龍の声

龍の声は、天の声

「言葉」

2016-12-29 23:01:48 | 日本

「言葉」について記す。



自分の言葉が自分をつくる。
言葉は鏡と同じです。
自分の発する言葉がきつければ、相手の反応もきつくなります。
話をするときは意識して柔らかい言い方を心がけることが大切です。
それだけで人間関係はぐっとなめらかになります。
より良い人間関係を築いていくには言葉がとても重要です。

短い言葉でいい。長い話はNG。
短く、力強く、腹に響く言葉。
頭で考えて口で語ろうとすると長くなる。
胸で思って腹でしゃべる。
ゆっくり話す。そしてゆっくり呼吸する。

そうすると余計な事を言わなくて済む。
早口になると、思っても無いことをしゃべってしまう。
ゆっくり呼吸して怒る人はいません。

難しい話は優しく、優しい話は深く、深い話はおもしろく伝える。
前菜から始まってデザートで終わるコース料理と同じように、会話にも順序があります。
相手の意見を受け入れながら自分の意見を話す。
そして言葉のキャッチボールをしながら最終的な結論を伝えていく。
そういう段取りが会話にも必要なのです。

いつも言葉が直球の人は変化球も投げれるように心がけてみてくださいね。
面倒でもそういう会話の手順を踏むことで、相手のあなたに対する印象は大きく違ってきます。
それは相手に対する思いやりでもあり、また、自分自身を守る術(スベ)でもあるのです。
自分の言葉が第一歩!!










「恩を知る」

2016-12-29 23:00:51 | 日本

「恩を知る」について記す。

今ある自分、今ある環境、全て周りの人々の支援によって、今の自分があることを忘れてはならない。
これを恩を知るという。
恩とは感謝のこと。
人間はしてもらった事は忘れるが、してあげた事は覚えている。
組織はその人の器以上に大きくならない。
器はすなわち感謝の量のこと。

「花見れば咲かせた根元の技を知れ。天恵地恩ゆめゆめ忘れるな。」

美しい花を見て、花だけでうっとりせずに、咲かせた根、空気、太陽そのエネルギーがあることを忘れてはならないという事です。

"幸せとは欲しい物を得たり、なりたいものになったり、したいことをする事からくるものではなく、
今得ているもの、今ある自分、今していることを好きになり、感謝することから生まれてくる。"

自分1人の力でここまでやってきたという人は、振り返って見てください。











「慈悲の心を持つ」

2016-12-29 22:59:31 | 日本

仏教の言葉ですね、慈悲は。
あわれみといつくしみ。
他者の苦しみを取り除き、癒やし、元気づけ、幸福を願う気持ちのことです。

本当に昔の教えの中には、珠玉の真実が散りばめられているものですね。

「ドン・カルロス」の中で、カルロスの親友ポーサが、自分のために凶弾に倒れて、「慈悲はないのか!」と叫ぶシーンがあります。
悲劇の中では、ギリシア悲劇の時代から、「神」という概念が大きなテーマになりますが、「ドン・カルロス」でも、神に見放されたような出来事が起こり、登場人物たちは激しい葛藤に揺れます。

昔の人は(今も大半の人がそうですが)、なぜ悲惨な出来事が起こり、どうして神がなにもしてくれないのかわかりませんでした。
どうしてこんなにも悲惨なことを経験しなければならないのか。
それは、大震災のときにも思ったはずです。

神の慈悲は、いつでも、どこでも、無限の量で注がれています。
ソースエナジーは常にわたしたちと繋がっており、わたしたちの幸福を願っています。
しかし、わたしたちのほうが神から離れているのです。

そして、広大な視野で物事を見ることが出来ないので、もっと広い意味で解釈できません。
わたしたちも神のように、慈悲なる心を常に持っていれば、悲劇が実際に起こることも激減するでしょう。
結局人の因果で、悲劇は起こっているわけです。

「ドン・カルロス」の場合も、嫉妬や不信などが悲劇を導いているわけです。
慈悲の心は、他者に対して注がれるものであり、自分の中でひとり貯えて、外に見せないものではありません。
わたしたちは繋がり合っているので、お互いに良い影響を与え合うマインドが求められます。
そのマインドこそ、慈悲の心です。

そして、慈悲は、結局のところ愛です。
慈悲は同情ではありません。
同情はネガティブへの同調です。

そうではなく、癒やすということは、ポジティブな方向へと一緒に同調しようという気持ちです。
これを習慣とし、血肉としましょう。










「神との約束」

2016-12-29 22:58:09 | 日本

「神との約束」について記す。


私が生まれるずっと前、私は神と約束しました。
 この時代のこの国に、このお母さんと、このお父さんの子供として生まれてくることを。
 
私が生まれるずっと前、私は神と約束しました。
 この人と出会って、この人と友達になって、この人と喧嘩して、この人と一緒に過ごすことを。
 
 私が生まれるずっと前、私は神と約束しました。
 ここで泣いて、ここで笑って、ここで傷つき、ここで癒され、そしてここで死んでいくことを。
 
 私が生まれるずっと前、私は神と約束しました。
 あんな事、こんな事、そんな事、色んな事をたくさんたくさん約束しました。
 
なのに私はすっかりと忘れていました。
貴方と今、出会う約束をしていたことを。








「地産地消の生き方 食物自給率100%を目指す国になるために」

2016-12-29 22:56:44 | 日本

ベストセラーズ書籍編集部が「地産地消の生き方 食物自給率100%を目指す国になるために」について掲載している。
以下、要約し記す。



◎「食の国際化」は経済格差を拡大する。

たとえば『世界食料白書』(2005年)では、「25%の先進国の人々が全世界の45%を消費し、75%を占める開発途上国の人々には、55%の食料しか提供されていない」とすでに警告していました。
「食の国際化」とは、食料が国際的に売り手市場となることです。食料を輸出する国が多くなれば、競争原理が働き食料は買い手市場になりますが、食料の輸入を望む国が多くなればなるほど、食料輸出国は寡占化され、売り手市場に拍車をかけます。
農産物価格は、関税と輸出補助金の両面から決められるため、実情とは異なり、歪められて低く抑えられています。
しかし、関税がなくなれば、輸入量が増加し、売り手市場となります。また、食料輸出国の輸出補助金が削減されれば、輸出量が減少し、需給バランスが崩れ国際価格は必ず高騰します。
食料輸入国は、自国で食料を生産するより、安く買うことができるため、自国の農業を衰退させてしまった結果、食料輸出国の言いなりになるより他に道はなくなります。

特にアメリカは、食料を戦略物資と考えています。他国を支配するためには、戦争で勝利して支配下に置くより、食料を国の財政から支出してでも、安く売って支配する方が安くつくという国家戦略です。
例えば、2003年のイラク戦争で、アメリカは国家財政に悪影響を与えるほどの出費をしたにもかかわらず。国民の意向や国際社会の目があり、全権支配を断念しました。
しかし、食料をコントロールするだけで他国を支配下に置いた場合は、たとえ支配下に置かれた国が自滅したとしても、国際社会は国際問題にはしませんし、輸出国の国民も国に対して批判することもありません。
理由は「食」を依存する方が、悪いと考えているからです。
食料は、文明が造り出した便利な製品とは異なり、毎日食べ続けなければ、生き続けることのできない、経済活動の範疇には収まらない生命維持産業です。
ゆえに、食料輸入に当たり、立派な契約書を輸出国の生産者と交わしても、輸出国の食料生産に問題が発生すれば、国は食料の輸出禁止令を発令します。いかなる契約書でも無効となります。それは、1955年にわが国が批准したガット(関税貿易一般協定)の条項にて「輸出国で危機的な食料不足が起これば、輸出禁止や規制を行うことを容認する」としていますし、そもそも食料は生産国のもののため、各国が独自に決めています。
食料の輸出国にとって輸出量は、国のさじ加減で決まります。大量に輸出したい場合には、輸出補助金を増額すれば輸出量は増えます。輸出量を減らしたい場合は、輸出補助金を削減すれば必ず減ります。
2001年、当時のブッシュ大統領が教書のなかで「食料自給は、国家安全保障の問題であり、それが常に保証されている国は有り難い。食料を自給できない国を想像できるか。それは国際的圧力と危険にさらされている国である」と、本音を述べています。
食の国際化」は、食料の輸出国が政治的にも経済的にも、より強くなり、食料輸入国は、より弱い立場になることで、国家間の経済格差は広がります。
弱い立場になった食料輸入国の国内経済は、一層格差が拡大し、一握りの富裕層と大多数の貧困層という社会構造となり、危険な国へと変貌していくのです。

