龍の声

龍の声は、天の声

「清風・燃えて挑戦!①」

2012-12-31 10:17:01 | 日本

謹賀新年

新年を迎えるにあたり、わが輩の同志、清野正男兄の青雲の志を書いた文章を紹介する。
現代の若者に、このような輝きある青春が、魂がほとばしる青春があることを知ってもらいたい。そして輝いて欲しい!
また、壮年熟年者にも、かっての熱き生きかたをした時代を思い出していただきたい。
今年は将に、改憲の段取りを実現する年である。
青雲の志を誰もが復活させ、国民総動員で自立ある国を創っていこうではないか!

以下、2回にわたり記す。



<早稲田と私>

「天下悉く眠って居るなら諸君起きようではないか。
この切迫せる世の中に、眠って居るのもうすら眠りであろう。諸君が起きて直ちに暁鐘を撞けば、皆覚めることは必定である。
誰が真剣に起ちあがると天下はその一人に率いられる。諸君みな起てば諸君は日本の正気を分担するのである。天下一人を以て興れ!」
中野正剛「天下一人を以て興る」より

昭和45年春、私は一浪の後、憧れの早稲田大学に入学した。
新宿騒乱事件、安田講堂事件を経、70年安保騒動本番を迎えた年である。
「学生運動」が社会問題となり、デモ、ストライキが騒然とした世情を作り出している頃であった。
キャンパスは、左翼学生の立てた大きな立看板に埋めつくされ、校祖・大隈重信候の銅像も、口を一文字に結んだ厳しい顔を寂しげに出しているだけという有様であった。
休み時間といわず、ほとんど終日、ヘルメット姿の活動家による一本調子なアジ演説が、拡声器を通してバックグラウンドミュージックの様に流れていた。
机を積み上げたバリケードによって学園封鎖が続けられ、授業は休講、試験までも郵送によるレポート提出に代わり、全く正常な機能を喪失していた。
誰もが、濃淡の差はあっても、時代の空気に敏感に感染し、多くは俯き加減に、教科書と新聞を小脇に抱え、ジーパンをはいて歩いていた。
高度経済成長の爛熟期でもあった。それに伴う急激な物価の上昇が、田舎からの仕送りを月毎に目減りさせていた。
新聞配達、土方、出版社での徹夜アルバイトなどと、必死の苦学生ではあったが、家に縛られない学生の気易さから、貧しくとも、夜には焼鳥の煙が充満する酒場で、政治談議に熱中したりもした。
それは進むべき方角の見えにくい、それでいて絶えず政治と正面から対峙する事を余儀なくされた。奇妙に不安定な時代であった。
豪快な早稲田、政治学校、青春道場・早稲田、こんな風に思い描いて来た私の早稲田像は、日に日に赤茶け、変色していった。
余りに憂鬱、余りに暗く、早稲田は絶望的にまで時代に迎合した姿で、私を迎えたのである。

『栄光は 緑の風に  花開く 若き日の夢  重ね来し 歴史尊く  受け継ぎて 輝く早稲田  早稲田 早稲田  我等の早稲田』

破れ角帽、朴歯の下駄、腰に手拭い。学生服あり、羽織・袴姿あり、或る者は寝起きのドテラ姿。
明治時代の書生が、現代に蘇った様なスタイルで私達は、桜吹雪の中を高歌放吟して歩いていた。
入学したての後輩が、一升瓶を後生大事に抱え、後に続く。
時代を完全燃焼で突っ走り、生きる方向と、自分の生き様の原理原則を確立したい、それが、当時自分に課たした大それた目的であった。
早稲田に同化し、早稲田の先哲の歩みを早稲田の杜で追体験することで、自分を鍛え、自分を発見しようと願っていた。
ブラックボックスに落ちてしまった様な、苦悶の一年を経て、私はようやく、自分の憧れた早稲田像を体験しうる生活を探し出したのだった。
ともあれ「早稲田精神昂揚会」入会と共に、元気に満ちた新生活は開始された。
翌46年、春のことである。
怒涛の日々が始まった。体育館を一万余の観衆で脹れあがらせた早慶戦前夜祭、神宮球場での応援、テニアン島への遺骨収集団の組織と参加。そして秋の本庄・早稲田の100kmハイク…等々。
疑問を差しはさむ余地とて与えられないまま行事行事で忙殺されていった。
青成瓢吉の青春を追い掛け、未だ見ぬ「お袖」に恋をし、坂本龍馬に憧れ、大時代的な生き方を大真面目にやっていた。
酔眼朦朧とした顔で、偉大な先人の幻を見、大きく、骨太い男の一生を思い描き、夢に酔い、自由な時を満喫していた。色んな可能性が、少し手を伸ばせば届きそうな(?)とうそぶきつつ、酒と歌と大言壮語だけの楽天家集団の中でも、ひときわ過激に、早稲田三昧に明け暮れていた。




「負け戦の正しい負け方②」

2012-12-31 10:17:01 | 日本

私は関ヶ原の島津陣跡に立ったことがある。そこは林に囲まれているが、植林が日本に広がったのは江戸時代からで、当時は荒野であっただろう。左手の近くに琵琶湖方面に抜ける北国街道がある。関ヶ原の当日、ここから10万以上の敵兵が眼前にひしめいていた姿を義弘は見ただろう。

普通の人間なら恐怖におののく。そして降伏か一目散に街道を逃げるという安易な解決策を選んだはずだ。しかし後知恵だが、降伏すれば勝者に恥ずかしめを受け、当主は切腹、所領は没収されただろう。広い街道を逃げたら、後ろから騎兵に追撃され部隊は簡単に壊滅したはずだ。それらの選択肢を選ばず、自分の力を冷静に計算して、義弘は最良の解答を選んだ。

それは信頼で結ばれた歴戦の部下の存在と、平時に精強な組織を作り上げてきたからこそできたものだ。小説「島津奔る」で、義弘は部下たちに「国を守るため、貴様らの命をここで使い捨てる」という壮絶な命令を下す。本当の言葉は記録にないが、おそらく同様の言葉で兵士たちを奮い立たせただろう。

島津陣跡で興味深い遺構もあった。明治時代から現代まで、鹿児島の人々が訪れ、石碑を立てていた。「島津の退き口」と呼ばれる、この壮挙は語り継がれた。薩摩藩が江戸時代にまとまり続けたのも、明治維新の原動力になったことも、「逃げない」という義弘の勇敢な行動があったためであろう。負けても次に、そして次世代につなげることはできるのだ。行動で多くのことを伝えることはできる。

