意志による
(2)主権の発動としての戦争放棄・陸海空軍及び交戦権の不保持
(3)封建制度の廃止・華族は一代限り

を提示して、下僚に憲法草案の起草を命じる。

至短期間で書き上げた草案を吉田茂外務大臣の官邸で米側が示す。その検討に与えられた時間は30分。この時、米軍機が爆音をとどろかせて通過する。休憩を終えて帰って来た米側は、外で太陽エネルギーを浴びてきたと発言する。

米軍機と太陽エネルギーは都市無差別爆撃と第3の原爆を思わせる心理作戦でもあった。さらに場合によっては天皇の安全を保証できない旨も匂わせるなど、脅迫の下に日本側は置かれたのである。

マッカーサー自身は「どんなによい憲法でも、日本人の胸許に銃剣をつきつけて受諾させた憲法は、銃剣がその場にとどまっているあいだだけしか保たないというのが自分の確信だ。占領軍が撤退し、日本人の思い通りになる状況が生まれたとたんに、彼らは押しつけられた諸観念から独立し、自己を主張したいという目的だけのためにも、無理強いされた憲法を捨て去ろうとするだろう、これほど確かなことはない」と語っており、どこまでも確信犯的行動であったことを示している。

元帥は日本の占領行政を任されたとはいえ、自分の強権力が滲み出るような形を好まなかったし、プライドも許さなかった。そこで『回想録』では、戦争放棄条項を提言したのは幣原首相であったとしている。

そうであればこそ、元帥は自分の指示で「主権を放棄させた」ことが明らかになれば、言行に不一致がでる。それを許さないためにも検閲を行わねばならなかった。 

「合理的な過程」をとるように指示しながら、また、言論の自由を尊重する米国でありながら、現実には検閲で言論を封ずる矛盾にも逢着していたのである。

◎元帥の甥・大使の謝罪

2016年11月号の月刊誌『WiLL』は、元駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世の「マッカーサー元帥の非礼を許して下さい」という一文を掲載した。

大使が昭和35(1960)年2月9日に汎洋婦人友好会理事長であった山野千枝子女史ら7人と会見した内容を、同席した故蜂須賀年子女史が記録した手記である。

大使は米占領政策の誤りを3点指摘し、伯父の元帥に代わって「日本国民に心からお詫びする」と述べ、さらに「日本は速やかに改憲に着手すべきである」と勧告していた。

大使は元帥の甥であったので、ざっくばらんにこうした「米国の占領政策の失敗」の話もできたのであろうが、元帥自身もこの会見に先立つ5年前、常宿にしていた米国のホテルに重光葵元外相を迎え、「東京裁判は失敗であった」と悔やんでいたことや、「無理強いされた憲法は捨て去ろうとするだろう」という元帥の思いを知っていたから、占領政策を正面から批判することができたに違いない。

大使は失敗の第1は日本に「米国流民主主義」を持ちこんだこと、第2は日本の歴史と伝統を無視して「人間天皇宣言」を行わせたこと、そして第3は主権在民の「占領憲法」を強制したことであると説明したという。

言うまでもなく、日本には日本流の民主主義があり、聖徳太子が定めたとされる「十七条憲法」や、明治になってからの「五箇条のご誓文」、そして明治欽定憲法があった。
日本流の民主主義は、選挙で元首(日本では象徴天皇)を選ぶ共和政でも、またすべてを多数決で一意的に決める近代的政治技術でもないが、万世一系の天皇が国民統合の和の象徴として、権力者に引きずられず、自然発生的な中心が存在したことが、日本を国家としてまとめていた要因であった。

日本に僅かしか滞在しなかったヘレン・ミアーズ(『アメリカの鏡・日本』の著者)は、日本では列車に順番に乗るなど、どこへ行っても統制のとれた姿を発見する。そして何か目に見えないが、大きな力が働いていると述懐している。これこそが大御心に魅かれて纏まる日本流の民主主義であったのだ。

第2の人間天皇宣言とも関連するが、大使は米国流の民主主義が日本に持ち込まれたために「日本国民は心のよりどころを失ってしまった」と述べ、「米国の日本研究が足りなかった」とも言うが、当時に足りなかったばかりではなく、今でも足りていないように思えてならない。

◎大使による「憲法改正の奨め」

米国は諸民族の移民で成り立っており、全く異なった国で生まれ育った人々の意見を吸い上げ統合するためには、言論によるディベートと過半数で問題を決する技術的方法しかなかったのである。

しかし、日本には2000年以上の歴史があり、以心伝心という知恵が根づいており、多数決原理などの技術的方法はもちろんのこと、言葉さえ必要でないくらいであった。

大使は、主権在民を根本原理として押しつけたために、「国民は個々に頼るより仕方がなくなってしまった」と述べ、核家族化して、日本が日本でなくなっていくさまを見て「かえすがえすも残念なこと」と謝罪し、同時に「米国でも大変心配しているのです」とも語っている。

第3の憲法問題では主権在民について述べ、「自分一人のことしか考えない利己主義に走り、自分だけの偏狭な考えを正しいものと信じて押し通していかなければ、生きて行かれないことになり、国家もなければ、天皇もない、そして他人も信じることのできぬという不安な状態に陥ってしまった」と嘆く。

大使は、米国流で(日本)国がまとまると思って、よかれと思ってやったが「統合をバラバラにしてしまうという不思議な反対現象が起こるものであることを初めて知って驚いた」と率直に表明し、また「今日ではお詫びをしてももはやどうにもならぬ状態になってしまいました」と諦観したという。

ただ、大使の考えと異なり、元帥が憲法を制定し、東京裁判をやったのは、日本が再び纏まって米国に刃向かうことがないように、ばらばらにしたいという意志が占領当時には働いていたからである。しかし、占領が進むと同時に日本人が元帥に示した心を知って、考えが変わったことは確かであろう。

大使は「日本の皆さんが一日も速やかに現在の占領憲法をとりかえて、日本の輝かしい伝統のもとに立ちかえって、再出発して頂くことです」と願望を述べている。

大使の発言にすがりつきたい女史たちは「3つの政策が間違っていたということを全国民に知らせ、天皇制の復元や憲法の改正を実現するきっかけにしたいから、アメリカの日本政策は間違っていたという何らかのメッセージを頂けないでしょうか」と懇願する。

大使は「日本は既に独立した国だから、(依頼のようなことをすると)日本への内政干渉として非難されるでしょう」と丁重に断り、逆に「皆さんや心ある方々が立ち上がって、一日も早くGHQの押しつけ憲法を捨てて、日本の歴史と伝統に合った憲法を制定して昔の姿に回復して下さい」と回答するのが精いっぱいであった。

◎家庭を崩壊させた現憲法

家長を中心とした家族制度についても、封建的で個人の自由、中でも女性の自由が制約されているとみた。こうして、憲法24条で、結婚・離婚などが家族の問題から完全に切り離されて、2人だけの自由意思と、両性の平等のみが尊重されるようにした。

もう1つは女性の社会進出である。かつての日本は「夫が外で働き、妻が家庭で子育て家事を担う」という役割分担が色濃く、専業主婦世帯が共働き世帯を上回っていた。しかし、1986年の男女雇用機会均等法の施行、1999年の男女共同参画社会基本法が施行されて、女性の社会進出が大きく進んだ。

