龍の声

龍の声は、天の声

「瀬戸内寂聴の言葉」

2019-11-27 18:59:49 | 日本

別れの辛さに馴れることは決してありません。
幾度繰り返しても別れは辛く苦しいものです。
それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。
それが人間なのです。
  
もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするならどうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。
そういう道を求めて歩くのが才能に賭ける人の心構えなのです。
  
人間は生まれた時から一人で生まれ死ぬ時も一人で死んでゆきます。
孤独は人間の本性なのです。
だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。
 
人生にはいろいろなことがあります。
しかし、悲しいことは忘れ、辛いことはじっと耐え忍んでいきましょう。
それがこの四苦八苦の世を生きる唯一の方法ではないかと思います。
  
大抵の人間は自分本位です。
特に女性は自分中心に地球が廻っていると思っていて思い通りにならない現実に腹を立てて
愚痴ばかり言うのです。
思い当たることはありませんか。
 
相手の立場に立ってモノを考えれば人間は他者のためにどんなことでもできるのです。
   
人は、不幸のときは一を十にも思い幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて十を一のように思います。
   
どんな悲しみや苦しみも必ず歳月が癒してくれます。
そのことを京都では『日にち薬(ひにちぐすり)』と呼びます。
時間こそが心の傷の妙薬なのです。
  
大きな椿の花を咲かせるにはどうすると思いますか?
まだ、つぼみが小さいうちにひとつだけを残してみな摘んでしまうのです。
そうすれば、大輪の花を咲かせることができるのです。
 
お子さんに「何のために生きるの?」と聞かれたら
「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげて下さい。
  
一日に一回は鏡を見る方がいいです。
できればにっこりと笑ってみて下さい。
心にわだかまりがない時は表情がいきいきしているはずですよ。
 
あなたはたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた、大切な存在です。






•唐辛子の短歌

2019-11-23 20:56:00 | 日本

•唐辛子
あたらずも  とうがらし

•蓮根
雪がコンコン  あられがレンコン

•大根
わが家のダイコン柱  お父さん

•竹の子
風の子  たけのこ   元気な子

•水菜
焼き石に  ミズナ

•枝豆
小まめで   筆まめ  エダマメ

•とうもろこし
村おこし   トウモロコシ

•栗
びっくり  しゃっくり  クリックリ

•おくら
僕らも  オクラも  みな元気









「天台宗を学ぶ④」

2019-11-22 22:41:57 | 日本

◎「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す」

道心(どうしん)とは道を修めようとする心、仏教においては仏道を究めようとする心です。この道心をもって生活することができる人が国の宝であると示されています。

例えば、自分の仕事を自己に与えられた天命と心得て、打ち込む人こそ道心の持ち主でしょう。どんな仕事でも、このような人は限りない喜びを仕事の中に見いだし、生き甲斐を仕事の中に感じることができるに違いありません。「自分という人間はいかにあるべきか」を追究し、自己の理想や目標を定め、その実現に向かって努力すること、そのような人生の道を歩む心といえるでしょう。
このような人が国中に充満すれば、国は栄え、社会は浄化され、物も心も豊かになる世界が実現します。したがって、伝教大師の御心は、一個人の完成のみならず、道心ある人々を育成し、国全体、ひいては世界中に及ぶことを願っているのです。


◎「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」

また、道心について伝教大師は「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」ともおっしゃっています(『伝述一心戒文』巻下)。
道心がなければ、いくら恵まれても無意味です。道心があればこそ恵まれた心と生活になるといえます。
真剣に道を求め、その道に打ち込む人は、生活が成り立たないはずがありません。必要最小限の衣食住は自然と備わります。しかし、衣食住に執着し、ぜいたく三昧の生活を志向する人は、私欲に心が奪われて仕事もなおざりとなり、道心は湧いてくるものではありません。
「衣食足りて礼節を知る」(生活に余裕ができて初めて礼儀や節度をわきまえられるようになる)という故事成語があります。もし衣食が足りなくなり、生活に困る事態になってしまったら、礼節を忘れる心になるのでは、人間としていかがなものでしょうか。
また一方、今日の日本では科学技術の進歩や高度経済成長を経て、衣食住の基本的な生活条件が満たされているはずですが、物の豊かさとは裏腹に、心豊かな人間性というものが置き去りにされるような時代になっていないでしょうか。
伝教大師は、「道心の中に衣食あり」と、裕福や貧乏にかかわりなく、いかなる事態にあっても、どんな職業であっても、目の前の利益にとらわれることなく、道心をもって生活することを説きます。人間は動物と違い、自分の欲を管理する知恵をもっています。ただお金のために、物のために生活しがちな現代人や現代の物質文明社会への警鐘ともいえるでしょう。
伝教大師のおっしゃるように、自己を高めて道を修めようとするには、まずは自己を謙虚な姿勢で振り返り、心を柔軟にするための覚悟や戒めを持ち、努力することが大切なのです。


