龍の声

龍の声は、天の声

「大日本帝国憲法制定過程とその内容について⑤」

2014-06-30 07:05:13 | 日本

◎第二章 臣民権利義務

第二章は第一章に続き臣民の権利及び義務を掲げる。蓋し、祖宗の政治は、もっぱら臣民を愛重して、名づけて大宝(おおみたから)の称号をもってした。非常の赦しの時に検非違使を使わして、囚徒を抑える言葉に、公御財(おおみたから)となし御調物(みつぎもの)を備え進と云った。[江家次第]歴世の天子の即位の日には、皇親以下天下の人民を集めて、大詔を述べられ、その言葉に集まり侍る皇子等、王、臣、百官の人等、天下公民、諸々聞きなさいと詔され、史臣が用いる公民の字は即ち「オホミタカラ」の名称を訳した。その臣民にあって、自ら称えて御民と云う。天平六年に海犬養宿禰岡麻呂が詔に答えた歌に ミタミワレ、イケル、シルシ、アリ、アメツチノ、サカユルトキニ、アヘラク、オモヘハト 詠んだのはこれである。蓋し、上にあっては愛重の意を邦国の宝をもって表し、下にあっては大君に服従し自ずと顕れて幸福の臣民とする。これはわが国の典故旧俗に存在し、本章に掲げる臣民の権利義務もこれを源流とするのに他ならない。よくよく中古、武門の政治は武士と平民との間に等族を分かち、甲者(武士)を公権の専有者として、乙者(平民)の預からない事としたのみならず、その私権をあわせて乙者が享有(生まれながらに持っていること)する事が全く出来なかった。公民の義は、これに依って減絶して、伸びる事はなかった。維新の後に、数々の大令を出し、氏族の特異な権利を廃止し、日本臣民である者が始めて平等にその権利を持ち、その義務を盡くすことを得られた。本章に掲載するところは、実に中興の美果を倍殖して、これを永久に保ち明らかにするものである。


【第十八条】
第十八条 日本臣民たるの要件は法律の定むる所に依る(日本臣民であるための条件は法律の定めるところによる)

※日本臣民とは、外国臣民とこれを区別するための言葉である。日本臣民であるものは、各々法律上の公権及び私権を享有している。この臣民である条件は、法律で定める必要があある。日本臣民であるには、二種類あり、第一は出生によるもの。第二は帰化又はその他法律の効力によるものである。

国民の身分は、別の法律で定める所による。但し、私権の完全な享有と、公権はもっぱら国民の身分に随伴するので、特に別の法律で定める旨を憲法に掲げる事を怠らない。故に別の法律に掲げる所は、即ち憲法の指令するところであり、また憲法における臣民権利義務の係属するところである。

選挙、被選の権、任官の権の類を公権とする。公権は憲法又は其の他の法律でこれを認定し、もっぱら本国人の享有するもので、外国人に許さないのは各国の普通の公法である。私権に至っては、内外の間に懸絶の区別をしたのは、既に歴史上の往時に属し、今日では一・二の例外を除く外は、各国でも大抵、外国人を本国人と同ようにこれを享受出来るようにする傾向がある。


【第十九条】
第十九条 日本臣民は法律命令の定むる所の資格に応じ均しく文武官に任ぜられ及び其の他の公務に就くことを得(日本臣民は法律命令の定める資格に応じて均しく文武官に任命され、及びその他の公務に就くことが出来る)

※文武官に登用任命し、その他の公務に就くのは、門閥(出身)に拘わらず、これを維新改革の美果の一つとする。往昔は門地で品流を差別され、時には官が家に属し、族によって職を世襲し、賎類の出身者は才能があっても顕要の職に登用されることが出来なかった。維新の後、陋習を一掃して、門閥の弊害を除き、爵位の等級は一つも官に就く事の平等性を妨げる事はない。これは、憲法で本条が保ち明らかにするところである。

但し、法律命令で定める相当の資格、即ち年齢、納税及び試験での能力の諸般の資格は、官職及び公務に就くための条件であるのみ。

日本臣民は、均しく文武官に任命され、その他の公務に就く事が出来るというときは、特別の規定がある場合を除き、外国臣民にこの権利を及ぼさないことを知るべきである。


【第二十条】
第二十条 日本臣民は法律の定むる所に従い兵役の義務を有す(日本臣民は法律の定めに従って、兵役に就く義務がある)

※日本臣民は日本帝国成立の分子であり、共に国の生存独立及び光栄を守る者である。上古以来わが臣民は、事ある時に自分の体や家族などの私事を犠牲にして、本国を防御することを以て丈夫の事とし、忠義の精神は栄誉の勧請と共に人々の祖先以来の遺伝に発し、心肝に浸透して、一般の気風を結成した。聖武天皇の詔に言うには大伴佐伯の宿禰は、常に言っているように、天皇の朝廷を守り仕える事に自己を顧みない人たちであり、汝等の祖先が言い伝えてきたことのように『海行かば水積く屍、山行かば草生す屍、王の辺にこそ死なめ、のどには死なじ(海に戦えば水につかる屍、山に戦えば草が生える屍になろうとも王のお側近くで死のう、それ以外ののどかな死に方はしない)』と言い伝えている人たちだと聞いている」と。この歌は、即ち武臣の相伝えて以て忠武を教育することの成せる事である。大宝以来軍団を設け、海内の壮丁で兵役に堪えうる者を募る。持統天皇の時に国毎に正丁の四分の一を取っ他事は、即ち徴兵の制度がこの事により始まったことを示している。武門執権の時代に至って、兵と農の職を分離し、兵武の事を以て一種族の事業とし、旧制が久しく失われていたが、維新の後、明治四年に武士の常職を解き、五年には古制に基づいて徴兵の例を領行して、二十歳に達した全国男子は陸軍海軍の兵役に当たらせて、平時の毎年の徴員は常備軍の編成に従って、それ以外に十七歳より四十歳までの人員は、悉く国民軍として戦時に当たって臨時召集する制度とした。これは、徴兵法が現在行われている所である。本条は、法律の定める所によって、全国臣民を兵役に服する義務を執らせ、類族門葉に拘らず一般にその士気身体を併せて平生に教育させ、一国の勇武の気風を保持して、将来失墜させないようにすることを期するのである。


【第二十一条】
第二十一条 日本臣民は法律の定める所に従い納税の義務を有す(日本臣民は、法律の定める所により、納税の義務がある。)

※納税は、一国が共同して生存するための必要に供応する者であり、兵役と均しく臣民の国家に対する義務の一つである。

租税は古言に「ちから」と云い、民力を輸送するという意味であり、税を科するのは「おふす」と云い、各人に負わせるという意味である。祖宗は、既に統治の決意をもって国に臨まれ、国庫の費用はこれを全国の正供にとる。租税の法律の由来は、久しく孝徳天皇が祖・庸・調の制度を行い、維新の後に租税の改正を行う。これを税法の二大変革とする、その詳細は書籍に備わっているので、詳らかにこれを注釈することはしない。蓋し、租税は臣民が国家の公費を分担する物であり、徴求に供応する献饋の類ではない。また承諾に起因する徳澤の報酬でもない。

附記:フランスの学者は、その偏理の見方で租税の意味を論じている。千七百八十九年にミラボー氏がフランスの国民に向って国費を募る公文に言うには「租税は、受けた利益に報いる代価である。公共の安寧の保護を得るための前払いである」と。エミル・ド・ヂラルヂン氏は、説を発表して言うには「租税は権利の享受、利益の保護を得る目的のために国と名づけた一会社の社員より納める保険料である。」と。これは全て民約主義に淵源し、納税で政府の職務と人民の義務とを相互交換する物とするものであり、その説は巧みであると言っても、実に千里の誤りであることを免れない。蓋し租税は、一国の公費であり一国の分子である者は均しくその共同義務を負うべきである。故に臣民は独り現在の政府のために納税するべき物ならず、前世、過去の負債のためにも納税しなければならない。独り得た利益のために供給すべきだけでなく、その利益を享受しなくてもこれを供給しなければならない。よくよく経費は所及ばず倹省してほしいと思い、租税は所及ばず薄くあって欲しいと思う。これはもとより政府の本務であり、そして議会が財政を監督し、租税を議定するに於いて立件の要義もまたこれに他ならない。しかるに、もし租税の義務を以てこれを上下相酬の市道であるとし、納税の諾否はもっぱら受ける利益と乗除相関る者とするなら、人々は自らその胸の臆に断定して、年祖を拒む事が出来てしまう。そうなれば、国家の成立が危殆にならないようにと思っても、危殆に瀕してしまう。近頃の論者は、既に前節の非を弁論して余蘊なからしめ、そして租税の定義は僅かに帰着するところを得た。今、その一・二を上げると、「租税は国家を保持するために設けるものである。政府の職務に報いる代価ではない。なぜならば政府と国民との間には、契約が存在しないからである」(フランス、フォスタン・エリー氏)「国家は租税を賦課する権限がある。そして、臣民はこれを納める義務がある。租税の法律上の理由は、臣民の純然たる義務にあり、国家の本分とその目的とに欠くべからざる費用があるのに従って、国の分子である臣民はこれを供納しなければならない。国民は無形の一体として、国家である自個の職分のために資需を供すべく、そして各人は従ってこれを納めなければならない。なぜならば、各人は国民の一個の分子であるからである。彼の国民及び各個の臣民は、国家の外に立、その財産の保護を受けるための報酬であるとして、租税の意味を解釈するのは、極めて不提である誤説である」(ドイツ、スタール氏)ここに記載して、参考に当てる。


【第二十二条】
第二十二条 日本臣民は法律の範囲内に於いて居住及び移転の自由を有す(日本臣民は、法律の範囲内で居住と転居の自由がある)

※本条は居住及び移転の自由を保明する。封建時代は藩の国境を画り、各々関柵を設けて人民が互いに其の本籍の外に居住することを許さなかった。並びに許可無く旅行及び移転をする事が出来ず、その自然の運動及び営業を束縛して、植物と同ようにさせた。維新の後、廃藩の挙と共に居住及び移転の自由を認め、凡そ日本臣民であるものは、帝国国内において何れの地を問わず、定住したり借住して寄留したり及び営業する自由を改めた。そして憲法に其の自由を制限するためには、必ず法律によって行い、行政処分の外に存在することを掲げたのは、これを貴重する意思を明らかにするためである。

以下、各条は、臣民各個の自由及び財産の安全を保明する。蓋し、法律上の自由は臣民の権利であり、その生活及び知識の発達の本源である。自由の民は文明の良民として、国家の昌栄を翼賛する事が出来るものである。故に立憲国家は皆、臣民各個の自由及び財産の安全を貴重な権利として、これを確保しない事は無い。但し、自由は秩序ある社会の下に生息するものである。法律は各個人の自由を保護し、また国憲の必要より生じる制限に対して、其の範囲を分割し、両社の間に適当な調和をなすものである。そして、各個臣民は法律の許す範囲において其の自由を享受し、綽然として余裕があることを得られるべきである。これは憲法に確保する法律上の自由なるものである。


【第二十三条】
第二十三条 日本臣民は法律に依るに非ずして逮捕監禁審問処罰をうくることなし(日本臣民は法律によることなく、逮捕監禁審問処罰を受けることはない)

※本条は人身の自由を保明する。逮捕監禁審問は、法律に書かれている場合に限り、かかれている規定に従って、是を行う事が出来る。そしてまた、法律の正条によることなく何らの所為に対しても処罰する事は出来ない。必ず、此ようにして、其の後に人身の自由は、始めて安全であることを得られるべきである。蓋し、人身の自由は、警察及び治罪の処分と密接な関係を有し、其の間には分毫の余地もない。一方においては、治安を保持し罪悪を防御し及び検探糾治するのに必要な処分が素早く強力であることに拘らない。他の一方においては、各人の自由を尊重して、其の限界を峻厳して威権が蹂躙しないようにするのは、立憲制度においては、もっとも至重な要件とするところである。故に警察及び司獄官吏は法律に依らないで人を逮捕し、または監禁し、または苛酷な所為を施した者には、其の罰を私人より重くさせ[刑法第二百七十八条・第二百七十九条・第二百八十条]、そして審問の方法に至っては、またこれを警察官に委ねず、必ずこれを司法官に訴えさせ、弁護及び公開を行い、司法官または警察官が被告人に対して罪状を供述させるために凌虐を加えるものには重さを加えて処断する[刑法二百八十二条]。凡そ処罰の法律の正条に依らなければ、裁判の効力は無い物とする[治罪法第四百十条、刑法第二条]。これは全て努めて周囲緻密の意を致して臣民を保護し、そして拷問及びその他中古の断獄は歴史上の既往の事績として、復元、時には再生することを出来なくする。本条は更にこれを確保し、人身の自由を安固の途轍に入らせた。