「TPPに参加すれば、わが国の食料価格は下がり、輸入により永続的な食料確保は可能」と政府やマスコミは喧伝していました。果たしてそれは、本当なのでしょうか。
これから先10年、否50年、100年先まで、食料輸出国が輸入国に対して、安定した食料輸出が可能だとは到底考えられません。
食料輸入国にとって「食の国際化」は、何の見返りもない戦争の火種になるというリスクを負うことになるのです。

 
 ◎種子を押さえる者が、世界の食料を制す

「食の国際化」は、地球規模の危機を招いています。その政治的なターニングポイントとなったのは、1987年にアメリカのレーガン大統領(当時)が予算教書において、初めての農業保護削減政策構想として、農産物の価格政策と農産物の所得政策を切り離す、デカップリン政策を示したことでした。
農業生産を刺激する価格政策をカットし、価格は市場原理に従うという新保守主義を、アメリカのレーガン大統領を筆頭に、イギリスのサッチャー首相、ドイツのコール首相が一致して推進し、国際的な市場の開放と拡大を図ったことが、今日の「食の国際化」に至る始まりでした。
 価格政策と所得政策を切り離したデカップリング政策が、国際間の格差を拡大させ、食料輸出国と輸入国を明確に区別する結果となりました。
こうした「食の国際化」を見据えて、ドイツ・イギリスは穀物の自給体制を確立し、自立国家としての要件を満たしています。
引き替えわが国は、中曽根政権時代に農業叩きが始まり、農業無用論が大きな影をなげかけることになりました。コメの減反政策では100万ヘクタールを越える田んぼを休田にして、生産調整(減反)をした農家には保障金が支払われました。その上、法律違反である耕作放棄地も約40万ヘクタールも存在しています。

「種子を押さえる者が、世界の食料を制す」と言われていますが、その種子の売上高世界1位の米モンサント社、穀物商社の米カーギル社などの巨大企業は、政治の方向を決める力を持っていると言われています。
遺伝子組み換え作物を武器にモンサント社は、政治力を背景に北米から始まり、南北アメリカ、そしてアジア、アフリカへと世界の食料を制する勢いです。
TPP参加回避は、日本に与えられた最後のチャンスです。
わが国は現在、イギリス・ドイツ・フランスから学び、「食の国際化」から「食の地域化」へ政策転換をし、戦争の火種を消すことのできるラストチャンスにあります。今までの「食」の中央集権化を地方に分権し、権限とお金を地方に委譲すれば、地方自治体主導で『地産地消』を具現化することが可能となるのです。









「耳で見る 目で聞く」

2016-12-29 22:55:26 | 日本

京都・大徳寺の開山である大燈国師(だいとうこくし)の読んだ和歌に、興味深いものがあります。

「耳に見て 眼に聞くならば 疑わじ おのずからなる 軒(のき)の玉水」

ちなみに、「軒の玉水」というのは、軒からこぼれ落ちる「雨だれ」のことです。それを「耳で見る…、眼で聞く…」ということですから、大燈国師は、「眼」と「耳」を間違えて詠んだのではないか、こんな疑念を抱く読者があるかも知れません。凡人の常識では考えられない境地です。
この和歌には、耳で見て、眼で聞くことができなければ本当の「雨だれ」を見たことにならない…。耳で見て、目で聞くことができるなら、「雨だれ」も本当の「雨だれ」になり、さらには、自分自身が「雨だれ」になる…、こんな意味が込められているようです。

まったく首をかしげたくなるような和歌ではありますが、大燈国師[宗峰妙超禅師]は、日本の臨済宗諸派の法系上の源流として尊崇される「応燈関(おうとうかん)」の系譜を成した高僧の一人で、稀代の傑物と評される禅僧です。その境地など、私のような凡人にはとても計り知ることなどできないのは当然でしょう。
 
耳で見て、目で聞く。そうすれば正しく見ることができる。正しく、真実に、正確に聞くことができるのです。禅がわれわれに期待するのは、こうした体験です。でも、あるいは皆さんはおっしゃるかもしれない。それでは見ないことになってしまうじゃないか、と。


日本にはこんな話が伝わっています。たぶん500〜600年前のことですが、京都に一人の禅匠がいて、「正見」をテーマにした短い詩を残しました。31文字のものです。この禅僧(大燈国師)の残した詩は、こんな和歌です。

「耳に見て 目に聞くならば疑わじ  おのずからなる軒の玉水」

耳で見る、目で聞く。もしそれができるならば、軒から落ちる水の音がどんなにか自然に響くことだろう、というのです。

ソローはコンコードに住んだ偉大な哲学者、詩人、隠者など、まぁいくつも顔をもった人ですが、このソローは自分で小屋を建てましたが、そこで暮らしはじめた頃は、人里離れていたのでずいぶん孤独感に襲われました。しかし、雨降りの日にこんなことが起こった。細かな雨で、本降りではなく霧雨に近い雨でしたが、雨だれに耳を澄ませているうちに、なにか連帯感のようなものが感じられた。それ以後は、孤独感がまったくなくなった、と書いています。いわゆる無生物にすぎない雨だれとの間に、ある種の親近感を覚えたからです。

この話から、大乗仏教徒の言う衆生救済、雨だれも芭蕉葉も巨大な岩さえも、大海原に渦巻く逆波まで救済するという、その意味を皆さんにもお分かりいただけるかと思います。大乗仏教徒は、すべての無生物のなかにさえ何か人間的なものを感じとっているのです。

われわれが耳で聞くと言うとき、この耳には空間的な場所があって、五感の一つに数えられます。明らかに耳のついている場所があります。目で見ると言うときも同じく、明らかに場所があります。その耳も目も、ある特定の空間を占有しているからです。

しかし、もし空間を意識すると意識は個別化され、コチラとかアチラといった一定の方向性をもちます。そうなると、もはや全体性(totality)は失われます。自己分裂した状態です。人格全体はある方向に向かい、もはや全体は”それ自体”ではなくなる。いわゆる無意識の領域を含むわれわれの意識は、全体性を失う。

その意識が数多くの部分に分解されても、それぞれの部分がなにか機能を果たすなら、たぶん客観的な意義をもつでしょう。しかし、お話ししてきたように、一つの存在(being)が客体と主体に分かれると、もはや”存在そのもの”とは言えない。分裂したものです。この分化が起こると、耳や目の場合と同様、その全体性が失われます。

しかし、真の実在(reality)は、すべてが全体性を保つときであって、多様に分化した様相や現象の中にはありません。「本当に知る」「本当に見る」「本当に聞く」、そのためには原初の”根源的実在そのもの”に戻らねばならないのです。