◎「径寸十枚是れ国宝に非ず、一隅を照らす此れ則ち国宝なり」

「径寸十枚」とは金銀財宝などのことで、「一隅」とは今自分がいる場所や置かれた立場を指します。
お金や財宝は国の宝ではなく、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも代えがたい貴い国の宝なのです。
演劇の舞台も主役以外に脇役や裏方など、たくさんの役者がそれぞれの担当をしっかり果たしてこそ、観客が満足する舞台を上演することができます。また、国も総理大臣だけで成り立っているのではありません。国民一人ひとりが持ち場を守り、仕事をしっかりとすることによって国が成立しています。
会社における上司と部下、家庭における親子の関係など、それぞれにおいて使命を自覚し、自分の仕事や生活に励むことが人間としての基本です。
一人ひとりがそれぞれの持ち場で最善を尽くすことによって、まず自分自身を照らします。そしてこれが自然に周囲の人々の心を打ち、響いていくことで他の人々も照らしていきます。そうしてお互いに良い影響を与え合い、やがて社会全体が明るく照らされていきます。
「一隅を照らす」ということは、各々の仕事や生活を通じて、世のため人のためになるように努力実行することで、お互いが助け導き合い、あたたかい思いやりの心(仏心)が自然と拡げられていくのです。


◎「悪事を己に向かえ好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」

比叡山延暦寺の根本中堂に奉安される不滅の法燈は、開創以来、1200年の時を越えて輝き続けている。
私たち人間は往々にして自分本位に考えてしまいがちです。しかし、自分のことはさることながら、他の人のために尽くすことが最高の慈悲であると、伝教大師はおっしゃっています。

自分自身が幸せになることももちろん大事ですが、周りの人々も幸せを求めているに違いありません。周りの幸せのために生きることが自らの幸せであり、お互いがお互いの幸せのために力を出し合ってはじめて世の中みんなの幸せが得られるのではないでしょうか。
実は、一隅を照らすということ(自行)と、他のために行動すること(利他)は、表裏一体なのです。自分の利益を顧みずに他のために全力を尽くせば、皆が「あの人は立派だ」ということで、厚く信頼されるでしょう。みんなが感謝と尊敬の念を持つことでしょう。これは「照らす」行いの反射です。照らさなければ反射は起きません。結局、一隅を照らすということは皆の模範となり、鏡になることです。
伝教大師は比叡山に「不滅の法燈」を灯され、1200年の時を経て今日まで連綿と受け継がれてきました。この不滅の法燈のように、各自の心の中に慈悲の光を持ちましょう。自分を燃やしながら光っているロウソクのように、我が身を燃焼し、自分の使命を達成するために一所懸命に努力しましょう。このひたむきな努力が光を発するから、皆がその光を慕い、集まってきます。今度はその集まった人たちが、それぞれ灯火(ともしび)となって輝き、その光が集まって膨大なものになり、必ずよい世の中になると説かれています。
「己を忘れて他を利する」という忘己利他(もうこりた)の精神を私たちの日常生活で発揮し、大勢の人々の心に確実に溶け込ませていくことは、安心(あんじん)にあふれる平和な世の中(仏国土)の実現に繋がることになるのです。


◎第253世天台座主・一隅を照らす運動総裁 山田恵諦猊下ご講話

第253世天台座主で一隅を照らす運動総裁でもあられた故・山田恵諦猊下の講演録(平成3年の東京大会)をもとに編集された『一隅を照らす6つの約束』を紹介します。
比叡山で修行する僧侶の心得に「六念」というものがありますが、この六念を檀信徒や一般の方々に向けて「六つの約束」としてわかりやすく講話されたものです。家庭における日々の暮らしを見直す指針としてどうぞ生かしてください。

昭和44年に我が天台宗が宗祖伝教大師の思し召しを伝えるために、ぜひ一隅を照らす運動を始めたいという念願を時の天台宗宗務総長が起こし、「どのようにすればよろしいでしょうか?」という相談を受けました。その時に、「一隅を照らす運動の基本をはっきり皆が認識した上で進まなければ、その効果は乏しくなる。同時に、今一つ大切なことは長く長く続けることであり、急いではいけないということである」と、この二つをその時に申しました。そして、「どのような理念でいけばよろしいですか?」ということに対しては、「二つの柱を持ちなさい。二つの柱をみんなの心に持つことです」とはっきり申しました。
では、一隅を照らす運動の二つの柱とは何か。

まず第一番が「仏性の開発」。仏性(ぶっしょう)とは、生まれながらにすべての人に具わっている御仏様の心をそのまま自分の生活の基本にするということであります。これが一つ。もう一つの柱は、「浄仏国土の建設」。仏の住む国土をこの地球上につくることであり、すべての人が仏教精神を尊重し、信頼しあえる世の中とすることです。
この二つの柱を目標にして進むのであって、倫理運動でもなければ慈善事業運動でもありません。根本からすべての人々の心を入れかえることが第一番目の柱(仏性の開発)であり、同時に世界は一つという大きな眼をもって対象にするということ(浄仏国土の建設)が第二番目の柱であります。

仏性とは一体何かといえば、仏の性質と書き、何でもないことのようでありますが、ともすると私たちと御仏様はかけ離れたものであるというふうにすぐに取ります。大聖釈迦牟尼世尊がお説きくださった教えというものは、決して理想ではないのであります。現実の人間をつくりだす、しかも、その目標においてすべてが仲良くするという一つの共通理念のもとに人間が進んでいくということにならなければ、この地球を守っていくことができません。
つまり、すべてのものの一番に支配権を持つのが人間でありますから、この人間が善き心を持つか、悪しき心を持つかによって、地球に住むすべての動物、植物にまで影響してしまいます。ぜひとも正しい人間でなければならないということを私は皆に教えたい、これが仏教の基本であります。