【第二十四条】
第二十四条 日本臣民は法律に定めたる裁判官の裁判を受くるの権を奪はるることなし(日本臣民は、法律に定められた裁判官の裁判を受ける権利を奪われる事は無い)

※本条はまた、各人の権利を保護するための要件である。法律により構成・設置された裁判官は、威権の権勢を受けず、両造の間に衡平を維持し、臣民はその孤弱貧賎に拘わらず勢家権門と曲直を訴廷に争い、検断の官吏に対して情状を弁護することを得られる。故に憲法は法律に定めた正当な裁判官以外に特に臨時の裁判所または委員を設けて、裁判の権限を侵犯し各人のために其の権利を奪うことを許さない。そして各人は独立の裁判所に倚頼して、司直の父とする事を得る。










「大日本帝国憲法制定過程とその内容について④」

2014-06-30 07:03:37 | 日本

【第十二条】
第十二条 天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定める(天皇は陸海軍の編成と常備軍の予算を定める)

※謹んで思うには、本条は陸海軍の編成と常備兵額もまた天皇が親裁する所であることを示している。これは、もとより責任大臣の輔翼によるといっても、帷幄の軍令と均しく至尊の大権に属すべきであり、そして議会の干渉受けないものである。所謂編成の大権は細かく言えば、軍隊や艦隊の編成及び管区・方面から兵器の備用、給与、軍人の教育、検閲、紀律、礼式、服制、衛戍、城塞及び海防、守港並びに出師準備の類、全て大権の中にある。常備兵額を定と言うときは、毎年の徴員を定めることもまた、その中にある。


【第十三条】
第十三条 天皇は戦を宣し和を講じ及び諸般の条約を締結す(天皇は宣戦布告を行い、講和条約を結び、その他の条約を締結する。)

※謹んで思うには、外国と交戦を宣告したり、和親を講盟したり、条約を締結したりする事は、全て至尊の大権に属し、議会の参賛は不要である。これは、一つ目は君主は外国に対して国家を代表する主権の統一を欲し、二つ目は和戦及び条約の事は、もっぱら時機に応じて謀は迅速であることを尊ぶことによる。諸般の条約とは、和親、貿易、連盟の約束をいう。

附記;欧州の旧例では、中古各国の君主は、往々にして外交の事を自ら行い、英国のウイリヤム三世のごときは、自ら外務長官の任に当たり当時の人は、その外交事務に長じたことを賞賛した。近年立憲主義が漸く進歩したことにより、各国の外交の事務は、責任大臣の管掌に属し君主はその輔翼によりこれを行う事は、他の行政事務と同じになった。ナポレオンがフランスの執権であった時、両国の講和の所管を作り、直ちに英国の君主に送ったが、英国はその書簡を受けて、外務執政(外務大臣)の書によって、これに答えた。今日国際法においては、慶弔の親書を除く外は、各国交際条約の事は、全て執政大臣を経由することを列国は是認している。本条の掲げた所は、もっぱら議会の干渉によらず天皇は、その大臣の輔翼により外交事務を行う事を言っている。


【第十四条】
第十四条 天皇は戒厳を宣告す(天皇は戒厳を宣告する)
戒厳の要件及び効力は法律を以て之を定(戒厳の要件及び効力は法律によって定める)

※謹んで思うには、戒厳は外敵・内変の時機の臨んで常の法律を停止し、司法及び行政の一部を挙げて、これを軍事的処分に委ねるものである。本条は戒厳の要件及び効力を法律の定めるところとし、その法律の条項に準拠して、時に臨んでこれを宣告したり、又はその宣告を解除したりするのは、至尊の大権に帰す。要件とは、戒厳を宣告する時機及び区域における必要な範囲及び宣告するために必要な規程をいう。効力とは、戒厳を宣告した結果により権力の及ぶ限界をいう。

包囲した地にあって、戦権を施行し臨時に戒厳を宣告することは、これをその地の司令官に委ね、処分してのちに上申することを許す。これは法律において便宜的に至尊の大権を将帥に委任するものである。[十五年三十号布告]


【第十五条】
第十五条 天皇は爵位勲章及び其の他の栄典を授与す(天皇は爵位、勲章、及び其の他の栄典を授与する)

※謹んで思うには、至尊は栄誉の源泉である。蓋し、功績を賞賛し、労に報い、卓越した行いや善い提案を表彰し顕栄の品位記章及び殊典を授与するのは、もっぱら至尊の大権に属する。そして臣下が盗み弄ぶ事は相容れないものである。わが国の太古は簡単で素朴な世の中で、姓(かばね)を用いて貴賎を分けていた。推古天皇が始めて冠位十二階を定めて諸臣に分け賜れた。天武天皇は四十八階を定められ、文武天皇は賜冠を廃止して変わって位記を用いた。大宝令が掲載するところ、おおよそ三十階。これは今の位階の始まりであり、また勲位十二等は武功を賞し、及び孝弟力田の人に賜った。中古以降は武門の専権の時代で、賞罰の事柄は幕府に移ったといっても、叙授の儀典は朝廷に属する事は失われず、維新の後に明治二年には位制を定めて一位より九位に至る。八年には勲等の賞牌の制を定め、十七年には五等爵の制を定めた。これは全て賞奨を明らかにして顕栄の大典を示すものである。


【第十六条】
第十六条 天皇は大赦特赦減刑及復権を命す(天皇は、大赦、特赦、減刑及び復権を命令する)

※謹んで思うには、国家は既に法廷を設け、司法を置き正理公道で平等に臣民の権利を保護させる。そして、なお法律が未だに諸般の事情を事細かに出来ず、時には犯人の事情により同情すべき者がある。立法および司法の行為により、不足を補えないことを恐れる。故に恩赦の権は、至尊の情け深い特典で法律の及ばないところを補い、民に温情を得られない者が無いようにするためである。

大赦は、特別の場合に特別な恩典を施行するものであり、一つの種類の犯罪に対してこれを赦す。特赦は一個人の犯人に対してその刑を赦す。減刑は、既に宣告された刑を減ずる。復権は既に剥奪された公権を復ことである。

第四条以下第十六条に至るまで、元首の大権を列挙する。よくよく元首の大権は、憲法の正条でこれを制限する他は、及ばない所が無い事は、あたかも太陽光線の遮蔽の外に映射される所が無いことと同じである。これはもとより、逐一列挙されることによって存在するわけでない。そして憲法に掲げる所は、既にその大綱を挙げ、またその節目の中の要領を羅列して標準を示すに過ぎない。故に貨幣鋳造する権や度量を定める権などは、いちいちこれを詳らかにする必要がなく省略しているだけで、これらを包括する所のものである。


【第十七条】
第十七条 摂政を置くは皇室典範の定むる所に依る(摂政を置くのは皇室典範の定めるところによる)
摂政は天皇の名に於て大権を行う(摂政は天皇の代理として大権を行使する)

※謹んで思うには、摂政は天皇の職務を代わって行う。故に凡そ至尊の名分を除く外は、一切の大政全てを天皇の代理として行い、及び大政に付いてその責務を任される事は天皇と同じである。但し、第七十五条の場合に制限する所が合うことを除けば、「天皇の名に於いて」というときは、天皇に代わってといえるのと同じである。蓋し、摂政の政令は即ち天皇に代わりこれを宣言し布告することである。
摂政を置くのは、皇室の家法による。摂政として王者の体験を総攬する事は、こと国憲に係る。故に後者はこれを憲法に掲げて、前者は皇室典範の定める所による。蓋し、摂政を置くことの逃避を定めるのは、もっぱら皇室に属すことであり、そして臣民が容喙することでは無い。よくよく天子に違例の事があり、政治を自ら行うことが出来ない事は、稀に見る変局であり、そして国家動乱の機会もまた、往々にこういった時期に内在している。彼の或る国では、両院で協議し摂政を設ける必要性を議決することを憲法に掲げるような事は、皇室の大事を民議の多数に委ね皇統の尊厳を干渉し冒涜する糸口を啓く者に近い。本条は、摂政を置く要件を皇室典範に譲り、これを憲法に載せないのは、もっぱら国体を重んじ、僅かなことにも用心して大事を防ぎ兆を慎む。









「大日本帝国憲法制定過程とその内容について③」

2014-06-29 07:11:29 | 日本

【第六条】
第六条 天皇は法律を裁可し其の公布及び執行を命ず(天皇は法律を裁可して、その公布と執行を命じる)

※謹んで思うには、法律を裁可し、形式に則って公布させ、執行の処分を命令する。裁可によって立法行為を完結し、公布により臣民尊行の効力が生じる。これは、全て至尊の大権である。裁可の権限が至尊に属するもので有るときは、裁可しない権限もこれに従う事は、言わずと知れたことで有る。裁可は天皇の立法における大権の発動するところで有る。故に議会の協賛と経ていると言えども、裁可が無ければ法律として成立しない。

蓋し、古の言葉に「法を読みて、宣(のり)とす」と播磨風土記に云う。大法山[いま、名勝部岡]品太天皇(ほむたのすめらみこと)[応神天皇]「この山において大法を宣られた。故に大法山という。」との言葉は、古伝遺族を徴明(しるしを明らかにする)する一大資料で有る。そして、法律は即ち王言であることは、古人が既に一定の釈義があって、誤る事は無い。

附記:これを欧州の論を参考してみると、君主が法案の成議を拒む権限を論ずる者、その説は一つではない。英国においては、これにより君主の立法権に属し、三体[君主及び上院下院をいう]の平衡の兆證とし、仏国の学者は、これにより行政の立法に対する節制の権限とする。控えめに見て彼の所謂、拒否権は消極的な主義であり、法を立てる者は議会であり、これを拒否する者は君主で有る。或いは、君主の大権により行政の一偏に局限し、或いは君主は立法の一部分を占領させる論理に出る者であるに過ぎない。我が憲法は、法律は必ず王命によるという積極的な主義を取るもので有る。故に裁可により始めて法律として成立する。それは、ただ王命による故に、従って裁可しない権限もあり、これは、彼の拒否の権と似ているが、実は天と地の差があるものである。


【第七条】
第七条 天皇は帝国議会を召集し其の開会閉会停会及び衆議院の解散を命ず(天皇は帝国議会を召集し、その開会・閉会・停会及び衆議院の解散を命じる)

※謹んで思うには、議会を召集するのは、もっぱら至尊の大権に属する。召集によらず議員自らが会集するのは、憲法の認めるところでは無い。そして、その議論・議決する全ての事は、効力が無い。

召集の後の議会を開閉し、両院の終始を制御するのは、また均しく至尊の大権による。開会の初、天皇自ら議会に臨み、または特命勅使を派遣して勅語を伝えさせるのを形式とし、そして議会の議事を開始するのは、必ずその後に行う。開会の前・閉会の後において議事を行う事は、全て無効にする。

停会は、議会の議事を中断させることで有る。期限のある停会は、其の期限を経て会議を継続する。

衆議院を解散するのは、さらに新選の議員に向って、与論の所属するところを問う事とで有る。これに貴族院を対象にしないのは、貴族院は停会すべきであり、解散すべきで無いからで有る。


【第八条】
第八条 天皇は公共の安全を保持し又は其の災厄を避くる為緊急の必要に由り帝国議会閉会の場合に於て法律に代わるべき勅令を発す
この勅令は次の会期に於て帝国議会に提出すべし若議会に於て承諾せさるときは政府は将来に向て其の効力を失うことを公布すへし
(天皇は公共の安全を保持し、その災厄を避けるため緊急の必要があり、かつ帝国議会が閉会中の場合は、法律に代わる勅令を発する
この勅令は、次の会期に帝国議会に提出しなければならない。もし、議会において承認されなければ、政府は将来その勅令の効力が失われることを公布しなければならない)