女性の社会進出度合いが、時折比率ランキングで示される。例えば列国議会同盟(IPU)が2016年2月発表した下院の女性議員比率ランキングでは、日本の女性衆議院議員の比率は9.5%で、191カ国中の156位である。また、経済協力開発機構(OECD)加盟34カ国では最下位となっている。

ただ、ほとんどの国が法律で割り当てる議席数や候補者の性別の比率を定める形のほか、政党が自発的に定めるなどのクオーター制を採用している。OECDでクオーター制でないのはフィンランド、デンマーク、ニュージーランド、米国、スロバキア、そして日本の6か国だけである。
これは下院議員という一分野の比率で、女性の社会進出を十分に反映しているとは言い難い。それでも、女性の社会進出が遅れている、もっと進捗を!  というメッセージにはなり得る。

ただ、女性の社会進出を進めることが国家の健全性を維持する唯一の方策であるとばかりは言えないのではなかろうか。過去の例から見ても、別の視点があるように思えてならない。

一時、専業主婦は社会進出できる能力がないという見方もあったように仄聞したが、偏見であったことは言うまでもない。専業主婦こそが家庭運営の中心であり、多大な能力が要求されていることが分かる。

日常の衣食住は言うに及ばず、出産、情操を含めた育児、社会生活を含めた子供の人間教育、病気の看護、そして在宅老人の介護など、人生で繰り広げられるすべての事象に関わる大任を果たしていた。

大変な負担がかかっていたことは確かであろうし、そのことは今日的視点で改善するとして、この専業主婦(今後は専業主夫もあり得よう)は社会進出した女性以上に喜怒哀楽に満ちたものであり、常時、生活の知恵を働かす最高の人生であると言っても過言ではないであろう。

他方で、共働きしながら生活をエンジョイするために子供はつくらないという、いかにも今風なエリート(DINKS=Double Income No Kids)も多い(「AERA」2016年8月8日号)ようであるが、国家的な視点に立つならば決して歓迎すべきものではない。エリートであるからには、さらに大きな視点で物事を考えてほしいものである。
家族は夫婦2人だけでは途切れ、無に帰してしまう。夫婦の前後世代が共に暮らす3世代同居こそが望ましいということがはっきりしてきた。

戦前の日本では子供の面倒も、老人の介護も自宅中心で行ってきた。孫は老人から社会の知恵を吸収していたし、老人は孫から元気を得て、老人ばかりのホームのような味気ないものではなかった。

◎おわりに

ジェイソン・モーガンという米国人学者がいる。現憲法について「アメリカの(日本)支配計画書であり、ただの不平等条約ですよ。現在までこの憲法が続いているという事実は、率直に言って『日本の恥』です」と語り、「この憲法を捨てない限り、『戦後』は永遠に終わりません」と忠告する(『WiLL』2016年11月号)。
日本は現憲法を与えられた時から、「主権」意識を喪失した。軍隊の不保持と自衛権・交戦権の放棄の第9条を「非戦条項」や「平和条項」と呼び、その憲法を「平和憲法」と詐称した。そして、憲法を守っておれば、他国が攻めてくるはずがないとして、「自分の国は自分で守る」ということさえ忘却していった。

 こうして、日本の領土に侵入され、数百人とも言われる日本人が異国に連れ去られた事実が明確になっても、主権を放棄している日本はいまだに取り返すことができない。これが米国であれば、いやどんな小さな国でも、戦争になることを覚悟してでも取り返す努力をするに違いない。

こうした考えは、日本人の中でも存在する。

自衛隊が国土・国民を守ると信じ、その一翼を担う栄誉に預かりたいと思って入隊した隊員もいる(伊藤祐靖『国のために死ねるか』など)。しかし、現実の自衛隊は政治主導(シビリアン・コントロール)の下にあり、政治は自衛隊に拉致家族の奪還を求めていないし、現憲法が存続する限り、外交による以外は永遠に取り返せない。

政府は「国際法上、一般的には、(自衛隊は)軍隊として取り扱われる」とする答弁書を決定(「産経新聞」平成27年4月4日付)した。これは、国際社会には「自衛隊」の概念が理解できないため、外国は一応自衛隊を「軍隊」、自衛官を軍人と見做して対処しているというだけのことで、日本自体はそのようには扱っていない。

軍隊は予測しない兵器や戦法、つまり想定外への対応が常に求められる。そこで、最小限の禁止事項(ネガティブ・リスト)だけを示し、指揮官に柔軟対応の余地を与えている。ところが、自衛隊では、やってよい事項(ポジティブ・リスト)を示し、それ以外は指揮官に余力があっても対応できない。

端的な例として、カンボジアPKOでは当初「道路・橋梁の修復」の1任務であったため、国連視察団への給食や負傷者の救助依頼等に対応できなかった。対応したい隊員たちは切歯扼腕し、指揮官がカンボジアの現地から防衛庁(当時)に、そして政府、さらには国連当局と調整して最終的には9任務に拡大した。

訓練や演習では想定外は対処しないでも済むが、非常時においては想定外でも、「回避する」ことも含めた即時の決心が求められる。回避では任務の遂行ができない、最悪の場合は全滅につながるという場合はどうするか。こうしたことが、ポジティブ・リストの任務付与では解決できない。

昨年の国会で最大の問題となった集団的自衛権の行使さえまともにできない状況に置かれており、ライフ・ラインの安全確保どころか、国土防衛すら軍隊でない自衛隊では覚束ないというのは言いすぎであろうか。

有事において国土や国民を守る自衛隊は、「政治」主導の下にある。その政治を動かすのは「国民」である。家族の再興、拉致家族の救出、そして国土防衛の正否もほかならぬ国民の1人である「自分」にかかっているのだという自覚が今ほど求められている時はない。












「アジアの世紀はもう終わり」

2017-01-29 07:32:36 | 日本

古森義久さんが、米国人学者の結論「アジアの世紀はもう終わり」、政治も経済も停滞、一方で高まる戦争の危機と題して掲載している。
以下、要約し記す。


「アジアの世紀」は終わった。こんな主張を展開する書籍がワシントンの国際問題関係者たちの間で話題になりつつある。
著者はワシントンの大手研究所「AEI(American Enterprise Institute)」で日本研究部長を務めるマイケル・オースリン氏である。
本書のなかでオースリン氏は、アジア、太平洋地域の繁栄や安定の終わりを告げる要因として以下の5点を挙げていた。


①奇跡的な経済繁栄の終わりと経済改革の失敗

日本からインド、中国まで、アジア諸国の驚異的な経済成長はそれぞれ異なる理由で衰え始めた。なかでも大きいのは経済改革の失敗だろう。全世界は、とくに中国の構造的な経済破綻に備える必要がある。日本の経済もかつてのような活力を回復することはない。


②人口動態の問題が深刻化

アジア諸国はどこも人口の縮小や偏りに悩まされている。インドのカルカッタから東京にきた筆者は、カルカッタが人口過剰なのに対して東京は高齢者ばかりというあまりの人口の偏りの落差に衝撃を受けた。日本も中国も、労働人口の減少が深刻な負の経済要因となってきた。技術革新も追いつかず、アジアの若者の未来は暗い。