<完>











「天台宗を学ぶ③」

2019-11-20 20:21:09 | 日本

◎『法華経』には、すべての人々は仏になることができると説かれています。

天台宗の高祖である天台大師(智ぎ)や日本天台宗を開かれた宗祖伝教大師(最澄)ほか、実に多くの先人方の信仰と精進により、その教えは今日まで連綿と受け継がれてきました。まさに永遠の命を持つ仏(久遠仏)が、悩める多くの人々の魂を救済しながら信仰への意義付けや喜びを授け与えてきたことに他なりません。

仏の教えは、声聞(しょうもん・仏の教えを聞いて悟る者)・縁覚(えんがく・仏の教えによらず自ら悟りを開く者)・菩薩(ぼさつ・一切衆生を救済しようと利他の精神を発揮する者)という三乗に対して、それぞれ別々に説かれますが、その根本では一乗、つまり一つです。乗とは、衆生を乗せて悟りの境地へ運ぶ乗り物の意です。この世で悩み苦しむ多くの人々を仏のさとりに導くために、一つの教えをそれぞれの能力に応じて説かれたのであり、それらを最終的に包括したものが『法華経』であります。これを法華一乗思想といい、天台宗の中心的思想です。この一乗と三乗については伝教大師と徳一法師(法相宗)との論争が有名です。

『法華経』は、お釈迦様一代の教説はすべての人々(一切衆生)を一仏乗に入らせるためであると説きます。また、お釈迦様は釈尊として永遠の過去から永遠の未来にわたって人々を教化・利益し続ける久遠実成(くおんじつじょう)の仏であることを明らかにし、人々は永遠に救われることが説かれています。さらには、この世に存在するもののどれ一つとっても無駄や隔てがなく、差別対立もなく、この世を構成する上で重要な役割を果たしていると説きます(諸法実相)。あらゆるものが平等の上に存在するのは、仏はもちろん、人も草木も存在するものすべてが仏性を持ち、みな仏になる可能性を持っているのですから、本来は声聞・縁覚・菩薩という区別などありません。

¥このように、天台宗は、すべての人が仏になることができるという、法華一乗の教えを根本として、仏性の普遍と尊厳とを自信し、自行化他の菩薩道を並べ行い、正法興隆、人類救済の聖業に努め、かつ、国家社会の文化開発に尽くし、皆成仏道の実現と仏国土の建設とにあらゆる宗教的努力をすることを宗旨といます(天台宗宗憲第四条)。そして、宗祖伝教大師が立教開宗された本義に基づいて、円教、密教、禅法、戒法、念仏等いずれも法華一乗の教意をもって融合し(四宗融合という)、これを実践します(天台宗宗憲第五条)。

また、伝教大師は『山家学生式』や『顕戒論』などを著し、大乗戒壇の独立を朝廷に奏請しました。大乗の菩薩僧を養成しようとする天台宗は、当時の奈良仏教の厳密な小乗戒ではなく、大乗戒によって授戒するべきであると主張し、『梵網経』による戒を授ける戒壇院を比叡山に独自に設けることに心血を注がれました。その悲願は伝教大師が入滅した弘仁13(822)年6月4日から一週間後に実り、大乗菩薩戒(円頓戒)の戒壇院建立の勅許が比叡山に届けられました。

伝教大師の後には、慈覚大師円仁が中国五台山の念仏を日本に伝え、恵心僧都源信が『往生要集』を著して観心念仏を広め、やがて鎌倉新仏教といわれる諸宗派が開かれていきます。法然上人や親鸞聖人はお念仏、栄西禅師や道元禅師は禅、さらに日蓮上人はお題目によって、天台宗の一乗仏教の中から立教開宗していったのです。一面から言えば、鎌倉仏教の祖師たちも比叡山で大乗菩薩戒(円頓戒)を受けて修行して巣立ち、天台宗の四宗融合が展開されたということであり、鎌倉仏教によって広く大衆社会へ仏教が受容されていったのです。

以上は要点のみですが、この世に存在するものはすべて仏性を具えており、それを自覚し、常に心身の修行に励み、仏性の開発に努め、そうして現世をそのまま仏の国土として、理想的な社会を建設していこうというのが、天台宗の教えです。したがって、この教えが天台宗の主導する「一隅を照らす運動」の源泉であると言えましょう。

『法華経』常不軽菩薩品には、何事に対しても常に敬う心も持つことが説かれています。遠い昔に常不軽菩薩がいて、どんな人に対しても「あなたは仏さまです」と言って、誰もが仏様と同じ尊い存在であると礼拝しました。常不軽菩薩は石を投げられようが、杖で叩かれようが、信念をもって礼拝し、仏教を弘められました。

