龍の声

龍の声は、天の声

「知覚動考」

2016-04-28 22:01:01 | 日本

「知覚動考」



松本守正さんのブログ「知覚動考」について記す。


「知覚動考」というフレーズがある。

知って覚える。
ここまでは同じ。

「知覚考動」というのはふつうよく考えてから行動すること。と解釈されているようだが、私に言わせれば考えてその結果動けなくなる。という意味だと思う。

「知覚動考」は知って覚えてまず動いてみる。
考えるのはそれから・・・ということ。

多くの人は考えすぎ。
考えすぎて動けなくなる。
「まずはちょっとやってみるか!」という精神になろう。

最初に動いてみなければ自分の行こうとしている道がどんな状況かわからない。
まず藪を突っついてみる。それで蛇が出てきたら、それを避ける方法を考えればいい。

まずやってみることです。
考えすぎる人の心理は失敗したくないと思う。それでは壁など乗り越えようがないし、乗り越えたという実績がないから自信がつかない。

自信がないからなおさら動けなくなるそれで止まってしまうのが知覚考動。

それでは未来は切り開いていけない。

最初から自信のある人なんていません。

まず動く。壁にぶつかる。それを乗り越える。
そこで初めて自信がつく。

だから自信の大きさは、どれだけ自分が動いてどれだけの壁を乗り越えてきたかという、実践と実績の大きさのこと。
それがその人の実力になり知恵になる。

結局は行動するパワーのある人、自分の夢を実現させることに執念を燃やす人、失敗を恐れずに行動できる人、つまり「知覚動考」 の人間が成功する。








「心質を変える5つの方法」

2016-04-28 21:59:49 | 日本

松本守正さんのブログ「心質を変える5つの方法」について記す。



良い心質でなければ成功はないし、幸せにもなれない。

[心質を変える5つの方法]

1.良い表情
最も大切なのは言うまでもなく「笑顔」「笑う門には福来たる」

2.良い姿勢
いつも胸を張っている人に不幸な人はいない。
姿勢は自分の心理状態まで変えてしまう。

3.良い言葉
言うまでもないが、自分の脳にプラスの言葉をインストールせよ。脳のプログラムをどんどんよいプログラムに書き換えて良い心質を育てよう。

4.良い動作
嬉しい時にはVサインを!悲しい時にはなおのことVサインを!

5.良い思い
これまでの表情、言葉、姿勢、動作といったものは全て心の中の状態が外に現れたもの。
つまり心の鏡。

脳から心にアプローチしてせよ。
これらを良くしていけば必ず心質はよくなり、成功や幸せが自然によってくる様になる。








「E・GA・O」

2016-04-28 21:59:01 | 日本

松本守正さんなブログ「E・GA・O」について記す。


人間の成長は環境でしかない。
頭で入ったものは忘れるようになる。
耳で入ったものは三日で忘れる。
不思議な現象である。

しかし、目で見たものは忘れない。
目に焼きつける。「見習い」というのはあるけれど「聞き習い」という言葉はない。
一流の人間になるには、ずばり人間関係でしかない。
最低限、誰からも好かれる自分になること。

その為には
1.向き合う
2.微笑む
3.見つめる
4.対話する

人間関係を築いていくにはこの4つ+言葉使い+表情。

大きな声を出していつもニコニコしていれば大抵のことは上手くいく。
「笑顔に勝る化粧なし」








「プロフェッショナル」

2016-04-28 21:58:09 | 日本

松本守正さんのブログ「プロフェッショナル」について 記す。


「人生のプロ十訓」プロフェッショナル

1.プロとは仕事に命をかけれる人。
2.プロとは不可能を可能にする人。
3.プロとは先を読んで仕事をする人。
4.プロとは自分の仕事に誇りを持っている人。
5.プロとは時間と目標を大切にする人。
6.プロとは高い目標に向かって邁進する人。
7.プロとは成果に責任をもつ人。
8.プロとは報酬が成果によって決める人。
9.プロとは甘えのない人。
10.プロとは能力向上の為に常に努力する人。

以上が成功する心構え。
より賢く、よりスマートに・・・。









「富」

2016-04-28 21:57:04 | 日本

松本守正さんのブログ「富」について記す。



「富」とはお金で買えないものをどれぐらい持っているかである。

お金で「家」は買えるけれど「家庭」は買えない。

お金で「時計」は買えるけれど「時間」は買えない。

お金で「ベッド」は買えるけれど「快適な睡眠」は買えない。

お金で「本」は買えるけれど「知識」は買えない。

お金で「名医」は買えるけれど「健康」は買えない。

お金で「地位」は買えるけれど「尊敬」は買えない。

お金で「血」は買えるけれど「命」は買えない。

お金で「セックス」は買えるけれ「愛」は買えない。









「チャンスの神様」

2016-04-28 21:56:15 | 日本

松本守正さんのブログ「チャンスの神様」について記す。



どんな仕事も考え方、取り組み方、心構えで結果が違ってくる。
考え方とはーどういう判断を下していくか。
取り組み方とはーどういう風にこの仕事を捉えていくか。
心構えとはーどういう風に受け止めていったか。
正しい判断、正しい捉え方、正しい受け止め方をしていかなければ、違う結果がでる。
せっかくチャンスと出会っても、チャンスを生かすことが出来ない。
やはり並の人生を送る人というのは、

・チャンスに気付かない。
・チャンスを捉える事ができない。
・チャンスを捉える事ができても生かす事が出来ない。

ここで成功する人生と並みの人生とに別れてくる。

人生の中で誰もにチャンスは3回訪れると言われる。
チャンスはチャンスの顔をしていない。
そしてチャンスの神様は前髪しかないのでしっかりつかんでもらいたい。
あとはそのチャンスを生かして欲しい。

「もうだめだ」と思うのも自分。
「よし頑張るぞ!」と思うのも自分。

挑戦とはそんな自分の心と戦うこと。
「よし頑張ろう」と思う日々の連続が夢の実現へと一歩一歩近づいていく。

さぁ!今日もがんばろうー。







「歩兵の本領」

2016-04-28 08:08:38 | 日本

「歩兵の本領」浅田次郎著 

わが輩より、1歳年上である浅田次郎は、元陸上自衛隊陸士長であった。
1年後輩となるわが輩も、全く同じような体験をした。
わが輩は、陸上自衛隊第35普通科連隊本部管理中隊、一選抜の陸士長となり、レインジャー部隊最優秀隊員でもあった。
「歩兵の本領」浅田次郎著の書籍を是非共、読んで欲しい。
この書籍を読むにつれ、かっての自身をとに戻し熱いものが胸に蘇ってきた。