③独裁制でも民主制でも政治革新が停滞

中国の独裁政権下での政治不安はますます深刻となった。日本やインドのような民主主義国でも、腐敗、無関心、シニシズム(冷笑主義)、縁故主義などに政治が蝕まれている。とくに国民に自由のない中国や北朝鮮での政治的な不安は、爆発的な危険を帯び、全世界に危機をもたらす。


④アジア各国の相互連帯が欠如

アジア、太平洋の諸国は欧米での北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)のような地域内相互の絆がない。文化や社会の共通性はある程度存在するが、相互を強く結びつける連帯の制度も共通の価値観もほとんどない。


⑤戦争の危険

現在のアジアには軍事衝突から戦争へとつながる潜在危機の要素が19世紀のように数多くある。最大の要因は中国の軍事拡張主義といえるが、北朝鮮の挑発的な行動も大きい。アジアには核兵器保有国が北朝鮮を含めて4カ国もあるため、いったん戦争が起きると危険は容易にグローバル規模にまで拡大する。














「先の戦争を日本人自らが侵略戦争だというのは無実の罪の告白に等しい」

2017-01-28 07:59:22 | 日本

ケント・ギルバートさんが「先の戦争を日本人自らが侵略戦争だというのは無実の罪の告白に等しい」について掲載している。
以下、要約し記す。



WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)で洗脳された日本人は、自ら「日本は侵略戦争をした」と、そう思い込むようになった。これほどの愚行はない。
無実の罪の告白に等しい。

「自己解釈権」という概念は、一九二七(昭和二)年のパリ条約に遡る。日本では、一般に「不戦条約」と、呼ばれているが、国際的には「ケロッグ=ブリアン条約」として知られている。

アメリカのフランク・ケロッグ国務長官が、フランスのアリスティード・ブリアン外相に対し、「紛争を平和的に解決する規定」を、協議することを提案したことから、この名がついた。公式には、「戦争放棄に関する一般条約」と、呼ばれる。各国の署名を求め、調印されたのは、一九二八(昭和三)年八月二十二日だった。
しかし、このパリ条約は、すぐ機能不全に陥った。条約に違反しても、民事・刑事いずれの制裁も課されなかったことと、締約国による「留保」がつけられたことが、その理由だった。

イギリスは当然のように、大英帝国を防衛する権利を担保し、ソ連も連邦全域に対して、同様の権利を担保した。

アメリカは、モンロー主義を侵害しないことを担保した。一八二三年にジェームス・モンロー大統領が表明した「孤立主義外交」を守ろうとしたのだ。つまり、アメリカはヨーロッパに干渉しないかわりに、ヨーロッパの西半球への植民や、干渉を、許さないという立場だった。言い換えれば、このアメリカの権益を犯した相手に対する、武力攻撃は、自衛であって、侵略ではないという、主張だ。

日本は、極東で軍事力を行使して干渉できる範囲に、満洲国も包含されると宣言した。
こうして、地球上のほとんどの地域は、実質的に、この条約の影響から除外されることになったのだ。










「脱亜論とは、」

2017-01-27 07:41:42 | 日本

『脱亜論』(だつあろん)は、新聞『時事新報』紙上に1885年(明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説である。1933年(昭和8年)に石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に収録されたため、以来福澤が執筆したと考えられるようになった。
1885年3月16日に脱亜論は新聞『時事新報』の社説として掲載された。原文は無署名の社説で、本文は片仮名漢字表記、長さは400字詰原稿用紙で、約6枚である。
・第1段落
まず、執筆者は交通手段の発達による西洋文明の伝播を「文明は猶麻疹の流行の如し」と表現する。それに対し、これを防ぐのではなく「其蔓延を助け、國民をして早く其気風に浴せしむる」ことこそが重要であると唱える。その点において日本は文明化を受け入れ、「獨り日本の舊套を脱したるのみならず、亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し」、アジア的価値観から抜け出した、つまり脱亜を果たした唯一の国だと評する。
・第2段落
「不幸なるは近隣に國あり」として、支那(清)と朝鮮(李氏朝鮮)を挙げ、両者が近代化を拒否して儒教など旧態依然とした体制にのみ汲々とする点を指摘し「今の文明東漸の風潮に際し、迚も其獨立を維持するの道ある可らず」と論じる。そして、甲申政変を念頭に置きつつ両國に志士が出て明治維新のように政治體制を變革できればよいが、そうでなければ両国は「今より數年を出でずして亡國と為り」、西洋列強諸国に分割されてしまうだろう、と予測する。
その上で、このままでは西洋人は清・朝鮮両国と日本を同一視してしまうだろう、間接的ではあるが外交に支障が少なからず出ている事は「我日本國の一大不幸」であると危惧する。そして、社説の結論部分において、東アジアの悪友である清国と朝鮮国とは、隣国という理由で特別な関係を持つのではなく欧米諸国と同じような付き合いかたにして、日本は独自に近代化を進めて行くことが望ましいと結んでいる。「我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり」とは「心(感情)」という個人的な感情を表した表現であって、「国家関係として日本と朝鮮とは縁を切って国交断絶すべき」というような主張ではない。


◎「脱亜論」
<新聞『時事新報』紙上に1885年(明治18年)3月16日に掲載>


西洋人の地球規模での行動の迅速さには目を見張るものがあるが、ただこれは科学技術革命の結果である蒸気機関を利用しているにすぎず、人間精神において何か急激な進歩が起こったわけではない。したがって、西洋列強の東洋侵略に対してこれを防ごうと思えば、まずは精神的な覚悟を固めるだけで充分である。西洋人も同じ人間なのだ。とはいえ西洋に起こった科学技術革命という現実を忘れてはならない。国家の独立のためには、科学技術革命の波に進んで身を投じ、その利益だけでなく不利益までも受け入れる他はない。これは近代文明社会で生き残るための必須条件である。

近代文明とはインフルエンザのようなものである。インフルエンザを水際で防げるだろうか。私は防げないと断言する。百害あって一利も無いインフルエンザでも、一度生じてしまえば防げないのである。それが、利益と不利益を相伴うものの、常に利益の方が多い近代文明を、どのようにして水際で防げるというのだろう。近代文明の流入を防ごうとするのではなく、むしろその流行感染を促しつつ国民に免疫を与えるのは知識人の義務でさえある。

西洋の科学技術革命について日本人が知ったのはペリーの黒船以来であって、これによって、国民も、次第に、近代文明を受け入れるべきだという認識を持つようになった。ところが、その進歩の前に横たわっていたのが徳川幕府である。徳川幕府がある限り、近代文明を受け入れることは出来なかった。近代文明か、それとも幕府を中心とした旧体制の維持か。この二者択一が迫られた。もしここで旧体制を選んでいたら、日本の独立は危うかっただろう。なぜなら、科学技術を利用しつつ互いに激しく競いながら世界に飛び出した西洋人たちは、東洋の島国が旧体制のなかにひとり眠っていることを許すほどの余裕を持ち合わせてはいなかったからである。

ここに、日本の有志たちは、徳川幕府よりも国家の独立を重んじることを大義として、皇室の権威に依拠することで旧体制を倒し、新政府をうちたてた。かくして日本は、国家・国民規模で、西洋に生じた科学技術と近代文明を受け入れることを決めたのだった。これは全てのアジア諸国に先駆けており、つまり近代文明の受容とは、日本にとって脱アジアという意味でもあったのである。

