NHKの連続テレビ小説「あさが来た」の五代は、あさ以外の女性には関心がなさそうで、独身者のように描かれていた。しかし現実の五代には妻も子もいたし、また明治時代の政治家・財界人の例外に漏れず、彼もまた妻以外の女性と多々関係している。
五代は生涯に、生後すぐ死んだ子も含めて10人の子供を儲けている。最初の子供(女子)は、幕末の薩摩藩士時代の赴任先・長崎で知り合った女性とのあいだに生まれた。ただしこの子は五代家の籍には入っていない。
のち明治初めに菅野豊子(外交官・森山茂の実妹とも養妹ともいわれる)という女性と結婚したが、彼女とのあいだに子供はできなかった。戸籍上の三人の娘も、べつの女性が生んだのを引き取った子たちだ。経済史学者・宮本又次の『五代友厚伝』(有斐閣)によれば、五代はそうとうな遊び人であったらしく、官界から離れたのも派手な遊蕩が一因だったともいわれている。
結婚したときにもべつの女性とつきあっており、長女と次女はその女性とのあいだに生まれた。長女誕生のときにはさすがに正妻・豊子と五代の関係は険悪になったらしいが、それでも次女入籍のときには悶着はなかったというから、豊子はかなり人間のできた女性だったのだろう。事実、五代の秘書的な役割も果たし、また教養を身につけるべく、師について絵や文学を学んでいたという。
五代が家の外で儲けた男子はすべて、認知はしても籍には入れず庶子となった。一方で彼は、かつての恩人の甥・九里龍作に学費を出すなど援助を惜しまなかった。龍作は五代の没後、五代家へ養子に入り、五代の長女・武子と結婚する。1886年には東大工学部教授の職を辞して大阪に転居、養父の興した鉱山業を引き継いだ。
こうして女性関係を見るかぎり、ドラマと現実の五代像はずいぶんかけ離れている。たぶん、朝ドラでとりあげるにはあまりに生々しいし、物語で扱うには煩雑になるとの理由から、劇中では一切描かれなかったのだろう。ただ、せめて五代の妻は登場させ、たとえばあさのライバル的存在として描く手もあったような気もしないではない。
ドラマと史実とではさまざまな相違がある。しかし五代友厚が私利私欲を抜きに、国や大阪のために尽力したこと自体はドラマで描かれたとおりである。「男児、財産をつくるためにこの世に生を受けたのではない」が彼のモットーだった。実際、その死後には財産どころか、100万円もの借財が残された。
五代が死んだのは日本に本格的な産業革命が到来する直前だった。前出の宮本又郎は、五代がもし20年長く生きていたら、一大財閥を形成していたかもしれないと書いている。
1885年10月2日に大阪・中之島の五代邸で行なわれた葬儀には、じつに一般から4800人もの参列があった。このことからも、地元の人たちの彼に対する敬愛ぶりがうかがえよう。葬儀後、棺は馬車に乗せられ、天王寺埋葬場まで大勢の人に付き従われながら運ばれた。それは盛大な行列となり、先頭が埋葬場に到着したときも、後尾はまだ4キロほど先の長堀橋あたりを歩いていたと伝えられる。
◎五代友厚とは、
五代友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。
・時代 江戸時代末期 - 明治時代中期
・生誕 天保6年12月26日(1836年2月12日)
・死没 明治18年(1885年)9月25日(満49歳没)
・別名 徳助(幼名)、才助(通称)
・諡号 松陰
・墓所 阿倍野墓地
・官位 贈正五位
・主君 島津斉彬、久光
・藩 薩摩藩
・父母 父:五代秀尭
・妻 豊子
◎人物・恵まれた環境
五代は小松清廉や西郷隆盛、大久保利通などの要人と知り合いだった。長州藩の高杉晋作や土佐藩の浪人坂本龍馬とも非常に仲が良い。このように一流の人物たちと関わり合える条件をもっていたことが五代の後の功績へと役立った。加えて、五代が役立てたものは英語力である。当時から外交に英語力は欠かせなかった。特に薩摩藩城代家老小松清廉には重用されて恩義を感じ、小松死後はその妻(側室)子の面倒を見たことでも知られる。
◎五代友厚の年譜・功績
・天保6年12月26日(1836年2月12日) - 薩摩藩士である五代秀尭の次男として生まれる。
・嘉永4年(1851年) - 元服して、才助と名乗る。
・安政4年(1857年)
郡方書役を命ぜられる。
長崎遊学を命ぜられる。勝海舟に会う。