◎「歩兵の本領」感動した部分


①軍人は星の数で部下に命令を下し、飯の数で目下をおもいやるのだ。
究極の利害である生死を、そうしてささえる。


②自衛隊を除隊する時、警衛司令に除隊証明を手渡し、ひとりずつ営門を出た。
そのとたん、体を縛(いまし)ていた紐(ひも)が、いっぺんにほどけ落ちるような気がした。


③銃も剣も国に返したが、返納してはならぬ歩兵の本領を、老いても尽きぬ背骨に、私はしっかりと刻みつけていた。











『日本復興』

2016-04-27 08:11:02 | 日本

SAPIO2016年4月号に掲載されている『日本復興』を描いた本が、実に興味深い。是非一度読んでみて欲しい。
以下、ポイントのみを要約し記す。



米国大手紙のワシントン・ポストは12月18日の書評欄でクライド・プレストウィッツ氏の著書『日本復興』を詳しく紹介した。2015年11月に出版された同書は「いかに日本は自国を再興するのか、そしてなぜそれが米国や世界にとって重要なのか」という副題がついていた。

2050年の日本は、総人口が1億5000万、経済成長率が4.5%、高度技術と医療などで世界に冠たる「21世紀の新型超大国」になっている。日本語と英語のバイリンガル国家であり、安全保障面でも役割を拡大して、米国だけでなくインドやオーストラリアとも同盟関係を結んでいる。
日本の35年後をこんなふうに予測した書である。
「総人口1億5000万人」
「経済成長率は毎年4.5%。GDPは中国の2倍近い規模となり、アメリカに近づきつつある」
「IT分野やロボット関連技術、航空技術でも世界を引き離し、リードする存在になる」
そんな「2050年の日本」を予測した本が、アメリカで話題になっている。
今の状況を考えると非現実的に思える日本の将来像を描いたのは、『JAPAN RESTORED(日本復興)』だ。著者は、米シンクタンク・経済戦略研究所所長のクライド・プレストウィッツ氏である。
 
同氏と交流のある産経新聞ワシントン駐在客員特派員の古森義久氏はこう解説する。
 
「プレストウィッツ氏は、1980年代のレーガン政権で商務長官顧問として、自動車などの日米貿易摩擦の交渉の最前線に立った人物で、その辣腕ぶりから『タフネゴシエーター』と呼ばれました。
 
また、日本は表向き自由な市場経済を標榜しながら、現実には官民が組んで閉鎖的であるとして、日本異質論をとなえ、日本を批判してきた人物でもあります。そのプレストウィッツ氏が“日本は強くなる”と書いたこともあって、注目を集めています」
 
ジャパン・バッシングの急先鋒が、ここに来て日本の“応援団”になったのだろうか。
その内容は興味深い。
 
人口について触れた部分では、中国が高齢化により停滞する一方で、2050年の日本は出生率が2.3(現在は1.42)に大きく上昇し、労働力人口が増え、経済成長に寄与すると指摘されている。その背景には「女性が働きながら子育てできる環境が充実する」ことがあるといい、出生率が高いことで知られるフランスやスウェーデン並みに上がることが想定されると記されている。出生率2.3は、第2次ベビーブームに匹敵する数字だ。
経済面では、ナノテクノロジー、IT分野など最先端産業が発展するほか、「Decentralization(地方分散)が進む」「農協がなくなる」「土地の効率的利用が進展する」といった理由によってGDPが大きく膨らむとされている。
また、現在も世界をリードしている医療技術がさらに発展し、世界中から高所得の患者が集まる「医療大国」になると指摘されている。同書では、安全保障体制の未来についても予測している。 そこでは、我が国の安全保障が大きな転換点を迎えるきっかけとして、中国の脅威が生々しく描かれている。
 
まず、尖閣諸島が中国によって奪われる。しかし、同盟国・アメリカは日本を守るためには動こうとしない。一方、日本独自で効果的な対抗策を打つこともできない。そうした中、沖縄が“独立”を宣言する。裏で手を引くのは、もちろん中国だ。それを受け、日本は憲法改正に踏み出す……。
そしてゆくゆくは「防衛費がGDPの3%になる(現在は約1%)」ことに加え、「核保有」「弾道ミサイル保有」といった将来像まで描き出している。
 
安全保障については、中盤で一定の分量を割いて描かれており、著者のプレストウィッツ氏が、東アジアにおいて日本のプレゼンス維持が重要だと考えていることが見えてくる。
出生率の低下と高齢化、農協など既得権益の存在、中国の脅威と安全保障体制の不備……同書で指摘された視点は、まさに今の日本が抱えている課題そのものだ。そして、簡単に解決できる問題ではない。
 
日本批判を続けてきた著者が『日本復興』を描いた本心がどこにあるかは改めて触れようと思うが、我々が、同書で指摘された課題を正面から受け止める必要があることだけは確かだ。






「被災地支援、政治家がやっていいことと、やってはいけないこと」

2016-04-26 08:11:03 | 日本

政治山 の上村吉弘さんが掲載している。
以下、要約し記す。



地震や台風などの天災が発生したとき、被災地を選挙区としない国会議員や地方議員は支援活動に大きな制約はないが、選挙区の議員が直接的に義援金や支援金を送ると公職選挙法で禁じる寄附行為に該当してしまう。参議院の全国比例代表選出の議員だと、選挙区は全国なので一切の寄附が禁止される。
自民党など各政党ホームページでは熊本地震被災者支援募金を受け付けている

◎金銭だけでなく、物資供与も対象に
公選法は「寄附」について「金銭、物品その他の財産上の利益の供与又は交付、その供与又は交付の約束で党費、会費その他債務の履行としてなされるもの以外のものをいう」と規定している。

東日本大震災での地元議員らの救援活動を見ると、政党や支部で募集している義援金を街中で呼びかけたり、政党からの支援物資を搬送するなどの作業に従事している様子が見られる。

◎現地視察は混乱招く?
東日本大震災では、原発事故対応で当時の菅直人首相が現地に乗り込んでかえって現場が混乱したとの批判があった。今回、安倍首相は14日の最初の熊本地震を受けて現地入りする予定だったが、16日未明の“本震”を受けて中止した。被災地の状況を見て「少しでも力になりたい」と現地に赴いても、かえって迷惑がかかることもある。

すでに現地を視察した議員もいるようだが、永田町関係者の中には「まだ早い」と冷ややかな声もある。視察だけならわざわざ行かなくとも、現地の状況は報道で逐一把握できる。視察の様子を写真に収めて、「災害時に現地に赴き、被災者に寄り添ってきた」と、選挙時の売名行為に利用するのではないかと勘繰る見方があるのは事実である。

◎著名人は支援の仕方にも配慮が必要
とりわけ政治家やタレントの場合、現地に行くとかえって周囲が気を遣い、活動の妨げになりかねない。現地に行かなくとも、活動そのもののアピールが売名行為と取られることもある。実際に今回の地震で多額の義援金を送ったタレントがインスタグラムで報告し、「売名行為だ」と一部で批判されている。

善意に基づく行動であっても、社会的に責任ある立場の人には、より厳しい国民の目があることを自覚し、本当に苦しんでいる被災者を救う活動に徹することが求められる。







「撃墜王 坂井三郎の心に残る名言」

2016-04-25 09:52:33 | 日本

◎「零戦の秘術」の本より抜粋

物事すべて、苦労は先にしろ。みんな、何とかの知恵はあとから出ると言って、そのときになってから行き当たりばったりでは駄目で、結局、真剣勝負というのは先手必勝なんです。先手を取るにはどうすればいいか。敵に先んじて敵を発見する。

