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龍の声

龍の声は、天の声

「玄米乳酸菌の作り方」

2016-01-30 10:08:24 | 日本

「玄米乳酸菌」、要するに酵素体の菌で、これを飲むことで自然に体内のSTAP細胞を活性化し若がえり、細胞の再生化が活発になる。(提供 高藤さん)


◎玄米乳酸菌のレシピ

材料…無農薬玄米 1合
天然水 1.5 L.
天然粗塩 15 g
黒砂糖 45 g


◎作り方

1.水 0.5 L に玄米 1合を入れ、1日ひなたに置く。
2. 1.に塩 15 gと残りの水 1 Lを入れ、1日ひなた
に置く。
3. 2.に黒糖45 gを入れ、3~5日間ひなたに置く。さあ~これだけで、不老長寿ドリンクの出来上がり。


◎この乳酸菌、50ccと豆乳200ccを合わせて、1~2日常温で置くと、STAP豆乳ヨーグルトの出来上がる。










「言霊の華」

2016-01-30 09:59:42 | 日本

菅家一比古さんから「言霊の華」第三六二号が届いた。
以下、要約し記す。



西欧世界を作り上げているのは根底にあるユダヤ・キリスト教である。イスラム世界も勿論イスラム教である。

その宗教は全て砂漠とステップから誕生した。そこには厳しい自然との対決がある。日本人は自然を限りなく優しいものと捉えてきた。

自然に包まれる、抱かれる、育まれる、養われる。まるで母の愛かのように。お陰で分かち合うことが普通にできる体質が、自然に身に着いた。それは阪神淡路大震災、東日本大震災の時も証明されている。

分かち合う精神は西欧のボランティアとは違う。勝者が敗者の為にする「それ」ではない。お裾分、形見分、痛み分等の言葉にあるように、それを分けることにより、一体感、共有意識、共存、共生意識を図ろうと言うものである。

山分(やまわけ)するという語彙の面白さは一人占めの反対で、皆で均等に分配しようという意味があるからである。

海外ではそうは行かない。
特定の人々が富の集中を謀ろうとする。牧畜社会の持っている収奪性は生易しくはない。

現在(いま)でも、無断で他人が自分の井戸やオアシスの水を汲んだら殺してもいいと言われているほどである。

日本人の愛や親切、施しとは恵まれた自然環境の中から培われてきたもので、従って愛も親切も情緒的に働く。

しかし欧米や中東、インドも中国大陸も愛は情緒ではなく、義務として、戒律的、法的、倫理的に捉えられ、覚悟と誓約が伴う。愛とは厳しいものなのである。

日本以外の国々では、歴史とは戦争の連続だった。「生き残る」ための戦略性は日本の想像を絶するものがある。日本の気配り外交等は全く通用しない。「生き馬の眼を抜く」悪の論理が動かしている世界なのである。

日本人の一国平和主義にあるもの、それは「自分さえ良ければいい」「いまさえ良ければいい」。生き残るための戦略性、責任、覚悟がない。

日本人として生まれてきたことへの感謝があれば、この日本を次世代に繋いでいく覚悟と責任が問われるのは当然である。甘ったれたことはもう許されない。











「人の原点

2016-01-30 09:58:45 | 日本

松本守正さんのブログ「人の原点」について記す。


人の原点は…
「人間は2本足で立っている。後ろに歩くことはできない。どんな人間も前に向かってできている。これが私達の生きる道ではないか」

・手は、背中がかゆくても届かない。 → 人の為に使う。
・目は、自分の顔は見えない。 → 相手の顔を見る為にある。
・足は、前向き。
・人の生きる道は、手・目・足

人の為にやった方が気持ちがすがすがしい。
ありがとうって人から言われる方がいい。










「ほこれる人」

2016-01-30 09:57:05 | 日本

松本守正さんのブログ「ほこれる人」について記す。
心にしみる作文である。[東京都品川区の大学生の作文]



10年後、こんな私に出会いたい
自分らしく若々しく美しく

私は10年前 10歳だった。
母はその時 30歳。
私は10年後にあの時の母と同じ年になる。
私に物心がついた時 我が家にはすでに父親がいなかった。
だからといって お涙ちょうだいの話ではない。
母 弟 そして私 幸せな3人家族だ。

貧乏はそれなりに楽しい。
でも母はいつも働いていた。
貧乏という言葉を遠ざけるように。
昼は会社員として 夜はホステスとして。
私は母がまだ20歳の時の子供だ。
だからまわりの同級生のお母さんよりずっと母は若い。

授業参観日は 自慢のお母さんとして みんなに紹介しようと思っていた。
だけど世の中というのはうまくいかないのが常で 仕事で忙しい母の代わりに いつも祖母が教室の後ろにたっていた。

前の日からドキドキしていた遠足。
お弁当は卵焼きと大好きな唐揚げ…そう決めていた。
だけど世の中というのはうまくいかないのが常で 仕事でヘトヘトの母は お弁当など作れるはずもなく 私はコンビニの弁当を自分の弁当につめかえていた。

母親らしいことなんて何一つしてもらっていない、
だけど 私は母が大好きだ。

10年前も20年前も何十年先も 私は弟と共に愛されていた。
私は10年後 あの時の母のようになりたい。
誰よりも強くて 誰よりもきれいでそして 誰よりも子供を愛することが出来る女性。

ひどい母親のレッテルをプラスに変えた母親を 私は誇りに思う。
10年後 子供の頃の参観日や遠足の話を母にしてみよう。
孫を抱いた母はきっと涙することなく豪快に笑うだろう。

そんな母を私は心から尊敬している。
子供の前で決して涙をみせない
そんな強い母に私もなりたい。








「日本が核爆弾を持つのに、どれだけの時間が必要か」

2016-01-30 09:56:14 | 日本

2016年1月20日中国メディア・鳳凰網は18日、「日本が核爆弾を保有するのにどれほどの時間が必要か」と題した解説記事を掲載した。
以下、概要を記す。



記事はまず、原子の連鎖的な核分裂を利用する原子爆弾を代表する2つの方式を紹介した。広島に投下された原爆の方式であるガンバレル型はウラン235を用いること、技術的には簡単だが核原料の利用効率が悪いうえ汚染の心配があることを説明。一方、長崎に用いられたタイプのインプロージョン方式は、プルトニウム239もしくはウラン235が使える一方で爆発を引き起こすには高い技術が必要であるとした。

そのうえで、ウラン235の生産には大規模な工場建設を必要とするのに対し、プルトニウム239は生産が難しいものの、日本の原子力発電において「こっそりと製造」することができると解説。日本の爆薬工業技術を加味したうえで「短ければ数カ月で核実験にこぎつけることが可能」と論じた。

一方で、日本の核爆弾製造における最大の問題点は製造技術ではなく、爆弾の大きさにあると説明。「航空能力が弱い日本にとって(核爆弾の小型化は必須でありその開発は)年単位で勘定しなければならない難題」とした。そして、「短期間に核兵器を持つことは可能だが、正式な核実験を何回か経なければ、実戦能力を有することはできない」と解説した。

プルトニウムには複数の同位体が存在し、核爆弾を作るためにはプルトニウム239の割合が93%以上である「兵器級プルトニウム」を用いる必要があるとされる。軽水炉で発生するプルトニウムには兵器利用に向かないプルトニウム240が多く含まれており「原子炉級プルトニウム」と称される。兵器級プルトニウムの製造には黒鉛炉や高速増殖炉が必要で、日本の高速増殖炉である常陽・もんじゅでも製造が可能との指摘もあるが、いずれも運転を停止している。











「『世に棲む日日』と吉田松蔭の論評」

2016-01-29 09:49:01 | 日本

吉田松陰、江戸より帰郷、脱藩の罰を受けるも、藩の温情でさらなる修学の旅に出る。
その頃の友人に贈った詩。

『人生ノ得喪、一毛軽シ』
『英雄ハツネニ身後ニ名アルヲ要ス』

英雄は死後に名を残す。例えそのときに評価されなくとも、将来を大きく動かす大事業をなす。目前の小事に左右される必要はない。男にとって文明史に名を残すことこそが本望である。
また松陰は「大器晩成」という言葉を愛した。
そして、「大事には大人物を用いよ。小事には小人物をあてよ。それが適材適所というものである。」と。
大事を為すには己の小事を犠牲にしなければならないときがある。


さて、ネットに「『世に棲む日日』と吉田松蔭の論評」が掲載されていた。
以下、要約し記す。



『世に棲む日日』を読んだのは、今からもう十年以上前になるが、今でも感動が尾を引いている。 特に心に残っているのは吉田松陰の愛すべき純粋無垢な青年像で、この小説によって吉田松蔭の人生と思想がよく理解できたように感じている。小説の構成は二部に分かれ、前半の主人公は吉田松陰で後半が高杉晋作なのだが、印象として吉田松蔭の輪郭の方が鮮明で、高杉晋作の方は少し薄惚けた感じがする。それと二人の交錯部分の残像が弱い。吉田松陰が死んだ後に高杉晋作が舞台に登場する印象があって、同じ舞台の上で二人が台詞し合っている場面の記憶が薄い。小説の読後感想 として、高杉晋作より吉田松陰の方が存在感の強い影を残しているのは、読者の感性にもよるだろうが、どうも司馬遼太郎が高杉晋作よりも吉田松陰の方に強く思い入れがあり、松蔭への感情移入 が強かったからではないかと勝手に想像している。