関ヶ原の島津義弘から理想的な指揮官の姿が見られる。「部下との信頼」「危機における冷静さと合理性」「覚悟」「あきらめず、持続する意思」「平時における準備と実戦での錬磨」。そして絶体絶命の窮地でも、「死中に活」を求めるヒントがここにある。

危機ではじたばたと小細工をしてはいけない。運命を受け止め、あきらめず、チャンスを探し続ける。その中で生き残りの道を探し、自分の力で切り開く。例え滅びても、自分が捨て石になる覚悟を受け入れ、次につなげることを考える。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、それはあきらめに基づく消極的なものではなく、自らが主体的に状況を支配する積極的なものにも転換できるのだ。

なぜ関ヶ原を見た体験を思い出したかというと、今週の選挙で民主党という一つの組織の崩壊と大敗北を見たからだ。趣味への我田引水的な誘導で、通俗的な発想と読者のお叱りを受けるかもしれないが、その通りなので、お許しいただきたい。

民主党は政権運営もお粗末だったが、負け方もお粗末だった。民主党は2008年の総選挙では衆院で308議席を獲得したが、今回は57議席に激減。読売新聞の世論調査によると敗北の理由は、「党内のまとまりがなかった」との回答が51%で最も多い。「民主党政権の実績に不満があった」が21%で続いた。「野田首相に不満があった」は、わずか4%だった。これは自民党の支持が広がったという面だけではなく、民主党が自壊したということであろう。

選挙に負けそうになった後で、民主党からの離党議員は74人にもなった。その中で14人しか当選しなかった。これは予想できたことだ。もちろん離党者それぞれに、言い分はあるだろう。けれども戦史を見れば、敗勢の中で逃げ出したり、裏切りをしたりする人は、大抵まともな「終わり方」をしない。

恐怖にとらわれた兵士はたいてい哀れな末路をたどる。逃げ、騒ぎ、非合理的な行動をして味方を混乱させた上に、「敵に後ろからバッサリ」という例が多いのだ。危機にあっても生き残るのは勇気を振り絞って恐怖に向き合い、残された選択肢の中で「何ができるか」を考え続け、手をあきらめずに打ち続ける人だ。関ヶ原の例を引けば、西軍敗北の理由になった1万5000の部隊による裏切りをした大名の小早川秀秋は批判から精神を病み早死にして、家は亡んでしまう。

民主党の哀れな末路で救いだったのは、野田佳彦首相と執行部の人々、また再選された人々が見苦しい逃げ方をしなかったことだ。重要課題の財政再建策のための増税(一国民として文句はあるが)を行い、原発をなくすという感情的な世論には組みせず、烏合の衆を何とかまとめて反乱者をたたき出した。島津義弘ほど「見事」とは言えないが、逃げなかったその姿は讃えたい。


そして状況は変わる。敗北は一時的なもので、いつでも盛り返せる。大敗北の後で精強な組織を作り上げ、チャンスを待てば復活は十分できるだろう。

もちろん、これからが民主党にかけての生き残りにかけての正念場であろう。過酷な現実を乗り越え、民主党に「死中に活」をつかんでほしい。健全な反対意見と政党は、必ず日本を良くする。全国民がこれから期待を込めて観察を続けることになるだろう。私も期待を込めて注目したい。

<了>




「負け戦の正しい負け方①」

2012-12-30 09:23:24 | 日本

負け戦の正しい負け方に関して、 関ヶ原・薩摩大守島津義弘の賭け、そして現代の民主党と題して、石井孝明さんが言う。
以下、2回にわたり要約する。



10万人の敵に1000人が挑んだ戦い!

1600年(慶長5年)に戦闘が行われた関ヶ原。多くの物語がこの戦場にあるが、特に薩摩の大名の島津義弘(1535-1619)に関心がある。

彼は戦闘が決着した後で1000名の兵(一説には300人)で、10数万の徳家康率いる東軍に向け、正面への退却戦を敢行。残存兵60人と生き残り、国に帰還した。そして勝者の家康と外交を重ね、所領の薩摩・大隅・日向南部(現在の鹿児島県と宮崎県南部)を維持した。関ヶ原の敗者で、所領がそのままだったのは島津家しかない。

絶体絶命の窮地に陥っても「死中に活」を求めることのできた希有の例だ。
義弘は西軍に参加したものの、それは着陣の際に東西両軍の戦いが始まり関所が閉じられたためで、積極的に参加する意図はなかったという。兵士はわずか200人だった。当時、留守を指揮していた義弘の兄の島津義久は弟を使い捨てようとしたのか、援軍を出さなかった。しかし「維新公(義弘の法名)御難」と部下たちが国から脱走し、数百人が、はるばる薩摩・大隅から関ヶ原までやってきた。

義弘は西軍主将格の石田三成が戦闘の献策を無視し、また事前の小競り合いで島津兵を見殺しにしようとしたことに怒り、決戦の日の9月15日に陣を構えたが参加はしなかった。しかし味方を裏切る卑劣なことはしなかった。

戦闘が西軍敗北で決した午後4時頃、島津兵は「矢陣」という突撃隊形を作り前方に突進した。「死に狂いだ。手を出すな」と歴戦の武将だった東軍の福島正則は軍を引いたという。平地を速歩で進めば、前進していた徳川家康の本陣まで20分ぐらいで到達できる。当然、東軍は家康を守るために本陣に集結した。

義弘は華々しく敵本陣に突入して家康と差し違えて全滅する愚行はしなかった。敵が集結した間隙を突いて軍を右旋回させ、伊勢方面に退却した。

島津義弘は当時65歳だったが、それまでの50年の戦歴で戦闘では豊臣秀吉以外に負けていない。島津は九州をほぼ統一し、朝鮮の役では5000人の兵で20万人の明・朝鮮の連合軍を壊滅させ、日本軍の撤退を可能にした。今でも韓国で英雄視される提督李舜臣を露梁海戦(1598年)で戦死させた。

義弘の構想の下で当時の島津兵は精強だった。多くが徒歩で、誰もが3丁以上の火縄銃を抱え、短槍を持つ一方、甲冑は短い鎧の胴巻き程度で軽く機動性に優れ、そして勇敢だった。島津軍は火力を背景に戦場の主導権を握り、状況に応じて兵を銃兵にも、槍兵にも変化させた。おそらく当時の欧州世界で最強のスペイン軍とも、同兵力なら互角の戦いができたであろう。