いま、根源(original)とか原初(primary)とか言いましたが、実在にいかなる概念(concept)も観念(idea)も付け加えてはなりません。原初と言えば、自然に時間の経過が連想されます。しかし、実在はこうした経過も進展も何もまったく含まない。ただただ”それ”です。

この”ただそれ”に至ると、その主体性から客体性(聞く、見る、香りをかぐ)といった働きが現われる。だから「正見」、つまり真実に確実に見るために根源まで戻るのです。しかし、このように”戻る”と言うと、これらの言葉には時間の経過が含まれます。しかし、時間の概念をもちこんではならない。空間もなく時間もない。

私が”空間もなく時間もない”などと言うと、皆さんは「それでは何かについて話すことなどできるのだろうか。人から人へ何も伝えられないではないか」と疑問に思うでしょう。しかし不思議なことに、われわれ誰でもこの”分化されない何ものか”を内に秘めているのです。もっとも、私が”われわれ誰でも”と言うと、もう実在はそのものから離れています。なぜなら、”われわれ誰でも”という言葉が分割された空間を意味するからです。









「心にひびく論語」

2016-12-29 22:54:19 | 日本

「心にひびく論語」中村信幸監修 抜粋


◎「わが道は、一以て之を貫く。」

◎「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。」

◎「志士仁人は生を求めて、以て仁を害するなし、身を殺して、以て仁を成すあり。」
・志士や仁者は、自分の生命を惜しんで人の道に背くようなことはしない。むしろ生命を犠牲にしても仁の道を貫くものだ。

◎「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。」
・それを知っているというだけでは、それが好きな人間にはかなわない。好きというだけでは、それを心から楽しんでいる人間にはかなわない。

◎「故きを温ねて新しきを知れば、以て師と為すべし。」
・古いことを研究し、そこから新しい知識や方法を得る人がいれば、その人を指導者としてよい。

◎「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。朋あり、遠方より来る、亦た楽しからずや。人知らずしてうらみず、亦た君子ならずや。」
・学んだことを、折を見ては復習する、これは楽しいことだね。懐かしい友達が、ふいに遠くから訪ねて来てくれる、これもまた嬉しいことだね。世間が自分のことを理解してくれなくても、人を恨まずクヨクヨしない、こういう人こそ立派な人物だよ。

◎「三人で行くとき必ずわが師あり。其の善き者を択びてこれに従い、其の善からざる者はこれを改む。」
・三人で行動すれば、きっとそこに自分の師となる人がいる。善なう人を選んで、その良いところを手本とし、不善なる人を見ては、わが身に振返って、そうならないように改めることである。

◎「子の道を説ばざるに非ず。力足らざればなり。力足らざる者は中道にして廃す。今汝は画れり。」
・先生に説く道を学ぶのはうれしいですが、私は力が足りず実行できません。先生は言われた。力の足りないものは、進めるところまで行って途中で挫折してしまうのはやむおえない。しかし、いまのお前は自分から見切りをつけている。

◎「由よ、汝にこれを知ることをおしえんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是を知るなり。」
・お前に「知る」ということをおしえようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは正直に知らないと認める、それが真に「知る」ということだ。

◎「君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是に反す。」
・君子は人の美点を伸ばしてやり、悪い点は出さぬようにしてやるものだ。小人はその反対である。

◎「老者はこれを安じ、朋友はこれを信じ、小者はこれを懐けん。」
・老人には安心され、友人には信頼され、若者には慕われる、そんな人物になりたいものだな。

◎「利に放りて行なえば、怨み多し。」
・自分の利益だけを優先して行動していると、人に怨みを買う。

◎「士、道に志して、悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与に議るに足らず。」
・士たる者、志を立てて道を進もうというとき、粗衣粗食を恥じるようでは、ともに語るにたらない。

◎「速やかならんと欲することなかれ。小利を見ることなかれ。速やかならんと欲すれば、則ち建せず。小利を見れば、則ち、大事成らず。」
・成果を急ぐな、小利に気をとられるな。早く成果を挙げたいと思うと目的を果たせず、目の前の小利に期をとらわれると大事は成し遂げられない。












「山崎闇斎&崎門学」

2016-12-29 22:52:32 | 日本

山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者・朱子学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。
諱は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は号。「嘉」の字を二文字「垂」と「加」に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた。
朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の教説である垂加神道の創始者としても知られる。


◎概要

闇斎の提唱した朱子学を、崎門(きもん)学または闇斎学といい、君臣・師弟の関係を厳しく教え、大義名分を特に重視するなどしたが、その思想の大きな特徴は、湯武放伐を否定した点にある。
闇斎の思想は朱子学の一派にとどまらず、神道においても、吉川神道をさらに発展させた「垂加神道」を創始し、そこでも君臣の関係を重視した。
以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。
門人には、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎・植田艮背・遊佐木斎・谷秦山・正親町公通・出雲路信直・土御門泰福らがおり、闇齋学の系統を「崎門学派」という。


◎生涯

元和4年(1619年)、京都にて生まれる。父・山崎浄因は当時浪人であり、鍼医を営んでいた。
幼くして比叡山に入り、ついで妙心寺に移って僧となる。19歳のころ土佐国の吸江寺に移り、湘南宗化の弟子となる。土佐南学派の谷時中に朱子学を学び、また野中兼山や小倉三省らとも交流して、朱子学への傾倒を深め、寛永19年(1642年)に25歳で畜髪・還俗して儒学者となった。
明暦元年(1655年)に、京都市上京区の、伊藤仁斎の開いた古義堂と堀川を隔てて相対する位置に、闇斎塾(現在「山崎闇斎邸跡」)を開いた。
寛文5年(1665年)、江戸に出て、会津藩主・保科正之の賓師に迎えられた。また吉川神道の創始者である吉川惟足に学んで、神道研究にも本格的に取り組むようになり、従来の神道と儒教を統合して(神儒融合)、垂加神道を開いた。こうした神道研究の成果により、藩政への助言を行う一方で、領内の寺院・神社の整理をおこない、神仏習合を排除した。
「劉邦は秦の民であったし李淵は隋の臣であったのだからこれが天下を取ったのは反逆である。それは殷でも周でも他の王朝でも同じことで、創業の英主といわれていても皆道義に反しており、中国歴代の創業の君主で道義にかなっているのは後漢の光武帝ただ一人である」と述べて易姓革命を否定した。またあるとき弟子たちに向かって「今、支那から孔子や孟子を大将として日本に攻めてきたらお前たちはどうするか」と問い、返答に窮した弟子たちに「そういう時は当然孔子や孟子と戦って、あるいは斬り、あるいは生け捕りにするのだ。それが孔子や孟子の教えだ」と説いた。
天和2年(1682年)、死去。


◎墓所・霊廟

山崎闇斎は、人間の心(心神)は、即ち天神と同源であり同一であるとの思想から、自らの心神を自宅の祠に祀った(生祀)。社名は、闇斎の霊社号と同じ、垂加霊社。のちに下御霊神社の境内に遷座して、猿田彦神社に合祀され、現存している。
墓所は、京都市左京区黒谷町の金戒光明寺にある。

◎崎門学の世界へようこそ
崎門学(きもんがく)は、山崎闇斎(あんざい)先生(1619~1682)が創始した朱子学の一です。闇斎先生が生きた江戸時代、徳川幕府は体系化された儒教ともいえる朱子学をシナから導入し、国家の体制教学に定めました。「君臣の分」を厳格に正す朱子学の教義が幕藩体制の確立に役立つと考えたからです。
しかし朱子学は一方で「華夷の別」を説き、シナを中華(世界の中心)、それ以外を夷狄として蔑む観念を内包していたため、我が国では、シナを尊貴とし我が国を卑賤となす自虐の風潮が蔓延する弊害を来しました。
そこで登場したのが闇斎先生です。先生は、シナを尊貴となす「慕夏主義」の思想を排斥し、むしろ朱子学が説く「君臣の分」に反する「革命」を一度も経ることなく、万世一系のご皇室が続いてきた我が国の特質に根差した朱子学の再解釈を行いました。こうして生まれたのが崎門学です。
先生はあまり多くの著作を残しませんでしたが、その思想は御所のある京都を中心に弟子の浅見絅斎(けいさい)や若林強斎(きょうさい)等によって受け継がれ発展して行きました。本サイトは、そんな崎門学の人物・思想とそれが我が国の歴史の上に与えた影響について紹介いたします。
山崎闇斎の崎門学は湯武放伐を否定した点にあり、水戸学・国学などとともに、幕末の尊攘夷思想に大きな影響を与えたとされていますが、 なぜ湯武放伐を否定した点が尊皇攘夷思想に影響を与えたのですか?