それには、普段から目を大事にし、常に目を愛護し、目を鍛え、最後には昼間の星を見ましたから、そのくらい視力を鍛えていました。


相手にとっては奇襲で、こっちに言わせれば先手を取った。

急速に強くなるやつって、何か共通した雰囲気みたいのがある。戦闘パイロットの勝負師の世界では、不言実行は駄目。みんな有言実行型。それでなければ、実践場の体験場において部下がついていかない。

人間というものは、日頃鍛えたおのれの戦力を信じて、どんな苦しいことがあっても、投げずに、捨てずに、諦めずに、最後の最後まで粘って粘って、粘る者にのみ、神様は生き抜く力と勝利への道を開いてくださると、いまでも私は信じている。






◎「撃墜王 坂井三郎の心に残る名言」



何でも同じで、辛いと思った時、そこを踏み越えなければ勝てない。生理的にも精神的にもこうした訓練をやって、非常に辛い時にも、まだ余裕があるということを発見した。


もう駄目になったのかと、自信がなくなる時に出撃するとロクなことはない。こうなるのは、何か精神的に患いがあるとか、肉体的に何か故障がある時が多い。

・乱戦になったら敵の動きを見て、先の先を読め。目先有利で敵を仕留めても、次に自分がやられては何にもならない。

・相手が何機であろうと、ある瞬間に自分を攻撃できるのは一機だけ。その瞬間さえかわしていけば何とかなる。

・連続攻撃を受けて敵機の弾丸を一度かわし得たら、どんなに苦しくても方法は変えないこと。苦しくなると何か他の方法がよいのではないかと考え出す。他の方法に変えた時にやられる。それまで成功していることを繰り返せばいい。


格闘戦に入ったら、自分の得意の技に相手を引き込むごとく操縦する。今まで見えなかった相手の尾部が目に入ったら、われ勝てり。自分が苦しい時は、相手はもっと苦しんでいる。そこを乗り切った時に勝利がある。

・勝利をつかむのは、自分の空戦技術と負けじ魂。経験を積んでくると、相手がビビっているのが見えてくる。

・一か八かはヤクザ剣法、常に戦いは理にかなう。無謀は戦術以前の暴挙。命は一つしかない、死んだら次はないと心得よ。


戦争は死ぬことと考えるな。勝ちにきたことを忘れるな。たとえそこで敵機を撃墜できなくても、体験こそ真の学問。死を覚悟することと命を粗末にすることは全く違う」
「相手が変な行動をとったら何かある。気を配れ。

・やられた時、しまったと何度唱えても駄目。最少の被害で食い止め、最良の処置をするように考えよ。


冷静さを取り戻すには、息を吸うより息を吐け。この時、下腹に力を入れ、尻の穴を締めよ。なで肩になれたら満点だ。

・どういう働きをするか見て下さい。守ってくれなどと申しません。神というものがあれば、ご照覧あれ。最善を尽くして自己の任務を果たします。決して勝たしてくれとか敵の弾が当たらないようになどとは願いません。


空中戦闘中に怖いと思ったことは一度もなかった。ただ次の態勢を整える準備のために自分が敵を攻撃しない時、後ろから来る弾は正直怖かった。何回弾をくぐっても、あの怖さだけは乗り切れなかった。

・敵機に対した時、その中に乗っている人の顔を見れば、敵という感じよりも、彼もまた同じ飛行機乗りだという親愛感が強く出てきて、その人間に対する憎しみの出てこないのも不思議な心理。


出血多量になったとき、自分では意識しなくても生命が惜しい。その潜在している生命を守る本能が必死になって最後の力を出して闘ってくれた。

・撃の方法も研究に研究を重ねたが、逃げる方法にも研究を怠らなかった。

・軍隊の組織が持つ不条理さは、同じ人間であるはずの人間が、指揮官という立場に立つと、まるで将棋の駒を動かすように、他の人間の生命を無造作に死に投げ込む。


お互い搭乗員になった瞬間から生命は棄てている。飛行機乗りはその点諦めがいい。諦め切ってしまうと朗らかになる。まるで子供のように無邪気にふざけ合う。

・今の今までの硫黄島の激しい苦しい戦闘の中から、いきなり内地に放り出されて、その空気に馴染めなかった。同時に、命からがら戦場を脱出してきた我々に、人々は何らの興味も関心も持っていない。まことに不思議なギャップ。遠隔とはこういうものか。


『自爆なんぞ俺れが許さん!右手がやられたなら左手で戦え両手をやられたなら口で操縦桿をくわえて帰ってこい最後まで絶対に諦めるな!。


◎日本の撃墜王にまつわる感動のエピソード

坂井三郎と聞けば、少し戦記に詳しい人ならああ零戦のエースだなと思い出すはず。事実、坂井三郎の著書「大空のサムライ」は54年に出版され、100万部以上の世界的ベストセラーとなった。彼の名はサムライ・サカイとして世界の人々に知られることになり、海外で知られている最も有名な作家の一人でもある。またサムライという言葉をこれほど世界中に知らしめたのも彼の功績だと言えよう。

坂井はパイロットとして零戦に乗って200回以上も出撃し、敵機64機の撃墜スコアーを持つとされるが、戦時中には彼にまつわる興味深いエピソードも少なからず残されている。それらを二つほど紹介することにしよう。

・太平洋戦争が始まってすぐの頃、坂井はオランダ軍の輸送機が飛行しているのを偶然発見したことがあった。輸送機といえど、敵の重要人物が搭乗しているかもしれず、拿捕、もしくは撃墜せよという命令が出ていた。坂井はオランダ軍の輸送機に近づいていった。
「護衛はいないようだな・・・」坂井は周囲に目をくばりながらつぶやいた。 撃墜すべきか警告射撃をすべきか、思案しながら近寄ることにする。用心のため太陽の方角から接近した。近寄ると、機体は陽光にギラギラ輝いている。窓があって多くの顔が自分に向けられているようだ。

坂井はさらに零戦を接近させた。陽光がさしこみ暗い飛行機の内部を照らし出す。窓を通して飛行機の内部がすみずみまで見渡せたなんと機内は負傷者ばかりで、彼らは恐怖でひきつった表情でこちらを凝視しているではないか。

彼らは鬼のような日本軍の戦闘機に飛行機もろとも撃ち落とされるかもしれないと恐怖におののいていたのだ。

窓越しに看護婦らしき女性と5才ほどの少女が抱き合ったままおびえた表情で見つめているのも見えた。

このとき坂井は心の中で自問自答した。「坂井三郎。そうだ、お前は大日本帝国海軍の栄えある戦闘機乗りだ。相手が敵機なら存分に戦いもしよう。しかし負傷者と女子供の乗っている飛行機は敵ではない。お前は敵を見なかった」