※謹んで思うには、国家の一旦急迫が発生した時や国民に凶荒な疫病が発生したり、その他災害が発生した時は、公共の安全を保ち、その災厄を予防救済するために力の及ぶ限り必要な処分を施さなければならない。この時に議会が偶々開会していなければ、政府は進んでその責任を司り勅令を発して、法律に代え手抜かりの無いようにするのは、国家の自衛と保存の道において、もとより止むを得ざるものである。故に前五条において立法権の行用は議会の協賛を経てと言ったのは、その常の状態を示したのであり、本条に勅令を法律に代える事を許すのは、緊急時の為に除外される例を示す物で有り、これを緊急命令の権とする。よくよく緊急命令の権は憲法の許すところであり、また憲法のもっとも乱用を戒めるところである。憲法は公共の安全を保持し、又は災厄を避けるために、緊急で必要な限りこの特権を用いることを許し、そして利益を保護し幸福を増進するという通常の理由により、これを乱用することを許さない。故に緊急命令は、これを発令するときに本条に準拠することを宣言する事を形式とすべきである。もし、政府がこの特権に託し容易に議会の公議を回避する方便として、また容易に既定の法律を破壊するに至る事があれば、憲法の条規は空文に帰し、一つも臣民の為に保障をなすことが出来なくなる。故に本条は、議会にこの特権の監督者としての役割を与え、緊急命令を事後に検査して之を承諾させる必要のある事を定めた。

本条は憲法の中で疑問の一番多いものだ。今、逐一問いを設けて之を解釈しようと思う。
第一、この勅令は法律の欠けている部分を補充する事に止まるのか、又は現行の法律を停止し変更し廃止する事が出来るのか。

曰く、この勅令は既に憲法により法律に代わる力を持っている時は、おおよそ法律が出来る事が出来るのは、すべてこの勅令の出来る事である。ただし、次の会期において議会がもし承諾しなかったときは、政府はこの勅令の効力が失われる事を公布すると同時に、その廃止又は変更した法律をすべ元の状態に戻さなければならない。

第二、議会において、この勅令を承諾するときは、その効力はどのようになるのか。
曰く、更に公布しなくても、勅令は将来に渡って法律としての効力を継続する。

第三、議会において、この勅令の承諾を拒むときは、政府は更に将来効力を失う旨の公布しなければならない義務を負うのは何故か。
曰く、公布によって始めて人民が尊由する義務を解く事が出来るからで有る。

第四、議会はどのような理由により、その承諾を拒む事が出来るのか。
曰く、この勅令が憲法に矛盾し、又は本条に掲げた要件(緊急かつ議会が閉会中)を満たしていない事を発見した時、又はその立法上の意見によって承諾を拒む事が出来る。

第五、この勅令を政府がもし次の会期に議会に提出しなかったとき、或いは議会が承諾を拒んだ後、政府が廃止するとの命令を発令しない場合は、どのようになるのか。
曰く、政府は憲法違反の責任を負う事になる。

第六、議会がもし承諾を拒んだときは、以前に遡って勅令の効力の取り消しを求めることが出来るのか。
曰く、憲法は、既に君主が緊急勅令を発して法律に代える事を許している。その勅令が存在している間は、その効力を有する事は当然で有る。故に議会がこれを承諾しないときは、単に将来法律として継続して効力を持つ事を拒む事が出来るだけであり、そして、過去に拒否の効力を及ぼす事は出来ない。

第七、議会は、勅令を修正した後承諾する事が出来るのか。
曰く、本条の正文によれば議会は、これを承諾するか承諾しないかの二つに一つを選ぶ事が出来るだけである。だから、これを修正する事は出来ない。


【第九条】
第九条 天皇は法律を執行するために又は公共の安寧秩序を保持し及び臣民の幸福を増進する為に必要なる命令を発し又は発せしむ但し命令を以て法律を変更する事を得ず(天皇は、法律を執行するため、又は公共の安寧と秩序を保持し、及び臣民の幸福を増進する為に必要な命令を発令するか発令させる事が出来る。ただし、命令で法律を変更する事は出来ない)

※謹んで思うには、本条は行政命令の大権を掲げたもので有る。蓋し、法律は必ず議会の協賛を経て、そして命令はもっぱら天皇の裁定によって出る。命令の発令するところの目的は二つ有る。一つは、法律を執行するための処分並びに詳説(詳しい説明)を既定する。二つ目は、公共の安寧・秩序を保持し及び臣民の幸福を増進する為の必要において行う。これは全て行政の大権により、法律の手続きによらずに一般尊由の条規を設ける事が出来る。蓋し、法律と命令とは、均しく臣民に尊守の義務を負わせるものである。但し、法律は命令を変更できるが、命令は法律を変更する事が出来ない。もし、双方が矛盾する事態になったなら、法律は常に命令の上に効力を有すべきである。

命令は、均しく至尊の大権による。そして、その勅裁にでて親署を経るものを勅令とする。その他、閣省(内閣と省庁)の命令は、全て天皇大権の委任による。本条に命令を発令し、または、発令させるというのは、この両方の命令を兼ねて言い表している。

前条に掲げた緊急命令は、法律に代わる事が出来るが、本条に掲げる行政命令は法律の範囲内で処分し、又は、法律の欠けている部分を補充する事が出来るけれども、法律を変更し、及び憲法に特に掲げて法律を要するところの事件を既定する事は出来ない。行政命令は常に用いる物であり、緊急命令は変事に用いるものである。

附記:これを欧州の論を参考にすると、命令の久息を論ずるものは、その主義は一つだけではない。

第一にフランス・ベルギーの憲法は、命令の区域をもっぱら法律を執行するのに止め、そしてドイツの憲法は、またこれを模倣したのは君主の行政の大権を狭局(狭い局所)の範囲の中に制限するという誤った考えである事を免れない。蓋し、所謂行政はもとより法律の条規を執行するのに止まらず、なんとなれば法律は普通準縄の為にその大則を定める能力があって、そして様々な事物の活動に対して、逐一それに応じた処置を指示する事は出来ないのは、あたかも一個人の予定する志は、行動の芳香を指導すべきだと言っても、変化は極まりない事情に順応して、その機宜を誤らないのは、また必ず臨時の思慮を要す事と同じである。もし、行政で法律を執行する限りの所で止まらせると、国家は法律が欠けた部分において当然職責をつくすための根拠がない事になる。故に、命令は独り執行の作用に止まらず、時宜の必要に応じて、その固有の意思を発動することである。

第二に法理を論じる者は、安寧・秩序を保持する事が、行政命令の唯一の目的とする者があるのは、これまた行政の区域を定めるのに適当な釈義を欠く者である。蓋し、古の欧州各国政府は、安寧を保持するのを最大の職責とし、内治においては、ひとえに仮初に主としたのであり、人文が漸く開け政治が益々進むに及んで、始めて経済及び教育の方法により、人民の生活及び知識を発達させ、その幸福を増進する事の必要性を発見するに至った。故に行政命令の目的は、独り警察の消極的手段に止まらず、更に一歩を進めて経済上で国民を富殖し、教育上でその知識を開発する積極的手段を取る事を務めなければならない。但し、行政はもとより各人の法律上の自由を犯すべきではない。その適当な範囲で勤導扶掖して、その発達を喚起すべきである。行政はもとより法律が既に制定した限界を離れないようにして、法律を保護し、それにより国家の職責を当然の区域の内につくすべきである。


【第十条】
第十条 天皇は行政各部の官制及び文武官の俸給を定め文武官を任免す但し此の憲法又は他の法律に特例を掲げたるものは各々其の条項に依る(天皇は、行政各部の官吏の制度、及び文武官の俸給を定め、文武官を任免する。但し、この憲法、又は他の法律で特例を既定した場合は、その条項に従う。)

※謹んで思うには、至尊は建国の必要から、行政各部の官局を設置して、その適当な組織及び職権を定めて、文武の人材を任用したり罷免したりする大権を執る。これを上古に見てみると神武天皇が大業を定めて国造・県主をおいた事が立官として始めて歴史にみえるものである。孝徳天皇が八省を置いた事で、職官が大いに整備された。維新の初に大宝律令の官制は旧式であるため、職官を増減した。その後、数度の更新拡張を経て、官制及び俸給の制度を定められた。そして、大臣は天皇が親しく任免し、勅任以下の高等官は、大臣の上奏により最下を経てこれを任免する。均しく全て至尊の大命に出ないものは無い。但し、裁判所及び会計検査院の構成は、勅令によらず法律でこれを定め、裁判官の罷免は裁判により行うのは、憲法及び法律の掲げる特例によるものである。
官を分割し職を設ける事は、既に王者の大権に属するときは、俸給を給与することも、大権に付属すべきである。

附記:これをドイツの歴史上の事柄を検討すると、昔、官吏の任免はもっぱら君主及び長官の随意に任せていて、十七世紀になって帝国大裁判所の裁判官は、裁判によらなければその官を免ずる事が出来ないとし、この原則を帝国参事官にも適用した。その後、十八世紀に至って行政官吏の任職もまた、その確定権利に属すると言う節が行われ、往々にして、各国が法律に採用するところとなったが、十九世紀の初に、官吏は俸給について確定の権利が有るといっても、その職についてこれを有することなし。故に俸給又は恩給を与えて、その職を罷免するのは、行政上の処分でたるという主義を論じる者が有る。この論理は、主にバイエルンの官吏の職制法の掲げる所である。政府は、懲戒裁判によらずに行政上の便宜によって、官吏の官階及び官階俸を残して、その職務及び職務俸及び職服を解くことを得させた。[1818年法]。ただ独り英国は、ドイツ各国とはもともと異なっていて、ある一部の官吏を除く他は、君主の随意に文武官を任免する特権があるものとしているのは、今も昔の通りである。


【第十一条】
第十一条 天皇は陸海軍を統帥す(天皇は陸海軍を統率する)

※謹んで思うには、太祖は実に神武(神の武力)をもって帝国を建国し、物部・靫負部・来目部を統率して、後を継いだ歴代の天皇も内外に事が起これば、自ら兵を率い征討を自ら行い、或いは皇子皇孫を代わりに行かせ、そして臣連の二造はその副将である。天武天皇は兵政官の長をおき、文武天皇は大いに軍令を修め、三軍を統率するのに大将軍が一人いる。大将の出征には必ず節刀を授ける。兵馬の権は朝廷にあり、その後は兵事が武門に移り、政治の大綱がそれによって衰えた。

今上中興の始め、親征の詔を発して、大権を総攬し、それ以後兵制を改革し、長年の悪弊を洗い除き、帷幕の本部を設け、自ら陸海軍を統率された。そして、祖宗の光り輝く功績を再びその昔にかえすことが出来た、本条は兵馬の統一は、至尊の大権で、もっぱら帷幄の大令に属すことを示している。









「大日本帝国憲法制定過程とその内容について②」

2014-06-28 09:23:31 | 日本

◎伊藤博文著『憲法義解』の現代語訳

明治憲法の解説書としてもっとも有名なのは伊藤博文による『憲法義解』である。これを読むことから始めるのが、憲法改正論議の正統的な方法だろうと思う。特に「伊藤博文たちが、『古事記』『日本書紀』にはじまる日本の歴史古典を十二分に研究して、それらを踏まえて上で、欧米の憲法を勉強して、明治憲法をつくっている点」に注目したい。
明治憲法というと、戦後は一般的に封建的とか軍国主義的とか、そういう話しかないが、本訳文はまことに啓蒙的である。