私の場合、吉田松陰というのは小説を読む前は不可解な思想的存在だった。不可解と言うよりも、どう言うべきか、幕末尊王攘夷思想の巨魁の表象があり、日本思想史上の正体不明の難解な巨人の印象が強かった。丸山真男の『日本政治思想史研究』の中に収められた『国民主義の前期的形成』の論文の中で、初めて吉田松陰に触れたのだが、攘夷を倒幕へ転徹させる松蔭の思想的旋回を追跡する丸山真男の分析は、これは勝手な偏見だが、何か神聖不可侵な観念的対象に恐る恐る触れて、その対象に大胆に思想史学のメスを入れるのを躊躇しているようにも感じられた。すなわち松陰の 評価の問題、松蔭の思想的意味を腑分けする上での困難があったのではないか。結論的には前期的 国民主義。積極的な評価と消極的な評価が両方被さる。前期的はマイナスだが国民主義はプラス。 距離を取りながら松蔭の思想的魅力を告げる視角のように見える。

『世に棲む日日』はそうした松蔭像を根本から覆して、軽信で活発な思想青年の姿をそこに対置した。完成された思想家としての松蔭ではなく、模索と蹉跌を重ね、打開を求めて行動し、焦心の中で問答する若者の松蔭。詩人の激情を抑え切れぬまま、精神の純白を最後まで貫徹して、時代の前で自ら死を引き受けた若い青年。松蔭の思想というものは、その死を離れて語ることはできないし、松蔭の尊皇攘夷論なるものを文脈として遺稿から切り出してもあまり意味は無いし、それは松下村 塾の教育論などという問題認識もまさに同様であると思われる。松蔭において注目すべきは、まさに死生観であり、政治する者が死と向き合う態度そのものなのだ。時代と対決して生を剥奪される 不条理との対峙であり、死との引き換えに思想の生を得るあり方なのだ。人を落涙させ、感動させ、人の心に残り、人を動かすとはどういうことかということなのだ。松蔭の思想とはそういう問題だ。

吉田松陰がいなければ、明治維新は無かっただろう。革命党派である松下村塾党の結束はなく、同志の屍を踏み越えて、踏み越えて、革命の劫火の中に一身を突撃させる長州の怒涛のエネルギーは無かっただろう。確かに長州藩閥が、それをシンボルとして神聖化して、やや誇張して政治利用している部分はある。だが、魂を留めて死んだ松蔭の事実は、自分の魂も同じように同志の心に留ま ることを若い長州志士たちに確信させただろう。決死の覚悟が無ければ革命はできない。司馬遼太郎は革命の第一世代という表現で松蔭を評している。詩人である予言者が第一世代として出現し、体制に自己の肉体を激突させて非業に死ぬ。その志を継いだ第二世代が革命を成し遂げるが、その 殆んどは生き残らない。そして第三世代が、革命の果実を独占して貪り食う。詩人であり預 言者である松蔭。その表現で正解だろう。司馬遼太郎の松陰への熱い感情移入が窺われる。

革命長州の過激主義やテロリズムについては、他のところでは眉を顰め消極的な視線を向けることの多い司馬遼太郎だが、『世に棲む日日』の吉田松陰については、不純を拒絶する潔癖主義な純情青年が、陽明学の理論と実践の統一に身を染めて、回天の激情を噴出させ国事に狂奔する姿を肯 定的に描述している。革命的ロマンティシズムの世界。『留魂録』の言葉を引き、早世した松蔭の魂を悼み慰めている。その言葉は、そのまま夭逝した正岡子規に対して司馬遼太郎が暖かく贈る言葉ともなっている。すなわち、どんなに短い人生であっても、人の一生には必ず春夏秋冬の四季があり、人生は起承転結を持った一編の詩として完結しているのだという諦観である。それは逆に、主張として受け止めれば、男子の生は、起承転結の四句で表現された詩であらねばならず、生で詩 を織る美学を持たぬ男の人生は、失格であり失敗であるという緊張感として伝わってくる。




「魏源とは、」


魏 源(ぎ げん)1794年~1856年)遠達、字は黙深・墨生・漢士など、号は良図。清の思想家。

湖南省邵陽県金潭(現在の邵陽市隆回県金潭)の人。1831年より揚州に居住した。林則徐と親しく、新思想の提唱者として中国を「世界に目を開かせる」役割を担った知識人の代表である。官職は高郵の知州に至った。晩年は杭州に隠棲して仏教研究に打ち込み、法名を承貫といった。杭州で死去。

著書には『海国図志』50巻、『聖武記』、『道光洋艘征撫記』、『元史新編』などがあり、賀長齢とともに『皇朝経世文編』120巻を編纂している。林則徐は欽差大臣の時にイギリス人マレーの『世界地理大全』を『四洲志』として編訳させた。阿片戦争後、林則徐はイリに左遷されたが、その際『四洲志』を魏源に与えた。魏源は『四洲志』を基にさらに多くの世界地理の資料を集め、一年後に『海国図志』が完成した。初版は1843年に揚州で出版された。1847年から1848年にかけて増補され60巻本となり、最終的に1852年に100巻本となった。『海国図志』の中で魏源は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べて、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしている。


◎日本での『海国図志』

典礼問題や阿片戦争で揺れる清よりも、むしろ魏源が伝えようとした西力東漸の危機感を真剣に受け止めたのは日本であった。清朝のアヘン戦争の敗戦に危機感を募らせた当時の日本では『海国図志』は吉田松陰や佐久間象山らによって読まれ、速やかな体制転換の必要性が日本国内広まっていくことになる。一方、清朝国内では「香港島を与えておけば英夷も満足するであろう」との慢心が根強く、魏源が訴えた改革の必要性が国内に強く認識されることはついになかった。











「吉田松陰・将及私言」

2016-01-28 09:40:00 | 日本

吉田松陰は、将及私言(しょうきゅうしげん)を、ぺりー来航時の嘉永六年六月~八月 二十四歳の時に書いている。


『謹んで案ずるに、外夷の患由来する所久し、固より今日に始まるに非ざるなり。然れども今般亜美理駕夷の事、実に目前の急、乃ち万世の患なり、六月三日、夷舶浦賀港に来りしより、日夜疾走し、彼の地に至り其の状態を察す 軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり。

然るに戦争に及ばざるは、幕府の令、夷の軽蔑侮慢を甘んじ、専ら事穏便を主とせられし故なり。然らずんば今已に戦争に及ぶこと久しからん。然れども往時は姑く置く。夷人幕府に上る書を観るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一港を請ふの事件。一として許允せらるべきものなし。

夷等来春には答書を取りに来らんに。願ふ所一も許允なき時は、彼れ豈に徒然として歸らんや。然れば来春には必定一戦に及ぶべし。然るに太平の氣習として、戦は万代の後迄もなきことの様に思ふもの多し、豈に嘆ずべきもの甚だしきに非ずや。

今謹んで案ずるに、来春迄僅かに五六月の間なれば、此の際に乗じ嘗胆坐薪の思ひをなし、君臣上下一体と成りて備へをなすに非ずんば、我が太平連綿の余を以て彼の百戦錬磨の夷と戦ふこと難かるべし。
若し然らずして安然日を渉る時は、追ふべからざるの悔いに及ぶべくと、窃かに國家の為痛心し奉るなり。故に忌諱を憚らず、妄言の罪を避けず、当今の急務条を論列するなり。』

後半部分で、次のような文言が見える。
『私儀先般御咎めの趣之れあり、御家人召放たれ杉百合之助育に成り居り候処・・・・・・素より罪と知りながら差出し候事故、鄙中さへ上達致し候へば、其の余何程の御厳罰仰せ付けられ候とも決して畏避仕り候事に御座なく候・・・・・・』
と、命がけの思いで上書したのである。


『解説』

この『将及私言』は、松陰が「過所手形」の発行を待たずに、江戸藩邸を出奔(脱藩)して藩から罰則を受けたが、藩主の粋な計らいで「向十年諸国遊行」が許されて、凡そ半年をかけて江戸に着いた直後に、ぺりーの開国を迫る来航に出逢って、藩主に上書したものの序論に当たる。かなりの長文の意見書なので、何度かに分けて書く。

実は、松陰は此の時「藩士」の身分を剥奪された「浪人」の身であるから、「上書」の資格がなかったので、江戸藩邸の役人たちから相当の非難を受けたが、それは松陰も承知の上での行為だった。

「夷人幕府に上る書を観るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一港を請ふ等、一として許允せらるべきものなし」が、彼の主張だが、「軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり」が前提になっている。「砲艦外交」や「対等な國家との通商要求」でない態度に、激しく怒っている。

