謹賀新年
新年を迎えるにあたり、わが輩の同志、清野正男兄の青雲の志を書いた文章を紹介する。
現代の若者に、このような輝きある青春が、魂がほとばしる青春があることを知ってもらいたい。そして輝いて欲しい!
また、壮年熟年者にも、かっての熱き生きかたをした時代を思い出していただきたい。
今年は将に、改憲の段取りを実現する年である。
青雲の志を誰もが復活させ、国民総動員で自立ある国を創っていこうではないか!
以下、2回にわたり記す。
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<早稲田と私>
「天下悉く眠って居るなら諸君起きようではないか。
この切迫せる世の中に、眠って居るのもうすら眠りであろう。諸君が起きて直ちに暁鐘を撞けば、皆覚めることは必定である。
誰が真剣に起ちあがると天下はその一人に率いられる。諸君みな起てば諸君は日本の正気を分担するのである。天下一人を以て興れ!」
中野正剛「天下一人を以て興る」より
昭和45年春、私は一浪の後、憧れの早稲田大学に入学した。
新宿騒乱事件、安田講堂事件を経、70年安保騒動本番を迎えた年である。
「学生運動」が社会問題となり、デモ、ストライキが騒然とした世情を作り出している頃であった。
キャンパスは、左翼学生の立てた大きな立看板に埋めつくされ、校祖・大隈重信候の銅像も、口を一文字に結んだ厳しい顔を寂しげに出しているだけという有様であった。
休み時間といわず、ほとんど終日、ヘルメット姿の活動家による一本調子なアジ演説が、拡声器を通してバックグラウンドミュージックの様に流れていた。
机を積み上げたバリケードによって学園封鎖が続けられ、授業は休講、試験までも郵送によるレポート提出に代わり、全く正常な機能を喪失していた。
誰もが、濃淡の差はあっても、時代の空気に敏感に感染し、多くは俯き加減に、教科書と新聞を小脇に抱え、ジーパンをはいて歩いていた。
高度経済成長の爛熟期でもあった。それに伴う急激な物価の上昇が、田舎からの仕送りを月毎に目減りさせていた。
新聞配達、土方、出版社での徹夜アルバイトなどと、必死の苦学生ではあったが、家に縛られない学生の気易さから、貧しくとも、夜には焼鳥の煙が充満する酒場で、政治談議に熱中したりもした。
それは進むべき方角の見えにくい、それでいて絶えず政治と正面から対峙する事を余儀なくされた。奇妙に不安定な時代であった。
豪快な早稲田、政治学校、青春道場・早稲田、こんな風に思い描いて来た私の早稲田像は、日に日に赤茶け、変色していった。
余りに憂鬱、余りに暗く、早稲田は絶望的にまで時代に迎合した姿で、私を迎えたのである。
『栄光は 緑の風に 花開く 若き日の夢 重ね来し 歴史尊く 受け継ぎて 輝く早稲田 早稲田 早稲田 我等の早稲田』
破れ角帽、朴歯の下駄、腰に手拭い。学生服あり、羽織・袴姿あり、或る者は寝起きのドテラ姿。
明治時代の書生が、現代に蘇った様なスタイルで私達は、桜吹雪の中を高歌放吟して歩いていた。
入学したての後輩が、一升瓶を後生大事に抱え、後に続く。
時代を完全燃焼で突っ走り、生きる方向と、自分の生き様の原理原則を確立したい、それが、当時自分に課たした大それた目的であった。
早稲田に同化し、早稲田の先哲の歩みを早稲田の杜で追体験することで、自分を鍛え、自分を発見しようと願っていた。
ブラックボックスに落ちてしまった様な、苦悶の一年を経て、私はようやく、自分の憧れた早稲田像を体験しうる生活を探し出したのだった。
ともあれ「早稲田精神昂揚会」入会と共に、元気に満ちた新生活は開始された。
翌46年、春のことである。
怒涛の日々が始まった。体育館を一万余の観衆で脹れあがらせた早慶戦前夜祭、神宮球場での応援、テニアン島への遺骨収集団の組織と参加。そして秋の本庄・早稲田の100kmハイク…等々。
疑問を差しはさむ余地とて与えられないまま行事行事で忙殺されていった。
青成瓢吉の青春を追い掛け、未だ見ぬ「お袖」に恋をし、坂本龍馬に憧れ、大時代的な生き方を大真面目にやっていた。
酔眼朦朧とした顔で、偉大な先人の幻を見、大きく、骨太い男の一生を思い描き、夢に酔い、自由な時を満喫していた。色んな可能性が、少し手を伸ばせば届きそうな(?)とうそぶきつつ、酒と歌と大言壮語だけの楽天家集団の中でも、ひときわ過激に、早稲田三昧に明け暮れていた。