朱子の時代は、超大国・中国が周辺の夷荻から攻撃され、領土を失ってしまったりしていた「アイデンティティ・クライシス」の時代でした。
だからこそ朱子の主張には「周辺諸国は中国に絶対に服従すべきである」と言いたいがための、「家臣は君主に絶対的に服従すべきである」という「大義名分論」や、あるいは中国人こそが優れた存在で、中国人でない者は劣っているという「華夷の別」といった思想が、強く打ち出されていたのでした。
「湯武放伐」の話で言えば、「拘幽操こそ文王の真意を説き明かしたもので、これあって初めて、天下において君臣関係は確定された」として、紂王に絶対服従した文王の態度にこそ君臣の義があると、文王を肯定したりしている。

つまり朱子学は、儒教の「正統性による一系」を踏襲しながら、当時の自分が身を置いていた状況下で効力を発揮できるような、独自の解釈をしていたわけです。
その意味では、朱子学は、決して儒教の本道ではない。
徳川家は何とこれを「人類普遍の原理」として御用学問にしてしまった。
その一方で、その朱子学を論理的に鋭く詰めていって、それによって、当時 天皇の正統性を強く主張していたのは、民間の中の山崎闇斎でした。
山崎闇斎は、いわゆる崎門の学の「開祖」です 。
彼は論理的な徹底から、「朱子学の正統論には矛盾がある」として、儒教の革命思想を否定、すなわち「湯武放伐論」を拒否した。
「既成の秩序を保っている王朝は正統性を持っているのだから、これに対する叛逆は許されざること、と朱子は言う。
だがそういうなら、その王朝を立てた者はみな叛逆者ではないか。
いわゆる新王朝の「高祖」すなわち漢の高祖も唐の高祖も、それぞれ秦と隋の臣民であり、この点では宋も明も同じであって、王朝を立てた者はみな叛逆者ではないか。

では一体なぜ叛逆者が正統性を主張し、これへの叛逆者を賊といえるのか、これでは論理の矛盾ではないか、一体どこに大義名分があるのか」と、論陣を張った。

そして「拘幽操こそ文王の真意を説き明かしたもので、これあって初めて、天下において君臣関係は確定された」という朱子の言葉を見出し、ここに彼なりの君臣の義の本質を発見して、
「湯王や武王による放伐は誤りである」と易姓革命を否定した。
そして、この「文王・拘幽操」の立場をとる闇斎は、「武王・湯武放伐肯定論」の立場をとる幕府側の儒学者を「俗儒」と罵倒し、相手にしませんでした。

結果的に、闇斎の論は「革命」を否定し、元々の秩序を護持するような論理になっていますから、
幕府側の儒学者が罵倒されていても、幕府にとっては危険な説どころか、むしろ有り難い説ではあるわけです。
さらに、この革命否定の朱子学を個人倫理として、三綱(君臣、父子、夫婦の道)を絶対化すれば、「戦国時代の凍結」体制をそのまま保持する「統合の原理」になりますから、妙なことではありますが、幕府的にはますます大賛成である体制の学となっていく。
さらに闇斎は、「よくよく見てみれば、中国の王朝を立てた者はみな、無理に天下を奪い取って王朝を立てた叛逆者ではないか。
これでは中国の王朝はみな“簒臣・賊后・夷荻”とさして違いはなく、正統性をもった王朝は中国にはない」と言い、「天下を奪い取られずに連綿と続いているのは、日本の天皇だけである」と結論づけた。

そうしてこの山崎闇斎の崎門の学は、「文王・拘幽操」的態度を、これぞ究極の君臣関係だ!としたので、ここにまた、一度死んだ予定説的天皇イデオロギーが再び息を吹き返すことになる。

ところが、幕府はむしろこれを歓迎したわけです。
「天皇絶対」が朱子学的に論証されれば、その天皇から宣下された将軍の幕府もまた絶対化できるわけですし、「君主には絶対服従!」が正当化されれば、秩序的には問題ないからですね。

その微妙さは、闇斎の弟子である浅見絅斎の論になってくると、非常にクッキリと際立ってきます。











「どうしてアメリカが、東京裁判において、日本を裁くことができるのか」

2016-12-29 22:51:13 | 日本

ケント・ギルバートさんが「どうしてアメリカが、東京裁判において、日本を裁くことができるのか」について掲載している。
以下、要約し記す。



真珠湾攻撃によって、日米の戦端が開かれると、大統領行政命令によって、十二万人以上にのぼる、アメリカ国籍を持つ日系アメリカ人が、敵性外国人として、財産をすべて没収されたうえで、身の回り品だけ持つことを許されて、全米十か所の僻地に設けられた強制収容所に送り込まれた。

これは、法の下の平等を定めた、アメリカ合衆国憲法修正第十四条に対する、重大な違反だった。同じく、敵国のドイツ系、イタリア系などのアメリカ人は、まったく収容されることがなかったのだ。
収容所は有刺鉄線によって囲まれていた。

馬小屋や、急拵えの掘立小屋が並び、衛生も、環境も、劣悪だった。サーチライトを備えた監視塔の上から、常時、銃を携えた兵士が監視していた。

歴史学者のマサチューセッツ工科大学(MIT)のジョン・ダワー教授は、著書『容赦なき戦争・太平洋戦争における人種差別』(平凡社)のなかで、日系アメリカ人が収容された施設について、こう描写している。

日系アメリカ人は西海岸の自宅や、コミュニティから追い立てられて、牛のように駆り集められただけではなく、強制収容所の最終的な宿舎に移住させられるまで、何週間も、何カ月も、動物用の施設で暮らすよう命じられたのである。

ワシントン州では、二千人の日系アメリカ人が、ポートランドの家畜置場にある、唯一の汚い建物に詰め込まれ、わらを詰めた麻袋の上で寝た。カリフォルニア州ではサンタアニタ、タンフォロンといった、競馬場の厩舎の中の馬房に押し込められた。サンタアニタの集結センターは、結局八千五百人の日系アメリカ人の住居にあてられたが、馬の引っ越しと、最初の日系アメリカ人の到着との間には、四日しかなかった。

そこの唯一の入浴設備は、馬用のシャワーであり、厩舎の悪臭がいつまでも漂っていた。ほかの疎開者たちも、はじめ各地の馬小屋や牛舎に入れられた。ワシントン州のピュヤラップ集結センター(キャンプ・ハーモニーと呼ばれた)では、豚の檻に入れられた。