上記の「国家」は、通常、江戸期は「藩」であるが、ここでは「日本国」、または「大和魂の民族」の意味も込められていると考えてもよい。「外夷の患」は、前年、東北の沿岸防備視察をした松陰であるから、長年にわたる「夷船」の近海出没が脳裏にあったはずである。軽蔑侮慢な態度から、藩主に対応策を誤らないよう「心痛」のあまり、越権行為を承知での上書となった。

将及私言の内容は、広く四方の事物を見聞し、広く四方の万民の意見を聞いて、君主の耳に意見が入るのをさまたげることのないようにせよ、とは昔の聖人の立派な教えである。そして、そこに至る方法は二つある。広く賢者と交際すること、そして、広く読書をすることである。志のある君主たるの道、それはいつの世にも一つであり、不変である。要点は見聞を広め、人々の意見を聞くことであるというものだった。

松陰の攘夷は、柔軟性にとんだもので、進んだ文明を取り入れながらであった。兵器・兵学は西洋に学びと言っているように、松陰の夢は海外渡航に向かっていた。















「吉田松陰・留魂録解説」

2016-01-27 09:24:44 | 日本

古川薫さんが「吉田松陰・留魂録解説」を紹介している。
以下、要約し記す。



「留魂録」は吉田松陰が松下村塾の門下生にあてて記した遺書である。両親をはじめ身内への個人的な遺書である「永訣書」とは別に、処刑直前に江戸の獄中で書かれた。書き終えたのは処刑前日の黄昏どき。このとき松陰は三十歳である。

留魂録は、吉田松陰の史伝からなる。留魂録に託された松陰の熱い想いに史伝にまとめられた松陰の波瀾万丈の生涯に大いに心を打たれる。江戸末期から明治へと激動する日本の歴史に名を残した多くの志士を育てた吉田松陰。その思想家として教育者としての態度を我々は知っておくべきだろう。

『身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂』十月念五日 二十一回猛士

留魂録はこの和歌一首、吉田松陰の辞世の歌で始まる。二十一回猛士とは,松陰が好んで用いた号である。

1830年(文政13年)萩藩士杉百合之助の次男として吉田松陰は生まれた。財政難にあえぐ長州藩の貧困にあえぐ下級武士の子である。叔父にあたる養父吉田大助が若くして病死したため大次郎は六歳で吉田家の八代当主となった。吉田松陰の初名は虎之助、吉田家を継いでから大次郎、その後寅次郎を名乗り、義卿、松陰、二十一回猛士を号した。

藩主毛利慶親のもと江戸遊学の機会を与えられた大次郎は、江戸にて様々な人物と交友する。しばらくして大次郎は東北旅行を決意するが、このとき同行する友人との約束を守るため過所手形の交付を待たずに藩邸をでて旅路につく。江戸に戻った後、この重罪によって大次郎は士籍剥奪を言い渡され長州浪人となる。

1853年(嘉永6年)松陰二十四歳のとき、長州浪人として江戸に向かう。そのおよそ五ヶ月後、ペリーの艦隊が相模湾に姿を現す。黒船来航の報に接した松陰は、すぐさま浦賀に駆けつける。この事態に松陰は「将及私言」と題する上書を作成し、藩に提出した。上書は藩士にのみ許されていたため、松陰は「将及私言」を匿名で提出したのだが、松陰の手によるものであることが知れ、藩邸への出入りを禁止されてしまう。ちなみに無許可での上書は当時死罪にも値するとされており、無論、松陰はそのことを承知していた。「将及私言」において松陰は、開港を迫るペリーが翌年再来する際に開港をよしとしない幕府とペリー艦隊との間で戦になると予見し、その事態に備えるべきとしている。

しかし結局、幕府はペリーとは戦わず、1854年(嘉永7年)3月に和親条約を締結調印する。幕府が勅許を得ずに和親条約を結んだことで、国内の反幕・攘夷論は一気に高まった。一方、松陰は金子重之助とともに下田沖に停泊する米艦にて密出国を企てるが、失敗し囚われの身となる。下田踏海事件である。

江戸小伝馬上町の獄から萩へ護送された松陰は、1854年(安政元年)10月に野山獄に収監される。獄中生活は一年以上続いたが、そこで松陰は囚人達を相手に外交、国防、民政などの対話を進め、「孟子」の講義も行った。この獄中生活のときから松陰は二十一回猛士の号を愛用するようになる。この号は獄中にて夢で神人から告げられたと松陰は書き残している。

野山獄に収監されてから松陰は読書と著述にも多くの時間を割いた。野山獄読書記によると、下獄した10月24日から年末までに106冊、さらに翌年12月15日に出獄するまでに総数554冊を読破している。出獄後も凄まじい読書を続け、安政3年に505冊、安政4年に385冊を読み、さらにこの三年間だけで45篇もの著述を完成させている。

1855年(安政2年)12月15日、松陰は野山獄からの仮出獄を許される。しかし外出禁止、家族以外との面会禁止という幽囚の身であった。そんな松陰を慰めようと、家族は松陰に孟子の講義をするよう促す。その後半年間で孟子全篇を講じ終えた。1856年(安政3年)松陰は孟子に続き、武教小学を講じ始め、その後、日本外史、春秋左氏伝、資治通鑑など日本や古代中国の史書を講じている。この年、倒幕論を唱える僧の黙霖との論争を経て松陰は諫幕論から倒幕論へと大きく傾くことになる。

松下村塾を開いたのは玉木文之進で、松陰も幼年時代にそこで学んでいる。玉木文之進の後、久保五郎左衛門が引き継いだが、当時の塾は寺子屋程度の内容であった。それと平行して松陰の講義は行われていたが、やがて合併し志士を育てる松下村塾が誕生する。

松下村塾の教育は、単に漢籍などを講読するいわゆる訓詁の学風を意識的に避けた。むしろ師弟のあいだでの時局をめぐる熱を帯びた討論が繰り返されたという。松陰はこのようにも言った、「学とは,書を読み古を稽ふるの力に非ざるなり。天下の事体に達し、四海の形勢を審らかにする。是れのみ」

1858年(安政5年)大老となった井伊直弼は、日米修好通商条約に調印し将軍継嗣問題に強引に決着をつけた。反対派の粛清が始まり多くの人士が収監された。この年の11月、吉田松陰は、井伊直弼の指示により朝廷内の反幕勢力を粛正しようとする老中の間部詮勝を暗殺するために藩政府に対して、武器調達を依頼する願書を提出した。しかし、そのような願いを藩が叶えるはずもなく藩は吉田松陰を捕らえ、野山獄に収監するとともに松下村塾の閉鎖を宣告した。

松陰は、間部要撃策を松下村塾に残っていた門下生と江戸遊学に送り出した門下生とに託した。しかし江戸の門下生から松陰に届いた手紙には長州藩そのものを危機に追い込むことになるので自重すべきと書かれていた。松陰の過激さを増す言動に門下生は次第に松陰と距離を置くようになる。孤立し孤独感に苛まれる松陰は、「吾が輩、皆に先駆けて死んで見せたら観感して起るものもあらん」と悲痛な決意をする。

1859年(安政6年)4月、幕府が松陰の江戸召還を長州藩邸に通達した。7月、江戸藩邸に到着した松陰に評定所から呼び出しがかかる。このときの取り調べは、梅田雲浜との関係および京都御所内の落文の件であり、松陰に対する嫌疑は簡単に晴れた。ところが松陰は自ら、間部要撃策と伏見要駕策について話してしまう。幕府側はこれらの未遂事件を把握していなかったのにだ。

1859年(安政6年)10月25日、獄中の吉田松陰は留魂録の執筆に取り掛かり、翌日の夕方に書き終わった。そして10月27日、小伝馬上町牢の刑場で処刑される。留魂録を書き上げた翌日、三十歳であった。










「アップワージーとは、」

2016-01-26 09:09:16 | 日本

見出しには、「正確」「簡潔」「必要十分な情報」「目を引く」など伝統芸のようなルールがある。同じポインター研究所のブログに、そんな基本についてのコンパクトなまとめがあった。


◎見出しの基本形

「よりよい見出しづくりに役立つ10の質問」

1:その見出しは正確か?
2:背景知識がなくても理解できるか?
3:見出しが示す内容はどれだけ読者を引きつけるか?
4:文法的に理解しやすいか?
5:数字をうまく利用できているか?
6:余計な言葉はないか?
7:著名人なら固有名詞、そうでなければ肩書。その使い分けができているか?
8:説明的な見出しの方がうまくいくケースではないか?
9:出来事に焦点を当てるか、その影響に焦点を当てるか?
10:この10の言葉の一つをうまく使えるか?