坂井は自分のこの言葉に一人うなづくと、女の子と女性そして多くの負傷者たちに軽く手を振り、翼をひるがえして輸送機から離れ、大空の彼方に消えていった。

これは軍紀からすると命令違反であったが、坂井は基地に帰ってからも飛行中に何ら敵らしきものは発見せずと報告しただけであった。この出来事は誰にも知られることもなくこのまま過去の闇に忘れ去られるはずであった。

ところが戦後50年もたってから、この話は多くの人々に知られることとなる。当時その輸送機に乗っていた看護婦だった女性の一人が、偶然、坂井の著書を見て、零戦に描かれたマークから彼がそのときのパイロットだと探しあてたのである。

「私があのとき見た飛行機の胴体にもこれと同じマークがあったわ。私たちの輸送機に近づいたのはこのパイロットにまちがいない」彼女はそう確信すると、国際赤十字を通じて照会を依頼した。するとまもなく事実確認がなされ、坂井だったことが判明した。こうして運命的な出会いは実現することになった。女性は坂井に言ったそうだ。

「あのとき輸送機に乗っていた人々は、ほとんどが負傷者、病人、老人、女性や子供でした。みんなあなたの飛行機を見て悪魔が来たと思いました。でもあなたは笑って手を振って遠ざかっていきました。みんなは歓声をあげてそれこそ抱き合って喜びました。そして全員あなたに心から感謝したのです。あそこにいた人々は、その後、多くの家族を持ちました。あなたは多くの人々の命を救ってくれたんです。かけがえのない命の恩人なのです」

そう言って、女性はあらためて50年前のシーンを思い出すと涙を流して坂井の手をとったという。

死を恐れぬ不屈の戦闘員でありながら、常に命というものを大切にした坂井三郎。彼のとった行為こそ、まさにサムライの真意ではなかったろうか。


・坂井がニューギニアのラエという基地に配属された頃の話。戦局は次第に難しい局面をむかえつつあった。

このラエという基地は地獄といわれたラバウルよりもさらに南にある基地で、当時この場所は日米の最前線に位置していた。対峙するのはポートモレスビーにある連合軍の一大基地で、標高4000メートルのオーエンスタンレー山脈をはさんで向かい合っていた。

当時、連合軍は夜になると、定期便のように爆撃機をくり出し爆弾を落としにやって来た。日本側も夜明けとともに奇襲をかける。こんな必死のつばぜり合いが毎日のように行われていたのである。

いくら歴戦のパイロットぞろいとは言え、補充のきかない日本側は連日の出撃で、少しずつ確実に戦死して戦力が低下していく。今日亡くなったパイロットの御前で手を合わせて冥福を祈っても、ひょっとすれば明日は我が身かもしれないのだ。

坂井は死ぬまでにどうしてもやりたいことがあった。それは敵の上空で僚友たちとはなばなしく編隊宙返りをしてみせることだ。その気持ちはつのるばかりで、今度出撃した際、帰る途中でこっそり抜け出してやろうということになった。

その日は出撃しても敵はたいして出て来なかった。戦闘機隊は爆撃が終わると、護衛しながら帰途につく。これで任務は終わった。坂井はかねてからの計画を実行するために敵地上空にまで戻っていった。まもなく示し合わせたように仲間の機が2機飛んで来るのが見えた。

坂井は同僚の2機で編隊を組んだ。はるか眼下に敵の飛行場がかすかに見える。坂井は大きく息をついた。さあ、やるぞ!操縦桿を力の限り手前に引く。たちまち機体が急上昇していく。すごい荷重だ。目の前でニューギニアのジャングルが、オーエンスタンレーの山々が、紺碧の海が、コバルトブルーの空にとけ込んでグルグルと回転していく。頭の芯がしびれるようだ。振り返ると、2機の零戦も糸でひっぱったかのようにぴったりついてくる。まさにあうんの呼吸とはこのことだ。

坂井の頭の中は澄み切っていた。気持ちは充ち足りていた。ついに念願の敵地での宙返りをやってのけたのだから。

こうして、坂井は二人の僚友たちとともに、敵地上空4千メートルで大きく編隊宙返りをした。

もう一回、さらに一回。大空に大きな飛行機雲の輪が3度描かれた。しかしどうしたことかいつもなら猛烈に打ち上げて来る敵の対空砲火だが一発もない。

僚機が一機近づいて来た。見ると同じくエースとして知られた西沢の操縦する機だ。西沢の目が笑っている。西沢はコクピット越しに右手で大きく輪を描いて見せた。そして下を指さした。

「高度を下げて、今度は敵さんのすぐ上で宙返りをやろうというんだな。よし、やろう!」
茶目っ気のある坂井は西沢のデスチャーをすぐ理解した。こうして太田、西沢の三機でぴったり編隊を組むと今度は、敵のすぐ頭上で見事な宙返りを再び三度繰り返したのであった。

それは苛烈な戦闘の間に起こったさわやかな一コマであった。1942年5月27日、その日ポートモレスビー上空は一片の雲もなくどこまでも青く澄み切っていた。

いつ死ぬかわからない日々に青春を送った彼ら。それからまもなくして、坂井は負傷して内地に帰り、太田はソロモンの海に散り、西沢も終戦直前に惜しくも戦死してしまう運命にあった。何度も大空に描かれた大きな輪。これこそ彼らにとって生きている証でもあったのだ。

そして一方、連合軍もこの快挙に一発の砲火もあげずただただ地上から静観を守っていた。あっぱれ武士道、そして心にくきかな騎士道精神というところであろうか

















「太平洋戦争におけるエース・パイロット 坂井三郎とは、」

2016-04-24 12:41:46 | 日本

◎パイロットになるまでの経歴

坂井三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名である。

1916年(大正5年)8月26日、佐賀県佐賀郡に生まれる。坂井が5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。父は、坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)秋、36歳で病没。残された母と6人の子供の生活は困窮した。
坂井は東京に引き取られる形で上京した。坂井は新宿府立六中を受験したが落ちて青山学院中等部に進学したが、成績不振で落第して退学処分となった。

その後は実家に帰され約2年間、農作業に従事した。この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあった。農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れた。

「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て二回受験したが、不合格になった。
海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが1933年(昭和8年)5月1日、四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。1933年10月1日、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となる。

それでもめげずに年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。
1937年(昭和12年)3月10日、霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。練習生の中では、操縦が上手いほうではなく単独飛行が許されたのは卒業も近い最後だった。卒業後の延長教育の射撃も上手くはなかった。首席を目指して勉強に励んだ結果、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。

卒業式では昭和天皇名代の伏見宮博恭王より、恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。佐伯航空隊付、戦闘機操縦者としての延長教育を受ける。この佐伯航空隊時代に、操練の三期先輩に当たる原田要が空戦訓練の相手に組まれ、切磋琢磨した[6]。1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日、三等航空兵曹に昇進。高雄航空隊付。