関ヶ原で島津兵は敵陣突破の後で散開した。「捨てがまり」という一人ひとりが座り込んで銃を打ち続け、その後にその場で切り結んで主力を逃がす、凄まじい戦法が島津にはあるが、それを実行した。兵は確実に殺される。しかし死に向き合っても島津兵は合理的な行動をした。部隊指揮官である騎馬武者を狙撃、そしてそれを狙って斬り掛かったのだ。指揮官を狙うことは現代でも使われる戦法だ。家康の四男である松平忠吉と、その岳父で徳川四天王の一人の井伊直政は島津兵の銃撃で重傷を負い、それが元で落命する。

しかし退却戦は過酷で、兵は次々と戦死。落ち武者狩りや追撃が繰り返された。義弘の身代わりになった甥の島津豊久は重傷を負い、足手まといの懸念から自決した。60人の傷だらけの敗兵は大阪にたどり着くと、人質となっていた島津家の妻子を確保。船を奪って国に帰還した。

その後に島津義弘は軍を武装させたまま徳川家と交渉を続けた。家康は覇権確保のために過酷な戦後処理をするが、この態度ゆえに島津には手を出せなかった。力がなければ正義は寝言にすぎないのだ。




「超臨界圧石炭火力発電システム」

2012-12-29 10:30:56 | 日本

素晴らしい記事が掲載されていたので紹介する。



メディアは一切報じないが、原発に代わる画期的な「発電システム」が間もなく完成!
三菱重工など国内重電メーカーが開発した「超臨界圧石炭火力発電システム」と呼ばれる技術がそれだ。「日本未来の党」の小沢一郎が、卒原発の“切り札”として構想を温めてきたものである。

従来の石炭発電とは全く違う。石炭をガス化した燃料ガスと蒸気を使ってタービンを回すことで、ネックだったCO2や煤の発生を大幅に抑制することに成功した。さらに、水分が多くエネルギー効率の悪い屑炭と呼ばれる国内炭も効率よく燃やせる。この発電システムを使えば、国内炭だけで100年以上の発電需要を賄える。この方法なら、閉山された各地の炭鉱が甦り、地方の活性化にも繋がる。

この発電システムは、電力9社と電源開発(Jパワー)が出資する㈱「クリーンコールパワー研究所」(福島県いわき市)が5年前から研究を開始。実験段階を終え、来年4月に商品化される。CO2排出量は従来比20%減で、環境汚染物質もかなり低減できる。また、石炭なので原価も安く、発電コストは1kw時あたり40円台の太陽光に対し、5~8円しかかからない。実験用では発電量25万kwですが、実用化後は、50万~60万kw(原発は1基で100万kw)になる。原発立地地域への交付金も含めた原発のコストは1kw時あたり
10円超ともいわれるから、実に半額で済む計算なのだ。

この技術には世界中が注目している。欧米諸国や東南アジアの関係者がひっきりなしに研究所を見学に訪れ、この最新システムを次々と採用。日本の重電メーカーに発注しているという。信じられないことだが、知らぬは日本の国民だけなのである。

「これが本格普及すると、本当に原発ゼロが可能になる。ただ、そうなると原発を維持したい電力会社や経産官僚は都合が悪いので、国内での情報発信を“封印”しているようだ。 3・11以降、メディアもこの発電技術を殆ど報じていない。卒原発は決して夢物語ではない。原発推進派のナガティブキャンペーンに騙されてはいけない。




「サウンドセラピーとは、③」

2012-12-28 07:57:17 | 日本

今自分が生きている、ただそのことだけに意識を集中し、気分が心地よくなるように微笑みを浮かべ、好きな音楽をかけて深呼吸を繰り返すのです。
実は、「今の自分ではダメだ。もっと幸せになりたい。もっと収入があったら。もっと健康だったら。もっと昇進していたら。もっと好きな仕事についていたら。もっとステキな恋人や伴侶がいたら・・・」などと願うことは、自分を幸せから遠ざけてしまいます。なぜなら、「もっと、もっと」願っている時、「私」はエゴのかたまりと化しているからです。
エゴは悪食で大食の魔物のように「欲」を延々と食べ続けて太っていきます。そして、勝手に作り上げた「幸福な自分」の幻想と「今の自分」を比較して傷つき、命のエネルギーを損なってしまうのです。

だから、勝手に太らせた幻想が自分を追い詰め、苦しめているのなら、その幻想を一度リセットし、調和のとれた思考を導きましょう。
幸せ「青い鳥」とよく似ています。むやみに追うと逃げてしまいます。「追いかける」のではなく「引き寄せて」いくのです。

「私は幸せ、今の私で大丈夫!」


また、試練とは生きる土壌を豊かに耕すことです。つらい試練が降りかかっても、「これは魂の成長の糧なんだ」と楽しんで、人生の大海原を航海できることを願っています。

行き過ぎた心配や不安は、ネガティブなエネルギーを発してしまいます。
その念は、皮肉にも愛する人を縛り、「心配していたこと」を現実に引き寄せてしまう危険もあります。
「もう二度と余計な心配をするのはやめよう」と誓い、そして、楽しく明るいビジョンを抱くようにしようと気持ちを切り替えましょう。

自分の中身をクリーニングし、きれいに片付いた自分の心と向き合うこと。そして自分自身をうんと愛し、与えられた「生」に感謝をすることが、サウンドセラピーの考えの基本です。

正しい心、善なる心で生きようとする方ほど、多くの試練が降りかかることがあります。理不尽な状況に、「なぜ私ばかりがこんな目に合うのだろうか?」と、怒りや悲しみが湧き上がってしまうこともあるに違いありません。その辛さと、なかなか手放すことのできないお気持ちはとてもよくわかります。
ですが、サウンドセラピーに出会ったことをきっかけに、今日までの辛い自分はもう終りにしましょう。

さあ、心の羅針盤を愛と光の方向へ向けてみませんか?