◎8つの秘密

ソーシャルの拡散で政治を変え、ビジネスを成功させる。これがアップワージーのスタンスである。ではその急成長するアップワージーの、競争力の源泉である見出しの秘密とは。

1:不正に怒る
これは既存メディアでもみられるオーソドックスなスタイルだ。ただ、特にここで取り上げられているアップワージーは、その傾向が強いだろう。
すでに紹介したように、アップワージーには、バイラルで政治を変えていこう、という明確なコンセプトがある。

2:驚く、刺激を受ける
アップワージーのソーシャル戦略は、フェイスブックでの拡散に最も重きをおいている。フェイスブックでいかにクリックされ、共有されるか。
そのため、見出しに「何っ!」「必見」など〝驚かされた〟〝刺激を受けた〟という要素を取り入れている。

3:〝エンジン〟を組み込む
ライターのトム・フレンチさんという人が、〝エンジン〟という表現を使っているという。
読者がその答えを知りたくなるような疑問をストーリーに埋め込み、引き込んでいく――それが〝エンジン〟だと。
この〝エンジン〟、つまり「あなたが必ず感動する、そのワケとは」といった疑問を、見出しに組み込んでいる。

4:数字を使い、読者が短時間で多くのことを知ることができるとアピールする
数字の活用は、上述のマット・トンプソンさんも取り上げていた。「6つの疑問」「8つの秘密」「20の理由」。「リスティクル」(リストと記事[アーティクル]の造語)と呼ばれる箇条書き型の記事の見出しがこの典型だ。

5:古典的煽り要素を躊躇せず活用:セックス、セレブリティー、〝驚きの効果〟
これは、読んで字のごとく。

6:言葉で遊び、古典的な見出しの禁じ手に縛られない
3行にわたるような長い見出し、疑問形の見出し、同じことばの反復など、タブロイド紙よりもさらに自由な見出し表現をする。

7:奇妙で興味をそそる言葉を組み合わせる
「アマゾン」と「アラスカ」、「ドーナッツ」と「ホームレス」など、その奇妙な組み合わせが変な起爆力をもつ言葉同士を見出しに盛り込む。

8:見出しでストーリーを語る
これは意外と古典的な見出しのルールだ。見出しを読み場、記事のストーリーそのものがわかるように書き込んでいく。


◎9番目の秘密

アップワージーの見出しには、ロイ・ピーター・クラークさんが触れていない〝秘密〟がもう一つある。
2013年のIT系イベント「サウス・バイ・サウス・ウェスト(SXSW)」で披露された、アップワージーの編集局長、サラ・クリッチフィールドさんと、バイラルキュレーターのアダム・モーディカイさんのスライドがその〝秘密〟をたっぷり紹介している。
「バイラリティー(口コミのしやすさ)に関する甘美のサイエンス」というプレゼンだ。
ここで繰り返し強調される9番目の〝秘密〟は、1本の記事につき、毎回25本の見出し案を書き出す、というアップワージーの〝鉄の掟〟だ。

24本とかではダメで必ず25本。「アップワージーの編集プロセス」にはこうある。

1:各コンテンツについて25本の見出しを叩き出さなければならない
2:とんでもなくひどい見出しも書くだろう
3:やぶれかぶれになってきて、ようやく独創的なアイディアが生まれ始める
4:だから25本の見出しを書かねばならない
5:24番目はクソだろう。だが25番目は見出しの神様からの贈り物で、それによってあなたはレジェンド(伝説)になるだろう
6:すべての見出しが完璧になるわけではない、ということは受け入れよ
7:そして25本の見出しを書け
8:訓練次第で25本を15分で書けるようになる。その時には25本縛りを緩めよう













「心温まる話”専門サイトが爆発的に成長した理由」

2016-01-26 09:08:11 | 日本

老田章彦 さんが「心温まる話”専門サイトが爆発的に成長した理由」について掲載している。
以下、要約し記す。



テキサス州ダラスに住むメリッサ・ヤシーニさんはイスラム教徒だ。
フランスでの同時多発テロをうけてアメリカにも動揺が広がっていた去年(2015年)12月初め、仕事から帰宅したメリッサに飛びついてきたのは、恐怖に顔を引きつらせた8歳の娘ソフィアだった。

「ママ、私たちここから追い出されちゃうの?」
 ソフィアは、大統領選に名乗りを上げたドナルド・トランプ候補の「イスラム教徒締め出し論」をテレビで見て、自分たちがアメリカから追い出されるものと思ってしまったのだ。


◎「あなたは私が守ってあげる」

トランプ氏の主張は、イスラム教徒の入国禁止と、すでに難民として米国に入国しているイスラム教徒の本国への送還であり、米国市民であるメリッサ母子は対象外のはずだ。だが、幼いソフィアには区別がつかない。8歳の心に植えつけられた恐怖は大きく、涙が止まらなかった。

そんな娘に明け方まで声をかけ続け、疲れはてたメリッサは、苦しい思いをフェイスブックに綴った。

「娘は、軍隊がやってきて強制退去になったときに備えて、大切な身の回り品をカバンに詰めはじめ、玄関の錠を何度も確かめに行きました。子供がこんな思いをすることがあっていいのでしょうか」

メリッサの嘆きに応えたのは、コロラド州に住む退役軍人ケリー・ピークだった。ケリーは軍服姿の自分の写真をフェイスブックに載せ「ソフィアにこれを見せてあげてね。そして私が1人のママとして、兵隊さんとして、悪い奴から守ってあげると伝えてちょうだい」というメッセージを送った。

ヒスパニック(中南米系アメリカ人)として差別的な扱いをされた経験があり、メリッサ母子の嘆きに強く心を痛めたケリーは、ネット上で退役軍人仲間にソフィアちゃんへの「支援」を呼びかけた。すると フェイスブックのほか「#IWillProtectYou」(あなたは私が守る)というハッシュタグと共に、多くの人が軍服姿の写真を添えてメッセージを寄せてきた。
「僕はイスラム教徒じゃないけど、もしも僕らの軍隊がこの国からイスラム教徒を追い出すというのなら、僕はそれに立ち向かい、一緒に追放される覚悟だよ」(デビッド・ブルース、退役軍人)

「あたしはイスラム教徒で、家族には兵隊さんがいるわ。あなたを必ず守ってあげる」(アニーサ・ヒダール)

「怖がらなくていいのよソフィア、私が守ってあげる。私は入隊したとき、この素晴らしい国のすべての家族を守ると誓ったし、あなたもその1人よ」(クリスティーナ・トレケイト、ペンシルバニア州兵・野戦砲部隊将校)

 さまざまな職業・人種・宗教の人たちからのメッセージはおよそ500通にのぼった。その一つひとつを毎日母親から読み聞かされたソフィアちゃんは、ある日「ママ、あたしもう平気よ」と言い、無邪気な8歳の顔にもどっていったという。


◎急成長した「心あたたまる話」専門サイト

アメリカ市民がアメリカ市民を守ることを改めて宣言せねばならない昨今の情勢は異常だ。だがそれだからこそメリッサ母子のエピソードは人々の心の琴線にふれたのだろう。この話題は数千万人のネットユーザーの間にたちまち拡散した。

 拡散の発信源となったのは、こうした「心温まる話」を掲載するサイト「Upworthy」(アップワージー)だった。

アップワージーとは、ネット上にアップする価値のあるものを指す。全米に散らばったライターが毎日ネット上を周回し、面白いと感じた話題・映像・写真などを記事に仕立てて紹介している。

アップワージーは、その爆発的な成長で注目を集めた。2012年の開設以来、急速にアクセス数を増やし、わずか1年半で5000万人の読者を獲得。タイムマガジンやフォックステレビニュースといった大手メディアのサイトに並んだ。その後アップワージーは、月間アクセス数が最高で1億2000万回にのぼるサイトに成長した。


◎無人の会議室で演説するな

このような爆発的な成長の背景には、周到な戦略があった。その1つは、記事につけるタイトルだ。

アップワージーでは、記事が完成してもすぐには公開しない。彼らはまず数種類のタイトルを考案し、その一覧をモニター読者にオンラインで見せ、興味をそそられたタイトルをクリックしてもらう。最も人気の高かったタイトルが採用される仕組みだ。

例えばメリッサ母子の記事は「トランプ発言におびえたムスリム少女に退役軍人たちが送った完璧なお返事」と題された。温かい結末を予期させる爽快な表現だ。

そのほかにはこのようなタイトルが並ぶ。

「チップに700ドルですか? ピザ配達員がそれを受け取ったのは最もお金を必要としているときだった」

「カリフォルニアのママは、赤ちゃん連れのシリア難民の苦難を見て、ある行動に出た」

つたない翻訳では伝わり切っていないかもしれないが、いずれの英語タイトルも弾みのあるうまい言い回しでクリックを誘ってくる。

長いあいだ番組や記事のタイトルを考えてきた立場からいうと、アップワージーがこの作業に割く労力は並々ならぬものと思われる。タイトルというものはいくら考えても同じようなものしか浮かばないことが多く、記事を書くよりも難しく感じることすらある。どうにか満足できるものが1つできたところで「降参」してしまうこともある。