日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。そのひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なっているのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。情報がこれほど速く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。

私の見るところ、このままではシナ・朝鮮が独立を維持することは不可能である。もしこの二国に改革の志士が現れて明治維新のような政治改革を達成しつつ上からの近代化を推し進めることが出来れば話は別だが、そうでなければ亡国と国土の分割・分断が待っていることに一点の疑いもない。なぜならインフルエンザのような近代文明の波に洗われながら、それを避けようと一室に閉じこもって空気の流れを絶っていれば、結局は窒息してしまう他はないからである。

『春秋左氏伝』の「輔車唇歯」とは隣国同志が助け合うことを言うが、現在のシナ・朝鮮は日本にとって何の助けにもならないばかりか、この三国が地理的に近い故に欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。すなわちシナ・朝鮮が独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であればこちらも陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国であればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が行われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけばきりがない。これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂っておれば、たとえ一人がまともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっちもどっちに見えると言うことだ。実際、アジア外交を評する場面ではこのような見方も散見され、日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。

もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。(明治18年3月16日)




<私見>

まったくその通りである。日本国の舵取りは「脱亜論 + 東アジア連合」の創出だと言える。














「大陸の実態を認識することは死活的に重要だ」

2017-01-26 08:10:24 | 日本

西村真悟さんが掲載している「大陸の実態を認識することは死活的に重要だ」は誠に重要なことである。
以下、要約し記す。



先に、朝鮮(北朝鮮と韓国)に関して、その対処の仕方を、福沢諭吉翁が明治十八年に公にした「脱亜論」に還って、その方針に基づいて行うべしと記した。

しかし、その「脱亜論」は、単に朝鮮だけではなく「支那と朝鮮」に関する論である。
つまり、我が国の隣にある支那・朝鮮という

「中華意識という自己陶酔に陥った地域」のことを一括して論じたものである。

(支那と朝鮮は)一より十に至るまで、外見の虚飾のみを事として、その実際においては、真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて、残刻不廉恥を極め、なお傲然として自省の念なき者の如し。

・・・その支那朝鮮に接する法も、隣国なるが故にとして特別の会釈に及ばす、まさに西洋人がこれに接する風に従って処分すべきのみ。

戦前も戦後の今日も、この福沢諭吉の認識と結論に従って国策を決定すべきであった。 
そもそも、相手の本質と特性を観ないで「援助」してはならないのだ。
それは、その「援助」を決定した者が、自分の懐からその「援助(金)」を支払っておれば当然そうしたであろう。

しかし、この度の我が国からの数人の韓国人老売春婦の為の十億円の支払いも中共に対する数兆円の支払いも、総て、その支払いの決定をした者がその金を支払わないから、
同じ過ちを他人事のように繰り返してきたのだ。
そして、その過ちを繰り返した者は人事異動でどこかに行方をくらます。

しかし、過ちを改めるに、今からでも遅くはない。
 
脱亜論の前と後とに、期せずして顕れた正しい国策決定の指針とも言うべき、三人の論考を次ぎに掲げる。その三人とは、情報将校の草分け福島安正中佐(後、大将)、孫文らの目指した支那革命の支援者内田良平、そして文学者魯迅である。
百年前に彼らが言ったことは、現在にも通用する。

何故なら、支那と朝鮮は何も変わっていないからだ。

(1)福島安正中佐は、英仏独露支の五カ国語を自由に操り会話だけならさらに数カ国語を操った。
明治十二年、清国偵察を行い、十年後のドイツ駐在武官の後、シベリアを単騎横断して日本に帰着して欧州社会を驚かした。
彼は清国偵察の後、「隣邦兵備略」をまとめ次のように報告する。

清国の一大弱点は公然たる賄賂の流行であり、これが百害の根源をなしている。
しかし、清国人はそれを少しも反省していない。
上は皇帝、大臣より、下は一兵卒まで官品の横領、横流しを平然と行い、贈収賄をやらない者は一人もいない。
これは清国のみならず古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。
このような国は日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない。

(2)内田良平は、支那の革命を目指して大陸を奔走し孫文らを物心両面で支援した。
しかし、多くの裏切りの中で支那社会の本質と特性を見抜いて、日本人の思い込みによる支那観の危険性に気付き、我が国の対支那政策が適切に行われるようにと祈念して大正二年に「支那観」を世に問うた。そのなかで次の通り言う。

金銭万能が支那の国民性の持病となっている。
堂々たる政治家を自任する者にして、美辞麗句とは裏腹に振る舞いは汚れ、彼らの心事が巷の守銭奴と何ら変わらないのは昔のままである。

支那人の金銭への執着には、水火も辞さないほど猛烈な勢いがある。
彼らは戦闘での卑怯な振る舞いとは裏腹に、弾丸雨飛のなかに飛び込み、死の危険を冒して戦死者の懐中を漁る。

加えて、支那人は食人族でもある。
支那人は詐欺を義務とさえ考えているようである。

(3)魯迅は、明治時代に日本に留学した支那人作家である。
彼は「狂人日記」の中で、支那人の食人に関して書き、その末尾を人間を食ったことのない「子供を救え」という悲痛な叫びで結んでいる。

四千年来、絶えず人間をくってきたところ、そこにおれも、なが年くらしてきたんだということが、今日やっとわかった。
兄貴が家を管理しているときに妹は死んだ。
やつがこっそり料理にまぜて、おれたちにも食わせなかったとはいえない。

おれは知らぬ間に、妹の肉を食わせられなかったとはいえん。
いま番がおれに廻ってきて・・・・・
四千年の食人の歴史をもつおれ。
はじめはわからなかったが、いまわかった。真実の人間の得がたさ。

人間を食ったことのない子供は、まだいるかしらん。
子供を救え・・・・・・          (一九一八年四月)














「野蛮な復讐劇だった東京裁判 原爆など米ソの戦争犯罪は不問に」

2017-01-25 07:40:44 | 日本

渡辺浩さんが「野蛮な復讐劇だった東京裁判 原爆など米ソの戦争犯罪は不問に」について掲載している。
以下、要約し記す。


わが国が和平の仲介を依頼していたソ連は日ソ中立条約を破り、1945(昭和20)年8月9日に突如として満州に侵攻。南樺太や朝鮮にも攻め込み、婦女子への暴行など暴虐の限りを尽くした(ソ連の対日侵攻)。
 
 昭和天皇のご聖断により、わが国はポツダム宣言を受け入れ、15日に発表し、戦闘を停止しました。ところがソ連はその後も満州、南樺太、朝鮮で戦闘を続け、18日には千島列島への侵攻を開始。一度も他国の領土になったことがない北方領土まで不法占拠しました。
 
ソ連は満州にいた多くの日本軍将兵をシベリアなどに強制連行し、過酷な寒さや労働で約1割を死亡させた(シベリア抑留)。これは「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ…」と定めたポツダム宣言や戦時国際法に違反している。抑留者の数は厚生労働省推計で約57万5000人とされているが、70万、100万、200万などの説がある。
 