あなたに無理難題を要求する理不尽な存在や、
あなたを傷つけ、脅かそうとする人々も、
気難しいパートナーや友達も、
心が通い合っていないと思ってしまう肉親も、

魂が光の世界に導かれた時、今この瞬間にあなたは試練だと思って苦しんでいる辛い出来事は、魂を磨くかけがえのない体験だったのだということを、きっと愛しく思い出すに違いありません。
私たちはみな、愛の本質を学ぶために、この地球に生まれ出てきた魂です。
だから、どんな状況が訪れても愛することを忘れないでいることが、私たちのミッションなのです。

「思い」と「言葉」と「行動」を合わせるように心がけて生きていると、あなたの人生は自分の想いのままに、どんどん花開いていきますよ。



※尚、物理学者の佐野千遥博士は、「サウンドセラピー」について、以下のコメントをされている。

「サウンドセラピー」が効果を現すのは、クラインの壷(左捻りのメービウスの帯と右捻りのメービウスの帯を貼り合わせて作った向き付け不可能な3次元立体)の構造をした脳が音楽を聴くとき時空を超える指示を出すから、という事と、光速度の620倍の初速度(テレポーテーション機能による)の大動脈血流を送り出すクラインの壷の構造をした心臓と相俟って、呼吸を深く且つ緩やかにするからと考えます。
呼吸を深く且つ緩やかにすると、解糖系でないミトコンドリアが身体の隅々まで有酸素呼吸を実行し身体全体が暖かくなる。

<了>



「サウンドセラピーとは、②」

2012-12-27 08:38:30 | 日本

声の響きに思いを乗せて言葉を発すると、不思議なパワーが生じます。音は耳から入って鼓膜をふるわせるだけではなく、もっと感情や思考の深いレベルにまで触れて変容をもたらします。さらに、からだを包み込むように広がり、魂の真髄である霊的な部分にも影響します。

私をお勧めする心の傷の癒しと再生にもっとも効果があるシンプルな言葉は「大丈夫」と「ありがとう」です。

「ありがとう」という言葉は、生命の源とつながっています。私はこの言葉に特別な思い入れがあり、サウンドセラビーの大きなテーマのひとつとして、そのまま「ありがとう」と言うタイトルのオリジナルソングを歌い続けています。

疲れすぎて、つらくて自分を見失っている時や、感謝の想いが湧いてこない時、「ありがとう」よりもっと優しく効果的な言葉があります。それは「大丈夫」です。
「大丈夫」と言う語りかけは自分自身の祈りです。
どう考えても「ありがとう」と思えない時や、「こんなの全然大丈夫じゃないよ!」と混乱している時にこそ、深く呼吸を繰り返しながら「大丈夫、大丈夫だよ」と、自分に向かって呪文のように唱えて見てください。

これまでずいぶん無理をしてきた自分をそっと包み込み、「ごめんね」と謝ってみてください。
その想いが少しずつ積もっていき、心を満たした瞬間に、愛と光があふれ出します。そして、走り続けてきた自分を認めて、「よく頑張ったね、ありがとう」と慈しむことができるのです。
この時に大切なのは「大丈夫」と心で思うだけではなく、声に出して言うことです。音の力と一緒になってこそ、言葉が持っている力が引き出されます。すると、ことだま(言霊)パワーが本当に「大丈夫」な状況を引き寄せてきます。大丈夫な自分に変わっていくのです。

「大丈夫」と「ありがとう」は、命を輝かせる魔法の言葉です。何度唱えても、ことだま(言霊)の力は弱まることはありません。それどころか、唱えれば唱えるほど喜びを連れてふくらんでいくのです。


◎「ありがとう」ことだま(言霊)のレッスン

①両の手首のしわとしわを合わせて、両手の指の長さを確認してみてください。この時点では、ほぼ同じ長さです。
②あなたが嬉しかった状況、感謝してること、大好きな人など、心が温かくなるようなことをイメージしてください。
③その穏やかな心のままで、鼻からゆっくり息を吸い、口から細く息を吐きながら、片方の手のひらに向けて「ありがとう」と3回唱えます。
④手首のしわとしわを合わせて、指の長さを比べてみましょう。
⑤どうです、「ありがとう」と言った方の手が大きくなりますね。

逆に片方の手に「ばかやろう」と言う言葉を唱えてみましょう。声をかけた手の方が小さくなりますよ。


◎「大丈夫」の効果を実感するレッスン

①その場で無理をせずに、屈めるところまでゆっくり体を前屈していきます。
②ゆっくり深呼吸して、その呼吸に「大丈夫」と言葉をのせながら、もう一度前に屈んで行きましょう。
③力で押そうとせず、深呼吸で心とからだがゆるむのを意識しながら前屈しましょう。
④どうです、初回よりも2回目のほうがずっと、からだがしなやかに曲がるようになったではないでしょうか。

スポーツジムで1時間トレーニングをする以上の効果がすぐに現れてきますよ。




「サウンドセラピーとは、①」

2012-12-26 10:42:27 | 日本

サウンドセラピストの歌手「Aika」さんが話す。
Aikaとは、「愛」のことのは、「歌」に乗せ、 天まで響け という祈りからつけられたステージネームです。Aikaさんは、著書「あなたの声が幸せを運ぶ風になる」(牧野出版)の中で、人間の魂に響く素敵な話をされている。
以下、3回にわたり、サウンドセラビーにつて学ぶ。



サウンドセラビーは日本語に訳すと、「音楽療法」。音楽を取り入れることで気持ちを整え、生活を豊かにする方法です。

「Aikaサウンドセラピー」は、自分自身が発生する「声」によって、心を癒しと自立、再生を促します。どんな方にも効果があり、人の力に頼らなくても自分で魂をピカピカに磨くことができる、とても楽しいヒーリングです。

癒しを目的とするチャンティング(詠唱)や音楽には、不安やストレスを軽くするという素晴らしい効果があることがわかっています。
あらゆる音の中で、そのような作用が一番強いのは「自然に発生された自分自身の声」だそうです。そして、自分を癒す歌は、他者をも癒す力になると述べています。すべての人は、自分と他者を癒し、もっと健康で元気になることができる魔法を、もともと持っているのです。

なぜ人の声には、そのような不思議な作用があるのでしょうか?
それは、あらゆる音の中で、人間の声だけが強い念や想いを含んでいるからだと言われています。意識や想いは、思ったことを引き寄せ、私たちの生きる現実を変えるほどの大きなパワーを秘めているのです。
人体を作り上げている60兆もの細胞は、互いに密接につながり、振動する音によって、さざ波のように刻一刻と変化しています。自分の思いを声として響かせることで、心とからだ、人生までも変えることができるのです。
人と人の声の響きが互いに共鳴し、調和して世界へ広がっていくと素晴らしいですね。

声は、一人ぼっちで浮遊している自分の心をノックし、さまざまなイマジネーションを呼び起こして自然界、宇宙と結ぶ魔法の架け橋、すべての人が開くことができる幸せの扉です。
自分の声が持っていた魔法の力を知ると、今まで無意識に行っていた呼吸や発声が愛おしくなり、ワクワクしてきませんか?