◎人間扱いされなかった日本兵


アメリカのほとんどの白人が、日本人や日系人を蔑視していたから、アメリカ国内でも自分たちと同じ人間として見ていなかったのだ。同様に戦場において、日本人兵士を、人間だとは見ていなかった。

チャールズ・リンドバーグは、一九二七年に単機を駆って、はじめて大西洋を横断したことで、アメリカの国民的英雄となった。

リンドバーグは、第二次世界大戦に当たって、志願して、太平洋戦線で大佐として戦ったが、克明な日記を残している。

「軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。今こそ、日本兵を殺すチャンスだと、その捕虜は軍曹の前に、引き立てられた。
『しかし、俺はこいつを殺せないよ! やつは捕虜なんだ。無抵抗だ』

『ちぇつ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ』

偵察隊の一人が、日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻きつき、喉元が一方の耳元から他方の耳元まで、切り裂かれたのだった。
 このやり方は、話をしてくれた将軍の、全面的な是認を受けていた。私がそのやり方に反対すると、軽蔑と哀れみの態度で接した。
『やつらを扱うたった一つの方法さ』
談はたまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。『捕虜にしたければ、いくらでも捕虜にすることが出来る』と、将校の一人が答えた。『ところが、わが方の連中は、捕虜を取りたがらないのだ』

『二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのは、たった百か、二百だった。残りの連中には、ちょっとした出来事があった。もし、戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』

『両手を挙げて出て来たのに、撃ち殺されたのではね』と、別の将校が調子を合わせる」(一九
四四年六月二十六日)

「わが将兵の態度に、強い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また、一般的な生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。日本兵の死体から略奪したり、略奪の最中に、死者を『野郎』呼ばわりしたりすることも、意に介さぬ。ある議論の最中に私は意見を述べた。『日本兵が何かをしでかしそうと、我々がもし拷問をもって彼らを死に至らしめれば、我々は得るところが何一つ無いし、文明の代表者と主張することさえできない』と。
 『ま、なかには、やつらの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし大抵は、まずやつらを殺してから、それをやっていますね』と、将校の二人が言い訳がましく言った」(六月二十八日)


「わが軍の将兵は、日本軍の捕虜や、投降者を射殺することしか、念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が、大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだというが、南太平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、われわれには、文明人であると主張する理由が、いよいよ無くなるように思える」(七月十五日)

「心底で望んだとしても、敢えて投降しようとしない。両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは、火を見るよりも明らかなのだから
(七月二十一日)


以上『孤高の鷲―リンドバーグ第二次大戦参戦記』学研M文庫

アメリカの従軍記者は、一九四六(昭和二十一)年の『アトランティック・マンスリー』誌に、太平洋戦線で「われわれは捕虜を見境なく撃ち殺し、野戦病院を攻撃し、救命ボートに機銃掃射を加え、民間人を殺害した。日本兵の頭蓋骨を煮て、置き物や、骨からペーパーナイフをつくった」(エドガー・ジョーンズ)と、寄稿している。

アメリカの人気作家のウィリアム・マンチェスターも、著書『回想 太平洋戦争』(コンパニオン出版)のなかで、「投降した日本兵は無防備だったが、一列に並ばせて、軽機関銃で掃射して、一人のこらず射殺した」と、述べている。

先のダワー教授は著書のなかで、「捕えた日本兵を一人放ち、狂ったように駆け出して逃げるところを、銃の標的として楽しんだり、沖縄で恐れおののく老女を撃ち殺して、『みじめな生活から、自由にしてやった』と、自慢した」と書いている。

イギリスの歴史作家のマックス・ヘイスティングは、沖縄におけるアメリカ兵による残虐行為を、つぎのように描いている。

「一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。とくに、沖縄戦がそうだった。

(アメリカ軍兵士の)クリス・ドナーは、こう記録している。

『地面に十五歳か、十六歳と思われる、美しい少女の死体が横たわっていた。全裸でうつぶせになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いていて、膝から曲げてあがっていた。
 仰向けると、少女の左乳房を銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。』

しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から、敵によって狙撃されて倒れた。その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、『あのビッチ(魔女)を撃て! ジャップ・ウーマンを殺せ!』と、叫んだ。
 兵が一斉に射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振り絞って立ち上がると、手放した赤児のほうへ、わが子の名を叫びつつ、よろめきながら進んだ。

兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった」(『ネメシス 日本との戦い 一九四四ー四五』、ハーパース・プレス社、ロンドン)

「ネメシス」は、ギリシャ神話のなかに登場する、復讐、あるいは天罰を降す女神である。

もし日本兵がこのような残虐行為を働いたならば、「皇軍」の名を汚すものとして、厳しく処罰された。日本は長い歴史を通じて、これほど酷い人種差別を行ったことも、都市ごと大量虐殺を行うこともなかったし、奴隷制度も存在しなかった。

このような証言は、この他にもいくらでもある。日本人は先の対戦中、アメリカ人を「米鬼」と呼んだが、まさに鬼だった。戦時中の日本国内で「鬼畜米英」という言葉が日常的に使われ、東條英機が戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と説いた理由も、このような戦場の現実を知れば理解できる。

 どうして、このような残虐行為を行った側が、「人道に対する罪」で、極東国際軍事裁判で日本を裁くことができるのか。

 













明治150年記念施策、方針決定 明治の精神に学ぶ」

2016-12-29 07:58:32 | 日本

石松恒さんが「明治150年記念施策、方針決定 明治の精神に学ぶ」についてコメントしている。
以下、要約し記す。



明治元年から満150年の2018年にあわせた記念施策を検討する政府の関係府省庁連絡会議は26日、関連施策の「基本的な考え方」をまとめた。「明治以降の歩みを次世代に遺(のこ)す」「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」の二つの方針に沿って取り組む。来年夏の18年度予算の概算要求までに各府省庁が具体策をまとめる。

「歩みを次世代に遺す」では、議会制度や義務教育の導入、鉄道開業や郵便制度の施行など、近代化を表す当時の文書や写真などを集めて展示する。古い資料のデジタル化も進める。若者に日本のあり方を考えてもらう契機にするという。

「明治の精神を学ぶ」では、能力本位の人材登用が進んだことに着目。各地で活躍した若者や女性、外国人の存在を掘り起こす。「機会の平等」「チャレンジ精神」「和魂洋才」などを知ることにつなげるねらいだ。建築物の公開などを通じ、当時の技術や文化に触れる機会も増やす。「日本の強みを再認識し、日本のさらなる発展をめざす基礎とする」としている。

とりまとめ役の野上浩太郎官房副長官は「地方公共団体や民間も含めて、日本各地で多様な取り組みが広く推進されるよう機運を高めていきたい」と述べた。










「真珠湾の開戦通告遅れは意図的か?」

2016-12-28 07:13:11 | 日本

「真珠湾の開戦通告遅れは意図的か?」対米開戦に新説 九大教授が米記録発見
太平洋戦争の開戦通告が遅れたのは、ワシントンの在米日本大使館の怠慢だったとする通説を覆し、日本外務省が意図的に電報発信を遅らせたことが原因とする説が浮上している。九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が、通告の訂正電報を外務省が13~14時間遅らせて発信していた記録を、米国公文書館(メリーランド州)で発見した。開戦から75年。安倍晋三首相がハワイ・真珠湾を訪問するが、通告の遅れに関する真相究明が進んでいる。

日本が日米交渉の打ち切りを米国に伝えた「対米覚書」が、開戦通告と位置付けられている。

三輪教授が発見したのは、覚書の一部である二つの電報の発信記録。外務省が大使館に発信し、米海軍が傍受したもので、1941年12月7日の「午前0時20分」と「午前1時32分」(いずれも米東部時間)とある。この電報の存在と時刻が何を意味するのか。