9月2日、東京湾の米戦艦ミズーリの上で降伏文書調印式が行われた。そこには2つの古い星条旗が掲げられていた。一つは真珠湾攻撃のときにホワイトハウスに掲げられていた星が48個の旗。もう一つはマシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry) が来航したときに黒船にひるがえっていた星が31個の旗で、アナポリスの海軍兵学校からわざわざ運ばせた。ミズーリ号の停泊場所も黒船と同じ場所にした。90年越しの日本征服を誇示したのである。
 
わが国を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は自分たちの戦争犯罪を隠し、逆に日本人の心に戦争に対する罪悪感を植え付けるための情報宣伝計画「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」や、徹底した検閲、焚書(書物の没収)を行った。大東亜戦争という言葉は禁じられ、「太平洋戦争」に書き換えられた。
 
GHQが脚本を書き、NHKラジオで放送された「真相はこうだ」という宣伝番組では、原爆について「原子爆弾を広島の軍事施設に投下しました。ダイナマイト2万トンに相当する破壊力を持つこの原子爆弾は兵器廠都市、広島の6割を一掃してしまいました」「長崎軍港の軍事施設と三菱ドックに投下されました」と、「軍事都市」だったから攻撃されたと説明し、民間人大量殺戮という実態を隠している。
 
検閲では、例えば国際法学者の信夫淳平(しのぶ・じゅんぺい)が学会誌に書いた次の文章がそっくり削除された。
 
                        ◇
 
顧みるに大東亜戦争中、旧敵国側には国際法違反の行動が随分あつたやうである。無辜の一般市民に対して行へる無差別的爆撃、都市村邑の病院、学校、その他文化的保護建物の無斟酌の破壊、病院船に対する砲爆撃等、数え来らば例を拳ぐるの煩に堪へぬほど多々あつた。(中略)
 
これ等の残虐行為を含む謂ゆる戦律犯に間はるべき被告に対する擬律処断は、専ら戦勝国が敗戦国の彼等に対して行ふのみで、戦勝国のそれは不問に附せられるといふ現行の面白からざる偏倚的判例の下にありては、公式の裁判記録の上には専ら日本の戦律犯人のみがその名を留めらるることになるが、国際法学者は別に双方の戦律犯を公平に取扱ひ、之を国際法史の上に伝へ残すの学問的天職を有すべく、即ち我国は惨敗を喫して完全無比の無武装国とはなつたけれども、国際法の学徒には尚ほ尽すべき任務が十二分に存するのである。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/sinobu01.html
                                    ◇
 
国際法学者は戦勝国による国際法違反にも目を向けなければならないという、控えめな意見表明さえGHQは認めなかったのです。
 
 
◎通訳されなかった原爆発言
 
降伏文書の調印からわずか9日後の9月11日、GHQは「戦争犯罪人」の逮捕を開始。翌1946(昭和21)年4月29日、元首相の東条英機ら28人が「A級戦犯」として起訴された。4月29日とは昭和天皇の誕生日。この日に合わせた嫌がらせである。
 
5月3日に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)は、裁判とは名ばかりの復讐劇で、裁くための法的根拠がない上、被告たちは「平和に対する罪」「人道に対する罪」という後から作った罪に問われた。裁判官は全員戦勝国かその植民地の人間で占められていた。連載の1回目で紹介した、スペインの侵略者ピサロがインカの王アタワルパを殺した「裁判」と変わらない。
 
オーストラリア人の裁判長ウィリアム・ウェッブは開廷宣言でいきなり、「被告たちがかつてどんな重要な地位にあったとしても、最も貧しい一日本兵あるいは一朝鮮人番兵よりも良い待遇を受ける理由にはならない」と被告を侮辱した。
 
日本側の弁護人、清瀬一郎は5月13日、東京裁判は「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ」というポツダム宣言の条文に基づいており、「平和に対する罪」など捕虜虐待以外の罪を裁く権利(管轄権)はない-と指摘した。
 
裁判官たちは困って協議したあげく、4日後にウェッブが「却下する。理由は将来説明する」と述べ、裁判を続けた。
 
理由が説明されたのは2年半後の判決のときで、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判に準じたという、わけの分からないものだった。
 
唯一の救いは、日本人弁護人を補佐した米国人弁護人が公正だったことである。元陸軍参謀総長、梅津美治郎の弁護を務めたベン・ブレークニー(Ben Bruce Blakeney)は5月14日の法廷で、こんな発言をした。
 
「キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、われわれは広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前もわれわれは承知している」「原爆を投下した者がいる! この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認した者がいる! その人たちが裁いている」
 
ところが、この発言は法廷で日本語への通訳が行われなかった(一般的には原爆発言が始まると突然通訳が止まったと説明されていますが、実際にはその前から通訳が行われていませんでした)。日本語の速記録では、通訳されなかった数十分間のやりとりが「以下通訳なし」となっている。
 
この日、通訳作業が混乱した理由は分からない。英語が得意でない多くの日本人傍聴人は、1983(昭和58)年に公開された記録映画「東京裁判」の字幕を見て、初めてブレークニーの原爆発言を知った。
 
ブレークニーは翌1947(昭和22)年3月3日の法廷でも原爆について取り上げ、米陸軍長官ヘンリー・スチムソンによる原爆投下決定に関する英字新聞の記事を証拠として採用するよう求めたが、ウェッブは却下した。
 
4月22日の法廷で元陸相、畑俊六の弁護人アリスティディス・ラザラスが、日本が共産主義が広がるのを警戒していたことを立証しようとすると、ウェッブは「この連合国の法廷が敵側の宣伝に示している寛容と忍耐力をあまり利用しないでください」と言い放った。俺が日本の言い分を我慢して聞いているのに、お前は米国人のくせになぜ日本をかばうのか-という意味である。
 
さらに「あなたは連合国各国を侮辱することに非常な喜びを感じているようだ」「私は自分の国に対する忠誠心はこの上もない」などとラザラスを非難し、公正な裁判でないことを露呈した。
 
こうして、米国やソ連などの戦争犯罪はついに裁かれることはなかった。
 
起訴状は、被告たちが満州事変の3年前の1928(昭和3)年1月1日から降伏文書調印の1945(昭和20)年9月2日にかけて、侵略戦争の計画、準備、開始、遂行を「共同謀議」したとしている。
 
全くのでっち上げである。ポツダム宣言は「今次ノ戦争ヲ終結スル」ために発せられたものである。「今次ノ戦争」とは大東亜戦争であり、満州事変は関係ありません。満州事変は塘沽(タンクー)停戦協定で終わっており、4年後に始まった支那事変とはつながっていない。
 
この期間中、わが国の内閣は17代を数え、政策は一貫していなかった。被告の一人の元蔵相、賀屋興宣(かや・おきのり)は「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と話している。28人の被告の中には互いに面識のない人もいた。
 
これまで述べてきた通り、米国こそ、この期間の大半をフランクリン・ルーズベルトが政権を担い、わが国を戦争に追い込もうと共同謀議を重ねてきた。ルーズベルトの在任期間は12年1カ月。独裁者のはずの東条英機は2年9カ月である。
 

◎原爆を相殺するための「南京」
 
東京裁判では、日本軍が1937(昭和12)年に中国国民政府の首都・南京を攻略した際に多くの民間人を虐殺したという話が突如として持ち出され、判決で死者は「20万人以上」とされた。
 