今回は、天皇と国民のところ、【第1章 天皇】と【第2章 臣民権利義務】についてのみ記す。


①伊藤博文による序 

謹んで思うには、皇室典範は歴聖の遺訓(歴代の天皇が残された教訓)を受け継いで記し、後世へ常軌しめしおくるもので有る。帝国憲法は、国家の大経を綱挙(大綱を掲げること)して、君民の区別を明確にする。意義は精確で明らかであり、日や星のように文理は奥深く、書かれた言葉の美しさを誉め称えるところは無い。これは全て、遠くまで見渡した大いなる計画で、ひとえに聖裁によるところで有る。博文、密かに属僚とともに研磨考究した事を、余さず記録して筆記とし、原稿を判り易く繕写して、名づけて義解という。敢えて大典の解説や説明とするのではなく、いささか備考の一つに付け加えられる事を冀うだけである。もしそれ、精通し類推して意味を押し広めて解き明かす事は、後の人に望む事であり、博文の敢えて企てる所ではない。謹んで書き記す。

明治二十二年四月 伯爵 伊藤博文


◎大日本帝国憲法義解

※謹んで思うには、わが国の君民の区別は既に建国の時点で定まり、中世ではしばしば、変乱を経て、政綱の統一を緩めてしまったが、大命が下り維新において皇運が盛んになり、貴い詔を公布して立憲の大いなる計画を宣言され、上は元首の大権を統一し、下は股肱の力を広げ、それは臣下の輔弼(助け)と議会の翼賛(力添え)によって組織は各々その所を得る。そして臣民の権利及び義務を明らかにして、益々その幸福を進める事を確信する。これは全て祖宗(歴代の天皇陛下)の遺業であって、その源を解き明かして、その流を通すもので有る。


◎第一章 天皇

【第一条】
第一条 大日本帝国は萬世一系の天皇之を統治す(大日本帝国は、万世一系の天皇によって統治される。)

※謹んで思うには、神祖(神として祭られている先祖)が建国されて以来、時には盛衰が有りはしても、世の中に治乱が有りはしても、皇統一系の貴い位の盛んである事は、天地とともに有り終わりが無い。本条は憲法の最初に立国の大義を掲げて、我が日本帝国は一系の皇統とともに終始し、今も昔も永遠にあり、一があって二がなく常があって変がないことを示して、それによって君臣の関係を永遠に明らかにする。

統治は、大位(天皇の位)に就いて大権を統べ、国土と臣民を治めることである。古典には天祖の勅を挙げて、「瑞穂国(日本)は我が子孫が王となるべき地である。皇孫よ行って治めなさい」といわれた。また、神祖を称えて祭り始御国天皇(はつくにしらすすめらみこと)といわれた。日本武尊の言葉に「私は纏向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)で大八島国(おおやしまのくに)を知ろしめす(治めておられる)大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)の御子」とある。文武天皇(もんむてんのう)即位の詔に「天皇の御子が次々に継いでこられた大八島国を治める順」といわれた。また、天下を調査し平穏にされ、公民に恵みを与え慰撫された代々の天皇は、皆、このことによって伝国の大訓とされ、その後の「御大八州天皇(おおやしましろしめすすめらみこと)」ということで、詔書の例式とされた。所謂「しらす」とは即ち統治の意味に他ならない。蓋し、歴代の天皇はその天職を重んじ、君主の徳は八州臣民を統治するためにあって、一人一家に享奉する私事では無いことを示された。これは、この憲法のよりどころであり、基礎とするところである。

倭が帝国の領域は、古に大八島というのは淡路島[即ち今の淡路]、秋津島[即ち本島]、伊予の二名島[即ち四国]、筑紫島[即ち九州]、壱岐島津島[津島、即ち対馬]、隠岐島佐渡島をいう事は、古典に記載されている。景行天皇が東の蝦夷を征伐し、西の熊襲を平定し国土が大いに定まった。推古天皇の時には百八十余の国造があり、延喜式に至り六十六国及び二島の区画を載せた。明治元年、陸奥出羽の二国を分けて七国にし、北海道に十一国を置く。ここにおいて全国合わせて八十四国とした。現在の国の境は、実に古の所謂大八島、延喜式の六十六国及び各島、並びに北海道沖縄諸島、及び小笠原諸島とする。蓋し、土地と人民とは国を成立させる根本であり、一定の国土は一定の我国を成り立たせ、そして、一定の憲章がその間で行われる事により、一国は一個人の如く、一国の国土は一個人の体躯の如くをもって統一完全な領域をなす。


【第二条】
第二条 皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す(皇位は皇室典範の定めに従って、皇統の男系の男性子孫が継承する。)

※謹んで思うには、皇位の継承は祖宗以来、既に明快な遺訓があり、皇子孫に伝え永遠に変わる事が無い。もし継承の順序に至って新たに勅定する皇室典範において、これを細かな点まではっきり記載し、それを皇室の家法とし、さらに憲法の条章にこれを掲げる事を用いないのは、将来、臣民の干渉を要れないことを示している。

皇男子孫とは、祖宗の皇統における男系の男子をいう。この文は皇室典範の第一条と同等である。


【第三条】
第三条 天皇は神聖にして侵すべからず(天皇は神聖であり、侵してはならない)

※謹んで思うには、天地が別れて神聖位を正す[古事記]。蓋し、天皇は天が許された神慮のままの至聖であり、臣民や群類の上に存在され、仰ぎ尊ぶべきであり、干犯(干渉し権利を侵すこと)すべきではない。故に、君主は言うまでも無く法律を敬重しなければ成らないが、法律は君主を責問する力は持っていない。しかも、不敬をもってその身体を干涜(干渉し冒涜すること)のみならず、指差して非難したり議論したりする対象外とする。


【第四条】
第四条 天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規により之を行う(天皇は国家元首であり、統治権を統合して掌握し、憲法の規定により統治を行う)

※謹んで思うには、統治の大権は、天皇がこれを祖宗から受け継ぎ、子孫に伝える立法行政百揆の事など。おおよそ国家に臨御し(帝位について治めること)、臣民を綏撫(安心するように抑えしずめること)するところの者は、一に皆、これを至尊に全てその綱領を集めるのは、例えば人の身に四支百骸(手足と骨)があって、精神の経絡は全てその水源を首脳に取る事と同じで有る。故に大政の統一は、あたかも人心が二つも三つも無いのと同じで有る。ただし、憲法を親裁し君民が共に守る大典とし、その条規に尊由して誤らず取りこぼさずの盛意(有難い思し召し)を明らかにされるのは、即ち自ら天職を重んじて世運と共に永遠の規模を大成する者で有る。蓋し、統治権を総攬するのは、主権の「体」である。憲法の条規によってこれを行うのは「用」である。「体」があって「用」が無ければ、これを専制に失ってしまう。「用」があって「体」が無ければ、これを散漫に失ってしまう。

附記:欧州で最近、政治理論を論ずる者の説に言うには、「国家の大権は大別して二つで有る。立法権・行政権であり、司法権は実に行政権の支派である。三権各々その機関の輔翼によってこれを行う事は、ひとえに皆元首に淵源する。蓋し、国家の大権は、これを国家の体現で有る元首に集めれば、これによってその生機を持つことが出来なくなる。憲法は即ち国家の各部機関に向けて適当な定分を与え、その経絡機能を持たせるものであって、君主は憲法の条規によって、その天職を行う者で有る。故に彼のローマで行われた、無限権勢の説はもとより、立憲の主義ではない。そして西暦18世紀の末に行われた三権を分立して君主は特に行政権を執行するとの説の如きは、国家の正当なる解釈を誤るもので有る」と。この説は我が憲法の主義と相発揮するに足る物があるので、ここに附記して、参考に当てる。


【第五条】
第五条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う(天皇は帝国議会の協賛により立法権を行使する)

※謹んで思うには、立法は天皇の大権に属しており、そして、これを行使する時は必ず議会の協賛の上で行使する。天皇は、内閣に起草させ、或いは議会の提案により、両院の同意を経た後に、これを裁可して始めて法律を作る事が出来る。故に至尊は独り行政の中枢であるばかりでなく、また立法の淵源でもある。

附記:これを欧州の状況を参考すると、百年以来、偏理の論(偏った理論)が時の移り変わりと投合して、立法の事を主として議会の権利に所属させ、或いは法律を以て上下の約束として君民共同の事柄とすることを重点にするのは、要するに主権統一の大義を誤るもので有ることを免れない。我が建国の体にあって国権の出所は、一があって二が無いのは、たとえば、主の一つの意思は、よく百骸(体全体)をしし指使(指揮して人を使うこと)するようなもので有る。議会の設置は、元首を助けて、その機能を完全にし、国家の意思を精錬強建(よく鍛え、強くすること)にしようとする効用を認めるのにほかならない。立法の大権は、もとより天皇の統合掌握されるところであり、議会は協翼参賛(共同し力をあわせて賛同すること)の任にある。本末の関係は厳然として、乱れるようなことをしては成らない。











「大日本帝国憲法制定過程とその内容について①」

2014-06-27 07:10:51 | 日本

明治憲法というと、戦後は一般的に封建的とか軍国主義的とか、そういう話しかないが、実はまったく違う。
以下、6回に渡り学ぶ。



大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法。明治憲法と呼ばれることも多い。


◎明治維新による国制の変化

日本では、明治初年に始まる明治維新により、さまざまな改革が行われ、旧来の国制は根本的に変更された。慶応3年10月14日(グレゴリオ暦1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。これにより、日本は、封建的な幕藩体制に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。大日本帝国憲法第10条は官制大権が天皇に属すると規定している。

明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(立法権・行政権・司法権)を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、国家の統治権は天皇が総攬すると規定している。

版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。

新政府は版籍奉還と同時に、堂上公家と諸侯を華族に、武士を士族に、足軽などを卒族に、その他の人民を平民に改組した。明治4年(1871年)には士族の公務を解いて農業・工業・商業の自由を与え、また平民も等しく公務に就任できることとした。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用して国民皆兵となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして武士の階級的な特権は廃止された。大日本帝国憲法第19条は人民の等しい公務就任権を規定し、同第20条は兵役の義務を規定した。帝国議会開設に先立ち、1884年(明治17年)には華族令を定めて華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に再編するとともに身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は華族の貴族院列席特権を規定した。


◎明治の変革

王政復古によって設置された三職(総裁、議定、参与)のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正、福岡孝弟、木戸孝允らは公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5ヶ条にまとめた。慶應4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったものが五箇条の御誓文である。

「五箇条の御誓文」

一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

政府は、五箇条の御誓文に示された諸原則を実施するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。政体書は、権力分立(三権分立)の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官として、公議輿論の中心となる立法議事機関である議政官を設けることなどを定めた。しかし、戊辰戦争終結の見通しがつくとともに、政府は公議輿論の尊重に対して消極的となり、同年9月(同年10月)には議政官は廃止された。

明治2年3月(1869年4月)、議事体裁取調所による調査を経て、新たに公議所が設置された。これは各藩1人の代表者により構成される立法議事機関である。広議所は同年9月(同年10月)には集議院に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施され、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。

1874年(明治7年)、前年のいわゆる明治六年政変(征韓論の争議)に敗れて下野した副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平等が連署して、民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書では、官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張された。これを機縁として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。また、このころには各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。代表的なものとしては、1874年(明治7年)の佐賀の乱、1876年(明治9年)の神風連の乱、1877年(明治10年)の西南戦争などが挙げられる。
1875年(明治8年)4月14日、立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が出された。


「立憲政体の詔書」(抄)

……茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ大審院ヲ置キ以テ審判ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ圖リ漸次ニ國家立憲ノ政體ヲ立汝衆庶ト倶ニソノ慶ノ頼ラント欲ス……

すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言した。これは、大久保利通、伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允、板垣退助らの民権派の会談である大阪会議の結果である。また、地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して、各府県に民選の府県会(地方議会)を設置した。これが日本で最初の民選議院である。


◎制定までの経緯

1882年(明治15年)3月、「在廷臣僚」として、参議・伊藤博文らは政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ系立憲主義の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」というアドバイスをうけた。その結果、プロイセン (ドイツ)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する井上毅をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない)。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。

1885年(明治18年)には太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)やアルバート・モッセ(Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。この草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、相州金沢の東屋旅館に移り作業を継続する。しかし、メンバーが横浜へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生[5]。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は1889年(明治22年)1月に結了した。

1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」[6]が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。この憲法は天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。また、同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められた。大日本帝国憲法は第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。

国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った。自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。