一人ひとり、一つひとつは個性や違いがありますが、誰にでも仏性があるとことは平等です。それぞれの存在が大事であり、尊いもので、何一つとして切り捨てられるべきものはありません。また、自分の考えや行動があらゆるところに関わっており、それぞれが世界(法界・全体)の一員としてお互いに必ず影響を及ぼしているのです。私たち人間は一人では生きていけません。人と人の間にいる、苦と楽の間に、善と悪の間に、あらゆるものの間にいるから人間なのです。だからこそ、自分だけがよければいいという考え方ではなく、常に周囲や全体のことを考え、行動しなければなりません。自分が生きているということは生かされていることで、みなのことも生かさなければならないというふうに、満遍なく関係し合っているのです。これはさらに山も川も草も木もすべて平等に同じ命を生きているという山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)という日本仏教独特の思想に発展してきました。

一隅を照らす運動は、信仰と実践に基づく天台宗の社会啓発運動です。宗祖伝教大師は、この国が国宝的人材(菩薩)で満たされ、この世界が浄仏国土となることを真摯に願われました。日本をひいては世界を真の一乗の国とするために、一人ひとりに菩薩の自覚を喚起し、菩薩の実践を呼びかけます。すべての者が自覚と実践によって仏となることができるということが、天台宗の教えであり、一隅を照らす運動の究極の目的であります。
自分と他人に仏性を認めあい、その自覚でもって人々を敬い、行動することができれば、平和で明るい社会が実現できるに違いありません。娑婆世界という現実世界こそ、私たちが一隅を照らす菩薩行の舞台なのです。








「天台宗を学ぶ②」

2019-11-14 06:59:44 | 日本

◎天台宗と真言宗との違いは?

 天台宗と真言宗の違いは、大きく3つあります。


1.密教に対する考え方
密教とは、大日如来(だいにちにょらい)による真実の言葉(すべての真理そのもの)のことです。(ただし、わかりにくい)
それに対して、顕教(けんぎょう)という考え方があります。
これは、お釈迦様(民衆を助けるために大日如来が姿を変えた者)がお話をされたものです。(分かり易いが表面的)
この密教と顕教に対する考え方が違います。
 
<違い>
 天台宗は、顕教と密教は同じ位置づけ。
 真言宗は、顕教は密教に至る途中の段階。(密教が優れている)

 2.奈良仏教(南都六宗)との関係
<違い>
 天台宗は、対立。
 真言宗は、融和的。
 天台宗は、先ほどお伝えした三乗説を唱える奈良仏教の法相宗(ほっそうしゅう)の徳一(とくいつ)との論争など対立をしていました。
 天台宗の密教を台密(たいみつ)、空海が伝えた真言密教を東密(とうみつ)と呼びます。

3.教え・教義(きょうぎ)
<違い>
 天台宗は、法華経を最も重視。
 真言宗は、即身成仏の行を最重要視。

本尊は?
何度も生まれ変わり、法華経を教えてくれる永遠の仏様として、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)や釈迦牟尼仏のいろいろな働きを表現した、薬師如来(やくしにょらい)・観音菩薩(かんのんぼさつ)等を等しく本尊として祀ります。
 

◎千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは?
千日回峰行とは、滋賀と京都の境にある比叡山内で行われる、天台宗の回峰行の1つ。

満行者は「北嶺大行満大阿闍梨」と呼ばれる。
「千日」と言われているが、実際に歩くのは「975日」で、残りの「25日」は「一生をかけて修行しなさい」という意味である。
7年間にわたって行う。1〜3年目は年に100日、4〜5年目は年に200日。
無動寺で勤行のあと、深夜2時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260箇所で礼拝しながら、約30 km を平均6時間で巡拝する。
途中で行を続けられなくなったときは自害する。そのための「死出紐」と、短剣、埋葬料10万円を常時携行する。
 
蓮華の蕾をかたどった笠をかぶり、白装束、草鞋履きで行う。
5年700日を満行すると、最も過酷とされる「堂入り」が行われる。
入堂前には行者は生き葬式を行い、無動寺明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥の4無行に入る。堂入り中は明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。水を汲みに出る以外は、堂中で10万回真言を唱え続ける。
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨となり、信者達の合掌で迎えられる。
これを機に行者は自分のための自利行から、衆生救済の化他行に入る。
 
6年目にはこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60 km の行程を100日続ける。
7年目には200日行い、はじめの100日は全行程84 km におよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30km の行程に戻る。
世界三大荒行のひとつで、他には、「日蓮宗大荒行」と「インドのヨーガ」があります。
 

◎天台宗とは?~まとめ~

 1.最澄が始めた仏教の宗派が天台宗。
 2.教えの拠点にしたのが比叡山延暦寺。
 3.天台宗は、法華経を中心にした教え。
 4.最澄は、法華経や真言密教・禅、戒律の教えを融合。この教えを四宗融合と呼ぶ。
 5.天台宗と真言宗との違いは、密教と顕教に対する考え方の違い。
 6.千日回峰行は過酷な荒行。(世界三大荒行のひとつ)

◎天台宗で行われていた修行の内容
天台宗の代表的な修行としては「四種三昧」と「千日回峰行」という修行があります。
四種三昧は、天台大師の「摩訶止観」に基づく修行です。
この修業は、4種類の三昧「常坐三昧」「常行三昧」「半行半坐三昧」「非行非坐三昧」によって成り立っています。三昧というのは仏教用語で、心から絶念し、1つの対象に深く集中することを意味します。