この「南京大虐殺」が虚構だということは最近の研究で明らかになっているので詳しく触れないが、一つだけ指摘しておくと、「20万人以上」の虐殺という数字は、広島・長崎への原爆投下の犠牲者(3カ月以内に亡くなった人は30万人以上と現在では推計されています)と相殺するためにでっち上げられたものだと言える。
 
この「20万人以上」はその後、中国共産党の宣伝によって「30万人」に膨れ上がった。
 











「韓国の歴史上、日本を軽視した時に何が起きたか?」

2017-01-24 07:27:12 | 日本

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)朝鮮日報の論説委員が「韓国の歴史上、日本を軽視した時に何が起きたか?」について掲載している。

以下、要約し記す。



日本について学び直す必要を感じたのは、10年ほど前に日本古代の中心地である奈良を訪れた時だった。それまで、日本の古代文化は韓半島(朝鮮半島)文化の複写版だと思っていた。実際には違った。古代の中心舞台に近づくにつれ、姿は変わった。直接貿易で中国の文化を猛然と吸収し、一方で朝鮮半島の痕跡は薄くなったのが見て取れた。首都を京都に移してから、日本は独自に発展を遂げた。奈良と京都を5-6回ずつ訪問し、近代の西洋人たちが日本に夢中になった理由が分かった。日本を軽視する先入観のせいで、自分だけがこの文化を無視していたにすぎなかった。
 
約600年前の朝鮮王朝時代に作成された「混一疆理(きょうり)歴代国都之図」という世界地図がある。さまざまな地図をつぎはぎした雑なものだが、欧州や中東、アフリカまで描かれている。当時の知識人が描いた国の大きさは、実際の大きさとは異なる。自身たちにとっての重要度に応じて描いたと言えそうだ。中国が最も大きく、その次は朝鮮で、この二つが世界の半分以上を占めている。日本は実際よりも遠く離れた場所に、朝鮮の4分の1程度の大きさで描かれている。当時の知識人たちは日本を、裸で刀を振り回しているような野蛮な国と認識していたようだ。
 
朝鮮が日本の国力をおぼろげに理解したのは、苦難を経験した後だった。16世紀末の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)だ。「看羊録」は、戦乱の中で捕虜として日本へ連行され、後に朝鮮に戻った儒学者のカン・ハンが日本の実情を朝廷に伝えようと書いた報告書だ。「倭国の大きさを語るとき、わが国ほどではないとしていたが、そうではなかった。戦乱の時に倭人が朝鮮の土地台帳を全て持ち帰ったが、日本の半分にもならなかったという」
 
実際の朝鮮半島の大きさは日本の59%だ。人口は近代的方式で初めて調査された1920年時点で日本の3割を少し超えるくらいだった。韓国の生産力は、近世以降で日本に最も近付いている現在で日本の34%水準だ。
 
申叔舟(シン・スクチュ)は、戦乱の前に日本の実体を知っていた数少ない朝鮮の知識人だった。使者として日本に赴いた経験が、彼の認識を変えさせた。「混一疆理歴代国都之図」が製作されてから70年ほど後のことだった。朝鮮に戻り、日本の実体を伝える「海東諸国紀」を著した。後に柳成龍(リュ・ソンリョン)は、戦乱の教訓を記した「懲ヒ録」の序文に申叔舟が国王・成宗に遺した遺言を記した。「願わくは、わが国は日本との和議を失うことのなきよう」。この言葉は関心を集めなかった。なぜそんな遺言を残したのかも分からない人が大半だった。戦乱を経験して初めてその意味を知った。
 
それでも、朝鮮は変わらなかった。血の涙で書かれた「看羊録」と「懲ヒ録」は、朝廷の書架でほこりをかぶっていた。「懲ヒ録」は逆に日本に渡ってベストセラーとなった。朝鮮の将軍、李舜臣(イ・スンシン)の兵法を近代戦術で継承したのも日本だった。そのときにも警告した人々がいた。日本を自ら経験した使者たちがその中心だった。彼らは、日本が「武」はもちろん「文」においても朝鮮の先を行っていると訴えた。実学者も加勢した。丁若鏞(チョン・ヤクヨン)は「日本の学問がわれわれを凌駕するようになり、とても恥ずかしい」と語っている。国が滅びる100年ほど前のことだ。
 
われわれの歴史において、日本を重視した知識人の末路は悲惨だった。朝鮮末期に日本の近代化を目の当たりにした若手エリートの多くが政治的混乱に巻き込まれて命を落とした。改革や政変を起こそうとして首を切られたり、百姓に殺されたりした人も多かった。日本による植民地時代では、「知日」は日本に寄生する「親日」と同じ意味になり、植民地支配からの解放後、この言葉は「社会的に葬られる」ことを意味するようになった。程度の差こそあれ、今でもそれは変わらない。こうしたタブーに踏み込み、歴史を客観化しようするのは、地雷原に身を投じるのと同じくらい無謀なことだ。そうして私たちの認識はますます日本の実体から遠ざかっていくのを感じる。
 
日本を現場で7年近く経験した。日本は強い国だ。経済の強国、文化の強国だ。憲法を改正すれば、すぐに軍事強国にもなる。国際的に尊敬も集めている。私たちはそんな国の大使館前に、70年ほど前の過ちを執拗に追及する造形物を設置した。「適切に解決されるよう努力する」と国として約束したにもかかわらず、総領事館前に新たに設置した。かつて日本は過ちを犯した。だが、私たちと同じような苦難を経験したほかのどの国も、相手にこんな風にはしていない。韓国はそうしても構わない国なのだろうか。今、日本が落ち着こうとしている理由は、私が知る限りただ一つだ。怖いからではなく、韓国が米国の同盟だからだ。だが、同盟までが揺らいでいる気配もある。
 
あちこちを訪ねてあれこれ書物を読み、勉強したが、依然として日本の実体を正確に理解できていない。だが、無視することのできる国ではないというのははっきり分かる。日本を無視するたびにつらい目に遭った歴史を知っているためだ。彼らの遺伝子には「刃」が潜んでいる。愚かな国は憤怒するために歴史を利用する。賢い国は強くなるために歴史を利用する。今、私たちはどちらだろうか。
 











「米国大統領の核ミサイル発射までの手順」

2017-01-22 07:49:17 | 日本

1、今日「核のボタン」の引き継ぎが行われる
 
大統領の傍らに常に付き従う軍人が持っているカバンに、いわゆる「核のボタン」(核のフットボール)と呼ばれている)が入っている。
2017年1月20日正午にオバマ大統領からトランプ新大統領に「核のボタンの」引き継ぎも行われる。
この「核のフットボール」が入るぐらいの大きさのカバンの中には、次の四つの品物が入っている。
 