・文久2年(1862年)
2月 - 藩庁より舟奉行副役の辞令が下りる。
4月 - 蘭通詞岩瀬弥四郎のはからいで、千歳丸の水夫に変装して上海へ赴く[2]。高杉晋作らに会う。
・文久3年(1863年) - 薩英戦争において寺島宗則とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送される[3][4]。
・慶応元年(1865年)
3月 - グラバー商会が手配した蒸気船(オースタライエン号, The Australian)にて、薩摩の羽島沖から欧州に向けて旅立つ[2][5]。
5月 - イギリスのサウサンプトン港に到着。即日、ロンドンに向かう。
7月 - ベルギーに行く。
9月 - プロシアから、オランダを経由して、フランスへ行く。
・慶応2年(1866年)2月 - 薩摩の山川港に帰着。直ちに、御納戸奉行にて勝手方御用席外国掛に任ぜられる。
・慶応3年(1867年)
1月 - 小松清廉、トーマス・ブレーク・グラバーらとともに、長崎の小菅において、小菅修船場の建設に着手する[6]。
5月 - いろは丸沈没事故をめぐる土佐藩と紀州藩の交渉を仲介する。
幕府が崩壊する。御納戸奉公格という商事面を担う。
・明治元年(1868年)
明治新政府の発足に伴い、参与職外国事務掛に任じられる。
2月 - 外国事務局判事に任じられ、初めて大阪に来る。同月、堺事件(フランス海軍襲撃と堺守備隊の狙撃)の調停にあたる[7]。
5月 - 外国権判事、大阪府権判事に任命される。初代大阪税関長に就任。
9月 - 大阪府判事に任ぜられ、大阪府政を担当する。
政府に大阪造幣局の設置を進言する。グラバーを通じて、香港造幣局の機械一式を六万両で購入する契約を結ぶ。
・明治2年(1869年)
5月 - 会計官権判事として横浜に転勤を命じられるが、2か月で退官し下野する。
8月 - 大阪の両替商・久里正三郎の別邸に金銀分析所を設立する。
大阪通商会社、為替会社の設立に尽力する。
・明治3年(1870年)3月 - 五代の要請で本木昌造が大阪活版所を創立する。日本で初めて英和辞書を印刷する。
明治4年(1871年)4月 - 造幣寮(現・大阪造幣局)、竣工。
明治6年(1873年)1月 - 弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立する。
明治7年(1874年)7月 - 半田銀山(福島県)の経営を開始する。
明治8年(1875年)1月 - 2月 - 五代の斡旋により、大久保利通・木戸孝允らによる大阪会議開催。
・明治9年(1876年)
9月 - 朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立する。
11月 - 堂島米商会所を設立する。
・明治11年(1878年)
8月 - 大阪株式取引所(現・大阪取引所)を設立する。
9月 - 大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、初代会頭に就任する。
・明治12年(1879年)11月 - 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設する。
明治14年(1881年)
3月 - 大阪青銅会社(住友金属工業)を設立する。
6月 - 関西貿易社を設立する。
開拓使官有物払い下げ事件に関わり、批判を浴びる。
・明治15年(1882年)
7月 - 共同運輸会社を設立。
12月 - 神戸桟橋会社の設立許可を得る(1884年11月開業)。
明治17年(1884年)
5月 - 五代らの努力により大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)が開業。
・明治18年(1885年)
1月 - 大阪北中之島1丁目26番地に居を定める(現・日本銀行大阪支店)。
9月 - 鹿児島より籍を大阪に移す。東京において日本郵船会社を斡旋する。勲四等に叙せられ旭日小綬章を賜う。
9月26日 - 糖尿病により、東京の自邸で没する。享年49歳。大阪で葬儀[8]。
大正3年(1914年) - 大正天皇が演習のため大阪行幸の際、特旨を以て正五位を追贈される。
7月 - 五代友厚秘史が発刊される。