常坐三昧は、座禅に没頭する修行です。
静かな堂内に入堂し、90日の間、ひたすらに座り続け、実相を観じます。
座り続ける修行である以上、途中で立ち上がることはできず、歩いたり、横になることもできません。
常行三昧は、念仏を唱えながら、阿弥陀仏の周囲を歩き続ける修行です。昼夜一切の休みなく行うため、常行と呼ばれます。
途中で座ったり、横になることはできません。疲れた時には、堂内に用意された横木を頼りにして歩きます。休む時には、天井から紐が吊り下げられているので、それにつかまって休みます。

半行半坐三昧は、歩いて行う修行と、坐って行う修行を組み合わせたものです。
この修業は、「方等三昧」と「法華三昧」に分けられます。
方等三昧では、7日を一期とし、呪文を唱えながら仏像の周囲を歩き、終えると座禅しながら実相を観じます。方等三昧では、これを繰り返し行います。
法華三昧では、21日を一期とし、法華経の読誦と五体投地によって成り立ちます。こちらでも歩く修行と座禅が組み合わされていますが、法華三昧では特に懺悔が強調されています。
非行非坐三昧は、上記の三種の三昧以外の全ての三昧を指します。
人が行うあらゆる動作を通じて行うため、日々の生活が修行となります。期間や行法は定義されていません。形にとらわれず本質に通じなければならない修行であるため、容易なものではありません。

千日回峰行は、相応という僧が始めたとされる修行です。
この修業は7年かけて行われ、修行者は比叡山を歩き巡って礼拝します。修行者は白装束を身に纏い、開いていない蓮華をかたどった笠を被り、草鞋を履いて修行を行います。
また、修行を途中で続けられなくなった場合には、修行者は自害しなくてはいけません。このため修行者は、腰に死出紐と短剣を持っています。
修行を始めてから1年目から3年目は、毎年100日間、1日約30キロの行程で、260箇所以上を巡り礼拝します。
4年目と5年目では、同様の修行を200日行います。
この5年間で700日の修行を満たしたものは、「堂入り」と呼ばれる修行を行います。
この堂入りでは9日間、断食、断水、不眠、不臥を行いつつ不動真言を唱え続けなくてはいけません。
6年目は行程が増え、1日約60キロの行程を100日巡り礼拝します。
最後の7年目は、200日巡ることになります。
前半の100日間での礼拝は「京都大廻り」とも呼ばれ、比叡山山中だけでなく京都市内も巡ることになり、その行程は84キロにおよびます。
最後の100日間はまたもとに戻り、比叡山の山中を1日約30キロ巡ります。以上の修行を全て終えると、千日回峰行は満行となります。

◎天台宗の葬儀が持つ特徴って?
天台宗の葬儀では、「顕教法要」「例時作法」「密教法要」の3点が重視されています。
これは、天台宗では仏の教えが顕教と密教の2つに分類されるためです。

顕教とは、衆生の性質に応じて、仏が理解しやすく説いた教えを指します。
また密教とは、真理そのものを示す秘密の教えを指します。このため顕教と密教では、法要における儀礼の方法が異なります。
顕教法要では、法華経を唱え、日々の懺悔をします。
天台宗の教えでは、全ての人はその身に仏性を宿しています。この仏性を高めるため、懺悔を行います。

例時作法では、お経を唱え、死後極楽へ行けることを祈願します。
またお経を唱えることによって、極楽の如く現世も素晴らしい世界に変えるのだ、という願いも含まれているようです。
密教法要では、様々な定められた印を結び、真言を唱えて故人を供養します。これにより、故人が極楽へと導かれることを祈念します。

◎通夜で行われること
天台宗の通夜では、臨終と通夜の誦経、そして剃度式が行われます。
臨終誦経では、故人の枕元で阿弥陀経が読まれ、極楽へ導かれることを祈念します。
通夜誦経では、朝と夕方で違いがあります。朝には法華三昧が行われ、夕方は例時作法に則った阿弥陀経が読まれます。
剃度式では、水やお香を使って故人の身体を浄めます。
仏の元へと出家するため、髪の毛に剃刀を当てることが習わしですが、現代では実際に剃髪することはほとんどありません。この時、導師が辞親偈を唱えます。
辞親偈は、家族と縁を切って、出家することを示します。
次に、懺悔文を唱えます。これは、故人が過去に行ったことを懺悔する意思を示します。
続けて、授三帰三竟を唱えます。これは、授戒するにあたって、三宝に帰依することを示します。三宝というのは、仏教においては仏、法、僧を意味します。
そして最後に、故人に対して、戒名が与えられます。


◎葬儀の流れはどういうもの?