だがアップワージーの共同創立者イーライ・パリサー(33)は、この点について実に厳しい。

「無人の部屋で演説しても誰にも届きません。素晴らしい記事を書いても、人々の注意を引くための努力を惜しんでいてはまったく無意味になってしまいます」

 耳の痛い話だが、記事は「読んでもらってナンボ」であることに間違いはない。妥協のないタイトル作りがアップワージーの成功の一因だったと見て間違いないだろう。


◎明るい話題を共有したがる人間心理

だが、それだけでは数千万人の読者は獲得できないはずだ。彼らの大成功には別の大きな要因もあった。

テレビや新聞などマスメディアの一番の商品は、災害・事故・犯罪といった凶事だ。私たちが真っ先に凶事を知りたがるのは、太古の人類が危険に関する情報をいち早く入手して身を守ろうとした防衛本能のせいだという説もある。

いずれにせよ私たちがまず関心をもつのは暗いニュースであり、マスメディアはほぼ全力をそこに注入している。一方で明るいニュースは、暗いニュースをさんざん聞かされたあとの口直しのような扱いになることが多い。

だが、私たちにとって「最初に知りたいニュース」と「好きなニュース」は別だ。

私たちは、例えば新聞や雑誌などで連続殺人や幼い子供が火事で亡くなった事件について読んだとき、溜息をつきながらページを閉じるばかりで、その情報を誰かと共有したいと思うことは少ない。だが明るい話題、感動的なストーリーに出合ったときは、心のときめきを家族や友人に伝えたくなるものだ。

筆者が目にする範囲では、ツイッターやフェイスブックでシェアされる話題の多くは、そうした明るい話題だ。SNSには、明るい話題を拡散させるメディアとしての側面があるようだ。

ある研究で、被験者にさまざまなニュースを見せながら脳波を測定し、その後の電子メールやネットへの書き込みを追跡したところ、明るい話題は「暗いニュースよりも素早く、遠くまで伝わる」ことが分かったという。(ニューヨークタイムズ紙)


◎シェアによる爆発的な拡散

アップワージーの共同創立者ピーター・ケクリー(33)は、以前、大手の風刺メディア「The Onion」(オニオン)の編集長を務めた経験から、読者がSNSを通じて記事を拡散させるパワーを痛感しており、それを最大限に利用しようと考えた。

アップワージーのサイトには、ツイッターやフェイスブックでシェアしてもらうためのボタンがよく目立つように配置されている。記事の上下に大き目のボタンを置くだけのことだが、ついマウスを合わせたくなる存在感はある。また、ページに埋め込まれた映像を見終わるとボタンが飛び出してきて「ふぅ。いい話だったよね?」とシェアを誘ってくる。シェアされた記事は、またその先でシェアされ、幾何級数的に拡散する。

数あるネットメディアのうちでもアップワージーが急速に成長した要因は、「最初に知りたいニュース」と「好きなニュース」は違うという人間心理に着目し、共有されやすい明るい話題に特化したことだといっていいだろう。

ところでアップワージーがメリッサ母子のようなエピソードを掲載し拡散させるのは、私たちを感動させることだけが目的ではない。そこにはトランプ発言への批判といった明確な意図が込められている。

実はこのサイトは進歩的な社会改革を目的として設立され、その推進のための資金を革新的なアイデアによって調達しているのだ。年間売り上げが10億円規模にのぼるアップワージーの企業としての側面については、いずれ稿を改めて紹介したい。










「将来の起業家を育てるには?」

2016-01-25 08:50:07 | 日本

日本の教育はサラリーマンを量産するシステムである。「将来の起業家を育てるには?」
について、安田 修さんが話している。
以下、要約し記す。



どうして日本には起業家がこんなに少ないのだろうと考えたとき、いつも私はこの結論に至る。

学校教育が、すなわち社会そのものが、サラリーマンと官僚を大量生産するために作られているからである。


◎教育システムの全体像

日本の教育というのは、「我慢を強いるシステム」である。幼稚園から集団行動が始まり、協調性を叩き込まれ、成績で優劣をつけられ、受験による勝ち抜き戦が行われる。大学教育でも大差はない。

何をやっているかというと、サラリーマンとしてやっていけるかどうか、ふるいにかけている。

小学生の頃から勉強ができない子や、集団行動に馴染まない子ははじき出され、居場所は無くなり、家庭でも「ろくな大人になれない」なんて言われる。「ろくな大人」とは一生涯、サラリーマンとして耐え忍ぶことができる人のことである。今の教育システムにおいて、サラリーマン・官僚になれる人以外は負け組だ。

大学から就職活動まで途切れずに勝ち抜き戦は続き、恐ろしいことに入社後の教育・研修でも続く。「社会の歯車」なんて言うけれど、歯車として機能している人は、勝ち組である。

その競争の最終勝者が大企業の経営者になるのであって、このシステムでは経営者は職業というより、優勝者に与えられるトロフィーのような扱いになっている。


◎世の中は変わったが、教育は変わっていない

どうして日本の教育がこんな仕組みになっているかというと、戦後復興からの高度成長社会を前提にして組み立てられているからである。焼け野原となった日本を立て直し、先進国に追いつき追い越すためには、まずは優秀な労働力が必要だった。そうして作られた上記のような教育システムは、それなりにうまく機能してきた。

経済全体が成長しており、大量生産・大量消費で先進国の模倣をして規模だけを追究していれば良い時代には、それで良かった。

しかし今はもう、日本経済は十分に成熟して成長率は低下し、出産率の低下・高齢化で人口ピラミッドが崩れている。唯々諾々と指示に従う労働力はあっても、それを導くビジョンの不足が深刻化してきた。

大企業は衰退し、経済を活性化するためには革新的な企業が新しく生まれてこなくてはならないが、それを生み出すための起業家がいない。

起業家が足りないのは当たり前で、起業家になる素養を持った人たちは学校教育ではじき出され、また社会としても「出る杭」「負け組」として彼らを抑圧してきた。


◎起業家を育てることはできないのか。

教育の限界として、「天才は育てられない」という意見がある。私も、それはそうかもしれないなと思う。ただ、起業家は必ずしも天才ではない。 中には天才的な起業家もいるが、そうでない起業家の方が圧倒的に多いはずである。むしろ、起業は一握りの天才がするもの、凡人はサラリーマンになるしかないという思い込みこそが間口を狭めているのではないのか。

少なくとも、教育でチャレンジ精神や起業マインドは育てられる。今はそういう場が全くない。また、教える人間もいない。

ゆとり教育の失敗に象徴されるように、新しい教育手法を採用しようとしても、現場にそれを教えられる人がいなければ成立しない。逆に言えば場と人さえいれば、起業家は育てられると私は考えている。

そしてサラリーマン・官僚一辺倒の教育システムを変え、起業家や芸術家、その他さまざまな職業を目指す人を尊重し、多様な価値観を受け入れられる社会にすることが、日本がもう一度成長するための前提条件になる。

それを担うのはもしかしたら公教育ではないのかもしれない。起業家を育てられるのは、起業家だけなのかもしれない。


◎「サラリーマン不適合障害」の人が増えている。

私は、日本の社会はその過渡期にあると考えている。あふれる情報に対して個人としてアンテナを高く立て、意識は高くなる一方で、古い価値観に基づいた教育システムに押し込まれて抑圧されてきた人。制度疲労をしている大企業にエスカレーター式に組み込まれた人の中には、「サラリーマン不適合障害」とも言える症状が出ている人が多くいる。

サラリーマンとして一生を過ごすには、ある種の思考停止をする必要がある。上手に自分を騙すこと。画一的なスーツに身を包み、嘘をついてでも内定を取り、難しいことは考えずに上司の顔色だけを伺って日々を平和に過ごす。それが上手にできる人、それで特に痛みを感じない人には、いまだに幸せになれる仕組みなのかもしれない。

一方で、そういうことにいちいち痛みを感じる人、自分の頭で考えてしまう人、価値観として自由や好奇心を大切にする人、我慢するだけの生き方に意味を見出すことのできない人にはその環境は苦痛でしかない。

ただ、そうであるにもかかわらず、サラリーマン以外の選択肢がないので、黙って耐え忍ぶしかないと思い込んでいる人がいるはずである。起業家という選択肢は、隠されているから。

社会は、まだ本音では起業家を求めていない。みんな我慢しているのだから、あなたも我慢しなさい。それが本音である。そうやって国家を運営していった方が、楽なのである。

しかし、いつまでもそのままやっていくわけにはいかない。社会は変わりつつある。もう、このままでは逃げ切れない。

私も起業家の立場、起業を支援する立場から、いずれは教育システムそのものに挑みたいと思うが、まずはできることから取り組み、「不適合者」を解放していきたいと思う。












「今年夏の選挙が日本の『命運』を決める闘いになる」

2016-01-24 07:47:55 | 日本

アメリカの顔色を窺い「日和見主義」となった安倍政権。しかし、今年の選挙次第では、流れが変わるとジャーナリストの田原総一朗氏は指摘する。
以下、要約し記す。



2016年は、日本の命運を占う重大な選挙が行われる。7月の参議院選挙に合わせて衆議院も解散し、ダブル選挙になる可能性が高い、と指摘する自民党議員が多い。

17年には2度目の消費税増税が控えているので、選挙はできない。18年9月には安倍首相の総裁任期満了となり、12月には衆院議員の任期満了を迎える。この年に選挙となれば一種の「追い込まれ解散」で、得策ではない。となると、チャンスは今年しかない。過去2回のダブル選、いずれも自民党は大勝している。安倍首相は「ダブル選はまったく考えていない」と言うが、強く言い切るところが逆に怪しい。