その後、支那事変、台南空、比島・蘭印方面、ラバウル方面に転戦。重大な負傷後も硫黄島にて戦う。


◎空戦法には特徴がある。

坂井は戦闘機乗りが最後の頼みとするのは自分だけであるという。格闘戦で一騎打ちをやる場合、徹底的な頑張りがなくてはいけない。必ず勝てるという信念で頑張りぬいた者が空中戦で敵に勝つ人で、辛いと思うときは互角かむしろ勝っている方が多い。その苦しい最後のとき、へばったものが落とされる運命であるという。また、坂井は空中戦の鉄則はまず見張りであり、敵を発見したら自分は撃てるが相手は撃てない位置に潜り込め、空中戦は牧羊犬の動きと考えよという。格闘戦に入ったら自分の得意の技に引き込むごとく操縦せよ。相手の尾部が目に入ったらわれ勝てりだという。格闘戦とは自分が不利に立たされた最後の手だと思え、相手を動かさない据え物切りこそ空中戦の極意ともいう。晩年に行われた加藤寛一郎の取材では、格闘戦とは窮地に入ったときの脱出法と心得よ、空戦は据え物斬りと心得よという点を強調していたという。坂井は、目を鍛えたことで2万メートルから2万5千メートル先の敵が見えるようになったことが割と格闘戦をやらないで撃墜できた理由と主張している。ドッグファイトでは自分もピンチになることがあるので、圧倒的有利に立った奇襲一撃で先手を取るという。著書には「左捻り込み」で撃墜する描写がみられるが、最晩年の坂井はただの一度も実戦では使ったことがないと主張している。坂井は、死角であり、気づいてダイブする敵も翼を傾け背面になって絶好の標的になるとして後下方からの攻撃を好んだという。坂井は、空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」の割合で索敵するという。坂井は水平線より上の索敵を得意としていたという。

空戦指導に関して坂井は、初心者には相手に食らいつきいよいよ機銃発射という直前には後方を確認するように教え、その上の者には追ってくる次の敵の未来位置を想定して攻撃をかわすように教え、さらに上の者にはかわすだけではなく巻き返してカウンターで撃墜するように教えると語っている。

視力に関して、笹井の手紙にある「坂井三郎という男あり、片目0.8ながら、なおかつ私よりも敵を早く発見し・・・」という記述について聞かれた坂井は、支那事変で一度負傷した際に破片が目の瞳孔のど真ん中に突き刺さり、ワセリンで拭いてもらい見えるようになったが、左目が飛行機乗りで最低の0.8になったからで、右目は鍛錬でぐんぐん視力がよくなり、今度はガダルカナルで右目をやられると左目がぐんぐん見えるようになったと語っている。坂井は昼間に星を見て視力を鍛えたと主張しているが、加藤寛一郎は「昼間に星が見えた」とは、南の島で上を向いて頭を固定して、星座表で星の位置をあらかじめ確かめておき、午後二時から三時ごろ、五つか六つ星が見えるという意味であろうという。

零戦の最大の武器は20mm機銃という説に対し、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低い評価をしており、命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく、弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている。また、「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語っている。

特攻作戦に赴く特攻隊員に対しては、「遅かれ早かれ我々も行かなきゃいかん。遅いか早いかだよ。ただし、どうせ行くんだから命中したいなぁ。それには俺の言うことを聞け。それには(角度を)絶対に深く行っちゃ駄目だよ」と声をかけて送り出していた。

戦後、坂井は硫黄島で特攻を命じられたことについて(実際に命じられた記録はない)、特攻を名誉に思う反面、「なぜおれが」という気持ちがあったと語っている。また、「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とも答えている。







「自民党に逆風、雲行きが怪しくなってきた衆参同日選」

2016-04-22 08:10:52 | 日本

筆坂秀世さんが 「自民党に逆風、雲行きが怪しくなってきた衆参同日選」と題し掲載している。
以下、要約し記す。



4月10日付日経新聞の大石格編集委員のコラム「風見鶏」がなかなか面白かった。「衆参同日選、「寸止め」という選択肢」というタイトルで、次のような内容だった。


◎「同日選回避もあり得る」と日経コラム

1983年は、12年に一度の統一地方選挙と参院選挙が重なる年であった。当時、中曽根政権だったが、統一地方選挙の後は地方議員の動きが鈍り、自民党は参院選でいつも苦戦していたそうだ。しかも、この年の秋には、有罪が確実視されていたロッキード事件で田中角栄元首相への一審判決が予定されていた。この2つの難題をクリアするには、衆参同日選挙しかなかった。事実、82年秋には、自民党最大派閥のオーナーである田中角栄から中曽根首相に「6月にダブル選挙をせよ」と厳命されていたという。
 だが中曽根首相は、83年4月に早々と「解散見送り」を表明、「野党も含めて政界は耳を疑った」そうである。事実、田中有罪判決後の衆院挙では、自民党は単独過半数を6議席下回り、新自由クラブとの連立でかろうじて政権を維持することができた。

中曽根首相は、なぜ田中角栄の厳命を無視してまで同日選を見送ったのか。
 当時、田中角栄は、数の力によって自民党を支配し、「闇将軍」とまで呼ばれていた。この影響力を排除するために、あえて同日選をやらなかったというのだ。選挙後、幹事長は田中派の二階堂進氏から、鈴木派の田中六助氏に交代させている。田中派も竹下登氏らによる代替わりのクーデターが起こっている。この結果、田中角栄氏は影響力を急速に失い、中曽根氏は長期政権への道を開いたというのだ。

コラムは、中曽根氏のこの動きを現在の安倍首相にあてはめる。多くの政治評論家や自民党幹部は、盛んに同日選の可能性が高いことを喧伝している。同日選をやれば、参議院でも与党が3分の2以上を確保する可能性は高い。そうすれば憲法改正が現実的な日程に上ってくる。保守派からの改憲論も一気に高まるであろう。

だが、憲法改正には依然として国民の反対が多い。もし国民投票で改正案が否決されれば、首相の退陣は避けがたい。それだけではなく、憲法改正そのものも大きく遠のくことになるだろう。

しかし3分の2以上に達しなければ、改憲を目指す保守派との摩擦も起きない。安倍首相が長期政権を目論むなら、「寸止め」にするために同日選を回避することもあり得るのではないか、というのが大石編集委員の見立てである。


◎同日選は本当に自民党に有利なのか

実はこのコラムは、衆参同日選挙、消費税増税の先送りをやれば、自民党など与党は参院でも確実に3分の2以上を確保できるという前提に立っている。

だが果たして本当にそうなのだろうか。確かに参院選では、民進党が議席を減らす可能性は高い。それでも3分の2以上を確保することは簡単ではない。

衆院はどうなのだろうか。民主党の野田政権のもとでの2012年の衆院選挙では、民主党政権の大失政もあり、自民党は294議席を確保し、政権を取り戻した。だが2年前の衆院選挙では、安倍首相が「アベノミクス解散」と命名し、消費税の再増税延期を打ち出したが、291議席にとどまっている。この議席数というのは、自民党にとって伸びきった議席数でもあるのだ。