また、呼吸は、命を始まりと終わりを伝えるしるしです。

私たちは命ある限り、呼吸とともに生きています。
呼吸は、大自然のエネルギーを吸収し、体内で生命の炎として燃え上がらせるためのシンプルかつ重要な生命活動の仕組みです。
深く呼吸をすると細胞のすみじみに酸素が行きわたり、からだの脂肪が燃焼し、体温が上がります。また心が落ち着いて思考が冴えます。
古代中国の思想家・老子は、真人は足の裏からも呼吸すると述べています。深い呼吸により全身の感覚が冴えて、大地からもエネルギーが吸収できるということです。

呼吸を意識すると、外に向かって放たれていた生命エネルギーが内側に向かい始めます。軽く目を閉じて深く息をするたびに、からだがゆるみ、自分の意識の深い部分まで降りていくことができます。そして、息を吐いた時、我欲やネガティブな感情、ストレスなどが、どんどんクリーンになってき、曇りのない魂が現れてきます。
あなたの心の扉が静かに開く時、意識が透き通り内面が空っぽになると、心が宇宙と響あい、天の意を感じることができるようになります。
さあ、空っぽになって澄みきった内面に静かに耳を傾けてみましょう。あなたの芯である魂の中の、本当の自分の声がきっと聞こえてきますよ。

それは、「優しく」「柔らかく」「深く」「静かな」・・・もうひとりの自分に出会うことができる、「心の旅」です。
「心の旅」の羅針盤の針は、いつも愛のほうを向いています。

魂が求めていた本当の自分と出会うことができた時、心とからだは芯からリラックスします。細胞のブロックや滞っていたものが、優しくほどけて流れて行きます。あなたの声は心地よく響きわたり、愛が泉のように湧き出し、癒しのオーラがキラキラと輝き、あなたを包んでいきます。
そして人の幸福を願い、人に愛され、自分自身が心地よくいられる豊かな人生を送ることができるようになります。

このように、呼吸はサウンドセラピーの基本です。
呼吸が変われば意識がかわる。意識が変われば人生も変わっていくことを実感していただけたら嬉しいです。



「音叉ヒーリングと音の働き②」

2012-12-24 19:33:33 | 日本

私たちのカラダには見えているボディ(肉体)だけでなく、数層の目には見えないボディ(サトルボディ)で構成されている。

ショッキングな出来事があると、まずそのショックがギュ〜っと凝縮して見えないボディに塊を作ってしまう。するとエネルギーの流れが滞り、やがて時間をかけて肉体へとその影響が浸透していく。肉体における塊はいわゆる凝りであり、機能不全や病気の原因になっていく。また見えないボディの状態は私たちの感情・思考・ムード・人生観などに大きく関わっていて、見えないボディに凝り・塊があると、スムーズな思考が妨げられたり、感情がうまく表現できなかったり、あるいは、何かに固執してしまったり、日々の幸せを感じにくかったり、自分らしさをどこに見つければよいのかがわかりづらかったりする。自分の魂とのつながりを分離させてしまうことも往々にしてある。

通常のマッサージでは、手技などで肉体にある凝りをほぐして緩めていくが、音叉ヒーリングセッションでは、美しく繊細な響きの音と振動を使って、見えないボディにある凝りとその原因、そして同時に肉体にある凝りと原因に働きかけていく。

音は真空以外、どんなところでも通過して、その振動を伝えていくという特性がある。音の振動は、見えないボディと見えるボディにある凝り・ブロックにダイレクトに伝わり、繊細な振動でゆらゆらと揺らしながら、塊をほぐしていく。

塊がほぐされていく過程で、その塊の中に蓄積されている、古い思考や感情パターンが揺らされ、解放が起こる。


以下、音叉ヒーリングセッションを如何に感じるかの体験を記す。

・内なる声を感じるひと時 自然に帰る感覚 非日常に委ねた深呼吸の時間。
・自分自身の古い価値観や、いままで捕らわれていた何かを手放す準備ができるような感覚でした。
・強力なサポート。すごくパワフルなのにとっても優しい。誰が、どういう意図を持って鳴らすかで効果の出具合や、こちらへの伝わり具合が全然違うのを実感した。
・自分自身も予測しなかった意識下の何かを呼び起こすような、不思議な体験でした。
・置き去りにしていた自分を寄せ集め取り戻し、受け入れて統合する、そのプロセスを力強く促してくれる印象です。清らかな川の流れを緩やかにしている石を取り除く、勢いよい流れを作り出す、そんなイメージです。受ける方の心の持ち方や向き合い方で随分かわるのではないかと思います。最近は音がなにか意思というか役割をもった「生き物」のように思えます。


では、音叉ヒーリングはどんな人にオススメか?

・真剣に自分自身と向き合って変化していこうと思う人、原因不明の症状や痛みに悩んでる人。
・まさに全ての人。しいて言えば、原因不明の疾患に悩んでいる方(精神的な滞りが原因だったりすることも多いので)や、手術前後のフォローアップにもいいと思うし、接客業や医療関係など不特定多数の人と接する機会の多い方にはぜひ受けて欲しい。また、パートナーや家族・会社の人間の問題は目に付くけど、自分自身は何も問題がないと思っている方には、意外な気付きが沢山起こると思う。
・なんだかモンモンとしていたり、自分の殻を破りたい、自分をもっと知りたい、自分を大切にしたい人。

理屈、じゃない。
感情の下の、原因やきっかけの下の、行動の下の、恐れの下にある、自分が思い込んでいる価値観やトラウマ。これを意識できている人は少ない。(更に言えば過去性も絡んでくるかもしれないが)
そこを音叉はヒーリーの魂の意思を尊重しつつ、可能な限り奥までダイレクトに掘り起こすことが出来るものである。


<了>



「音叉ヒーリングとは、①」

2012-12-23 20:03:28 | 日本

音叉ヒーリングとは、何か?一概に、これは凄いと言ってもわからないが、兎に角凄い!
以下、音叉ヒーリングについて2回学ぶ。



失われた古代ソルフェジオ周波数にチューニングされたソルフェジオ音叉の神聖な響きと黄金率と関わりの深いフィボナッチ音叉によって心、身体、エネルギーが包まれ、細胞レベルまで響く振動(=周波数)が深いリラクゼーションをもたらす。

音によるヒーリングというものは昔から行われてきた。そこには、同期と共鳴という自然の法則に則った、物質的なもの、そして非物質的なもの双方の変化、という原理が働いている。

すべてのものはエネルギーであり、振動する存在である。そしてそれぞれ固有の周波数を持って振動している。自然界の法則において、異なる周波数にあるものが共振、共鳴を求めて、同期(同じ響きを得ようとする動き)しようとする性質がある、というのが、そのままヒーリングにも必要な動きなのだ。
音を響かせることによって、その場の振動が、お互いに共鳴しようとする動きを始め、そのプロセスにより様々なシフトと変化が起こっていく。この同期と共鳴の働きにこそ、音によるヒーリング(あるいは実はすべてのヒーリング)における神秘が含まれている。