ダブル選の狙いは、衆参ともに自公で3分の2を上回る議員数を獲得すること。安倍首相は昨年11月末、自らが率いる右派議員らの会合で、次のように述べた。

「憲法改正をはじめ、占領時代につくられたさまざまな仕組みを変えていこうという(自民党の)立党の原点を呼び起こさなければならない」

安倍首相は以前から憲法改正を強く主張していた。GHQに押しつけられた憲法を日本人の手でつくり直すべきだというのだ。また、東京裁判は「勝者の判断によって断罪された」もので、まっとうな裁判ではないと主張していた。「A級戦犯の処分も戦勝国が決めつけたのであって、国内法では犯罪人ではない」と繰り返し発言していた。

そして13年12月、安倍首相は靖国神社に参拝した。当然のことをしたつもりだったのであろう。ところが、韓国や中国だけでなく、米国が「失望した」と強い不満を表明した。

実は、安倍首相以前にも靖国神社に参拝した首相は何人もいる。特に小泉純一郎首相は何度も参拝したが、米国は態度を明確にしなかった。

ところが安倍首相の参拝には「失望した」とはっきり不満を表明した。実は米国は、安倍首相を「歴史修正主義者」ではないかと疑い、だからこそ13年10月にケリー国務長官とヘーゲル国防長官(当時)が、わざわざ靖国神社ではなく、千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪問し献花した。それを安倍首相は裏切り、だからこそ米国は怒った。

これがよほど衝撃だったのか、それ以後、安倍首相の姿勢は変わった。「現実主義」、もっと言えば「日和見主義」となった。東京裁判には一切触れず、靖国神社に参拝もしなくなった。昨年8月には、かつて強く批判していた村山談話を肯定する安倍談話を発表した。

韓国の従軍慰安婦問題でも、安倍首相はかつて「1965年の日韓請求権協定ですべて決着済み」だと言っていたのを翻し、韓国政府が設立する財団に約10億円を拠出するとし、あらためて謝罪した。アメリカから強い働きかけがあったのではないかとみられている。集団的自衛権の行使容認についても、実は安保法制懇の委員や自民党の「安倍応援団」からは「公明党に妥協しすぎで、名を取っただけ」と評判が悪い。「日和見主義」に堕したというわけだ。

だが、今年のダブル選挙で、衆参ともに3分の2以上の議席を取れば、こうした流れが一変する可能性がある。つまり昨年秋の「宣言」どおり、自民党の「立党の原点」である憲法改正と、東京裁判の否定という安倍首相流の「理想の政治」が復活してくる可能性があるのだ。その意味でも、今夏の選挙は日本の命運を決める重大な選挙なのである。












「五代友厚とは、」

2016-01-23 08:35:23 | 日本

NHKの連続テレビ小説「あさが来た」の五代は、あさ以外の女性には関心がなさそうで、独身者のように描かれていた。しかし現実の五代には妻も子もいたし、また明治時代の政治家・財界人の例外に漏れず、彼もまた妻以外の女性と多々関係している。

五代は生涯に、生後すぐ死んだ子も含めて10人の子供を儲けている。最初の子供(女子)は、幕末の薩摩藩士時代の赴任先・長崎で知り合った女性とのあいだに生まれた。ただしこの子は五代家の籍には入っていない。

のち明治初めに菅野豊子(外交官・森山茂の実妹とも養妹ともいわれる)という女性と結婚したが、彼女とのあいだに子供はできなかった。戸籍上の三人の娘も、べつの女性が生んだのを引き取った子たちだ。経済史学者・宮本又次の『五代友厚伝』(有斐閣)によれば、五代はそうとうな遊び人であったらしく、官界から離れたのも派手な遊蕩が一因だったともいわれている。

結婚したときにもべつの女性とつきあっており、長女と次女はその女性とのあいだに生まれた。長女誕生のときにはさすがに正妻・豊子と五代の関係は険悪になったらしいが、それでも次女入籍のときには悶着はなかったというから、豊子はかなり人間のできた女性だったのだろう。事実、五代の秘書的な役割も果たし、また教養を身につけるべく、師について絵や文学を学んでいたという。

五代が家の外で儲けた男子はすべて、認知はしても籍には入れず庶子となった。一方で彼は、かつての恩人の甥・九里龍作に学費を出すなど援助を惜しまなかった。龍作は五代の没後、五代家へ養子に入り、五代の長女・武子と結婚する。1886年には東大工学部教授の職を辞して大阪に転居、養父の興した鉱山業を引き継いだ。

こうして女性関係を見るかぎり、ドラマと現実の五代像はずいぶんかけ離れている。たぶん、朝ドラでとりあげるにはあまりに生々しいし、物語で扱うには煩雑になるとの理由から、劇中では一切描かれなかったのだろう。ただ、せめて五代の妻は登場させ、たとえばあさのライバル的存在として描く手もあったような気もしないではない。

ドラマと史実とではさまざまな相違がある。しかし五代友厚が私利私欲を抜きに、国や大阪のために尽力したこと自体はドラマで描かれたとおりである。「男児、財産をつくるためにこの世に生を受けたのではない」が彼のモットーだった。実際、その死後には財産どころか、100万円もの借財が残された。

五代が死んだのは日本に本格的な産業革命が到来する直前だった。前出の宮本又郎は、五代がもし20年長く生きていたら、一大財閥を形成していたかもしれないと書いている。

1885年10月2日に大阪・中之島の五代邸で行なわれた葬儀には、じつに一般から4800人もの参列があった。このことからも、地元の人たちの彼に対する敬愛ぶりがうかがえよう。葬儀後、棺は馬車に乗せられ、天王寺埋葬場まで大勢の人に付き従われながら運ばれた。それは盛大な行列となり、先頭が埋葬場に到着したときも、後尾はまだ4キロほど先の長堀橋あたりを歩いていたと伝えられる。


◎五代友厚とは、

五代友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。

・時代 江戸時代末期 - 明治時代中期
・生誕 天保6年12月26日(1836年2月12日)
・死没 明治18年(1885年)9月25日(満49歳没)
・別名 徳助(幼名)、才助(通称)
・諡号 松陰
・墓所 阿倍野墓地
・官位 贈正五位
・主君 島津斉彬、久光
・藩  薩摩藩
・父母 父:五代秀尭
・妻  豊子


◎人物・恵まれた環境
五代は小松清廉や西郷隆盛、大久保利通などの要人と知り合いだった。長州藩の高杉晋作や土佐藩の浪人坂本龍馬とも非常に仲が良い。このように一流の人物たちと関わり合える条件をもっていたことが五代の後の功績へと役立った。加えて、五代が役立てたものは英語力である。当時から外交に英語力は欠かせなかった。特に薩摩藩城代家老小松清廉には重用されて恩義を感じ、小松死後はその妻(側室)子の面倒を見たことでも知られる。


◎五代友厚の年譜・功績

・天保6年12月26日(1836年2月12日) - 薩摩藩士である五代秀尭の次男として生まれる。

・嘉永4年(1851年) - 元服して、才助と名乗る。

・安政4年(1857年)
郡方書役を命ぜられる。
長崎遊学を命ぜられる。勝海舟に会う。

・文久2年(1862年)
2月 - 藩庁より舟奉行副役の辞令が下りる。
4月 - 蘭通詞岩瀬弥四郎のはからいで、千歳丸の水夫に変装して上海へ赴く[2]。高杉晋作らに会う。

・文久3年(1863年) - 薩英戦争において寺島宗則とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送される[3][4]。

・慶応元年(1865年)
3月 - グラバー商会が手配した蒸気船(オースタライエン号, The Australian)にて、薩摩の羽島沖から欧州に向けて旅立つ[2][5]。
5月 - イギリスのサウサンプトン港に到着。即日、ロンドンに向かう。
7月 - ベルギーに行く。
9月 - プロシアから、オランダを経由して、フランスへ行く。

・慶応2年(1866年)2月 - 薩摩の山川港に帰着。直ちに、御納戸奉行にて勝手方御用席外国掛に任ぜられる。

・慶応3年(1867年)
1月 - 小松清廉、トーマス・ブレーク・グラバーらとともに、長崎の小菅において、小菅修船場の建設に着手する[6]。
5月 - いろは丸沈没事故をめぐる土佐藩と紀州藩の交渉を仲介する。
幕府が崩壊する。御納戸奉公格という商事面を担う。