この間、自民党はスキャンダルや失言が相次いでいる。なかでも甘利明前経済財政・再生相を巡る金銭授受問題では、東京地検特捜部が強制捜査に乗り出したことで新たな局面を迎えている。4月24日に投票が行われる北海道5区補選で自民党候補が負けるようなことがあれば、同日選への動きは一気に冷え込んでいくだろう。

景気動向も内憂外患である。ここにきて円高が急速に進み、株価の下落や企業収益への圧迫など、不安感が増している。中国経済も依然として低迷が続いている。

こんな状況下で同日選など、そもそも行える状況にはない、というのがごく普通の見方なのではないだろうか。

同日選は、参議院での自民党など与党勢力の3分の2以上の議席確保を困難にするだけではなく、衆議院での3分の2以上を失う危険性も秘めているのである。


◎野党こそ思い切った経済対策の提示を

こんな経済状況のもとで野党からこれといった対案が示されないのは、いかにも残念である。

現在の景気の低迷の最大の要因は、需要不足である。GDPの6割を占める個人消費が低迷し、企業の設備投資も低迷している現状では、財政出動が不可欠であろう。政府も公共事業を中心とする予算12.1兆円について、前倒しにするよう指示した。今年度上半期(2016年4月~9月末)に8割程度の10兆円規模を契約済みにすることが目標である。国が支出するお金が例年より早く建設業者など民間企業に行き渡るようにすることで、景気をてこ入れすることが狙いである。

だが野党からは、思い切った経済政策についての提案がない。消費税増税先送りの議論でも、民進党から出てくるのは「アベノミクスの失敗だ」という議論ばかりである。

では民進党は、今の経済情勢の下で消費税再増税を強行しろと言うのか、それとも止めろと言うのか、肝心なことが語られていない。

共産党などは、8%に引き上げられる際、これでは国民生活が破壊される、経済も失速するとして大反対したのではなかったのか。実際、日本経済は大きく落ち込んだ。であるなら主張すべきは、消費税の5%への引き下げではないのか。ところが8%に引き上げられた途端に、「再増税反対」に態度を豹変させてしまったのである。何という無責任な政党か。実質賃金が下がり続けているいま、野党は再増税反対ではなく、消費税引き下げというぐらいの大胆な提案をするぐらいでないと自民党に対抗できないのではないか。

内閣参与の飯島勲氏が『週刊文春』(4月14日号)の連載コラム「飯島勲内閣参与の激辛インテリジェンス」でこんな提案をされている。「法人税も実効税率を下げるだけじゃなく、企業があまりにもため込みすぎた内部留保金に逆に課税したらどうなの?」と。

安倍首相は、この間、再三にわたって財界に対し、内部留保金を賃上げや新たな設備投資に回すよう要請してきた。だが春闘での賃上げは、期待外れに終わった。設備投資も同様だ。だったら飯島氏も指摘するように、どこにも有効活用されなかった内部留保金を吸い上げ、景気刺激策に活用するというのは、道理のある提案である。こういう提案が野党からなされないことが情けない。

北海道新幹線が3月26日に新青森駅と新函館北斗駅間で開通した。うれしいニュースである。だが、やっと函館まで開通したに過ぎない。これではまだ「函館新幹線」だ。北海道新幹線というのであれば、最低でも札幌まで開通させなければならない。ところが予定では、2031年、つまり15年先とのことだ。トンネルの多い難工事らしいが、財政資金を集中的につぎ込んでもっと早めるべきであろう。そうすれば利用者も飛躍的に増やすことができるはずだ。景気対策にもなる。

アメリカでトランプ旋風やサンダース旋風が吹き荒れているが、これを支えているのは貧しい人々や若者である。その主張は実に分かりやすい。野党は、大いに学ぶべきである。



「中国の脅威!東南アジア諸国が頼みの綱は日本」

2016-04-22 08:10:52 | 日本

古森義久さんが「中国の脅威!東南アジア諸国が頼みの綱は日本」と題し掲載している。
以下、要約し記す。



◎4カ国調査で「日本に好感を抱く」人が80%以上

東南アジアで中国の膨張を抑える中心的存在として日本の安全保障面での活動に今や大きな期待がかかっている。

米国の大手研究機関のベトナム系米国人学者がこのほど発表した論文によると、東南アジアにおいて日本の影響力拡大が広く歓迎されるようになってきているという。

同論文は、そうした日本の影響力拡大を安倍晋三首相による外交政策の成果として高く評価し、中韓両国以外のアジア諸国から安倍外交がきわめて前向きに受けとめられている実態を映し出した。


◎評価され歓迎されている安倍政権の外交政策

3月後半、ワシントンの大手シンクタンク「戦略国際問題研究所(CSIS)」のフォン・グエン研究員は、「東南アジアは日本の安倍ドクトリンの旋律に協調する」と題する論文を発表した。グエン氏はベトナム系米国人の女性学者で、ベトナムをはじめ東南アジア諸国の米国や中国に対する政策などについて研究を重ねてきた専門家として知られる。

まずグエン氏は、日本が今「東南アジアで他に比類のないほど高い人気を保っている」と強調し、東南アジア各国の政府や国民から日本が非常に好感をもたれていると説明する。

その根拠の1つとしてグエン氏が挙げるのが、2015年に東南アジア4国を対象として実施した世論調査で「日本に好感を抱く」と述べた人が全体の80%以上だったという結果だ。

グエン氏はさらに安倍外交の成果などを次のように指摘していた。

・安倍晋三氏は2012年12月に首相に再就任して以来、東南アジアの多数の諸国と緊密な安全保障の協力を築く政策を積極的に推進してきた。その結果、この地域での日本の影響力は非常に堅固となり、さらに勢いを増している。

・安倍政権は、特に南シナ海で中国との領有権紛争を抱えたフィリピンやベトナムという諸国にまず重点を置いて安全保障上の協力を拡大してきた。同時に、ラオスや東チモールという小国との関係も強化してきた。

・安倍首相は、日本が東南アジアで年来築いてきた経済的な基盤の上に確固たる地政学的な土台を構築することを意図している。そのために、日本は米国との防衛関係を強めると同時に、東南アジア諸国が安保面で相互連帯を強化できるよう支援してきた。

・南シナ海や東シナ海で中国が膨張政策を続けている。それに対して日本は、有志連合諸国の連帯を強めることで膨張の阻止を図ろうとしている。そのために日本は東南アジア諸国との合同演習も実施している。

・日本の自衛隊は最近、フィリピン、インドネシア、ベトナムとの合同演習を進めている。さらにベトナムの戦略的拠点にも自衛隊艦艇を寄港させる計画がある。日本は長年自己規制していた国際的な安全保障活動を東南アジアで拡大し始めた。

