龍の声

龍の声は、天の声

「稀代の軍師  大村益次郎①」

2018-02-28 07:51:55 | 日本

陸軍建設の祖として靖国神社の参道中央に像がある。今日は、「稀代の軍師  大村益次郎」について学ぶ。


大村益次郎(おおむら ますじろう)1824年5月30日~明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。


◎生涯

周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。
嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、四辻で開業し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚した。


◎江戸出府・講武所教授

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、大村は伊予宇和島藩の要請で出仕する。ただし宇和島藩関係者の証言では、大村はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島に来たのであり、藩側から要請したものでないという。
宇和島に到着した大村は、二宮や藩の顧問格であった僧晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。このとき藩主伊達宗城は参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。宇和島藩の役人たちは、益次郎の待遇を2人扶持・年給10両という低い禄高に決めた。しかし、このあと帰ってきた家老は役人たちを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人たちにしてみれば、高待遇の約束といった事情も説明せず、汚い身なりで現れた益次郎に対して、むしろ親切心をもってした待遇であったらしい。

大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。イネは後年、大村が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。宇和島では提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない(国産第1号は薩摩藩)といわれている。大村はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人・嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃、村田蔵六(蔵六は亀の意)と改名する。
安政3年(1856年)4月、藩主伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出る。同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える(塾頭は太田静馬)。同16日、宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給される。安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。その内容の素晴らしさは同僚の原田敬策が「当時講武所における平書翻訳のごときは、先生(大村のこと)の参られてからにわかに面目を一新した次第で……新規舶来の原書の難文も、先生の前に行けばいつも容易に解釈せられ」と記しているように、当時では最高水準のもので、安政5年(1858年)幕府より銀15枚の褒章を受けた。同年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。文久元年(1861年)正月、一時帰藩する。西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。同年4月、江戸へいったん帰り、文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。江戸滞在時には箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった蘭学者・洋学者や旧友とも付き合いがあった。

長州征討文久3年(1863年)10月、萩へ帰国する。24日、手当防御事務用掛に任命。翌元治元年(1864年)2月24日、兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、5月10日からは鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。一方では語学力を買われ、8月14日には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。26日の外国艦隊退去後、29日に政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の12月9日、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。

長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられた。このあだ名は周布政之助が付けたとも、高杉晋作が付けたとも言われている。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。同年、大村は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ渡っている。この公式文書は残されておらず、わずかに残された大村本人のメモしか知ることが出来ないため、仔細不明である。

福沢諭吉は自伝『福翁自伝』で、1863年の江戸における緒方洪庵の通夜の席での出来事として、「(福沢が)『どうだえ、馬関では大変なことをやったじゃないか。……あきれ返った話じゃないか』と言うと、村田が眼に角を立て『なんだと、やったらどうだ。……長州ではちゃんと国是が決まっている。あんな奴原にわがままをされてたまるものか。……これを打ち払うのが当然だ。もう防長の土民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ。』と言うその剣幕は以前の村田ではない。」と、長州藩士になりたての大村が過激な攘夷論を吐いたことに驚き「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、または長州に行って、どうせ毒をなめれば皿までと云うような訳で、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」と解釈している。大村自身が攘夷について言及した記録が他には見当たらないので真相は不明であるが、福沢と大村は元来そりが合わず、長州藩を攘夷の狂人扱いする福沢の物言いに立腹して口走ったのではないかという説もある。

高杉らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、大村にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。「大村」は故郷の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の1字をそれぞれとっている。
このころ大村は精力的に、明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に彼の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここでは大村はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。
慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然とした中、明倫館が再開される。桂小五郎は同年5月に藩の指導権を握り、大村、高杉、伊藤博文、井上聞多(のち井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。すでに3月13日、大村は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが、5月には近代軍建設の責任者となり、閏5月6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され、名実共に藩士となる。