・明治元年(1868年)
明治新政府の発足に伴い、参与職外国事務掛に任じられる。
2月 - 外国事務局判事に任じられ、初めて大阪に来る。同月、堺事件(フランス海軍襲撃と堺守備隊の狙撃)の調停にあたる[7]。
5月 - 外国権判事、大阪府権判事に任命される。初代大阪税関長に就任。
9月 - 大阪府判事に任ぜられ、大阪府政を担当する。
政府に大阪造幣局の設置を進言する。グラバーを通じて、香港造幣局の機械一式を六万両で購入する契約を結ぶ。

・明治2年(1869年)
5月 - 会計官権判事として横浜に転勤を命じられるが、2か月で退官し下野する。
8月 - 大阪の両替商・久里正三郎の別邸に金銀分析所を設立する。
大阪通商会社、為替会社の設立に尽力する。

・明治3年(1870年)3月 - 五代の要請で本木昌造が大阪活版所を創立する。日本で初めて英和辞書を印刷する。
明治4年(1871年)4月 - 造幣寮(現・大阪造幣局)、竣工。
明治6年(1873年)1月 - 弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立する。
明治7年(1874年)7月 - 半田銀山(福島県)の経営を開始する。
明治8年(1875年)1月 - 2月 - 五代の斡旋により、大久保利通・木戸孝允らによる大阪会議開催。

・明治9年(1876年)
9月 - 朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立する。
11月 - 堂島米商会所を設立する。

・明治11年(1878年)
8月 - 大阪株式取引所(現・大阪取引所)を設立する。
9月 - 大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、初代会頭に就任する。

・明治12年(1879年)11月 - 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設する。

明治14年(1881年)
3月 - 大阪青銅会社(住友金属工業)を設立する。
6月 - 関西貿易社を設立する。
開拓使官有物払い下げ事件に関わり、批判を浴びる。

・明治15年(1882年)
7月 - 共同運輸会社を設立。
12月 - 神戸桟橋会社の設立許可を得る(1884年11月開業)。
明治17年(1884年)
5月 - 五代らの努力により大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)が開業。

・明治18年(1885年)
1月 - 大阪北中之島1丁目26番地に居を定める(現・日本銀行大阪支店)。
9月 - 鹿児島より籍を大阪に移す。東京において日本郵船会社を斡旋する。勲四等に叙せられ旭日小綬章を賜う。
9月26日 - 糖尿病により、東京の自邸で没する。享年49歳。大阪で葬儀[8]。
大正3年(1914年) - 大正天皇が演習のため大阪行幸の際、特旨を以て正五位を追贈される。
7月 - 五代友厚秘史が発刊される。













「慰安婦が売春婦だった証拠が韓国ネットに上がった」

2016-01-22 08:21:47 | 日本

◎社会常識と教育

韓国国内のネットで従軍慰安婦と呼ばれている売春婦の収入が公開された。かなりの高給である。これは面白いことになりそうだ。自分より高給だった売春婦に韓国国民がどのような反応を示すか?

1992年に元慰安婦が、日本の郵便局に当時集めたお金を払い戻ししてほしいという裁判を起こしたのは知ってる? 1943年6月から1945年9月まで(27か月)、12回にわたって入金した26,145円(968円/月)今換算約4000万円。

・月収比較給料比較1943年
・総理大臣800円(東条英機)である東条英機
・陸軍大将550円
・曹長助長32~75円
・軍曹軍装23~32円
・伍長、五臓20円
・兵長兵長13、5円
・上等兵上等兵10、5円
・一等兵一等兵9円
・二等兵二等兵9~6円

当時の慰安婦は、300円から1500円を前払いされて、親の借金を返済した。それがどれほど高額だったのかこの表を見れば分かる


これは大変な証拠が出てきた、朝鮮人は自分以外の同胞に利益が上がることが許せない民族である。一騒動あるかな?最もこの記事を運営側が削除する可能性も高い。以前、併合初期のハングルの教科書等の記事も削除された。自分に都合が悪い記事は削除するのが韓国である。これでどうやって価値観を同じに出来るのか?

現在の韓国では大卒ニートが問題になっている、景気が悪いのである。これから韓国経済は崩壊に向かうだろう。そんな中、慰安婦と呼ばれる売春婦の当時の給与を証明する証拠が出てきた。これは韓国にとり大きなマイナスである。更に社会不安の原因になりかねない。

軍票ガ―とか書いてるチョンがいるけど、慰安婦は2000万で借金まみれになってた親の借金を清算したと韓国人自身が書いてるのを認めないのか?とネット上に書込みがあった。しかし現実を受容れることが出来たら朝鮮人ではない。

この訴訟を起こした金学順は「最初金を返せ」という訴えだったのだが、弁護士の福島瑞穂が性奴隷の被害者に仕立てあげたのが従軍慰安婦の始まりだった。
これをきっかけに福島は人権派弁護士を名乗って国会議員にまでのし上がる。本当にヘドが出るような嘘っぱちで日本人を騙して嵌めていく朝鮮人のやり口と言える。

これら売春婦を集めていた女衒の大半(全て?)が朝鮮人。これは知人のご祖母上(故人)からお聞きした。この方は地方の女郎屋の女将で、当時女郎に身を沈める女性の大半は親の借金か男好きが止まらない者だったそうだ。日本も1958年まで売春は合法だった。しかし女衒が連れてくる女性は騙されたり、人身売買の商品だったりで、手を出すと当局から営業停止処分をくらうので手を出さなかったそうだ。

少なくとも、これで性奴隷でなく売春婦だったことはハッキリしたわけだ。これはビジネスだったのである。

韓国が日本から金をたかろうとする作戦は今回の従軍慰安婦問題の合意で潰えた。1965年の日韓基本条約以来3度目のタカリに対する返答である。日本政府はこの記事をHPに掲載し慰安婦が売春婦であり、性奴隷ではなかった証拠として世界中に広める必要がある。








「第二次世界大戦中、韓国人男性が臆病者だったとでも言うつもりか?」

2016-01-21 07:51:25 | 日本

ケント・ギルバートさん(米カリフォルニア州弁護士・タレント)が「第二次世界大戦中、韓国人男性が臆病者だったとでも言うつもりか?」と題して論文を掲載している。
以下、要約し記す。


◎なかなか晴れない疑問

《第二次世界大戦中、大日本帝国陸軍が20万人もの韓国人女性を強制連行して、性奴隷(慰安婦)にしたという疑惑について、裏付けの取れない主張が現在も拡大し続けている。それらは主に韓国からの主張である。
慰安婦たちの主張を裏付ける証拠を求めて、米政府は3000万ドル(30億円超)の費用を掛けて調査を行った。

約7年の歳月を掛けて、大勢の米政府職員や歴史学者が過去の公文書を徹底的に調査した結果、有力な証拠は何一つ見つからなかった。結局3000万ドルが無駄に費やされた。

IWGの最終報告書は2007年に米国議会に提出され、発表された。

誰も、この報告書を最初から最後まで読むことなく、慰安婦問題について書いたり語ったりする資格を持っていない。

数多くの裏付けを取れない主張が韓国から次々と出されている。しかし韓国人の主張は、裏目に出てしまうことがある。

その当時の韓国(朝鮮半島)は実際のところ日本の一部だった。プエルトリコが米国の一部であるようなものだ。

日本軍には韓国人の兵士がたくさんいた。だから日本軍が20万人の女性を強制連行したのであれば、韓国人兵士が韓国人女性の強制連行に加担していたことになる。これはやっかいな現実である。しかし、もっとややこしくなる。

現在、韓国の大統領である朴槿惠は、日本が大勢の韓国人女性を強制連行したと何度もしつこく責め立てている。

この主張がブーメランのように戻ってくる様子を想像してみよう。朴大統領は日本が数十万人の韓国女性を、性奴隷にするために強制連行したと言うが、彼女の父親はその当時、日本軍の陸軍将校だったのだ。しかも韓国人男性が日本軍の行為に反抗して戦ったという証拠は何も残っていない。

戦争中、韓国の人口は約2300万人だった。そして現在、テキサス州の人口は約2600万人である。

テキサス州の女性を20万人強制連行しようとしたら何が起きるだろうか。きっと辺りは血の海に染まるだろう。その目的に動員された軍隊は何千人もの兵士を失うし、その報復として何千人もの市民が軍隊に虐殺されることは間違いない。

その場所には証拠がいくらでも残るだろう。写真、動画、戦闘の痕跡など。テキサスで20万人の女性を奪ってレイプしようとしたら、辺りは間違いなく血の海になる(しかし韓国にはそのような痕跡が無い)。つまり朴大統領の話は必然的に、第二次世界大戦中の韓国人男性は、臆病者の集団だったと言っていることになってしまうのだ。


◎全く成り立たない韓国の主張

この件について日本軍の将軍や提督の立場からも考えてみよう。日本は米国、オーストラリア、イギリス、中国、さらに連合国とも戦争している最中である。どう考えても手いっぱいのはずだ。特に米国は海軍と海兵隊が進軍し、日本兵を見つけ次第どこであろうと攻撃していたのである。

軍隊の全ての指揮官は、常により多くの兵力と補給を求めるものだ。それが世の中の常である。誰か将軍に聞いてみるといい。もしくは企業の経営者に聞いてみるといい。競争相手に勝ちたい時、あるいは防御したい時には何が必要かと。彼らは常により多くの経営資源(=人、物、金)を欲しがるはずである。

20万人の女性を強制連行して、彼女たちを監視し、移動させ、食べさせる目的に経営資源を費やす将軍がいるとすれば、どんな種類の馬鹿なんだろうか。わざわざもう一つの戦争を作っているようなものだと気付くはずだと思うが?