◎電報は14部に分けて発信

旧日本軍が真珠湾攻撃を開始したのは、同7日午後1時19分。覚書が当時のハル米国務長官に手渡されたのは1時間後の午後2時20分だった。この遅れが、米国から「だまし討ち」と批判される原因となった。

覚書は、外務省が発信した暗号電報を大使館が解読し、英文に直してタイプライターで作成した。長文のため、電報は14部に分けて発信された。

1~13部は同6日午前8時~11時25分に発信されており、内容はこれまでの日米交渉を確認するにとどまる。交渉を打ち切るという「結論」は14部で初めて分かるが、ぎりぎりまで機密を保持するため、13部から約15時間後の7日午前2時38分に発信された。


◎二つの訂正電報が出されるまで13~14時間の「空白」

現在の通説はこうだ。大使館は6日中に13部までをタイプライターで清書し、7日朝に14部を追加すれば開戦前に通告できたはず。しかし、大使館は7日朝から1~14部の清書を始めたため、間に合わなかった。6日夜に大使館内で送別会があっていたことなどから、大使館の「怠慢」が通告遅れを招いた-。

だが、三輪教授は、元外務省ニュージーランド大使の井口武夫氏が2008年の著書で触れた訂正電報の存在に注目した。当時、大使館の1等書記官だった奥村勝蔵氏が、1945年に「夜半までに13通が出そろったが、後の訂正電信を待ちあぐんでいた」と陳述していた。

三輪教授は、大使館が1~13部の「訂正電報」を待っていたため、清書ができなかったとする仮説を立てた。訂正が175字に上っていたことも外交資料で分かった。当時のタイプライターは途中で挿入や訂正ができない。大使館は「訂正電報」が届くまで清書ができなかったのではないか。

発見した二つの電報は、他の電報の詳細と突き合わせた結果、「訂正電報の可能性が極めて高く、奥村証言を裏付ける証拠」と三輪教授は読む。13部が発信された6日午前11時半から、二つの訂正電報が出されるまで13~14時間の「空白」がある。この間、大使館は清書ができない。

これが事実とすれば、では何のために、外務省は訂正電報を遅らせたのか。

九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が発見した2通の電報記録。外務省が在米日本大使館に発信したもので、これらが「訂正電報」とすれば、急を要するはずの対米覚書の訂正を、外務省は半日以上遅らせていたことになる。
その理由を三輪教授は「陸軍参謀本部が米国に開戦の意図を察知されぬよう、わざと遅らせ、外務省も協力した可能性が高い」とみる。着目したのは、いくつかの他の電報の存在だ。

米東部時間で1941年12月6日午前9時54分、米国人タイピストの使用禁止を指示(表の1)。14部の発信から約2時間後の7日午前4時18分、大使館に初めて、米政府に「(7日)午後1時に通告」するよう指示している(2)。外務省は事前に、対米覚書が開戦通告という極めて重大な文書であることを大使館に伝えていなかった。

同午前4時44分には、電報を解読するための暗号機3台のうち、2台の破棄を命令した(3)。開戦後の米政府による押収を恐れた措置とされる。
元ニュージーランド大使の井口武夫氏が、大使館の電信担当官の吉田寿一氏にこの時の状況について聞いている。吉田氏は7日午前9時ごろから、未明に届いた電報解読に取り掛かった。「終わりの方になって『午後1時にハル長官に…手交せよ』というのがあった。急いで14部の解読に当たった」と証言している。

三輪教授は、米軍が電報を傍受していたことを旧日本陸軍が極度に警戒し、開戦ぎりぎりか、遅れて通告しても構わないと考えていたとみている。
175字もの訂正電報を7日の午前0時20分、同1時32分に送ったのも、こうした推論を裏付ける。「大使館の作業を遅らせる意図があったとしか考えられない。陸軍、外務省は大使館をも欺いていた」

電報消失し、「大使館の怠慢」通説に だが、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)や外務省幹部らの証言で、通告遅延の原因は「大使館の怠慢」説が広がり、定着していく。東郷茂徳外相(開戦時)は東京裁判で「通告に時間がかかったのは、大使館が案文の修正に手間取ったからである」と証言している。

三輪教授は2011年、日本の国立公文書館で「A級裁判参考資料 真珠湾攻撃と日米交渉打切り通告との関係」と題したファイルの中から、これまで明らかになっていなかった法務省作成の「弁護方針(案)」という文書を見つけた。

旧日本海軍と外務省が東京裁判の弁護方針を打ち合わせた記録には、こう書かれていた。
〈「最後通牒」手交ノ遅延ハ在華対(ママ)日本大使館ニ於ケル事務遅延ノ為ニシテ我方ノ意図ニ反セルコト 詳細ハ外務省内部ノ決定ニ一任ス〉
裁判後、怠慢説を広げる中心となったのは、開戦時の外務省アメリカ局第1課長だった加瀬俊一氏と大使館海軍武官補佐官の実松譲氏だ。著書やインタビューで「6日夜、大使館員は送別会で出払い、誰も電報に気付かなかった」「翌日は午前9時半に近いというのに、本国からの大量の電報は郵便受けに放置されたままだった」と繰り返した。

だが、大使館の電信官は7日未明まで待機し、電報は手渡しで受け取ることになっていた。2人の証言が事実と異なることが今では解明されている。
そもそも、2通の「訂正電報」は1942年の外務省の火事や45年の空襲で焼失したとされ、長らく存在さえ知られていなかった。
こうした事実や状況から、三輪教授は「通告の遅れは、大使館の事務作業の遅れが原因だということにしようという意図が働いていた」とみている。
その理由をこう結論付ける。「開戦の意図を米軍に察知されたくなかった陸軍や、A級戦犯だった東郷外相に重い罪を科されないようにするため、大使館の責任にする必要があった。そのために、発信時刻が判明する訂正電報を焼却したと考えるのが合理的だ」

三輪教授は、歴史から教訓を得るには開戦時のさらなる史実の検証が必要だと訴える。









「五臓六腑とは、」

2016-12-27 07:49:27 | 日本

真夏にいっぱいのビールをグイーっと飲む。まさに「五臓六腑」に染みわたる。ではこの「五臓六腑」とは一体何か?について学ぶ。健康な身体を維持していくにはきわめて重要な役割を果たしている。


五臓六腑(ごぞうろっぷ)とは、伝統中国医学において人間の内臓全体を言い表すときに用いられたことば。

「五臓」とは、肝・心・脾・肺・腎を指す。心包を加え六臓とすることもある。

「六腑」とは、胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦を指す。

関係臓器がない三焦をはずして五腑とすることもある。現代医学における解剖学の知見とは異なる概念。陰陽五行説による解釈では、五臓も六腑もともに五行に配当され、それぞれの役割などについて説明される。

五臓六腑について書かれた最古の文献は、中国最古の医学書とされる『黄帝内経』であると言われている。
現代医学の解剖学的具体的臓器そのものではなく、精・気・血を備蓄する蔵するという機能の総称である実質性臓器。陰陽の陰に配当される。また五行思想により配当されている。


<五臓>


◎肝臓

魂を臓する。
判断力や計画性などの精神活動を支配
「罷極の本」「将軍の官」と呼ばれる。
蔵血を主る。
筋肉を司る。筋肉がだめになるとひきつれを起こす。
爪を主る。
目に開竅している。ここが悪くなると肝の機能が低下する。
疏泄(気血をスムーズに流す作用)を司る。
液は涙
志は怒
外邪を防ぐ
五行は木、陰中の陽(少陰)に属する。三焦では下焦に属する。
経は足の厥陰肝経(あしのけついんかんけい)


