三輪(さんりん)とは、施主と、施物の受け手と、施物の三者のことです。
「この三者とも、清浄(しょうじょう)である布施が、最上の布施だ」ということです。
大乗経典の『大乗本生(ほんじょう)心地観(しんじかん)経』という経典に説かれているのが、始めのようです。
「三輪清浄」の「清浄」とは、大乗が強調する「空」が基準になっています。
例えば、施主たる「私」がいる訳ではなく、本来「空」だから、「俺がやったのだぞ」という「我」や「慢心」が出る余地がない状態です。
本来「空」だから、施物の受け手が誰であるか、などと囚われることがない。
本来「空」だから、施物の世間的な価値などにも囚われずに、ただ布施という善行為をおこなうことが、最高の布施だということです。
布施という善行為をする時に、「俺がやった」という「我」や「慢心」が出ないようにすることは、とても大切なことです。
「我」も「慢心」も、布施など、善行為をしている時にも、ついつい顔を出す悪であり、煩悩の心ですから、気を付けた方が良いのです。
初期仏教では「空」の観念を用いず、「三輪清浄」という言い方も用いることはせずに、布施に関わる三者を、それぞれのランクづけをして、「三者いずれも最高ランクなら、その布施は最高の功徳をもたらす」と見ています。
こちらにも、一理あります。
布施の受け手、施主にも、一応、ランクが経典に説かれています。
「破戒の私」が布施をするよりは「預流果の私」が布施をする方が、功徳も大きくなるのです。
それから、もう一種類、施主が施物を得る手段のランクがあります。
自分でしっかり働いて適切な報酬を得て、それで施物を用意するなら、最高の施主。
働かずに貰ったお金で、施物を準備すると、その下のランク。
盗んだお金で準備したり、施物を盗んで調達したりすると、最下のランクになっています。
これと同じ理屈で、心を持たない施物にさえ、一応のランクがあります。
施主の財産から準備したり、買い求めたりした施物が最高。
貰った金品を施物にするのは、次によし。
盗んだ金品は、施物としては、最下のものです。
初期仏教の「三輪清浄」は、難しい「空」という概念を表に出すのではなく、一般の人々にも、すぐに分かるように、あくまでも日常的な常識の範囲内で説かれています。
しかし、布施をする時に一番大事なことは、「三輪清浄」を気にすることはなく、「ただ善いことだから、布施をします」と堂々と行うことです。
あれこれ考えずに、素直にやれば、それが一番良いのです。
『貰うより あげられる身の 幸せを 貰うより あげる方が もっと幸せ』
奪い合えば 足らぬ 分け合えば 余る
奪い合えば 争い 分け合えば 安らぎ
奪い合えば 憎しみ 分け合えば 喜び
奪い合えば 不満 分け合えば 感謝
奪い合えば 戦争 分け合えば 平和
奪い合えば 地獄 分け合えば 極楽