天台宗の葬儀は、次のような流れで進行します。
まず導師によって「列讃」が行われます。
この列讃では、穏やかな旋律の曲が流れます。
故人が成仏し、阿弥陀如来に迎えられることで仏となることを祈ります。またこの列讃には、場の静粛を促す意味もあります。
唱え終わると、鐃と鈸という打楽器が鳴らされます。
列讃の後は、故人の棺が閉ざされます。この棺を封じること「鎖龕」と呼びます。
続けて、棺を送る準備が行われます。これは「起龕」と呼ばれます。
その後「奠湯」あるいは「奠茶」と呼ばれる儀式が行われます。これは、霊前に茶器を供える儀式です。
これらの儀式で、故人が旅立つ準備が整います。
導師は霊前に進んで、「引導」を渡します。この引導には、故人を極楽へと送り出す意味があります。
続けて、松明や線香などによって空中に梵字を描く「下炬」が行われます。
故人を称える下炬文が唱えられた後、弔辞などを読み上げます。
その後読経が行われ、最後に回向文が唱えられると、葬儀は終了します。


◎天台宗の焼香の方法は?

天台宗においては、焼香の回数は基本的に3回とされています。
合掌礼拝をしてから、右手の3本指(人差し指、中指、親指の3本)でお香を取ります。続けて左手を右手に添えながら、額に頂いた後、焼香します。
これを繰り返した後は、再び合掌礼拝をします。
なお、天台宗においては焼香の回数は明確には定められていません。場合によっては、1回の焼香でよいとされることもあります。
線香を使う場合は、まず右手に線香を持ちます。
蝋燭で火をつけますが、この時、使用する本数は1本か3本です。1本だけ使っても問題はありません。
もし数珠を持っているのであれば、左手にかけましょう。
線香に火をつけたら、線香を振るか、左手であおいで火を消します。息を使って吹き消すのはマナー違反となりますので、注意しましょう。
続けて香炉に線香を立てて、合掌礼拝をします。3本の線香を使った場合は、手前側に1本、奥の方に2本と1本ずつ立てていきます。他の人があげた線香がある場合は、ぶつからないように少し離して立てるようにしましょう。


◎天台宗の葬儀で使う数珠とは

天台宗の特徴として、一般的な丸い玉が連なった数珠を使用しないことが挙げられます。
楕円の形をした、平珠と呼ばれる珠が連なった数珠が、天台宗では使用されます。
この数珠は一般的には、108個の主玉と、4個の天玉、1個の親玉によって作られていて、親玉からは紐が2本伸びています。
また、この紐の部分には、弟子玉が連なっています。弟子玉は片方は平玉20個、もう片方は丸玉が10個連なっています。
この数珠は、親指と人差し指の間にかけて持ちます。
弟子玉が連なっている部分については、下の方に垂らして礼拝を行います。また手に持つ時には、一度大きな輪を一捻りして、二重の状態にします。
その後、左手の人差し指の上に親玉がくるように置き、弟子玉の部分は垂らして握ります。
なお流派によって、これらの持ち方は異なる場合もあります。


◎戒名の構成や使われる梵字

天台宗の戒名は、「院号」「道号」「戒名」「位号」の4つの要素で構成されています。
戒名は「法名」「法号」と呼ばれることもありますが、どちらも意味としては同じものです。
院号とは、戒名の一番上に置かれる号です。生前、寺院に対して多大な貢献をした人や、信仰心の深い人、社会的な貢献度の高い人が授かります。
道号とは、戒名の上につけられる号で、字に相当するとも言われています。
生前の人徳や性格、業績などを表す言葉が用いられます。
戒名とは、2文字で表される名で、誰であっても2文字で表されます。
身分などに関係なく、仏の世界が平等であることの表れです。
宗派に縁のある文字や、生前の名前から1文字を用いたりすることが多いようです。
本来、戒名とはこの2文字のことを指しますが、ほとんどの場合は「院号」「道号」「位号」の総称を戒名と呼ぶことが通例となっています。
位号とは、戒名の下につく尊称です。階級を表し、性別や年齢、地位によって与えられる位号は異なります。
例えば男性であれば信士、居士といった位号が与えられ、女性であれば信女、大姉といった位号が与えられます。
また天台宗においては、戒名の上に梵字の「ア」や「キリーク」「カ」といった文字が使われることがあります。「ア」は大日如来、「キリーク」は阿弥陀如来、「カ」は地蔵菩薩を意味します。











「天台宗を学ぶ①」

2019-11-12 19:05:47 | 日本

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。

◎宗祖伝教大師最澄 誕生
市観音寺 蔵
約1200年ほど前、今の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首という一族の中に百枝という方がおられました。子どもに恵まれなかった百枝は、日吉大社の奥にある神宮禅院に籠もり、子どもを授かるように願を掛けました。神護景雲元年(767)8月18日、願いが叶って男の子が誕生し、広野(ひろの)と名付けられました。この広野こそ、後に比叡山に登り天台宗を開かれた最澄だったのです。お生まれになったところは、現在の門前町坂本にある生源寺といわれています。最澄の誕生日には、老若男女が集い、盛大な祭が行われます。また、近くには幼少期を過ごしたとされる紅染寺趾や、産湯に使われた竈を埋めたといわれるところがあります。