◎大日本帝国憲法構成

大日本帝国憲法は7章76条からなる。

【第1章 天皇】
第1条 天皇主権
第2条 皇位継承
第4条 統治大権
第10条 官制大権及び任官大権
第11条 統帥大権
第12条 編成大権
第13条 外交大権
第14条 戒厳大権

【第2章 臣民権利義務】
第19条 公務への志願の自由
第20条 兵役の義務
第22条 居住・移転の自由
第29条 言論・出版・集会・結社の自由
第31条 非常大権

【第3章 帝国議会】
第34条 貴族院
第4章 国務大臣及枢密顧問
第5章 司法
第6章 会計
第7章 補則
第73条 憲法改正










「井上毅とは如何なる人物だったのか?④」

2014-06-26 06:43:14 | 日本

◎結びに、

「明治憲法」制定までの動きを学んできて分かったように、これだけの力の根底があったればこそ、その後の安定的な権威を確保してきた。然るに何故、これほど素晴らしい憲法が変えられてしまったのか?多くの日本人は、このことを深く考えなくなってしまっている。謂わば、戦後の日本人の頭の中には、「歴史の空白」がおきているからである。何故なのか?この点について、昭和46年に出された葦津珍彦(あしづ うずひこ)先生の「憲法の思想と政治の力学」を参考にしたい。この中に書かれてある憲法改正と政治の力学のところを抜粋する。

「終戦により、帝国憲法を倒したのは連合軍の戦力だと言っていい。その戦力は、300万の日本人をたおし、日本全土を占領し、政治的リーダーを戦犯として処刑し、なお100万人の社会的活動分子を追放し、いやしくも政治的反対者には微動もゆるさねとの威力があった。この絶大なる力を前提にして考えるのでなくては、帝国憲法が倒れることなどは、とうていあり得なかったし、新憲法がすらすらと成立するはずもなかった。占領が終わるとともに、国民の政治良識と、この憲法との間の矛盾を論証し、この憲法の不条理を論証するいくつもの著書が出た。それは確かに日本の「沈黙せる国民大衆」の声を反映するものではあった。だがそれは、とうてい占領軍のあの絶大の軍事力を持って築き上げていった現存社会機構の鉄壁を、破り得る力とはなり難いであろうと言うのが、私の政治学的な観測であった。「天下の事は、議論だけでは決しないことがある。」との西郷隆盛の言葉は、好むと好まざるとにかかわらず、動かし難い政治力学の法則の重みがある。
<中略>
2000年の伝統的文明の成果は、たかが数十年にわたるさかしらなる教育よりも、はるかに根強い力と英知とを持って「沈黙せる民族大衆」の意思は、占領権力によって変質された日本のマスコミによって全く黙殺されており、組織されないままである。だがそれは依然として底流として現存している。精鋭なる前衛が政治の力学を学びとり、この大きな日本民族の底流と結びつくとき、ボツダム憲法はなだれのごとくくずれさるであろう。」


私たちは今一度、歴代の先輩諸氏に対して感謝の念をおこし、我がうちに流れる日本民族の魂を奮起し、真に自立ある国創りのために民族の魂の入った新憲法を実現しようではないか。


我がうちに流れる日本民族の魂!





<了>








「井上毅とは如何なる人物だったのか?③」

2014-06-25 07:59:05 | 日本

◎伊藤哲夫著『明治憲法の真実』より、

洋の東西を問わず、憲法や政治百般について、その基礎を自らの国の歴史の典籍にとらない国はない。その国の歴史、それを記した古典、慣例こそ、その国の憲法並びに政治の源である。
幕末に熊本藩に生まれた井上毅は藩校で儒教を学び、維新後はフランス語を学び、明治5年にはフランスへ渡り、西洋の法制度を学ぶという経歴を経、法制官僚としての階段を上り詰めていた。

しかし、井上には専門的に国史国典を学んだという経歴がなかった。その井上が、この『大政起要』の編纂に関わることになったのを機に、国史国典の勉強をやり始めた。直接的な当時の資料はあまり残されていないが、井上がこの国史国典をどのように考えていたかを推測させてくれる記録が残されている。

明治16年か17年の頃、 皇典研究所という所で井上が講演をした時の記録です。ちなみにここで皇典とか国典とかいうのは『古事記』『日本書紀』のこと。
ここで井上はまず次のように述べている。

「政事の為めに国典を講究することは、政治上隨一の必要である。何んとなれば、海の東西を問はず、総ての国が其の憲法及び百般の政治に 就いては、其の淵源基礎を己れの本国の歴史典籍に取らぬ国は無い。国の歴史上の沿革及故典慣例は、其の憲法併に政治の源である」『古事記』『日本書紀』を研究することは非常に大切なことである。

この国に生まれたあらゆる人間が学ぶべきことであるといってもいい。

洋の東西を問わず、憲法や政治百般について、その基礎を自らの国の歴史の典籍にとらない国はない。その国の歴史、それを記した古典、慣例こそ、その国の憲法並びに政治の源である。そこを押さえねば憲法は考えることができないし、政治もできはしない、と。

ドイツから帰国した翌年、伊藤博文は憲法準備のために制度取調局を設置し、井上毅を含む15名が同局兼任となった。井上はさらに憲法草案に向けての研究を進める。相変わらず直接的な資料があるわけではないが、同時に井上は日本の歴史、とりわけ皇室の歴史を徹底的に学び始めたと思われる。

井上は当時、東京帝国大学で国史を教えていた小中村清矩の教えを受けるとともに、小中村の婿養子である池辺義象を助手にして古事記』『日本書紀』や『大日本史』などの 日本の歴史書を徹底的に勉強していった。

明治19年に池辺が東京大学古典講習科を卒業すると、池辺は宮内省図書寮に採用される。当時、井上は同省図書頭も兼務していた。池辺がその当時のことを次のように記している。

「19年の夏、この学科を卒業して大学をいで、やがて宮内省図書寮の属官を拝命しぬ。 この時、先生はこの寮の頭にておはしながら、かの帝国憲法、皇室典範の制定に従事したまひしかば、寸時も暇あらせたまはず、朝はまだほのくらきより起きいでて、夜は更るまでこの事にのみかがづらひたまひき。その任用したまふ人おほき中にも、おのれには我国の典故を悉取調べさせたまへり。さればおのれは、官省時間の外は先生の家にのみ籠り居、常にその監督の下にありて、その料をかきつづりしこといくばくなりしぞ」

この頃からそんな無理がたたってか、井上は病気がちだった。池辺はそんな井上の健康を心配し、気分転換をかね、明治19年の暮れから翌年にかけ、井上を安房、房総、相模を巡る旅に連れ出す。ところが、井上はどこへ行こうと、昼食の席でさえ書類を手から離そうとはしない。そして思いついたことをすぐに筆で書き留めようとするのだった。その凄まじさを紹介しておく。

あるとき千葉の鹿野山に登ることになった。井上は片手に杖を持ち、もう一方の手にはいつものように書類を握りしめて歩いていた。山は12月の冷たい風が吹き、手が凍るように冷たくなる。ようやく井上は書類を鞄にしまった。横を歩いていた池辺は、ようやく歩くことに専念していただける」 とほっとするのだが、それもつかの間、井上はこう言った。

「ところで、大国主神の?国譲り?の故事はどういうことだったろうか」と。あるいは鎌倉に行ったときのこと。その日は雪が降り、風も強くなっていた。井上は歩きながらいつものように、「大宝律令にはどんな話が書いてあっただろうか」と質問する。池辺があいにくここには原文がありません。私の記憶だけでは正確に答えられません」と言うと、いますぐに確かめたい。帰京予定は明日になっているが、それを一日早め、これから出発すれば、今日中には東京に帰ることができる」と、突然雪が降りしきるあぜ道を駆け出した。そのようにして藤沢まで行き、そこで人力車を雇って横浜へ。さらに汽車に乗り継いで、その日のうちに東京に戻った。私はこの池辺の文を読んだとき、ここまでして井上は日本の歴史の核となるものをつかもうとしたのかと、思わず涙がこみ上げてくる思いだった。










「井上毅とは如何なる人物だったのか?②」

2014-06-24 07:44:42 | 日本

伊勢雅臣さんの論文を以下、要約する。


【1】「しらす」と「うしはく」

井上毅は、これから起草する憲法の根幹とすべき「民族精神・国民精神」を求めて、徹底的な国史古典研究を続けたが、その過程である重要な発見をした。
それは古事記において、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が出雲の支配者である大国主神(オオクニヌシノカミ)に対して、国譲りの交渉をする部分である。

「大国主神が『うしはける』この地」は、「天照大御神の御子が本来ならば『しらす』国であるから、この国を譲るように」とある。井上はこの「うしはく」と「しらす」がどういう違いを持っているのか、調べてみた。すると、天照大御神や歴代天皇に関わるところでは、すべて「治める」という意味で「しらす」が使われ、大国主神や一般の豪族たちの場合は、「うしはく」が使われていて、厳密な区別がなされていることが分かった。


【2】「しらす」とは、国民の喜び悲しみを「知る」こと

井上はここに日本国家の根本原理があると確信した。「しらす」とは「知る」を語源としており、民の心、その喜びや悲しみ、願いを知ることである。そして、それは民の安寧を祈る心につながる。

たとえば、今回の大震災に関しても、天皇皇后両陛下は何度も被災地を訪れ、避難所で膝をつきあわせて、被災者たちの声を聞かれた。被災者たちは国家を象徴する天皇に自分たちの苦難を聞いてもらうことで、自分たちは孤立しているのではない、国家国民が心配してくれているのだ、と勇気づけられる。またそこから明らかになった被災者たちの苦しみを少しでも軽減しようと、自衛隊や警察、ボランティアなどの人々が救援活動を展開する。これが「知らす」による国家統治の原風景であろう。歴代天皇は、天照大御神から授けられた三種の神器を受け継がれている。その中で最も大切な鏡は、曇りなき無私の心で民の心を映し出し、知ろしめすという姿勢の象徴である。

これに対し、「うしは(領)く」とは、土地や人民を自分の財産として領有し、権力を振るうことだ。北朝鮮で数百万人の人民を餓死させながらも、金正日が贅沢の限りを尽くし、同時に核開発を進めて自らの権力を誇示していたのは、「領く」の一例である。


【3】国家成立の原理

井上は、「国家成立の原理」について以下の如く説く。

・支那(中国)、ヨーロッパでは一人の豪傑がおって、多くの土地を占領し、一つの政府を立てて支配し、その征服の結果をもって国家の釈義(意味)となすべきも、御国(日本国)の天日嗣(あまつひつぎ、天皇)の大御業(おおみわざ、なさってこられたこと)の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすという意義より成り立ちたるものなり。

・かかれば御国(日本国)の国家成立の原理は、君民の約束にあらずして、一つの君徳なり。国家の始めは君徳に基づくという一句は、日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ。

・たとえば英国では国王の横暴から臣民の権利を守るために不文憲法が発達したが、これなどは「君民の約束」の一例だろう。これに対して、日本国は民の喜び悲しみを天皇が知り、その安寧を祈る、という「君徳」が、国家の成立原理になっていると、井上は確信したのである。


【4】大日本帝国憲法第一条

この発見に基づいて、井上が大日本国憲法草案の第一条として、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇ノ治ラス所ナリ」とした。

しかし、この近代憲法を世界に知らしめようとした伊藤博文から、「これでは法律用語としていかがなものか。外国からも誤解を招く」との異論が出て、最終的には、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之(こ)レヲ統治ス」と改められた。しかし、井上は伊藤博文の名で自ら執筆した憲法の解説書『憲法義解』の中で、この「統治ス」は「しらす」の意味であるとはっきり書いている。この第一条から、明治憲法は天皇が国家の主権を握った専制憲法である、というような解釈をする向きもあるが、それが誤解であることは、この点からも明らかである。
逆に天皇が国民の思いを広く知るためには、むしろ専制主義であってはならない、というのが井上の考えでもあった。たとえば、憲法第5条の「天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う」は、言い換えれば、天皇が議会の協賛なしに勝手に法律を作ることを禁じている。