大村は桂の意見を参考に、四方からの攻撃に備えるには従来の武士だけでなく、農民、町人階級から組織される市民軍の組織体系確立が急務であり、藩はその給与を負担し、併せて兵士として基本的訓練を決行しなければならぬと述べ、有志により結成されていた諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、5月22日には1600人の満16歳から25歳までの農商階級の兵士を再編した。さらに旧来の藩士らの再編を断行し、石高に合わせた隊にまとめ上げて、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせた軍を作るかたわら、隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えた。さらに、5月26日、青木群平を長崎に派遣して最新のライフル銃であるミニエー銃を購入させようとするが、これは幕府の横槍で不調に終わり、7月に桂が伊藤と井上を長崎のイギリス商人グラバーと交渉して、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入する。

6月に戦闘が開始される。大村は石州口方面の実戦指揮を担当する。その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なもので、旧態依然とした戦術に捉われた幕府側をことごとく撃破するなど、彼の軍事的才能が遺憾なく発揮されたものであった。6月16日、大村は中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃する。7月18日に浜田城を陥落させ、のち石見銀山を占領した。このとき、炎上する城を見て部下が出雲藩の救援を心配したが、大村は、赤穂浪士の討ち入りの故事を引き合いにして「決して雲州そのほかから無闇に応援に来るものではない、それでは事情が許さない。」と論理的に戦況を分析して断言し、皆を安心させた。長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は大村を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦した。

征討終了後、山口に帰還、12月12日海軍用掛を兼務する。海軍頭取前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐する。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることがなかった。


◎戊辰戦争

慶応3年(1867年)、討幕と王政復古を目指し西郷吉之助、大久保一蔵ら薩摩藩側から長州藩に働きかけが行われた。藩内では討幕か否かに分立したが、大村は禁門の変や下関戦争の失敗から、薩摩の動きには用心すべきでもあり、今一度力を蓄え十分に戦略を立てた後、兵を動かすべきと慎重論を唱えた。だが、9月に大久保が長州に来て討幕を説得したことで藩内の世論は出兵論に傾く。10月27日、大村は掛助役に左遷され、出兵の実務に携わるが、「ああいう勢いになると、十露蕃(そろばん)も何も要るものじゃない。実に自分は俗論家であった。」と時局を見抜けない無知を反省する弁を残している。

徳川慶喜による大政奉還後の明治元年(1868年)1月14日、鳥羽・伏見の戦いを受け、毛利広封が京へ進撃、17日に大村は随行する形で用所本役軍務専任となる。22日に山口を発ち、2月3日に大阪、7日に京都に到着する。その際、新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したと見られる。2月22日、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。大村は京・伏見の兵学寮で各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始する。翌3月、明治天皇行幸に際して大阪へ行き、26日の天保山での海軍閲兵と4月6日の大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮する。

4月には、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなるも、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的であった。このころ大村は、岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べており、その意見を受け入れる形で、大村は有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられる。21日には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任する。

このころ江戸は、天野八郎ら旧幕府残党による彰義隊約3千名が上野寛永寺に構え不穏な動きを示したが、西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化していた。新政府は大村の手腕を活かして混乱を収めようとしたのである。果して大村は制御不能となっていた大総督府の組織を再編成すべく、目黒の火薬庫を処分し、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却、奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを図るなど、矢継ぎ早に手を打っていった。さらに5月外国官判事大隈重信の意見を受け、幕府が注文した軍艦ストーンウォール購入費用25万両を討伐費に充てている。また5月1日には江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲され、同日には江戸府知事兼任となり、いよいよ市中の全警察権を収めた。

こうして満を持した大村は討伐軍を指揮し、5月15日、わずか1日でこれを鎮圧する。この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で大村が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたこと等が、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。佐賀藩出身で軍監の江藤新平は自藩への手紙で「まことにもって天運なり。大武力御立て遊ばされ候らへば、これよりは御号礼も、さきざき相行われ申すべくと存じ奉り罷りあり候。西郷の胆力、大村益次郎の戦略、老練、感心に耐へ難く御座候」述べているように、この戦闘は、それまで世間には無名であった大村益次郎の名を広く世間に知らしめるものであった。