◎心臓

神を臓する。
五臓六腑を統括し、知覚・記憶・思考・意識・判断などの精神活動の支配、五臓六腑の調和を保ったりしている。
「生の本」「君主の官」「五臓六腑の大主」と呼ばれる。
血脈を司る。
脈を介して血を全身にくまなく運行させる。身体諸器官の活動を支える。
華は面
舌に開竅している。ここが悪くなると心の機能が低下する。
液は汗。
志は喜
五行は火(君火)、陽中の陽(老陽、太陽)に属する。三焦では上焦に属する。
経は手の少陰心経(てのしょういんしんけい)


◎脾臓

営を臓する。
運化(水穀を消化し、後天の精や津液、血・営衛などを吸収して全身に送る作用)を主る。
消化・吸収を行う。
昇清(運化で吸収したものを上の肺に送る作用)を主る。
統血(営気を脈中へ送ることによって、血が脈外に漏れるずに、順調にめぐるようにする作用)を主る。
「後天の本」「創稟の官」と呼ばれる。
肌肉を司る。
華は唇。
口に開竅している。ここが悪くなると脾の機能が低下する。
津液の生成を主る。
液は涎
意・知を舎す。
五行は土、陰中の至陰に属する。三焦では中焦に属する。
経は足の太陰脾経(あしのたいいんひけい)


◎肺臓

気を主る。
呼吸を主る。
宗気を生成し、昇降、出入りを調節する。
宣発(昇発と発散のことで、呼吸により濁気を吐き出したり、津液と気を全身に散布したり腠理を調節する作用)を主る。
粛降(粛浄と下降のことで、呼吸により清気を吸い込んだり、津液を腎・膀胱に下輸したり、気道を清潔にしたりする作用)を主る。
通調水道(水の上源(脾の働きによって胃から上部に運ばれた津液を全身に散布する作用))を主る。
「気の本」「相傅の官」と呼ばれる。
皮毛を司る。汗腺を調節する。
鼻に開竅している。ここが悪くなると肺の機能が低下する。
華は毛
液は涕
魄を舎す
五行は金、陽中の陰(少陽)に属する。三焦では上焦に属する。
経は手の太陰肺経(てのたいいんはいけい)


◎腎臓

精を蔵する。
成長・発育・生殖・老化などを主る。
水を主る。
水分代謝を支配する。
「作強の官」と呼ばれる。
骨を主る。
納気を主る。
吸気を行っている。
華は髪
志を舎す。
耳・二陰に開竅している。
液は唾
志は恐
腰・膝は胃の府
五行は水、陰中の陰(老陰、太陰)に属する。三焦では下焦に属する。
経は足の少陰腎経(あしのしょういんじんけい)


◎腑

臓とは異なり空間のある構成で精・気・血を動かす働きをする中腔性臓器。腑はすべて陽に配当される。



<六腑>


◎胆

決断や勇気を主る
精汁(胆汁)を蔵する
奇恒の腑の一つ
「中正の官」と呼ばれる。
五行は木で、肝に対する。
経は足の少陽胆経(あしのしょうようたんけい)

◎小腸

胃から送られてきた糟粕(飲食物のかす)を受け取り、内容物をさらに消化し、澄んだ清いもの(水穀の精微)と濁ったものに分け、清いものは脾を通して全身へ送り、濁ったものは蘭門で水分と固形分に分けられ、水分は膀胱へ、固形物は大腸へ送られる。
「受盛の官」と呼ばれる。
五行は火(君火)で、心に対する。
経は手の太陽小腸経(てのたいようしょうちょうけい)

◎胃

脾とともに消化吸収を行う。
水穀の受納・腐熟を主る。(水穀の海)
通降を主る。
降をもって和とする。
内容物を小腸・大腸に送り、新たな飲食物を受納する
「創稟の官」と呼ばれる。
五行は土で、脾に対する。三焦では中焦に属する。
経は足の陽明胃経(あしのようめいいけい)

◎大腸

糟粕の伝化を主る。
大便を肛門から排泄する。
「伝導の官」と呼ばれる。
五行は金で、肺に対する。
経は手の陽明大腸経(てのようめいだいちょうけい)

◎膀胱

貯尿・排尿作用を行う。
「州都の官」と呼ばれる。
五行は水で、腎に対する。
経は足の太陽膀胱経(あしのたいようぼうこうけい)

◎三焦

諸気を主宰して、全身の気機と気化作用を統括して、気が昇降出入する通路
水液運行の通路
体温調節作用、気血津液の調整作用、輸瀉作用の三つを行う。
上焦は横隔膜より上部の機能を指す。働きは清気(陽性の衛気)を取り入れ血と共に全身に巡らせる。また衛気・津液を全身の皮膚に巡らせ皮膚に潤いを与えて、体温調節を行う。臓腑において心、肺と関係深い。

中焦は横隔膜から臍までの間の機能を指す。働きは消化・吸収を行い、そこから生じる精気を、営気と血とし、経絡を介して全身に巡らせる。臓腑において脾、胃、肝、胆と関係深い。

下焦は臍から下部の機能を指す。働きは消化した糟粕を大便、水分を尿として排出する。臓腑において腎、膀胱、小腸、大腸と関係深い。
「決涜の官」と呼ばれる。
「孤府」と呼ばれる。
五行は火(臣火、相火)で、心包に対する。
経は手の少陽三焦経(てのしょうようさんしょうけい)


◎三焦という腑とは、

三焦(さんしょう)とは、伝統中国医学における六腑の一つ。大腸・胃・小腸・胆・膀胱は実体が理解できる腑であるが、三焦は、働きだけがあってカタチがないと記されているが実体はリンパ管である。

三焦は原気を擁しその原気は五臓六腑(裏)栄衛(半表半裏)経絡(表)のみならず全身すべてに行きわたる。三焦は全身に通じており原気は巡ってすべてを管理統括する。

十二経脈は生気の原に係わっており十二経脈の根本をなす。腎間の動気とも云う。生気の原は五臓六腑の本、十二経脈の根、呼吸の門である。これは三焦の原で人の生命活動の根本である。 五臓六腑の本とは深リンパ系を、十二経脈の根は浅リンパ系を、呼吸の門はリンパ咽頭輪を云う。
腎は膀胱と表裏をなす。腎の力によって水穀より生じた過分な水分(津液)は膀胱に滲み入り貯えられ体外に排出される。三焦はクダの腑で腎(腰リンパ本管)から上って肺(静脈)に連なる。 三焦も腎の力によって流れ行き組織液の調節に係わるよって腎と膀胱に属す。三焦は生命の元である原気を擁し特別の腑とされる。 五臓六腑の一腑としての三焦は静脈のバイパスとして組織液の運搬に係わる。(中瀆之腑) 三焦の原気は免疫抗体作用と食作用をなす 三焦は上、中、下焦に分布はするがそれらの生理とは何ら関係はない。








「ダグラス・マッカーサーは保守でもなければ、急進でもなかった」

2016-12-26 07:33:49 | 日本

大賀祐樹さんが「ダグラス・マッカーサーは保守でもなければ、急進でもなかった」について掲載している。
以下、要約し記す。



戦後日本の在り方に大きな影響をもたらした一人の人物、ダグラス・マッカーサー(1880~1964)の独特な言葉や行動、パーソナリティの背景には、「ポピュリズム」の多様な様式が、占領期日本において邂逅し、奇妙な結合を果たした経緯が見え隠れしているのである。