この憲法が発表されると、欧米での識者からは高い評価が寄せられた。伊藤博文が師事したウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授は、「日本の憲法はヨーロッパの憲法と比べても大変出来がよい」と評価した。


【5】信教の自由、思想の自由との両立

大日本帝国憲法が発布された明治22(1889)年の翌年、急速な文明開化による教育の混迷に危機感を抱いた地方官会議(県知事会議)で「徳育涵養の義につき建議」がなされた。
同じ危機感を抱かれていた明治天皇からも「徳育に関する箴言(しんげん)」を編纂して子供たちに学ばせよう、という提案があった。

これを受け文部大臣・芳川顕正(よしかわ・あきまさ)が、ベストセラー『西国立志編』を著した東大教授・中村正直(まさなお)に、草案の作成の委嘱をしたのだが、できあがったのはきわめてキリスト教色の強いものだった。「吾(わが)心ハ神ノ舎(やどり)スル所ニシテ」云々とまるで牧師が説教しているかのような文言もある。

この案をチェックして断固拒絶したのが、当時、法制局長官をしていた井上毅だった。首相の山県有朋は「それならどういう案なら良いのか、示してくれ」と井上に、草案の起草を求めた。大任を引き受けた井上は、まず近代国家の枠組みの中で、このような文書が満たすべき条件を考えた。

まず信教の自由を守るためにも、「天」とか「神」といった特定の宗教の用語を避けなければならない。キリスト教、仏教、儒教、神道、いずれを信奉する人々にも、等しく受け入れられるようなものではならない。

同様に、国民の良心の自由、思想の自由を守るためにも、君主が国民の信ずべきことを権力をもって強いるようなことがあってはならない。そのためには法的文書ではなく、君主が自らの考えを明らかにした「著作」という形をとることが望ましい。

さらに、天皇のお言葉として、論争を呼ぶような哲学的議論や、「政治上の臭み」、「あれをするな、これをしてはいけない」というようなせせこましい説教を避けねばならない、と考えた。


【6】「天皇のお言葉」を綴る無私の心

この考えのもとで、井上は最初の文案をまとめた。苦心に苦心を重ねただけあって、すでに教育勅語の最終的な正文にかなり近い内容になっていた。

井上はこの草案を、「明治天皇の師」元田永孚(もとだ・ながさね)に見せて、アドバイスを求めた。元田も、中村正直の案には大いに不満を抱いており、すでに自分なりの草稿を作成していたが、井上の案を見て、自らの草稿を引っ込めてしまった。

井上の草案から出発した方が良いと考えたようだ。自らの名誉などはまったく頓着せず、ただ国家のためにベストの道を選ぶ、という無私の心が窺われる。

ここから二人が協力して文案修正を始める。その過程では、元田が儒教的な表現を入れようと提案したが、井上がそれを断固拒否したこともあった。同郷の大先輩であり、当代一流の漢学者の提案であっても、万世に残る天皇のお言葉としてふさわしくないものは受け入れられない、との、これまた無私の心からであった。

首相の山県からは、国家の独立のために軍備が必要であり、「一朝事あれば」というようなことを一言入れて貰えないか、という提案もなされたが、これも井上は「政治上の臭み」と考えたのか、拒絶している。

最終段階では当然、明治天皇にも見ていただいた。元田が「国憲ヲ重ジ、国法ニ遵(したが)ヒ」の一節を、天皇の統治大権を制限するので好ましくないとしたが、天皇は「それは必要だから残すように」と言われた。近代立憲国家に必要な国民の心構えと考えられたのであろう。


【7】「私はあなた方国民とともに」

このような過程を経て、ついに文案が完成し、明治23(1890)年10月30日、「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)として発表された。

国民への押しつけにならないよう「君主の著作」として、他の勅語とは異なり、明治天皇の署名のみで、国務大臣の副署はなされなかった。

そして冒頭から「朕(ちん)思フニ(私が思うに)」と、法令ではなく、明治天皇ご自身の考えであることが明記されている。さらに最後は、次のようなご自身の切なる願いとして結ばれている。

朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ咸(みな)其(その)ヲ一ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ」
(私はあなた方国民とともに、この教えを常に心に抱き、皆でともにこの徳を抱いていくことを切に願う)

戦後、占領軍からの指示で、この教育勅語の「失効」を確認する国会決議がなされているが、もともと明治天皇の「個人的著作」として発表されたものであるから、当然、法的拘束力もなく、したがって国会で失効を決議すること自体が、意味のない所為であった。


【8】美しい国柄

冒頭で、井上の「知らす」と「領(うしは)く」の違いに関する発見を述べたが、井上は教育勅語においても、歴代天皇の国民の苦しみ悲しみを「知らす」という徳が、我が国の道徳の源泉である、と冒頭から述べている。

朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ 我カ臣民 克(よ)ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ 世々 厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ 此レ 我カ國體ノ精華ニシテ 教育ノ淵源 亦 實ニ此ニ存ス

(私が思うには、皇室の祖先は宏遠な理想を抱いて国を始め、国民の幸せを願い祈られる徳を深く厚く立ててきました。それを受けて国民も国に真心を尽くし、先祖や親に孝心を抱いて、国民すべてが心を一つにして、代々美しい国柄を作り上げてきました。教育の源も実にここにあります。)

今回の大震災に例えて言えば、両陛下がひたすらに被災者を案ずる大御心が「徳」であり、その大御心を我が心として自衛隊員などが被災者を助け、また地域、家族で助けあう姿が「忠」や「孝」である。そしてこの美しい国柄が世界を感嘆させた。

教育の「淵源」もこういう美風にある、というのが、教育勅語冒頭の主張であった。


【9】「偉大な勅語に雄弁に示された精神」

明治38(1905)年の日露戦争の勝利は、アジアの一小国が白人の大国を近代戦争で打ち破った戦いとして、世界を驚嘆させた。

英国は、日本の発展の原動力を、教育勅語をもとにした道徳教育の力と捉えて、講演者の派遣を日本に要請してきた。これに応じて、元東京帝国大学総長・菊池大麓(だいろく)が、教育勅語を英訳し、明治40(1907)年、英国各地を講演して回った。

その結果、たとえば全英教員組合の機関紙は、「この愛国心が強く、勇敢無比な国民は、教育上の進化を続け、結果としてその偉大な勅語に雄弁に示された精神をもって、国民的伸展の歴程を積み重ねていくであろう」と絶賛した。

大震災で被災者たちの助けあう姿が世界を感動させたように、人々が互いを思いやって、共同体のために尽くす姿は、洋の東西、時代の新旧を問わず、人の胸を打つ。人間が生まれながらに持つ公徳心、道徳心に響くものがあるからだろう。

「之ヲ古今(ここん)ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ」(これは昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理である)と勅語にある通りである。

ただ、この道理が悠久の昔から建国の原理となっていたという史上稀に見る幸福に、我々日本国民は気づき、感謝しなければならない。

井上は教育勅語煥発のわずか5年後の明治28(1895)年、文部大臣の任期半ばで亡くなった。まだ51歳だった。もともと体が弱かったのが、精魂を込めた仕事で心身を使い果たしたのだろう。

死後、皮下注射をした医者は「よくも、衰弱したるかな。殆(ほとん)ど一滴の血すら残さず」と述べたという。









「井上毅とは如何なる人物だったのか?①」

2014-06-23 07:18:20 | 日本

伊藤哲夫著『明治憲法の真実』を読んで、「明治憲法」制定までの動きがよく分かった。
黒船来航より数十年間、凄まじい時代の変化の中で、先人諸氏が如何に粉骨努力をして「明治憲法」制定して下さったのか!唯々、感謝の念で一杯である。その先輩方の中でも、一際、感慨深い人物が「井上毅」である。初代、内閣総理大臣伊藤博文は、「井上なくして憲法なし!」と言った。伊藤は当時、反政府運動側に立つ井上に対して、個人的感情より国家的事業の完成を優先させた。政治家伊藤博文もまた立派な人物であった。

以下、「井上毅とは如何なる人物だったのか?」について、4回にわたり学ぶ。



井上 毅(いのうえ こわし)1844年2月6日~1895年(明治28年)3月15日は、日本の武士、官僚、政治家である。子爵。法制局長官、文部大臣などを歴任する。

肥後国に熊本藩家老長岡監物の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。必由堂、時習館で学び、江戸や長崎へ遊学。明治維新後には開成学校で学ぶ。翌年に明治政府の司法省に仕官、西欧視察におもむく(1872-73年)。帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。

安定政権を作れる政府党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤とともに大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。枢密顧問官、第2次伊藤内閣の文部大臣を歴任。


◎伊藤博文と井上毅

伊藤博文は徳大寺実則あての書簡で井上を「忠実無二の者」と評し、宮中保守派との対決のために自ら宮内卿を兼ねた際にも自分の側近から井上だけを図書頭として宮内省入りさせるなど能力を高く買い信頼もしていた。

だが一方で自分の信念に忠実な余り過激な振る舞いに出ることがあり、明治十四年の政変の際には井上が勝手に岩倉具視に対してドイツ式の国家建設を説いてこれを政府の方針として決定させようとした事を知った伊藤は井上に向かって「書記官輩之関係不可然」と罵倒(1881年7月5日付岩倉具視宛井上書簡)している。

また後年、井上馨の条約改正案に反対していた井上がボアソナードによる反対意見書を各方面の反対派に伝えて条約改正反対運動を煽ったために第1次伊藤内閣そのものが危機に晒されるなど、伊藤は井上によるスタンドプレーに悩まされることもあった。


◎教育勅語への関与

1890年(明治23年)10月30日に発表された教育勅語は、山縣内閣のもとで起草された。その直接の契機は、山縣有朋・内閣総理大臣の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚・文部大臣に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山県は腹心の芳川顕正を推薦した。これ対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。

この中村原案について、山県が井上毅・内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。

一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。元田は熊本藩の藩校時習館の同窓(先輩)である。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。

1890年(明治23年)10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。










「魂の危機日本」

2014-06-22 09:14:02 | 日本

菅家一比古さんから「言霊の華」が届いた。
以下、要約し記す。


私は、日本は現在(いま)第四の国難に直面していると全国で講演している。

第一の国難は元寇の時。
第二の国難は幕末、明治維新の時。
そして第三は大東亜戦争敗戦の時。
も相手がハッキリしていた国難で分り易いのです。
ところが第四の国難である現代、一体敵は誰なのか。
相手が判らない。中国、韓国、はたまた米国なのか、よく判らない。

実は第四の国難の相手は日本人自身、自分自身なのである。内側から崩れる危機。日本人が日本人でなくなる危機、日本が日本でなくなる危機、即ち魂の危機、霊性の危機に直面している。

日本(人)の美しさ、強さは家族の絆、社会共同体の絆、繋がりにあったはず。皆で支え合い、助け合い、分かち合う心。3.11東日本大震災で東北の人々が見せてくれた美的光景は全世界を感動させた。しかしその一方で、日本人の心の頽廃は進むばかりである。

いまマスコミを騒がせているリサイクルショップの元従業員やその他多数の行方不明者。4歳になる次男の行方不明。行方不明の幼児、児童の数は、現在判明しているだけで全国で905名に及んでいる。また認知症患者の行方不明者の数も相当数に上っている。

以前尼崎で起きた多数のリンチ、殺人事件。このようなことが都内、市内で白昼堂々と行われていたのは、よほど現在の日本人の家族の繋がりや隣近所の繋がり、社会の繋がり、そして絆がよほど稀薄になってしまっているからである。

目に見えない霊的、魂の危機とは、知らず知らずに、いつの間にか、取り返しのつかない程蝕まれていく日本人の心の状態を言うのである。その原因が憲法にあったり、教育(日教組をはじめ)にあったり、教科書にあったり(自虐史観)、マスメディアにあったり、母性の喪失にあったりしたとするなら、全生命を懸けて私は行動する。