グエン氏はさらに、日本が、中国との紛争に悩まされるべトナムやフィリピンなどに安全保障面で援助するだけに留まらず、東南アジア全域でのインフラ建設の推進や支援という経済面での活動も長期的な計画で進めている、と指摘した。同氏によると、日本のこうした経済面での動きは、中国側が「一帯一路」と名付ける「新シルクロード」構想に対抗する東南アジアとの連帯政策だとみなされている。


◎アジアの安全保障体制はどう変わるのか

安倍政権のこうした東南アジアに対する安全保障主体の新たな関与政策の方針を、グエン氏は「安倍ドクトリン」と呼ぶ。
また、グエン氏は本論文で、東南アジアをはじめとするアジア全体の安全保障が今後20年、30年という長期展望でどのような枠組みになるかという予測を、以下のような複数のシナリオとして提示した。

1)米国とアジア諸国の同盟関係が主体であることは変わらないが、米国は軍事、経済の両面で関与の規模を減らしていく。

2)中国が圧倒的なパワーで拡大を続け、東南アジア諸国も中国の影響下に入り、対中協調姿勢を強めていく。

3)東南アジア諸国が自主的に軍事や経済の力を強め、地域の安全保障の主役となる。

4)日本が中心的な役割を果たし、米国との連携を保ちながら、東南アジア諸国との協力をますます強めていく。

グエン氏は以上のシナリオのなかで、東南アジア諸国が求めるのは(3)だが、その場合にも日本の関与や協力が不可欠であり、実際には(4)が最も現実的だとしていた。


◎日本の関与が東南アジアに自信と一体感を与える

グエン氏は総括として、日本の東南アジアへの深い関与が現在も同地域の諸国から歓迎されている点を、以下のように強調する。

「東南アジア諸国は、日本の東南アジアへの積極的な関心と関与が自国にとって大きなプラスになると歓迎している。日本が安全保障と経済の両面で連携を強化することは、東南アジア諸国に自信と一体感を与える。これにより、日本にとっては、自国を利する大きな機会が開けることになる。アジア、太平洋地域でこれからの国際秩序を形成することは特に日本にとって重要だろう」

日本の外交政策論議で語られることの少ない東南アジア政策が、米国で東南アジアの立場を代表するような学者から高い評価を受けている。我々もこの事実は注視すべきであろう。





「日本人はいつ日本が好きになったのか」

2016-04-21 07:47:42 | 日本

竹田恒泰さん(慶應義塾大学講師)が「日本人はいつ日本が好きになったのか」と題し掲載している。
以下、要約し記す。



◎「左寄り」が日本社会の基準点

選挙の前後に、安倍氏待望の空気について「右傾化」という言葉がよく用いられた。これに対抗して、民主党は、自らを「中道」「中庸」などと表現し、自民党と差別化を図ろうとした。だが、安倍氏の立ち位置は果たして「右寄り」で、それを支持する空気は「右傾化」したものなのだろうか。

本来、安倍氏の立ち位置こそ「中道」「中庸」と呼ぶべきだと私は思う。領土を防衛し、若者が日本人としての誇りを持てるような教育を施し、金融緩和によって経済を梃入れして「日本を取り戻す」ことは、全て普通の国なら当たり前のことばかりであり、「右寄り」の政策ではないはずだ。

ではなぜ、そのような立ち位置が「右寄り」といわれるのだろうか。それは、世の中全体が「左傾化」しているため、ど真ん中のことを言うと「右寄り」に聞こえることが原因であろう。保守政策の数々は、決して「右寄り」などではない。もし安倍路線が「右寄り」なら、世界の国々は皆、「極右」になってしまう。

ところで、今時の若者は、自分は右でも左でもない「ノンポリ」もしくは「無党派」と思っている人が多いようだ。だが、実際はそのように思っている人は「左寄り」であることが多い。テレビやラジオの世界では「『やや左寄り』の立場をとっていれば間違いがない」とよくいわれる。「左寄り」の教科書で勉強し、「左寄り」の放送に慣れ親しんでいれば自覚せずとも「左寄り」の思想になるはずだ。「左寄り」こそが日本社会の基準点となっているのである。

しかし、平成21年ごろまでは、しきりに「日本社会は左傾化している」と指摘されていたのを覚えているだろうか。それは民主党が政権を取ったことと関係がある。民主党は旧社会党の左派が党内で力を持っていたため、自ずと「左寄り」の政治が行なわれていた。外国人参政権、夫婦別姓、そして人権擁護などの法案が議論され、防衛面でも中国を刺激しないことを重視した運用がされ、北欧化がもてはやされる風潮とも重なった。

左傾化は日本だけではなく米国でも進行していた。オバマ政権が成立すると、オバマ
大統領は国民皆保険の導入を目指すなど、これまでの市場重視の自由主義型経済(右派)から、政府介入重視の北欧型もしくは社会主義型経済(左派)に移行させる政策が取られてきた。2012年の大統領選挙では、まさに経済的価値観を自由主義と社会主義のどちらに置くかが争われ、僅差でオバマ氏が再選を果たした。どちらかが圧勝すれば米国の行く末も決まったであろうが、僅差であったため、結局どちらの道を歩むか、決着に至らなかったと見てよいだろう。

ここで、右と左の思想について整理をしておきたい。「右寄り」「左寄り」などと表現すると、街宣やデモの活動に身を投じる右翼と左翼をイメージする人が多いかもしれない。しかし、ここでいう「右寄り」とは保守主義、「左寄り」とは革新主義のことで、政治的価値観の軸足を置く場所がいずれに寄っているかを問題にしている。保守主義は伝統・文化・権威を重んじる考え方で「右翼思想」に近い。また革新主義はそれらを重視せず、合理性を追求して物事を革新させていく考え方で「左翼思想」に近い。

一方で、経済的価値観も右と左に分類される。つまり、経済右派は市場重視の自由主義型経済を是とし、経済左派は政府介入重視の社会主義型経済を肯定する。そこで、政治的価値観を縦軸、経済的価値観を横軸にして、大きく4分類する考え方がよく用いられている。これをポリティカル・コンパスと言う。日本では保守と経済右派、また革新と経済左派の相性がよく、4分類上では「保守右派」「革新左派」と呼ばれている。また、「保守左派」や「革新右派」も十分に存在し得る。ちなみに私は完全な保守主義かつ、やや経済左派の位置に立っている。

このように、政治的価値観と経済的価値観は2つの独立した価値観であるが、それぞれについて論じると混乱するので、本書で「右寄り」「左寄り」というのは、政治的価値観についてのことだと理解していただきたい。

戦後日本においては、価値観が左右に振れることはなく、「左寄り」の革新思想が深く根を張っていた。この構造が変化し始めたのが平成12年ごろで、その後、震災と外患と民主党政権を経験して、一気に価値観が保守思想に転換したものと思われる。さりとて、いまだに日本の社会は全体的に左に傾いている。しかし、ようやく「日本が好き」と言える空気が作られてきたと感じるのは私だけではないはずだ。
 