ヨガのレッスンの前後でティンシャを鳴らして場が整ったりするのを感じられている方も多いが、これも、「同期と共鳴」の法則によりその場のエネルギー、振動が変化をした結果やプロセスを感じるからである。

最近ではクリスタルボウルやホーミーなど「倍音」を使ったヒーリングも注目されている。音そのものではなく、音楽、メロディーに焦点を置いた「音楽療法」や、音霊(おとだま)・言霊(ことだま)に焦点を置いたヒーリングもある。

そんな中で音叉ヒーリングの最大の特徴とは、「純音」を奏でることのできる「音叉(おんさ)を使っていること、が挙げられる。もちろん、鳴らし方によってその純音を基音とした倍音が響き、いわゆる倍音効果も得られる。

「古代の失われた音階」とも「癒しの暗号」とも言われている周波数の音叉。

UT: 赤    罪の意識と恐怖の解放
RE: オレンジ 状況回復、変容の促進
MI: ゴールド 奇跡/青写真の修復
FA: グリーン 関係性、つながり
SOL:青    表現、解決
LA: 紫    直感の覚醒

これらカラフルで美しい6本の音叉は失われた古代の音階とも呼ばれている6つの電磁周波数にチューニングされている。数秘学的にもパワフルな数字とされている3、6、9が組み込まれた、またスピリットが物質に、物質がスピリットにと交流する地点の周波数とも言われている。




「讃岐うどんの味を追究せよ!④」

2012-12-23 19:42:36 | 日本

讃岐うどんの特徴はなにか。
讃岐うどんを食べたことのある人ならば「コシの強さ」と答えるだろう。香川県のサイト「 麺の博物館」にも、10歳の子の「さぬきうどんの特徴は何ですか」という質問に「『こし』の強い食感が特徴です」との答えがある。どうやら、讃岐うどんの味に重要なのは、コシのようだ。
「コシ」と聞けば、誰もが「ああ、コシね」と、ある感触を想像する。だが、「コシとはなにか」を、明確な言葉で表現できる人はそれほど多くはない。 

藤井さんはこう答える。「コシとは、粘り強さと硬さとが合わさったもの。粘り強いかもろいか、それに硬いか軟らかいか。その2つの食感の相関図で考えると、讃岐うどんは、“硬くて粘り強い”という領域に入る。」 
硬さと粘り強さが対立するものではないことは分かった。では、この2つの食感はどのように生み出されるのか。 

まず、硬さ。
硬さにはうどんの原料の小麦粉のたんぱく質が関係している。「たんぱく質は熱を加えると硬くなる。うどんも熱が加わるから硬くなるのだ。」 
たんぱく質のグリアジンとグルテニンを水分で反応させるとグルテンが形成され、これが麺のコシの鍵を握ると一般的に言われている。 
しかし、それは硬さのだけの話である。

次に、小麦粉選びでより重要なのは、粘り強さがあるかどうか?
その粘り強さを引き起こす要素が、でんぷんだ。「うどんで使う小麦粉のたんぱく質含有量が8~9%であるのに対して、でんぷんの含有量は77%もある。」 
粘り強さを決めるのは、でんぷんのアミロースとアミロペクチンという物質で、アミロースの割合が少ないと粘り強さが出てくる。うどんの粘り強さを実現できる小麦は、国産とオーストラリア産。「粘り強さを出すでんぷんを含む小麦粉でないと、美味しいうどんにはならない。」 

さらになぜ、うどんの生地を2回寝かせるのか?
「熟成」という工程がある。熟成とは、うどんをしばらく「寝かせる」こと。小麦粉を練ってから麺を茹でるまでの全工程中、熟成を2段階で行うというものだ。 

「最初の熟成は、練ったあと」小麦粉に塩水を加えて練ったあとに、摂氏28度で2時間、または25度で3時間、寝かせる。この最初の熟成には、小麦粉の粒子に水分を行きわたらせて、透明感を失わせる原因となる気泡を抜く効果、それに、緊張したグルテンを緩ませて次工程の「鍛え」(手打ちでは足踏み、製麺機ではプレス)に備えさせる効果があるという。 

「2回目の熟成は、鍛えたあと」なぜ2回目の熟成をするのか。そのヒントはうどんの色に隠されている。 

「昔のうどんは、小麦の内側も外側もみな水車でいっぺんに挽いていたため、色の白くない濃い色の生地をしていた。お米の玄米のようなものである。色の濃い生地のうどんでは分解酵素の活性が高いため分解が進みやすい。寝かせておくと分解酵素が働きすぎて、生地が切れてしまう。」 
昔のうどんの色が濃かったのは、小麦粉の表皮と胚芽とよばれる外側の部分も含まれていたからだ。この外側の部分が、活発な酵素活性をもたらしていた。 
「ところが、いまのうどんは白米のように白い。分解酵素はほとんど入っていない。だから、寝かせることが重要なのである。」 

うどんの分解酵素がほどよく働くと、うどんの生地の状態が良くなる。だが、白いうどんでは分解酵素活性の度合いが低いため、分解酵素の働きを“待つ”必要がある。これが、2回目の熟成の主な目的だ。 

うどんは、これからどのような道を歩むのだろうか。 
これからの日本は高齢化社会となる。お年寄りの食べやすさの時代が来る。その点では、うどんを含む新たな麺の時代が改めてやって来るだろう。

<了> 




「讃岐うどんの味を追究せよ!③」

2012-12-23 19:39:50 | 日本

讃岐は二毛作による小麦の産地である。瀬戸内海からは塩が豊富にとれる。小豆島では醤油づくりも盛んである。讃岐のうどんが庶民に根付く条件が揃っていたと言ってもよいだろう。 
ただし、昭和20年代までの讃岐うどんは、いまのブームから考えると、驚くほど“静かな”食べものだったようだ。讃岐うどんは、店で出されるものではなく、家庭料理の1つとして食卓に上がるものだった。冠婚葬祭などの年中行事には、家庭でうどんが出された。大晦日も、讃岐では蕎麦でなくうどんで年を越すのが通例だった。 

戦後しばらく経つと、香川県内に「ご飯もの以外にうどんも出す」という営業形態をとる食堂が多くなる。うどんを提供する店ということで言うと、一時期は3000店以上にもなったという。 
そして昭和30年代にもなると、うどんをメインで提供する、うどん専門店が讃岐の町でも見られるようになる。1963(昭和38)年には、四国への玄関口でもあった高松駅構内で立ち食いうどん店が開業した。これが初の讃岐うどんブームのきっかけの1つとなったと言われる。 
各店は、讃岐うどんの専門店として、ざるに盛ってつゆに付ける「ざるうどん」、水で冷やして締めることをしない「釜揚げうどん」、様々な具材や薬味を載せる「ぶっかけうどん」などを提供するようになった。 
讃岐うどんは家庭料理から専門店料理へと、大きな発展を遂げたわけだ。 