皆さんもどうか祈り続けて下さい。行動してください。日本は本当に危ない。日本の蘇りを共に果たしていこう。








「中国が最も嫌がる集団的自衛権発動のシナリオ」

2014-06-21 07:58:35 | 日本

北村 淳さんが 「中国が最も嫌がる集団的自衛権発動のシナリオ出した。以下、要約して記す。


安倍晋三首相が集団的自衛権に関連して、「日本の国民生活にとって必要不可欠なシーレーンにおける、機雷除去活動も視野に入れるべきである」との発言をした。

ペルシャ湾と日本を結ぶシーレーンの第一のチョークポイントであるホルムズ海峡が、イランが敷設する機雷により封鎖された場合を想定しての発言のようであるが、実は日本周辺海域でも中国海軍による機雷戦(機雷を敷設する作戦)の脅威が高まっている。

東シナ海や南シナ海での軍事紛争、とりわけ台湾を巡って中国が軍事力行使に踏み切った際には、台湾救援に駆けつけようとするアメリカ海軍空母打撃群やアメリカ海兵隊を積載する水陸両用即応群などは、中国海軍によって敷設される膨大な数の機雷によって行く手を阻まれてしまうことになる。対機雷戦能力が貧弱なアメリカ海軍がもたついている間に、人民解放軍は台湾(あるいは先島諸島)を“解放”してしまうことになりかねない。このシナリオは、自らの弱点を熟知しているアメリカ海軍では常識である。

※機雷の種類。海面に浮かぶもの、海中に静止するもの、海底に鎮座するもの、海底から 上昇するものなど様々な種類がある。


◎アメリカ海軍は伝統的に対機雷戦が苦手である。

中国人民解放軍が台湾侵攻をはじめ東シナ海や南シナ海で軍事行動を起こす場合に最も厄介な障碍となるのがアメリカ海軍の介入である。そのため人民解放軍は、空母打撃群をはじめとするアメリカ海軍艦艇や航空機が、台湾周辺海域や東シナ海、それに南シナ海での人民解放軍作戦地域に接近するのを阻むための戦略、すなわち「接近阻止・領域拒否(A2/AD)」戦略を成功裏に遂行できるように戦力を構築し、訓練に励んでいる。

このA2/AD戦略のために人民解放軍は多数の各種対艦ミサイルや対空ミサイルを東シナ海や南シナ海沿岸地域に配備し、爆撃機や戦闘攻撃機から発射する各種対艦ミサイルの開発を推し進め大量に生産を続けている。また、アメリカ海軍空母打撃群を待ち受けて脅威を与えるために近代的潜水艦や、攻撃原子力潜水艦の建造にも余念がない。

そして、昨今アメリカ側が最も恐れているのが、アメリカ海軍航空母艦や強襲揚陸艦を撃破するために開発が進められている東風21丁型(DF-21D)対艦弾道ミサイルである。完成の暁には、中国本土から発射されるDF-21Dの第一撃で巨大な原子力空母は戦闘力を失い、第二撃で海底に叩き込まれることになる。

しかしながら、これらの“派手”な兵器以上に、アメリカ海軍戦略家たちが“心の底から”心配しているのが、中国海軍が着々と用意している膨大な数(7万個とも10万個とも言われている)の機雷である。ちなみに、機雷の起源は中国であり、明の時代にはすでに機雷が用いられていたという。

中国人民解放軍は、アメリカ海軍にとって最大の弱点が対機雷戦であることを繰り返し内部の論文や機雷戦教本などで指摘している。そして、その弱点を徹底的に逆手に取ることにより、全体としてはまだまだ正面衝突はできないアメリカ海軍の侵攻を挫折させようとしているのである。

想像を絶する数を揃えている中国海軍の機雷の多くは、旧式の部類に属するものと考えられている。だが、第2次世界大戦中に用いられた骨董品的機雷といえども、触雷してしまえばどのような最新鋭軍艦でもダメージを受けてしまうため、いかなる種類の機雷が敷設されていようともそれらを除去して航路の安全を確保しなければ、海軍作戦は実施できない。

中国海軍は、そのような古典的機雷だけでなく、ロシアから最新機雷技術を手に入れ、様々な種類の最新鋭機雷の開発も進めており、30種類近くの各種機雷を保有している。


◎中国機雷を阻止できるのは海上自衛隊である。

中国海軍は、台湾侵攻に際しては台湾周辺海域に1万5000個程度の機雷を敷設し、台湾を海上封鎖してしまうと考えられている。そして台湾周辺海域に来援するアメリカ艦隊の接近を阻止あるいは一時的に停止させるために、侵攻ルート上に機雷原を設置することになる。

当然、先陣をきって出動するアメリカ艦隊は横須賀や佐世保を母港とする艦艇で編成されるため、それらの軍港周辺海域や、より幅広く日本周辺海域にも機雷原を設置してアメリカ艦艇の行動を阻止しようとするであろう。実際に、中国海軍は海軍民兵によって機雷を敷設する訓練も実施している。そのため、漁船や貨物船などにより日本領海に接近して(あるいは侵入して)機雷を設置する能力を保有していることは間違いない。

このような中国海軍の機雷戦にとって、佐世保を本拠地にする4隻のアメリカ海軍掃海艦はそれほどの障碍にならない。しかしながら、日本が台湾とアメリカ海軍防衛のために集団的自衛権を発動して海自掃海部隊を繰り出してきた場合、中国のA2/AD戦略に大きな障壁が立ちはだかることになる。

すなわち、海自掃海部隊が機雷原に航路帯を開削することで、米艦隊が無傷で接近してきてしまい、中国の目論見の1つが崩れ去ってしまうのである。


◎海自対機雷戦部隊の出動は集団自衛権発動の好事例

中国人民解放軍は、人目を引く空母建設やDF-21D開発などをブチ上げつつ、一方では人目につかないところでA2/AD戦略に勝利するための“真の主役”である対米機雷戦の準備を着々と推し進めている。

ただし、中国海軍は、海自の対機雷戦能力が米海軍の弱体な対機雷戦能力の穴埋めをしてしまうことを恐れている。それは中国海軍が論文や教本の中で海自の対機雷戦能力の高さに言及していることからも見て取れる。

すなわち、世界屈指の海上自衛隊掃海部隊がアメリカ艦隊に協力することは中国人民解放軍が最も嫌がるシナリオなのである。







「尖閣問題で日本が劣勢を跳ね返す提案」

2014-06-20 06:12:49 | 日本

古森義久さんが、尖閣問題について日本の発想の転換を促す米国側からの提案を紹介している。
なかなかいいので以下に、要約し記す。


沖縄県の尖閣諸島に対する中国の攻勢がまた一段と荒っぽくなってきた。毎週のように日本領海に中国艦船が侵入し、中国軍戦闘機が自衛隊機に異常接近するなど、もはや一触即発とも言える状態である。中国は尖閣奪取に向けた軍事態勢をますます強めているようなのだ。

中国政府による反日外交プロパガンダもとどまるところを知らない。「日本は釣魚島(尖閣諸島)を中国から盗み、戦後の国際秩序を変えようとしている」といった日本誹謗の政治宣伝を強化している。

こうした軍事、政治の両面でのせめぎ合いは、中国が優位に立っている。しかもこのせめぎ合いが実際の軍事衝突につながる危険性も高い。このままだと日本は中国の我が物顔の領海侵犯によって尖閣の施政権さえ骨抜きにされそうである。もしそうなれば、日米安全保障条約が適用され、米軍の防衛義務が発生するのは日本の施政権下にある領域だけだから、日米同盟の軍事効用も空洞化されてしまう。
そんな尖閣諸島の危機に対し、日本はどうすればよいのか。

いまのところの最大の頼みの綱は米国である。もし中国軍が尖閣に攻撃をかけてくれば、日米安保条約第5条の発動により米軍がその防衛のために出動することになっている。その場合、日本の自衛隊ももちろん防衛に当たらねばならない。

だが、米国が中国との全面戦争の危険を冒してまで、尖閣防衛のために対中軍事行動を起こすかというと疑問が残る。オバマ政権はなにしろ中国に友好の手を差し伸べることに熱心である。尖閣周辺に米軍の海軍艦艇や空軍機が出動して、日本支援の軍事意図を誇示することはとても期待できない。その気さえあれば簡単にできる抑止力明示の行動さえも取らないのだ。そんな米国が中国軍を相手に実際の戦闘ができるだろうか。

そうした状況下で、米国の専門家から興味ある提案が示された。日本政府は尖閣の領有権問題を国際司法裁判所(ICJ)に提訴して、その裁定を仰ぐべきだ、というのである。

提案者は、米国議会調査局のアジア専門官を30年以上務め、現在はワシントンの大手シンクタンク「戦略国際問題研究所(CSIS)」の上級研究員であるラリー・ニクシュ氏である。

ニクシュ氏は朝鮮半島の研究でも知られるが、尖閣問題にも長年取り組み、多くの研究成果を発表してきた。同氏の研究や調査は、尖閣の領有権に関する日本側の正当性を暗に認めることが多かった。だから今度の提案の内容も、日本側は真剣に検討すべきだろう。

ただし、尖閣の領有権帰属を国際裁定に委ねるという案は日本側では一種のタブーである。日本政府の主張に反するのである。なぜなら日本政府は、尖閣が古くから日本固有の領土であり、領有権は日本側にあり、領土紛争はない、という立場を一貫して取ってきたからである。国際機関への訴えや裁定の求めはあり得ないのである。

日本が国際司法裁判所の裁定を仰ぐという行動は従来の主張を捨て去ることになってしまう。日本政府はそういう考え方から国際司法機関への提訴には明確に反対してきた。

しかしニクシュ氏は、それでもなお国際司法裁判所への提訴は日本側に有利な結果をもたらす、と強調する。それどころか、現状がこのまま続けば、日本側がじりじりと後退して、不利な立場に追いこまれるという。

そしてなによりも、現状の継続は日中両国の軍事衝突、つまり戦争に発展する危険性が高いと警告する。そのうえで国際提訴は日本の立場を大幅に有利にすると説くのである。


◎国際提訴がもたらす6つの効果

【第1の効果】 
日本による提訴方針の表明は、尖閣問題に関する米国全般、特にオバマ政権の対日支援を強化する。

国際紛争の平和的国際解決はオバマ大統領の主要政策である。日本の尖閣問題の国際司法裁判所への裁定の求めはその政策に合致する。オバマ政権がこれまで表明してきた軍事的緊張の緩和にも寄与する。

中国がそれでも軍事攻略に傾けば、米国の日本防衛もより確実となるだろう。オバマ政権内部には、大統領の日米安保の尖閣適用の言明にもかかわらず、米国の尖閣への軍事関与に反対する勢力があるが、日本側の国際提訴はその反対意見を弱める効果がある。米側の一部に存在する歴史問題に関する日本への批判も減るだろう。

【第2の効果】
中国がICJ裁定を拒むことは確実である。結果的に国際社会での中国非難がさらに高まる。

中国は1990年代以来、海洋領有権紛争は相手国との2国間の直接交渉のみによって解決を求めるという基本方針を明確にしてきた。第三国の関与にも、国際機関の裁定にも反対する強硬な方針を打ち出してきた。

その結果、中国は米国の関与に抗議し、フィリピン、ベトナム、マレーシアとの領有権紛争に関して東南アジア諸国連合(ASEAN)と交渉することにも難色を示してきた。

さらに中国は、南シナ海のパラセル(西沙)諸島の紛争でフィリピンが国際海洋法裁判所(ITLOS)へ提訴する手続きを取ったことに対し、裁定への参加を拒み、提訴の撤回を求めている。

【第3の効果】
日本の提訴は、中国の軍事力行使に対する日本側の抑止力を増大させる。

日本の国際司法裁判所提訴を中国が拒否すれば、中国に対する国際社会での非難が改めて強まる。中国が歴史を利用して展開する反日プロパガンダの効果も大幅に減殺されることになり、中国は外交的にさらに孤立する。

中国の日本糾弾の外交キャンペーンも効果が薄れる。その結果、中国が軍事手段を行使する可能性に対し、米国や欧州、東南アジアの反発が大幅に強くなる。その反発は軍事力の行使に発展する可能性も考えられ、中国は自らの軍事行動にブレーキをかけることになる。

【第4の効果】
国際提訴することによって、日本は尖閣防衛のための軍事力を増強しやすくなる。中国が国際調停を拒んで軍事的姿勢を強めれば、対中対決や防衛力の増強を嫌う日本の国内勢力の主張が弱くなるからだ。つまり、日本政府は尖閣防衛の強化策を進める正当性を得ることになる。