◎祖国を誇りに思うのは自然なこと

戦後、「国」は悪いものの代名詞として使われてきたが、国を愛する気持ちは高まる一方である。また、大震災の影響か、国のために生きることが「かっこ悪い」から「かっこいい」に変化しているように思える。震災後に自衛隊の志願者が急増したことからもうなずける。

学校の授業で将来の夢を発表する生徒が「お国のために生きます」とでも言おうものなら、教員は国民主権などを持ち出して「お前はお前のために生きろ」などと指導したことだろう。「IT会社社長になって金持ちになります」という生徒にはエールを送ってきたはずだ。本来、学校は「私」よりも「公」の大切さを教え、世のため人のために生きることの尊さを伝える使命を持つはずである。もしかすると学校は、自由・平等の教育を通して、子どもに個人主義を植え付ける機関になっていなかったか。この流れが震災後、確実に変わってきていると思うのだ。

そのことを肌で感じたのは、平成23年12月23日に皇居で行なわれた天皇誕生日の一般参賀に参加したときのことだった。震災後最初の一般参賀で、しかも天皇陛下が長期間のご入院から退院あそばした直後だっただけに、大勢の参加を予想していたものの、私は参加者のなかの若者の比率がかなり高かったことに驚いた。私自身、数年ぶりの一般参賀だったが、以前は高齢者中心だった。ところがそのときは、明らかに若者中心だったのである。若い人が戦後初めて皇室に興味を持った結果だと思った。

震災後間もなく天皇陛下が国民に発せられた御言葉や、被災地を頻繁にご訪問になる両陛下の御姿は、天皇と国民の絆そのものを見る貴重な機会になったのではなかろうか。テレビ越しであっても両陛下の真撃なお姿は、多くの若者たちの気持ちを動かしたに違いない。教科書では「象徴」とだけ説明される天皇について、理屈を超えたものを感じた若者は多かったはずである。

変化はそれだけではない。書店の品揃えはその時代の世相を敏感に反映しているといわれるが、震災前と後では、明らかに並ぶ本の種類が変わった。それまでは日本を罵倒する本ばかり売られていたが、震災後はそれとは正反対に、日本の可能性や底力、そして魅力などを伝える本が山積みになり、いまだにその傾向は続いている。

震災と外患と民主党政権を経験することによって、日本人は戦後初めて日本に興味を持ち始めたようだ。いまや日本人として生まれてきたことに誇りを感じ、日本という国が存在することに感謝の気持ちを抱く人が増えているように思える。

これまで私たちは、国を愛したり好きになったりしてはいけないという教育を受けてきた。たしかに社会にはそのような空気が蔓延し、少しでも国を肯定しようものなら、軍国主義と罵られ、袋叩きにされる暗黒の時代を過ごしてきたのである。祝日に国旗が掲揚されないのもその表れであろう。日本国内にある国旗で、いちばん数が多いのはイタリアの国旗で、2番目がフランス、そしでようやく3番目に日本の国旗だというのだから、驚くほかない。

自分の生まれ育った国を誇りに思って大切にすることは、人としての自然な反応であり、むしろそうするのが自然なことではないか。日本人にとって日本は祖国であるから、特別な国であってよいはずだ。そう、私たちは日本を好きになってもよいのである。これからは誰もが胸を張って「日本が好き」と言える時代になると信じている。








「なぜ憲法論議には歴史認識が必要なのか」

2016-04-20 08:35:03 | 日本
倉山満さん(憲政史研究家)が「なぜ憲法論議には歴史認識が必要なのか」について掲載している。
以下、要約し記す。



◎憲法を論じる前に考えてほしい。

なぜ幕末維新の志士たちは、戦ってくれたのだろうか。なぜ特攻隊の若者たちは、自らの命を懸けてくれたのだろうか。

今の日本のようになるのが、嫌だったからではないだろうか。自分の力で生きていない、自分の足で立っていない、自分の頭でものを考えていない、そして去勢されてしまって自分の手で自らの運命を切り開く魂を失っている今の日本のようにしたくないから、自らの命を懸けて戦ってくれたのではないだろうか。

日本人は、前文と百三条の条文からなる日本国憲法が日本の憲法のすべてだと思っている。しかし、これこそが日本国憲法に縛られているということなのである。

誤植の1文字でも変えれば「戦争になる」と声高に叫ぶ護憲派は論外である。だが実のところ、日本国憲法の条文を変えれば「戦後レジームの脱却」「自主憲法制定」だと思い込んでいる改憲派こそ、深刻かもしれない。日本国憲法こそ戦後レジーム、すなわち日本を敗戦国のままにさせる体制そのものではないのか。なぜ、その条文をいじることが自主憲法の制定になるのか。

しかも改憲派は、「皆が議論しやすいところから改憲をはじめよう」「一度は国民が憲法を改正したという実績をつくるべきだ」「憲法は変えられるのだということを国民が知ることに意味がある」とのことで、最も対立が激しい憲法九条は避けている。そうした考えで、緊急事態条項、環境権、財政規律を打ち出すとのことである。要するに、自民党、公明党、財務省の3者の談合で憲法改正を実現しようとの目論見なのだが。

果たして、改憲を口にしただけで二言目には「戦争になる」と絶叫し日本国憲法の誤植1文字削らせない護憲派が、緊急事態条項などという物々しい名前の条項を飲むであろうか。衆参両院で3分の2の多数の賛同を得られるのであろうか。

また、財政規律条項などを持ち出されたら、私(倉山)は命懸けで抵抗するだろう。財政法に財政規律条項があるばかりに、自殺者が1万人増えてでも増税しようとした増税原理主義者が猛威を振るい、15年のデフレでどれほどの人が苦しんだか。法律ですらこれほどの影響を持ったのに、憲法に書き込まれでもしたら、それこそ錦の御旗になるのではないのか。

まさに憲法に財政規律を書き込むことは財務省増税派の悲願である。改憲派はそのような形であっても、日本国憲法の条文をいじれば満足なのだろうか。

改憲派は公明党をなだめようと、環境権を憲法に盛り込もうとしていた。1970年代以降に憲法を改正もしくは制定した国は、ほとんどすべてが環境権を盛り込んでいるのだから、という説明がなされてきた。

ところが公明党のほうは、ヨーロッパ諸国で環境権を盾にした訴訟が相次ぎ、企業の大規模開発が次々と妨害されていることを理由に、環境権を取り下げる動きを見せてきた。そして、「姑息なことをせず、憲法九条を真正面から論じ、自衛隊の存在と国際貢献を明記すべきだ」と切り返してきた。

公明党のほうが憲法のことを熟知しているではないか。仮に公明党の言うとおりになれば、戦後70年、延々と繰り返してきた自衛隊をめぐる不毛な神学論争は、さらに続けられるだろう。たとえるなら、雨漏りがしている時に、公明党はこぼれている水を掬

すくう桶をもう1つつくれと言っているだけで、屋根を修理する話にはならないからだ。
私(倉山)は、こう提起したい。むしろ、憲法論議において必要なのは、屋根の修理ですらなく、家を丸ごと建て替えることではないのか、と。