第一次世界大戦の欧州西部戦線にて指揮官として戦功を上げたマッカーサーは、50歳を迎えた1930年に、ハーバート・フーヴァー大統領(1874~1964)によって史上最年少の陸軍参謀総長に任命された。1933年にフランクリン・ルーズベルト(1882~1945)が大統領となった後にも、1935年までその任を務めている。

マッカーサーは、政治的には古典的な自由主義の立場に立つ保守派であり、「大きな政府」を志向する「ニューディール」政策を掲げた「リベラル」のルーズベルトと対立することが多かった。時勢は第一次大戦後の軍縮と大恐慌の下にあり、政府は軍事費削減を目論んでいたが、マッカーサーは参謀総長として軍事費削減にも真っ向から反対していたのである。

第一次大戦で塹壕と機関銃の戦争を体験したマッカーサーは、機関銃陣地を突破できる戦車と航空機による戦争の時代が訪れることを予見したものの、政府や議会の反発を受けていた。そのため、平和主義者に敵意を抱いていたようである。

1932年には失業者の内の旧軍人たちが一万人以上の群衆となってワシントンに押し寄せ、特別手当の支払いを求めるという「ボーナスアーミー」事件が起きた。マッカーサーはこの時、非武装のデモ隊に対して軍隊を指揮し、強引な排除を行った。この行動は新聞などのマスメディアを通じて報じられ、多くの批判を浴び、フーヴァー落選の一因となったとも言われている。だが、マッカーサーは終始、モスクワの指令を受けた共産主義者が裏でデモ隊の糸を引いており、デモ参加者の多くは犯罪歴のある者だったと信じていた。

アメリカ大統領の地位を本気で考えるほど政治への関心を持っていたマッカーサーは、このように、基本的には反「ニューディール」、平和主義と共産主義への敵視という保守的で「反動」的な立場を取っていたのである。

第二次世界大戦において、ルーズベルトは大統領として、太平洋戦線における対日戦争の指揮をマッカーサーに任せることとなる。しかしそれ以前には、マッカーサーを「アメリカで最も危険な二人の人物の内の一人」と考えるほど危険視していた。

ルーズベルトは「この国の企業家や影響力のある人々は、この1930年代の経済的危機の中で民主主義を軽蔑し、強力な指導者を求めている。アメリカでシーザーになり得る人間の中でマッカーサーほど魅力と経歴と威厳に満ちた風貌をみごとに備えている人間はいない」と語ったという。

ちなみに、ルーズベルトが「アメリカで最も危険な二人の人物」と考えたもう一人の人物は、激しい政争を闘ったルイジアナ出身の連邦上院議員にして稀代の「ポピュリスト」であったヒューイ・ロング(1893~1935)である。
ただ、マッカーサーとルーズベルトの個人的な親交は古く、二人の出会いは1913年にマッカーサーが陸軍参謀本部の一員となり、ルーズベルトが海軍次官となった時で、「ダグラス」「フランク」と呼び合う仲だったとマッカーサーの『回想記』に書かれている。そして、大統領と参謀総長という間柄になった時も、ルーズベルトは頻繁にマッカーサーを呼び、軍事問題ではなく社会改革に関する意見を聞いたが、それはマッカーサーの意見を「アメリカ国民の良心の声」として聞くためだったという。


◎ニューディーラーが見つけた未開拓地、日本

やがてマッカーサーは、第二次世界大戦終結後に、連合国最高司令官として日本の占領統治を行うこととなる。その際、「青い目の大君」と呼ばれるほどの強力な権力を用いて行った戦後日本の改革は、実際には彼本来の保守的な政治的立場とは反対の、極めて「ニューディール」的、あるいは「ニューディール」以上に「リベラル」で急進的なものでさえあった。

マッカーサーとGHQは、財閥解体、農地改革、女性解放、労働組合の奨励など、アメリカの「革新主義」「ニューディール」といった改革派の運動が数十年をかけて達成してきたような改革を、終戦後わずか数年の間に、矢継ぎ早に再現していったのである。マッカーサーが敵視していた革命的な共産主義者の獄中からの解放も認めた。

戦後に保守派として大統領選挙に立候補しようと考えていたマッカーサーが、何故日本において「リベラル」を超えた急進的な改革を行ったのか。GHQ労働課長として戦後日本の労働政策改革に関わったセオドア・コーエン(1918~1983)は、著書『日本占領革命』(大前正臣訳・TBSブリタニカ)において、その理由を次のように説明している。

「まず、マッカーサーは軍隊式の命令服従を重視していた。第二に彼は、世界的人物として、自分の運命に深い信念をもっていた。第三に彼は、従前何を主張していたかは別として、1945年には反民主主義的な反動ではなく、根本的に旧式の愛国的なポピュリストであった」

この説明の意味を、一つずつ解きほぐしていこう。まず、マッカーサーは強大な権力を一手に握り、アメリカだけでなく連合国の最高司令官という地位に立ったとはいえ、基本的には軍人として本国からの命令への服従を怠らなかった。一方、アメリカ本国では、戦時中から対独占領政策と同時に対日占領政策も練られていたが、その計画と指令書を作成したのが「ニューディール」の政策を遂行していた当時の官僚たちだったのである。

それだけでなく、GHQ民政局で辣腕を振るい憲法草案の作成にも深く関わったチャールズ・ケーディス(1906~1996)や、日本の革新官僚と共に農地改革に関わったウォルフ・ラデジンスキー(1899~1975)、先ほど名を挙げた労働課のコーエンなど、GHQの実務に携わった者たちの多くは1930年代にルーズベルトの下で「ニューディール」官僚だった経歴を持っていた。

GHQという組織を築くにあたって、マッカーサーは本国から多くの官僚経験者を呼び寄せたが、好むと好まざるとに関わらず、この時代のアメリカにおける官僚経験者は「ニューディール」を経験した「ニューディーラー」ばかりだったのである。

戦時体制の好景気に湧いたアメリカ本国では、大恐慌から脱するための「ニューディール」は最早必要とされなくなっていた。「ニューディーラー」たちは、焼け野原と化した日本の復興という強い使命感を胸に、新天地へと大挙して渡ってきたのである。

1945年の9月から10月にかけて、アメリカ政府からマッカーサーに届けられた、日本占領のための「JCS 1380/15」と番号がつけられた指令書にはルーズベルト時代の精神とエッセンスが込められており、マッカーサーは一軍人として、「船いっぱいのニューディーラー」の部下たちと共に、その指令を忠実に遂行していったのである。











「夢に向かって」

2016-12-25 08:51:30 | 日本

「夢に向かって」について記す。



夢を叶えるコツは非常にシンプル

☆感謝する
☆イメージする
☆めげない
☆諦めない
☆ドアをたたき続ける
☆自分を信じる
☆仲間を信じる
☆志を信じる

この道しかない!!
今日の問題で明日の夢をつぶすな!
人生は夢を実現する為にあるのだから!
"志あるところに常に道あり"
強い精神力で最高の人生の舞台をつくろう








「自分への期待」

2016-12-25 08:50:37 | 日本

松本守正さんのブログ「自分への期待」について記す。


期待とは、相手を思い通りにしようとすること。
期待が大きい人ほど、人間関係もうまくいかなくなる。
相手に期待すると裏切られて不満となって自分に帰ってくる。
それは他人を思い通りにすることは出来ないからである。
さらに不満を蓄積するとストレスになる。
不満、ストレスの解消のためには考え方を変えるしかない。
つまり他人に期待するのではなく、自分自身に期待することである。

今こそ自分に頼れ!
人に頼らない。
人にばかり期待するから 文句がでる。
文句をのみ込んだ人が 成功する!
泣き言は たまには言ってもいい。
出口があるから。
文句や愚痴は出口がない。
心の感情をハッピーにすること