だが、昭和時代後半から現代にかけての讃岐うどんの発展には、もう1つの重要な要素がある。それは「自家製麺」の登場である。 
専門店が開店してから間もなくは、うどんの玉をつくる「製麺所」が各うどん専門店などに“玉卸”をしていた。そうするしかなかったからだ。 
だが、昭和50年代になると、うどん玉をつくる製麺機を製麺機メーカーが開発するようになる。これにより、うどん専門店が自分たちでうどんをつくる「自家製麺」が、ブームの要因に加わっていった。 

1975(昭和50)年10月。香川県坂出市に、とある製麺機メーカーが誕生した。「大和製作所」だ。 
「私は起業をするとき、製麺事業の本質は何であるのかを考えた。その本質は、麺の美味しさの追究にあると考えた。」 
こう話すのは、大和製作所の創業者で社長の藤井薫さん。前職は川崎重工のエンジニアとして飛行機や船の設計をしてきた。その経験から、機械メーカーを起業するが、石油危機の直後で設計の仕事がない。そんな中、コンサルタントからの「香川県で機械づくりをやるなら製麺機」という助言を受けて、素直に従った。「それまでまったく興味のなかった」うどんなどの製麺機づくりに着手することになった。 
「どうすれば美味しい麺をつくることができるか。私は麺の研究を徹底的にすることにした。深く研究をすれば、次々と事実が分かってくる。」
長年にわたり食されてきたうどんや讃岐うどんにも、まだ研究の余地があったのである。


うどんが現在のように、小麦粉をこねて麺を打ってから茹でる形で確立したのはいつ頃のことか。少なくとも、17世紀前半の江戸時代初期には、現在のうどんと共通するつくり方があったようだ。1643(寛永20)年に刊行された料理法集『料理物語』(著者未詳)には、次のように記されている。 






「讃岐うどんの味を追究せよ!②」

2012-12-23 19:24:07 | 日本

うどんが現在のように、小麦粉をこねて麺を打ってから茹でる形で確立したのはいつ頃のことか。少なくとも、17世紀前半の江戸時代初期には、現在のうどんと共通するつくり方があったようだ。1643(寛永20)年に刊行された料理法集『料理物語』(著者未詳)には、次のように記されている。



「讃岐うどんの味を追究せよ!①」

2012-12-22 08:39:47 | 日本

「讃岐うどんの味の追究について書かれた論文があった。
日本人とうどん!切り離せない食材である。
以下、要約し4回にわたり記す。



口の中をつるつるつるっと滑っていく。噛み切ろうとすれば、ちょっとした抵抗さえ受ける。うどんほど、舌や歯での感触が風味に直結している食べものは珍しいのではないか。 
うどんの中でも、麺としての特徴をいかんなく発揮しているのが「讃岐うどん」だ。いわゆる“コシ”の強さを大きな特徴としている。 

香川県のうどん店の密度は、人口10万人に対して60店以上。これは全国平均の3倍にもなるという。激戦区ゆえのレベルの高さも不思議ではない。 
だが、小麦粉と水と塩ぐらいのシンプルな材料から、なぜ“美味しいうどん”はつくられるのだろう。そこには、人びとが長年にわたり培ってきた経験と、いまもたゆまぬ研究の成果がきっとあるにちがいない。 

うどんは小麦粉でできた太い麺だ。現在ではそれが当然だが、歴史をたどるとこの形になるまでの変遷があることに気付かされる。 
小麦粉を長細い形にした食材には、かつて「索餅」という名が付いていた。「むぎなわ」あるいは「さくべい」と読む。 
本来「餅」は中国語で、小麦粉を原料にした食べもののこと。「索餅」は、小麦を手延べしてから縄の形にねじって油で揚げた、奈良時代からの唐菓子だった。その後、索餅は14世紀の日本の南北朝時代以降「索麺(さくめん)」とも呼ばれるようになった。この系譜のたどり着く先は、われわれも食している「素麺(そうめん)」だ。 

うどんにもこれとは異なる来歴がある。
うどんには、手延べの「索餅」の系譜とともに、小麦粉を麺棒で延ばしてから切って麺にする「切麦(きりむぎ)」の系譜もあるとされる。切麦は、現代の「冷麦」にもつながっているらしく、うどんと冷麦の間柄は、太くて温かい兄と、細くて冷たい弟のようなものと言えそうだ。 

「うどん」という言葉には、また別の由来がある。
源流にあったのは、小麦粉を団子にした、現在のうどんとは似つかぬ「混沌(こんとん)」。その後「混」に食へんを用いた「餛飩(こんとん)」になる。ここで「餛」の字には、「食へんに軍」も当てられたことから「うんとん」ともよばれるようになった。このよびかたから「温飩(うどん)」、さらには現代の「饂飩(うどん)」が使われるようになったとされる。




「わが国におけるクリームシチューの歴史」

2012-12-20 07:41:45 | 日本

家にタマネギ、ニンジン、ジャガイモの買い置きがあると、なんとなく心強い。それらの野菜になにか肉類をプラスして味付けを変えて煮込めば、いろんな料理が出来上がるからだ。

薄切りの牛肉があれば、肉じゃが。牛肉でもばら肉やすね肉の塊なら、ビーフシチューやビーフカレー。鶏肉だったらカレーはもちろん、寒い季節ならクリームシチューも選択肢に入ってくる。

カレーや 肉じゃがは以前述べたように、明治になっておおっぴらに肉食ができるようになってから、日本で独自にアレンジを加えられていった料理だ。

カレーに、ニンジン、ジャガイモ、タマネギの3種の野菜が勢揃いをするのは、明治も終わりになってから。ならば、似たような材料を使ってできるクリームシチューも日本で独自に発展した可能性が高いのではないか。

シチューは、粉を使ったルーでとろみをつけるところがスープとの最大の違いだ。例外はあるが、シチューと言えばルーをブイヨンやワインなどの液体でのばして野菜や肉を煮込んだものを指す。

シチューという料理が確立したのは、16世紀後半から17世紀前半のフランスだと言われている。「シチュー」(stew)は英語で、フランス語では「ラグー」(ragout)と呼ばれる。