①攻撃の選択肢の一覧を記した黒い手帳、
②大統領が避難できる掩ぺい壕のリスト、
③緊急警報システムの使用に際しての手引書、
④大統領の本人確認のために使う認証コードを記載した小さなカード
 
http://www.cnn.co.jp/fringe/35088327-2.htmlhttp://  より
 
この「核のフットボール」カバンは必ず大統領と同伴することになっていて、昨年のオバマ大統領が広島を訪問した時にも後ろに待機していた軍人が携帯していた。
 
2、核ミサイルの発射までの手順
 
世界を破滅させるほどの威力を持つ核ミサイルはどのような手順で発射されるのか?
大統領のカバンには発射ボタンは入っていない。ミサイルの発射ボタンは発射基地にあり、管制官が操作する。
まず有事において大統領は補佐官と事態の対策を協議する。その時に使われるのが黒い手帳だ。
巡航ミサイルから大陸間弾道ミサイルまで色々な手段について書かれている。
攻撃が決まったら大統領は決まった通信機器を使って発射基地に大統領パスコードを送る。カバンの中に入っているカードに書かれたコードだ。
ちなみに歴代大統領でカードをカバンに入れずにポケットに常時携帯していた大統領がいた。
 
2人の職員が受信したコードを書き留めて、2人で確認する。
 
2人の職員がそれぞれ自分しか知らないパスコードで閉じられた引き出しを開ける。
 
中には7枚のカードが入っていて、カードに書かれたパスコードと大統領から受信したパスコードが一致すれば、発射態勢に入る。
 
この後は映画でよくある、「2人で同時に鍵を回す」手順だ。
 
1人で出来ないように手が届かない距離に2つの鍵穴は付いている。
2人で同時に鍵穴に鍵を差し込み、5秒間回した状態を保つ。
2人の鍵のタイミングのずれは2秒以内でないといけない。
 
これで発射という訳では無い。
 
最後にもう一つの安全装置がある。鍵を回して、6桁のダイヤル式ロックを解除してはじめてミサイル攻撃となる。
各ダイヤルには16個のアルファベットがついていて、組み合わせは1700万通り。
これを解除してしまうともう取り消しはできない。
 
3、大統領は人類滅亡の決断を迫られる時がある
 
悲しい現実だが、大統領の決断で人類が滅びるかが決まってしまう。
「大統領の決断の影響はグロテスクなまでに大きい。地球の姿を変え、人間や人類のあり方を一変させる可能性もある」と指摘。「職務に就いている間はその重要性について考えないようにしていると思う。だが、いざという来れば決断を下す用意はできている」と述べる。
 
 http://www.cnn.co.jp/fringe/35088327-2.htmlより
 
大統領は「ビスケット」と呼ばれる、核兵器の発射コードを記したカードを持つ。また米軍の将校が「核のフットボール」の通称で知られるブリーフケースを持っており、その中に核攻撃を発動するのに必要な装置と情報が収められている。
ブリーフケースを持った軍の側近は常に大統領のそばにいることが求められる。大統領と同じエレベーターに乗り、ホテルでも同じフロアに滞在する。周辺警護を担当するシークレットサービスの要員も同一だ。大統領が職務を遂行できなくなった場合に備え、副大統領用の「核のフットボール」も用意されている。








「月と太陽」

2017-01-22 07:48:09 | 日本

「月と太陽」について記す。



太陽も素晴らしいが、月も素晴らしい。
光を出すのも才能なら、光を反射するのも才能だ。
太陽は自分を燃やしながら光輝いています。
月は自分で光を出していません。
だけどあんなに輝いています。
太陽の光を反射しているからです。
自分で光を出す才能がないからといって、月は落ち込んだり、妬んだり、ひがんだりしません。
自分で光を出さなくとも、光を受けて反射できる月になることは出来ます。
しかも共に輝いています。
 
僕は人と話すことが苦手だから…
私はあの人みたいになれない…と落ち込んだりひがんだりする必要はありません。
人は決して1人では生きれないし、成功も出来ない。個人の才能で成功するのではないということです。
僕自信、人生を変えてくれた偉大な社長から太陽の光をもらって月の役から今は太陽の役になれました。
もっともっと強い光を放てる様に僕も自分力を高めていきたいと思っています。
共に輝いて行きましょう!!










「心の中に夢を育てる」

2017-01-22 07:47:04 | 日本

松本守正さんのブログ「心の中に夢を育てる」について記す。



夢をつかむ!
人生は夢で始まります。
夢があるから、今を一生懸命生きる事ができるのです。
夢は決して夢から近づいてはくれない。
夢は遠いところにあります。
その一歩一歩に近づいていくのが人生です。
夢を追っていく中で、嫌な事、辛い事、悲しい事また逃げ出したくなる事があるでしょう。
もし人生に夢がなかったらつまらない人生になって、後悔する日が来るでしょう。
今満たされている自分を知った時、夢を与えてくれた事に感謝します。
夢は私達を明日へ向かわせるエネルギーだと思います。
心に夢を持っているとそれだけで元気になったり、希望が湧いたり、生き甲斐を感じます。
そんな一人一人の夢を大切にする事を願い、
人から人へ
心から心へ
今、私達はこの仕事に誇りを持っています。
夢を叶える!
 夢に出逢って貴方の人生が躍動します。
 私の心が躍動します。
夢があるから生きていける。
 貴方に夢はありますか?
 貴方の夢はなんですか?
 未来を築く夢は素晴らしい。
 生きるって素晴らしい。
 人生は夢の実現の連続です。
 夢をつかむ!

心震える夢を共に叶えていきましょう!!








「バケツの水」

2017-01-21 08:04:33 | 日本

「バケツの水」について記す。


人生を切り開いていく過程で色々あります。
 悩み事やうまくいかない時もあるでしょう。
その時どうするか?

 バケツの中の泥水をきれいな水にする為にはあなたならどうしますか?
 ろ過しますか?
 水を足していきますか?

 考え方ひとつでもっとスピーディーになります。
 バケツの中の水を全部捨てる!
 どうせやるなら捨ててしまって、そこに新しい水を入れる。
 それが一番早い方法です。
 考え方・捉え方を変えてください。






「実践 プチ断食」

2017-01-21 08:04:33 | 日本

昨日(平成29年1月20日から28日の間)からプチ断食を開始した。
既に、過去に何度か行っている。

プチ断食は心身の健康増進を初め、精神面でも、いろいろな効用がある。

プチ断食の期間は3日間。
(通常断食は7日間位)

塩と水でミネラル分を十分にとっりなが行う。

大事な事は、

例えば、プチ断食3日間の場合。

その前後、さらに3日間づつ、合計9日間をかけてやる事である。
最初の3日間は徐々に食事量を減らし、お粥や野菜サラダなどすごく軽い食物にしていき胃腸と身体を慣らしていく。

本番3日間は水と塩。水はぬるいお湯がいい。

後の3日間は逆に徐々に食事量を増やしていく事がポイントである。

身体の中の腸内の宿便を出して、生命力や治癒力を高め、元気で明るく健康な身体をつくる。
やってみて下さい。


※私の場合は少々、荒っぽくて、先ず、前日(19日)夜に漢方薬「センナン(下剤効果が抜群)」の煎じ薬をやかんに一杯作り、夜の内にすべて飲んでしまう。さすれば朝方から下痢状態となり、胃腸内の無駄な残物を早く出してしまう。これにより、早いうちから断食体制を作ってしまうことができる。