◎出家
広野は、両親の深い仏教への信仰の影響もあって、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り、14歳で得度し、「最澄」という名前をいただきました。厳しい修行と勉強に打ち込んだ最澄は、やがて奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4年(785)、奈良の東大寺で具足戒を受けました。
 具足戒とは、僧侶として守らなければならない行動規範であり、250もの戒めを完備していることから具足戒と呼ばれます。
 国家公認の一人前の僧侶となった最澄には、大寺での栄達の道が待っていましたが、受戒後、故郷に戻り、比叡山に籠り一人修行を続けました。そしてすべての人々が救われることを願い、一乗止観院を建てて自ら刻んだ薬師如来を安置し、仏の教えが永遠に伝えられますようにと願って灯明を供えました。(延暦7年(788)年)
法灯
このとき最澄は、
「明らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」
と詠まれ、仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて(後の仏である)弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすようにと願いを込めたのでした。
この灯火はこのときから大切に受け継がれ、1200年余りを経た今日でも、根本中堂の内陣中央にある3つの大きな灯籠の中で「不滅の法灯」として光り輝いています。

◎日本の天台宗
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した具足戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

9世紀に空海がもたらした密教は日本仏教の中心になる中、天台宗も密教を取り込もうと考えるようになる(「天台密教」の項も参照)。そして、円仁と円珍の努力で密教理論が整えられていった。しかしその後、円仁と円珍双方の弟子が解釈を巡って対立するようになる。993年には円仁派が円珍派の坊舎を焼き払うという事件が起きた。そして、円珍派1000人余りの僧侶が比叡山を降り、園城寺を拠点とするようになった。以降、円仁派は「山門派」、円珍派は「寺門派」と呼ばれるようになる。そのような中、平安時代中期には、第18世座主の良源によって諸堂の再建と整備、それに教学の振興が図られ、さらに弟子の源信(恵心僧都)が著した「往生要集」が、後の浄土教の発展につながった。平安時代末期から鎌倉時代初めにかけては、法然や栄西、親鸞、道元、日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学んだことから、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれるようになった。16世紀、延暦寺は織田信長の焼き討ちに遭い、宗勢に陰りが見えたが、江戸時代に入ると天海が立て直し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、影響力は全国に及んだという。

◎天台密教
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁・円珍などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
真言密教と天台密教の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊を久遠実成の釈迦如来としていることである。

◎四宗兼学
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

◎止観行
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

◎所依
法華経
涅槃経
大品経
大智度論

<主要寺院(寺格)天台宗(山門派)>
◎総本山
比叡山延暦寺(滋賀県大津市)

◎門跡寺院
滋賀院(大津市)
妙法院(京都市東山区)
魚山三千院(京都市左京区)
青蓮院(京都市東山区)
曼殊院(京都市左京区)
毘沙門堂(京都市山科区)

◎大本山
関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)
日光山輪王寺(栃木県日光市)
東叡山寛永寺(東京都台東区)
定額山善光寺大勧進(長野県長野市)

◎別格本山
毛越寺(岩手県西磐井郡平泉町)
瑞国海岸山観音寺(宮城県気仙沼市)
正覚山蓮前院安楽寺(茨城県常総市)
星野山中院(埼玉県川越市)
狭山山不動寺(埼玉県所沢市)
大鱗山雲洞院天龍寺(埼玉県飯能市)
浮岳山昌楽院深大寺(東京都調布市)
北向山常楽寺(長野県上田市)
宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市)
龍谷山水間寺(大阪府貝塚市)
書写山圓教寺(兵庫県姫路市)
大山寺(鳥取県大山町)
契山大興善寺(佐賀県基山町)
六郷満山両子寺(大分県国東市)

◎その他の寺院
谷汲山観音寺(北海道河東郡音更町)
青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市、青柳大師)
春日岡山転法輪院惣宗寺(栃木県佐野市、佐野厄除け大師)
星野山喜多院(埼玉県川越市、川越大師)
泰叡山瀧泉寺(東京都目黒区、目黒不動尊)
谷汲山華厳寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町)
清香山寂光院(京都市左京区)
根本山神峯山寺(大阪府高槻市)
三身山太山寺(兵庫県神戸市)
三徳山三佛寺(鳥取県東伯郡三朝町)
補陀落山長尾寺(香川県さぬき市)
清水山観世音寺(福岡県太宰府市)
金海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市)
阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

◎天台寺門宗
総本山 長等山園城寺(三井寺)(滋賀県大津市)

◎天台真盛宗
総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市)

◎その他天台系宗派
聖観音宗 
浅草寺(東京都台東区)
和宗
四天王寺
本山修験宗(寺門派系)
聖護院(京都市左京区)
金峯山修験本宗
金峯山寺(奈良県吉野郡吉野町)
浄土真宗遣迎院派
遣迎院(京都市北区)
妙見宗
本瀧寺(大阪府豊能郡能勢町)
粉河観音宗
粉河寺(和歌山県紀の川市粉河)
善峰観音宗
善峰寺(京都府京都市西京区)

◎天台宗系新宗教
念法眞教
孝道教団
鞍馬弘教

<教育機関>
◎大学
大正大学

◎天台宗系中学校・高等学校
比叡山中学校・高等学校
駒込中学校・高等学校

◎養成機関
叡山学院











「我とは常一主宰なりとは」

2019-11-10 12:56:50 | 日本

横山紘一著『仏教思想へのいざない』より

仏教では自我は無いという。

しかし、ここにこうして自己は存在し、自己が物を視、悩み、苦しみ、喜んでいるではないか。どうして自己が存在しないといえようか、と人びとは反論する。だが、仏教が否定する自我とは、そのような、いわば日常的ないし概念的に考えられる自己でない。それは、「永遠に存在しつづける」つまり「常住する」という意味の自我である。しかもそれは自己の肉体や精神とは別の何か実体として存在するものであり、輪廻と解脱の主体である。