オバマ政権は日本側に軍事力行使への抑制を求め続けるだろうが、日本の国際提訴によって、同政権の一部にある日本独自の防衛強化への反対論はそれまでよりは弱くなる。

【第5の効果】
日本の国際提訴は、東南アジア諸国、特にフィリピンとの対中連帯を強化する効果をもたらす。

国際海洋法裁判所はフィリピンの提訴に対して第三国の意見を求めている。日本がこの役割を果たし、国際機関への新たな参加や信頼性を築くことになる。米国は国連海洋法を批准していないため、この役割は果たせない。そのため、日本が米国の意思をも代弁することができる。

フィリピン政府はすでに国際海洋法裁判所に合計4000ページもの関係資料を提出している。南シナ海での領有権紛争の国際的解決に向けて、東南アジア諸国はフィリピンに大きな期待を寄せている。

日本がそこに関与することは、東南アジア諸国との海洋協力や戦略提携をも容易にする。また日本とフィリピンの海洋協力をも拡大する。

【第6の効果】
同提訴は、日本の法律面での対外姿勢に整合性をもたらす。

日本政府は竹島問題では国際司法裁判所の裁定を求める構えを示したが、韓国側が拒んでいる。日本がその一方で尖閣問題については国際裁定を求めないという姿勢に対しては、一貫性や整合性に欠けるという指摘がこれまで存在した。

日本が尖閣問題を国際提訴すれば、竹島への姿勢と一致して、いずれも海洋領有権紛争の国際法的解決メカニズムの推進につながる。その結果、韓国が日本の竹島の国際裁定提案に対して浴びせてきた非難も弱められるだろう。

確かに国際司法裁判所への提訴というのは、中国がそもそもそれに応じないという大前提があるのだから、プロパガンダ性が強い手段だと言えよう。「中国のプロパガンダには日本もプロパガンダで対抗せよ」という提案だとも総括できそうである。









「中国の首脳陣が憂慮する6つの難題」

2014-06-19 06:41:37 | 日本

古森義久さんが 米国防省発表の「中国の首脳陣が憂慮する6つの難題」について解説している。
以下、要約し記す。


中国の最高指導者たちは自国の軍事力の拡大に懸命のようだが、その一方、国威の発揚にとって陰りや障害となり得る要因にも深刻な懸念を向けている。それらの気がかりとなる因について、米国の国防総省が6月5日にリポートを発表した。これは、「中国の軍事力と安全保障の展開に関する報告、2014年版」は、2001年からその作成と議会への送付が法律で義務づけられた年次報告書である。

同報告は、中国の当面の戦略目標を「激烈な地域的有事に際して戦闘を実行し、短期に勝利するための軍事能力を高める」ことだと規定する。

その具体例として、まず「台湾海峡での衝突に備え、米軍を抑止し、撃破することも含めて」十分な戦闘能力を保持することを挙げる。さらに「人民解放軍は台湾有事以外にも南シナ海や東シナ海での有事への準備に重点をおくようになった」と述べる。同報告が東シナ海と南シナ海の有事をこれほど重点的に記したのは初めてである点に、日本側は留意すべきだろう。

さて、同報告が挙げる「中国の首脳陣が憂慮する6つの難題」とは以下の6点である。

(1)経済成長の鈍化

中国の首脳陣は、自国経済の堅固な発展の継続こそが社会の安定、そして対外戦略の基盤だと見ており、経済の破綻や停滞は、対外的なパワーの拡大にも重大な支障となると懸念している。経済成長を阻害する可能性がある要因としては、第1に投資と輸出への過度の依存状態から抜け出せないことが挙げられる。第2には世界の貿易パターンの変化、第3に国内資源の制約、第4に賃金の値上がりと労働力不足、第5にはエネルギーなど海外の資源が入手しづらくなることなどである。

(2)ナショナリズムの危険性

中国共産党や人民解放軍の指導層は、共産党の統治の正当性を支え、国内の党への批判を抑えるために、ナショナリズムを一貫して利用してきた。諸外国との対話を拒むうえでも、ナショナリズムをその理由にして、利用してきた。ところがナショナリズムは首脳陣にとって諸刃の剣となりうる。対外戦略上、柔軟な政策を取りたくても、国内のナショナリズムの高まりで、逆にその制約を受けてしまう危険があるのだ。

(3)東シナ海、南シナ海をめぐる緊張

東シナ海をめぐる日本との緊張関係、南シナ海をめぐる複数の東南アジア国家との緊張関係は、中国の周辺の地域や海域での安定を崩すことになる。中国と対立する各国は、米国のアジアでの軍事プレゼンスの増大を求める。さらには、それら各国が独自に軍事力を強める可能性や、米国との軍事協力を強める可能性もある。こうした可能性が現実になれば、いずれも中国に対抗する軍事能力の増強につながり、中国の軍事力を相対的に弱めることとなる。

(4)蔓延する汚職

中国共産党は、党内の腐敗をなくし、国民の要求に対して責任ある対応を取ることを国民から求められている。同時に党内の透明性や責任の履行も求められる。共産党がこれらの要求に応じない場合、一党支配の正当性が脅かされることになる。いま中国全土で、一般国民の共産党に対する不信や不満を抑えるために、国家レベルの汚職追放の運動が展開されている。だが、党がどこまでその運動を許容するかはまだ未知数である。その結果次第で共産党への不信がさらに広まる可能性がある。

(5)環境問題への対応

中国経済の高度成長によって、国民は環境面で多大な犠牲を強いられている。首脳陣は国内の環境汚染の悪化にますます懸念を抱いている。環境悪化は経済発展や公衆衛生、社会の安定、中国の対外イメージなどを損ない、最終的には政権の正当性をも脅かすことになる。中国の国家経済全体の成長を抑えつけることにもつながり、大きな政治的危険をはらんでいる。環境問題が政治に及ぼす影響に、首脳陣は最近特に悩まされているようだ。

(6)高齢化と少子化

中国は、いま高齢化と少子化という人口動態上の二重の脅威に直面している。少子化の結果、出生率は1.0 以下へと低下した。国民の平均寿命が延びると、中国政府は社会政策、健康政策への資源配分を増やさなければならなくなる。同時に出生率の低下によって、若く安価な労働力が減少する。これまでの30年は、安価な労働力が中国経済を高度成長させるカギとなってきた。人口の高齢化と少子化は、経済を停滞させ、中国共産党の正当性を脅かす。

今回の米国防総省の報告は、中国の軍事能力そのものを調査し、公表することが主な目的だが、中国共産党の指導層は自国の戦略的発展を阻害する要因として上記のような諸点を心配していると解説している。これらは、いわば現代の中国の弱みだとも言えよう。日本側としても中国をウォッチする上で心に留めておくべき指摘である。










「日本の人口動態」

2014-06-18 09:07:12 | 日本

英エコノミスト誌に、信じ難いほど縮みゆく国「日本の人口動態」についての論文が掲載されていた。きわめて深刻な事態に入っている為、以下、要約し記す。



安倍晋三氏が2012年に首相の座に返り咲いて以来、掲げられてきたスローガンは、日本を長期にわたるデフレスパイラルから脱却させるということだった。だが、人口がどの国より速く高齢化し、減少している時は、それは口で言うほどたやすいことではない。

今年5月、あるシンクタンクは向こう30年余りの間におよそ1000の地方の市町村で出産適齢期の女性がほとんどいなくなると予想した。政府は、今後50年間で現在1億2700万人の日本の人口が3分の2に減少すると予想している。

要するに、強い日本を取り戻すという首相の思いと両立させるのはなかなか難しい。人口動態がいま再び、熱い政治的課題として浮上しているのである。

最大の問題は、急速に収縮する労働人口が、増え続ける高齢者人口を支えられなくなることである。

この問題を専門に扱う「選択する未来」委員会会長の三村明夫氏は、人口が1億を切るのを食い止めるのであれば、政府は今すぐ対策を講じなければならないと述べた。同委員会の報告書は、そのためには平均的な日本人女性が生涯で生む子供の数を、現在の1.41人から2.07人に増やさなければならないと指摘している。

また、日本が避けてきたもう1つの明確な解決策を検討していることを示唆する兆候が見られる。それは、大規模な移民の受け入れである。

現在、日本の人口に占める外国系住民の割合は2%にも満たず、ほかの先進国を大幅に下回っている。この低い数字さえ、日本の植民地だった朝鮮半島にルーツを持つ大勢の永住者や、何世代にもわたって日本で暮らしている中国系住民が含まれたものである。

政府は2月に、2015年以降、新たに年間20万人の永住移民を受け入れるよう奨励する報告書を発表した。予想通りと言えるかもしれないが、政府関係者は、これだけの規模の移民受け入れが政府方針であることを否定する声明を発表した。安倍氏自身、建設業界などで働く外国人に期間の長い一時ビザを発給するための最近の対策は「移民政策ではない」と主張し、そうした労働者は仕事が終われば帰国しなければならないと述べている。だが、安倍氏のアドバイザー曰く、実際には、たとえ安倍氏がそう公言できないにせよ、この報告書はもっと大勢の永住移民への門戸開放に向けた動きの始まりを告げるものだという。








「集団的自衛権って何? 」

2014-06-17 07:57:23 | 日本

国会では、集団的自衛権についての論議が高まっている。集団的自衛権とは何なのか?池田信夫さんが分かりやすく説明しているので、これを要約し記す。



自衛権というのは自分の国を守る権利であるが、集団的自衛権というのはほかの国(アメリカ)と一緒に国を守ることである。日本政府は今まで「日本は集団的自衛権を保持しているが行使できない」と解釈してきた。しかし「新幹線のチケットをもっているけど使えない」というのは変である。使えない権利なんか、もっていてもしょうがない。

こういう変なことになったのは、自衛隊や安保条約が憲法違反だという反対論が根強くあり、それに配慮したためである。憲法第9条は次のようになっている。

1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これは素直に読むと「日本は戦争をしないので軍隊はもたない」と読める。政府も最初はそう解釈していたが、自衛隊ができたとき自衛権はあると解釈を変えた。これはそうおかしなことではなく、どこの国でも自衛権はあり、それをわざわざ憲法には書いていない。みなさんが殺されそうになったら、相手を殺す正当防衛の権利があるのと同じことである。

ただ集団的自衛権を憲法が認めているかどうかは、微妙なところだ。これは自分の国を守るだけでなく、アメリカが攻撃されたとき日本が守る権利なので、「アメリカの戦争に日本が巻き込まれる」という反対論が出ているからである。

集団的自衛権は国連が認めているが、狭い意味の自衛権を超えるので、政府は「保持しているが行使できない」という解釈をとってきた。これの理屈はおかしいのだが、「もっている」という解釈と「もってない」という解釈を足して2で割ったのである。大人のズルイ知恵とでも言うのか?

これを今度、安倍首相が「行使できる」という解釈に変更しようとしている。これ自体は当たり前だが、もともと自衛隊や安保条約が憲法違反だという反対論が強いので、それに配慮して、いろいろ条件をつけている。

公明党だけでなく自民党の中からも「変えるなら憲法改正でやるべきで、解釈でやるのはよくない」という批判が出ている。これはその通りなのだが、彼らは「憲法を改正しよう」とは言わない。これは結局、ずっと今のままにすることになる。

こういうのを「反対のための反対」と言う。お母さんに「部屋をかたづけなさい」と言われたら、みなさんが「部屋を大きくもようがえするから、今はまだかたづけない」といいわけして、何もしないのと同じことである。

これではずっと日本は、アメリカに守ってもらうだけで、アメリカに対しては何もできない。今までアメリカが何かしてくれというと、日本政府は「憲法でできない」といって断ってきた。そういう国は信用できないので、尖閣諸島で何かあっても、アメリカが本当に助けてくれるかどうかはわからない。

日本は戦後70年、こんな中途半端な状態で何事もなくやってきたので、これからもやっていけるかもしれない。やっていけないかもしれないが、政治家のみなさんはそういう嫌な問題は考えたくないので、先送りしている。困ったものである。