「アカッシック・フィールドとは、」 

2017-01-20 07:32:25 | 日本

アーヴィン・ラズロ著「アカッシック・フィールドとは、」についてまとめたものを記す。



アカッシック・フィールドとは、古代インド哲学におけるアカーシャ年代記のアカッシック・フィールドに残された世界で起こった、あらゆることについての記録である。

ここで言うアカッシック・フィールドとは、時空を超越した宇宙と意識の相互関係が示唆する場が宇宙の核心に存在し、この量子真空の零点場は、単に高密度なエネルギー場であるだけでなく、宇宙のホログラフィックな記録という非常に豊かな情報場(インフォメーション・フィールド)である。科学におけるGフィールド(重力場)、EMフィールド(電磁場)、その他の核力や量子の場と並ぶ、その宇宙の基本的なフィールドの一つである。

メタギャラクシーとは、すべての銀河の集合のことである。
このメタギャラクシーは、現代物理学で知られている、どんな光や信号も横断したことのないような距離で離れていても、恒星や銀河は、宇宙全域で一貫性をもって進化している。宇宙のさまざまな定数が微妙に調整されている。宇宙の基本的な定数が、人間のような複雑な系が、そのなかに出現できるように驚異的なまでに調整されていることも、アカッシック・フィールドの効果である。

ビックバンの諸定数がきわめて正確であり、その爆発(バン)にっよって生み出された粒子が凝縮して銀河や恒星や生命の住処となりうる、様々な惑星になる前に飛び散ってしまわないように真空のエネルギー密度が正確に調整されていたのである。これほどまでに宇宙の定数が調整されていなかったなら、この正確に驚嘆している我々も存在しなかっただろう。ほんのわずかな狂いがあっても(電磁力・重力などの普遍的な力の値が10億分のⅠ変化したり・エネルギー密度がわずかに過剰であったとしても)、宇宙は生命体が出現し進化できる条件を生み出すことはできなかっただろう。

我々の宇宙が唯一の宇宙ではないとする洗練された宇宙論はいくつか存在する。宇宙の進化の最終段階は、準星(クエーサー)とブラックホールである。銀河は、その中心にブラックホールが形成されると自己崩壊してしまう。
この宇宙を生み出したバン(多数の爆発のなかの一つなので、もはや「ビック」という修飾は適さない)によって創造されたのではない、原宇宙(メタ・ユニヴァース)、すなわちメタヴァースというものが存在し、また、このメタヴァースは、最後のブラックホールが崩壊するときに、この回のバンによって生まれたすべての物質が消失する際にも終焉を迎えることはない。
我々が今つつみかけている洞察は、我々の宇宙が生まれる前から「宇宙」は存在しており、これは我々の宇宙が消滅した後も存続しつづけるというものである。この「宇宙」とは、我々の宇宙の母であり、おそらく無数の他の宇宙たちの母でもある、メタヴァースなのである。

運命も、そこに到達したときは同様に確定された単一の状態になるだろう。しかし、到達するまではそうではない。何かの干渉によって波動関数が崩壊するまでは、どの状態をとるかについて自由度を持っている。多重の可能性をもった量子のように、宇宙も実際に最後の段階に到達するまでは最終状態が確定していない。その最終状態の選択に関しては決定されていないのである。宇宙はさまざまな進化の可能性を持っているのである。過去は確固たる事実であり、完全に定まったものであるが、未来はそうではない。完全に自由ではないとしても、ある程度の自由度を持っている。とはいえ、我々の世界は、無秩序で偶然の世界ではなく、整合性を持った諸法則と諸定数に従って進化する世界である。

我々の宇宙は、高度な一貫性と整合性をもって進化する。一つのことが次のことを引き起こす。一つの選択がなされたとき、次々とその結果が連鎖的に展開していき、やがて最終状態に到達する。選択そのものが無秩序ではなく、宇宙系の法則や定数によって制限されている。宇宙の進化には固定された目標はないが、その方向は決定されている。すなわち、構造が拡張し、複雑さも増大する方向である。進化のプロセスは、整合性と自己一貫性をもった総体に、一つずつ部分を加えていく。このような総体がさらに、より包括的な自己一貫性のある総体の部分となるのである。











「久遠の今」

2017-01-19 06:21:02 | 日本

住んだことの中に生活せず、「今」の中に生活せよ。

「今」は常に生きている。
「今」の中には、あらゆるものが輝いている。
「今」は常に輝いている。
「今」は常に喜びに満ち溢れている。
「今」と言うのがわかったら、これは本当の悟りである。

「今」と言うのは、過去・現在・未来と流れている時間の一部分の現在というところの「今」というのではない。
この「今」というのは、「久遠の今」ということである。
「永遠の今」である。
すべてのものが含まれている所の「今」ということである。

縦の線が「時間」、横の線が「空間」、そして縦と横の線が交差したところ、ここが丁度「今」にあたる。そして、時間と空間も現れていない、時間も空間もそこから現れるところの、その中心の無である。

「無」というと、何にもないのを「無」というのと考える人があるが、全然無いのではない。「無」というのは、その時間の中に、空間の中に、すべてのものが現象世界に現れているが、その時間、空間の元のところ、時間、空間がまだ現れない、その「常今」のところ、常に「今」であるところである。

ここは何も無いかというと、そうではない。時間、空間はあるけれども、まだ現れていない。時間、空間が一点に巻き収められて、まだその一点もない。しかし、すべてのものが、その中にある。これを「絶対無」という。これは有無相対の無ではない。「絶対無」である。対立がない。

この「絶対の無」をつき貫らぬいたところに、「実相」がある。その中に一切のものが含まれていて、どこにもかたよらない。
これを「未発の中」ともいう。

『喜怒哀楽、未だ発せざる、之を「中」といい、発して皆節にあたる、之を「和」という。』

「永遠の今」、「今・此処、吾れ」がまったく一つになってしまっている。その実相の「今」の、そこに私たちは生活するのである。

何月何日、どこの空間において生活する。そんなふうに生活しているのだったら、我々は、いろんな問題にひかかることになる。それは本当の「今」というところに生活していないで、ある時間の流れ、どこかの空間的存在において、誰がどうしたとか、未来がどうなるであろうか、そういうような「現在」というところで生活してしまっていて、「久遠の今」「実相の今」「発して節にあたるところの急所、急所にピシリと当たるところの「今」というところに生活していないから、それでいろいろと悩まなければならないことが起こってくる。
そして、持ち越し苦労とか、取り越し苦労とか、疑心暗鬼なんていう、いろいろなモヤモヤが出てきて、ノイローゼになってしまう。

それで、常に「吾れ、今、此処」という実相の中に、「未発の中」の中に座って、何にもつかまないで、時と人と場所とに応じて、ビシリ、ビシリと節にあたるということにすると、事々物々、間違いなく、何事も急所を押えて、間違えなく適当な処置がとれるということになる。

「今」の中には、あらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満たされている。
「今」ここに久遠の生命が、常に「今」、ここにあれば喜べるのが当たり前であるのである。
ここには一才のものがあるのである。

そういう「今」のいのちの中に生きていたならば、例え、肉体に病気が現れていても、そんなことはもう問題ではない。いのちそのものは、病気でもなんでもない。「今、此処、吾れ」は、あるのである。滾々(こんこん)と生命が流れ入ってきて、病気が治ってくるのである。

「今」というものは、過去、現在、・・・、 そんなデタラメな時間の流れでフラフラするような、そんな生活ではないのである。

こころの目が開いたならば、どこでも極楽浄土があるということがわかるのである。