野菜や肉をただ煮込んだだけの料理は古くからあるが、ルーを用いたソース料理が考案されて以降、ラグーがフランス家庭料理の定番となった。
日本にシチューが入ってきたのは、明治期になってからである。1872(明治5)年に発行された仮名垣魯文著『西洋料理通』に紹介されているほか、1875(明治8)年に開店した芝浜松町の牛鍋屋「たむら」の広告には、「シチウ8銭」の文字がある。牛鍋屋というからには、おそらく提供されていたのはビーフシチューに近いものだったろう。

牛乳入りの鶏肉のシチューが料理書に初めて登場するのは1924(大正13)年の『滋味に富める家庭向西洋料理』(手塚かね子著、文化生活研究会)だった。

この本で紹介されている「鶏肉のスチウ、ダンブリング」という料理では、鶏肉をバターで炒めてそこに小麦粉、タマネギを入れてさらに炒めた後、湯を入れて煮て、最後に牛乳を入れる。そうして完成したシチューにダンブリング(小麦粉を牛乳、卵などを入れて練ったもの)を投入して出来上がり。

ニンジンやジャガイモの代わりにダンブリングが入っていることを考えると、具材には大きな違いがあるが、それでもシチュー部分の作り方に限って言えば現在のクリームシチューとほぼ同じだ。

日本の料理史において、突如クリームシチューが華々しく登場するのは、戦後の学校給食のメニューである。
学校給食が全国で開始されたのは1947(昭和22)年。戦中、戦後を通して食糧不足となっていた時代、給食は栄養補給のための大事なものであった。カルシウム不足を補うため、脱脂粉乳が盛んに用いられた。そうした状況にあって、脱脂粉乳を用いたクリームシチューが定番メニューとなったのである。当時、脱脂粉乳のシチューは「白シチュー」と呼ばれていた。
学校給食を通じて広まった白シチューは、ホワイトシチューやクリームシチューなどと呼ばれ、料理書や料理番組でも紹介されるようになる。だが、広く家庭で作られるようになるのは、給食の登場からしばらく経ってからのことである。

1966(昭和41)年、ハウス食品は「クリームシチューミクス」という粉末状のルウを発売。白シチューをどうにか美味しくできないかと、カレーのルーを参考に開発を重ねた結果、生まれたのがこの商品だった。
発売から1年経った頃にはシチューミクスは大ヒットとなり、これがきっかけでクリームシチューという名前が一気に定着した。こうして、クリームシチューは冬の定番料理となったのである。

食糧難の時代、カレーと同じ具材を使って何か別の料理ができないかと考えた末、単に具材を煮込むだけでなく、栄養価を考慮して、脱脂粉乳をプラスしたシチューを考えだした。こうして、見た目もきれいで栄養もある白いシチューが出来上がり、それがクリームシチューの原型になった。




「ベルギーのKeshe財団の動き」

2012-12-20 07:41:45 | 日本

ベルギーのKeshe財団の動きがインターネットに出ていました。
真実は如何に?参考にされたし。



ベルギーにケシェ財団という組織があります。フリーエネルギー・反重力テクノロジーを開発、宇宙旅行、医療、素材、環境浄化、輸送、生活の様々な面を画期的に進歩させる技術を持っています。
そのパテントを世界中の政府に平等に無償で提供しています。個人に、ではなく、政府にです。人道目的です。資金も潤沢そうで、とにかく不思議な組織です。

9月6日に各国政府を集めてフリーエネルギーサミットを開き、「いつでも、技術のつまった USB スティックを渡す用意があるので、大使館を通じて、受け取りに来るように」という案内が為されました。

ようやく、「11月2日に、日本政府もそれを受け取りに来た」との発表がありました。(なお、米国では、ベルギーの米国大使館がこの呼びかけを無視していることがネットで知れ渡り、人々の怒りを呼んでいます。)

とりわけ朗報は、その技術の中に、放射能汚染を除去できるものがある!ということなのです。「日本が受け取った」というニュースに、他国の人々も喜んでくれています。

日本政府がテクノロジーを受け取ったという記事は、以下のものです。


Keshe財団サイトでの公開
http://www.keshefoundation.org/phpbb/viewtopic.php?f=2&t=2924

Keshe財団は光栄をもってこの発表します。
2012年11月2日に天皇皇室国家の日本がKeshe財団より宇宙船USBスティックを受け取った最近の国です。
SSPプログラムのギフトを日本大使に2012年11月2日13:30に手渡しました。

この日より日本国は環境や周囲の地域に漏洩した放射能を包み込む重力場宇宙技術を使って福島の核汚染を除去し人々を助けることができます。
日本政府へ技術移転するという事はその国が新しいエネルギー供給システムを自ら開発する事を認めています。
それはこの国はここ数年という事態でエネルギー輸入から自己充足する国家へと自立させます。

全ての国に渡すSSP USBスティックの中身は完全に同じであり、同じマスターファイルからコピーされています。それゆえに全ての国はKeshe財団より宇宙リアクター技術の同じ特許並びに設計図を受け取ります。

私達は日本国家がSSB USBスティックを受け取ったことを祝福します。
私たちはこの国の核の問題の現状を助けるため一刻でも早くこの技術を実現化し達成するよう日本政府に我々の技術的フルサポートを提供します。
日本政府への技術移転はKeshe財団より勤勉国家日本へのフリー贈り物として無償にて行われます。
私達は日本国がSSPプログラムの一員になることを歓迎します。

M T Keshe


<原文>

The Keshe Foundation is proud to announce that as of Friday 2 .11.2012 the Royal Imperial nation of Japan is the latest nation which has received the spaceship USB stick from the Keshe Foundation.

The gift of the SSP program was handed over to the embassy of the Japan on Friday 2.11.2012 at 1.30 pm.

From this day the nation of Japan can help its people to help themselves in cleaning-up of the Fukushima nuclear spillage using the gravitational space technology to contain any nuclear radiation leakage into the atmosphere and its surrounding areas.

The transfers of technology to the government of japan allows the nation to develop their own new energy supply system. This making this nation independent of import of energy as the nation become self-sufficient in matter of handful of years.

The content of all the SSP USB sticks for all nations is exactly the same and all are copied from the same mother master file. Therefore all nations receive the same patents and blueprint of apace reactor technology from the Keshe Foundation.

We congratulate the nation of japan in reciving the SSP USB stick.

We have offered the government of japan our full technological support to achieve and realize the technology as fast as possible for help in their present situation with the nuclear problem of the country.

The technology transfer to the goverment of Japan was done on no charge bases and as free gift from the Keshe Foundation to the hard working nation of Japan.

We welcome the nation of the japan into the SSP program family.

M T Keshe
The Founder of the Keshe Foundation