インド人の考える我とは、いわば西洋でいう理性としての我、カントの超個人我(意識一般)、フィヒテ・シェリング・ヘーゲルによって絶対化された超個人我のようなものではない。インド人のいう我とは、自己の業風に吹かれて生死の大海を漂流しつづける、そのような我である。自己自身の意志と決定に基づき、さまざまな行為を行い、業を造り、自らその業の結果を受け止めつつ、過去・現在・未来に存在しつづける、そのような意味の我である。

我は次の三つの作用をもつと考えられる。
 ①主宰の我
 ②作者の我
 ③受者の我

主宰とは国王や宰相のこと。
たとえば国王が自己の思い通りに行動できる、あるいは宰相が自己の判断に基づいて政策決定を下すことができるように、「我」は自由自在に活動できる自在力をもつ。
次の作者と受者とは相い関連する概念である。すなわち、「我」は、動く、語る、考える、などのさまざまな業(行為)を為し、その影響なり結果を自分自身が受けとる。

もちろん、「我」にはこのほかにもさまざまな作用や属性がある。それぞれの観点から、「我」はまた有情・意生・摩納縛迦・養育者・数取趣・命者・生者・士夫・知者・見者などと呼ばれる。しかし、その作用の面からすれば、前記した主宰・作者・受者が重要なよび名であり、とりわけ「主宰」が最も強調される我の働きである。「我とは主宰なり」あるいは前述した常住を加えて「我とは常一主宰なり」と定義される。

この「自由な我」「自在な我」という定義は「常住な我」とならんで、仏教の無我思想を理解するキィーポイントである。ところで仏教は、そのような常住の我というものは、自己存在の内の、あるいは外のどこにも見当たらない、なぜなら、あらゆる現象的存在は「縁起の法」であるから、つまり因と縁という他なるものを原因として生じ、生じてはただちに滅する無常の存在であるからである、と主張する。

とにかく、インドの哲学・宗教は「我追求の歴史」であるといっても過言ではない。この点、デカルトの「われ思う、故にわれあり」に始まる近世西洋哲学の「我の自覚史」に通ずるところがある。しかし、インドにおける「我」は、あくまで「業」「輪廻」「解脱」というインド独自の概念を通してとらえられた自我である。どうすれば、自分は苦悩の此岸から安楽の彼岸に達することができるか――この問いかけこそ、深遠なインド思想を形成してきたインド人固有のエネルギーであった。









「諸法無我とは」

2019-11-07 18:50:46 | 日本

三法印・四法印の一つ。有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がないことをいう。

諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。

我とは「常一主宰」のものと言われる。
常とは常住、一とは単独、主宰とは支配することである。ゆえに、この「我」は常住である単独者として何かを支配するものをいう。
 
インド古来の考え方は、変化するものに、主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)である。仏教は、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために諸法無我が説かれた。一般に有我論が説かれている最中、釈迦だけが主張した、仏教の特色である。
 
これは、インド在来の実体的な「我」の存在の否定であると同時に、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。
 
われわれは、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに私である実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、それこそ我執なのである。
 
諸法無我は、この過った考え方をしりぞけて、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだとに説くのである。この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、恒に一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。
 
一切のものには我としてとらえられるものはない。これを徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるのである。
 
はじめに、有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを言う。これは、絶対者の否定ではなく、「神」などが我々との関係の上にのみ存在することを意味している。仏典の中にも「神」が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。















「勝ち鬨」

2019-11-05 22:16:15 | 日本

◎日本語における鬨

戦の始めに両軍は互いに声を発した。日本は「えいえい」という大将の掛け声に呼応して軍勢一同が「あう(オオ)」と声を合わせ、これを三度行なったという。「えいえい」は前進激励の「鋭」、「おう」はそれに応じる「応」の意であるという。

◎勝ち鬨

一例として、『鴉鷺合戦物語』(15世紀末前後)にも作法についての記述があり、戦初めの時に「鬨を三度」出し(これは13世紀成立の『平家物語』『平治物語』も同じ。脚注参照)、戦後の勝ち鬨に関しては、「勝ち時(鬨)は一度、始め強く、終わり細かるべし」と記している。


◎所作

日本の勝鬨は、本や流派によって多少の差異があるが、大将の乗馬は東向きにし、凱旋の酒宴において大将は右手に勝栗を取り、左手に扇子を開き、あおぎながら発声し、諸軍勢一同が武器を掲げてこれに声を合わせることを「勝鬨」と言った。なお、戦勝後のみならず出陣式で行うのも勝鬨と言い、出陣の際には「初め弱く終わり強く」、帰陣の際にはその逆にしていたと伊勢貞丈の『軍用記』には記されている。山鹿流の勝鬨を示せば、まず、戦勝の諸隊を前後左右に整置して八行の陣とし、大将は中央の床几に凭(よ)り、周囲を弓矢、旗、差物で固めたのち、全軍は法螺貝を吹き、太鼓を鳴らし、「わああ」と数回鬨の声を挙げた。