日本人は軍事戦略を立てることに長けていた。日本人は独自に潜水艦や航空機、空母まで製造していたのだ。真面目かつ非常に賢明な民族でなければ出来ないことだ。

米軍と連合軍の攻撃がのど元まで迫ってきているのに、日本軍の将軍たちが貴重な資源を女性の強制連行に費やすはずが無い。彼らは戦争の真っ最中だった。春休み中だったわけではない。

真面目な軍人やビジネスマンであれば、20万人の女性を強制連行することの愚かさが常識として分かるだろう。全く馬鹿げているし、そんなことをしたら朝鮮半島内で新しい戦争を生み出してしまう。朝鮮半島(韓国)は日本の陣地である。そして韓国人は米国人を相手に戦争をしていたのだ。韓国人は我々(米国人)の敵だったのである。


◎嘘は嘘であることに変わりない

韓国人男性の話に戻ろう。米陸軍が20万人のテキサス女性を強制連行しようとすれば、惨劇になるだろう。特に、軍人の中に多くのテキサス男が含まれていたとしたらどうなるだろうか。多くの韓国人男性が日本兵に含まれていたのと同じように。

テキサス男は立ち上がり、米陸軍を攻撃するだろう。橋は爆破される。兵士たちは毎日射殺される。基地は燃やされる。陸軍側も報復して全面戦争になるはずだ。

ということは、韓国人男性は韓国人女性を守ろうとこぶしを振り上げる人間が一人もいないほど臆病者なのだと我々は信じればいいのか? 数多くの女性が強制連行されるのを黙って許したのであれば、確かに韓国人男性は臆病者であり、その息子である現代の韓国人男性は、臆病者の父親を持っていることになる。

現実は私たちも良く知っているように、韓国人は臆病者などではない。韓国人はとても勇敢な民族だ。そうすると、実際には何が起きたのか?資料を見ても、サルでも分かる常識で考えても、大規模な強制連行が行われた事実は無かったということだ。

全部が嘘だったのだ。誰かがどれだけ日本を憎んでいようとも関係が無い。嘘は嘘であることに変わりはない。

今までほとんど誰も存在すら知らなかったIWGの報告書を読んで欲しい(アドレスはhttp://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf)。もし全部を読む時間が無いようなら、報告書の中で慰安婦(Comfort Women)を検索して、その部分だけでも注意深く読んで欲しい》


◎ヨン氏の記事の大きな意義

若干補足します。ヨン氏の記事に出てくるIWG(Nazi War Crimes & Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group)の調査について、日本人は米政府が日本の立場を守るために調査を行ってくれたと考えるかもしれない。しかし、事実は違う。

これは抗日華人ロビー団体による圧力の下で行われた調査なのである。ナチスと共に日本の戦争犯罪資料を調べれば、慰安婦を強制連行した証拠が出てくるであろうと、日本円換算で30億円以上の巨費を投じて、国防総省、国家安全保障局(NSA)、国務省、移民局、国立公文書管理記録局(NARA)、FBI、CIA、陸軍、海軍など、全米の省庁が垣根を越えて調査を尽くした。

しかし、慰安婦強制連行の証拠は何一つ出てこなかった。報告書の冒頭には“頑張って調べたが何も出てこなかった。残念だ…”といった趣旨の、在米華人ロビー団体に向けた記述がある。

日本にとって、調べてくれたことはひとまず良かった。しかし、調査の意図はあくまでも日本の戦争犯罪に関する機密資料を各機関から収集して公開することだった。結果は彼らにとって裏目に出たが、抗日在米華人のロビー活動が米政府を動かした事実は決して軽視すべきではない。日本も対抗的な動きを取るべきだが、現状は何もなされていないに等しいと思う。

この調査報告書は2007年4月に出されました。ところがこの3カ月後の7月30日に米国下院で「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」が可決されている。マイク・ホンダ議員の下院への決議提出は2007年1月。ここから決議可決の7月までの中間でこの報告書は米議会に提出され、発表された。本当はIWGの調査で新しい証拠を発見し、日本叩きを加速させる狙いだった。しかし在米華人ロビー団体が望んだような成果は得られず、米国人に特に関心の高い問題でもないのでニュースにもならず、何の脚光も浴びずに、ヨン氏が・発掘・するまで埋もれていたわけである。


◎日本人にはないユニークな視点

ヨン氏の記事はユニークな視点に満ちている。韓国は我が物顔で日本人の悪口を世界中に広げているが、当時、韓国と日本はひとつだった。彼らは言わば韓国系日本人だったのである。ここを大前提として押さえたうえで物事を考えるべきである。

例えば、朴槿恵韓国大統領の父、朴正熙元大統領は当時、高木正雄と名乗っていた。満州で志願入隊し、成績優秀者として日本の帝国陸軍士官学校に選抜された職業軍人で、ソ連軍との戦闘に加わっている。

そうした前提を押さえたうえで、韓国女性(日本国籍)が日本軍に20万人も強制連行されたと考えると、多くの矛盾や齟齬が導き出される。

例えば、テキサス州の女性20万人を強制的にさらったら何が起こるかという問題提起もそのひとつである。「なぜ韓国人男性はそれを止めなかったのか」と疑問をぶつけ「韓国人男性は臆病者だったことになるじゃないか」と迫るわけである。事実、娘や姉妹、叔母などを強制連行されたという韓国人男性の証言を、今までに一度も聞いたことがない。読者はどう考えても韓国人の主張が如何に荒唐無稽であるか。納得、実感してくれると思う。


◎まだある私の論点集

ブログ等を通じて私は、慰安婦の強制連行は韓国のプロパガンダであると英語でも発信している。しかし、米国人の大半はこの問題を気に留めていない。無関心なのである。朝日新聞による世紀の大誤報の訂正は米国人には届いておらず、今でも中国や韓国があれこれ日本の悪口を広めると、漠然と信じられてしまう。
こうしたテーマの記事を載せると「じゃあ東南アジアの問題はどうなのか」などと議論を拡散させる意見が次々出てきて収拾がつかなくなる。今回の問題はあくまで韓国が主張する慰安婦20万人の強制連行があったか否かという論点の話である。

先の戦争の問題を正面から議論するには、私自身がもっと事実を調べなければならないと考えている。

今後、議論すべき問題として
(1)東京裁判など戦犯裁判の問題
(2)無差別爆撃の問題
(3)原爆投下に関する問題
(4)七三一部隊に関する問題
(5)いわゆる南京大虐殺の問題
(6)慰安婦を含む戦時中の女性の人権問題
(7)日本国憲法、
などを考えている。

このうち憲法第9条については、夕刊フジですでに書いた。今の日本国憲法を素晴らしいと多くの日本人は考えているが、別にアメリカは日本に平和国家として歩んで欲しいとは全く考えていなかったし、今も考えていない。あれはペナルティ以外の何ものでもない。

占領政策のなかで戦後の日本をどうするかをまとめた報告書があり、民主化、農地解放、財閥解体、教育改革…などが並んでいるが「平和憲法」の項目はない。第9条は日本への制裁にほかならない。この点はしっかりと認識すべきである。

それから日本国憲法には国を代表する元首の規定がない。天皇は元首ではなく象徴になっている。国の代表者を決めないなんて、普通の憲法ではあり得ない。

その他の論点も少しずつ資料を集めている。女性の人権問題についていえば、韓国では90年代まで韓国政府が関与する米軍兵士を相手にした慰安所が複数存在した。ベトナム戦争時代のライダイハンの問題もある。これらの深刻な問題も公平公正に議論すべきである。


◎日本人よ反撃の発信をせよ

日本人は「国際人」という言葉に対する認識を改めて考えるべきだと思う。多くの日本人は世界を股に掛けて活躍し、国際情勢を熟知する人が「国際人」だと考えがちである。

でもそれは違う。世界を知ることも大事だが、それは一要素に過ぎない。自国の文化や歴史、国民性なども熟知している必要がある。そこが日本は決定的に弱い。

慰安婦問題も日本を取り巻く近現代史や外交の常套手段を深く理解していればすぐに反論できたはず。それをしなかったから国連人権委員会には事実誤認だらけの報告書が提出され、米国内には奇妙な銅像がたくさん建ってしまった。日本人は公平公正な視点で近現代史を学び直した上で、歴史上の真実を世界に向けて堂々と主張すべきだと思う。