同年6月4日、鎮台府の民政会計をも兼任し、従四位となる。関東北部での旧幕府残党勢力を鎮圧する一方で、江戸から事実上の新政府軍総司令官として指揮を行った。ここでは、前線から矢のように来る応援部隊や武器補充の督促を、彼独自の合理的な計算から判断し、場合によっては却下することもあった。また、白河方面の作戦を巡って大村は西郷と対立し、以降大村単独での作戦指導が行われた。戦争は官軍優位のまま続き、10月2日に軍功として大村は朝廷から300両を与えられる。同日の、妻・琴への手紙に「天朝より御太刀料として金三百両下し賜り候。そのまま父上へ御あげなさるべく候。年寄りは何時死するもはかりがたく候間、命ある間に早々御遣わしなさるべく候」と記し、父らへの配慮を示している。

明治2年(1869年)、函館五稜郭で、榎本武揚らの最後の旧幕府残党軍も降伏し、戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が確立し、新しい明治時代が開かれた。


◎兵制論争

明治2年(1869年)6月2日、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び、新政府の幹部となった。10月24日、軍務官副知事に就任、大村は軍制改革の中心を担い、明治2年(1869年)6月には政府の兵制会議で大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開している。兵制会議は6月21日から25日にかけて開催された。そこで、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図る大村らと、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保らとの間で激論が闘わされた。

大村は諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成など、後に実施される日本軍建設の青写真を描いていた。そのための第1段階として3年間のうちに現在の藩兵を基にする軍の基礎づくり、第2段階として大阪に軍の基地、兵学校や武器工場を置いてハード面での組織作りを行った後、徴兵、鎮台制を置くという考えであった。大阪に着眼したのは、当時、東北の動向を心配する関係者に対して、大村が「奥羽はいま十年や二十年頭を上げる気遣いはない。今後注意すべきは西である。」と答えたように、西郷らを中心とする薩摩藩の動向が気になっていたためと言われ、すでに西南戦争を予想していたのである。だが、国民皆兵を目標とする大村の建設的な意見は周囲の理解を得られなかった。大久保は戊辰戦争による士族の抵抗力を熟知していたため、かえって士族の反発を招くと考え、岩倉具視らは農民の武装はそのまま一揆につながるとして慎重な態度をとっていたのである。

この兵制論争中、6月21日段階での争点は、京都に駐留していた三藩の各藩兵の取り扱いをめぐってのものであった。大村を支持する木戸も、論争に加わり援護意見を述べたが、23日に大久保の主張に沿った形で、京都駐留の三藩兵が「御召」 として東下することが決定され、この問題については大久保派の勝利に終わった。また23日の会議では、先の陸軍編制法の立案者であり、大久保の右腕ともいえる吉井友実も議論に加わり、今後の兵卒素材についての議論も始まった。ここでも大久保・吉井らの主張する「藩兵論」と大村や木戸が主張する「農兵論(一般徴兵論)」が激しく衝突し、議論は翌日も続いた。しかし会議の結果、兵制問題は後日改めて議論することとされ、大村の建軍プランの事実上の凍結が決定され、この日、25日まで続く兵制論争がほぼ決着した。

大村の建軍構想はこの会議の結果、ことごとく退けられることとなった。さらに25日には、大久保が大村の更迭を主張し始めている。憤懣やるかたない大村はほどなく辞表を提出したが、当時の政府内には、軍事に関して大村に代わるべき人物はなかった。そのため木戸も、二官八省への官制改革が行われる前日の7月7日に大村と面会し、彼を慰留するとともに改めて支持を約束し、軍務官を廃して新たに設置される兵部省に出仕することを求めた。その結果として、翌日大村は兵部大輔(今の次官)に就任することとなった。大村は「御一新は旧習を脱し、公家方を武家の風にいたし、強気にやる様のはずなしつるに、またまた卿とか大輔とか相唱へ、自然軟弱に陥り、追々武家も公家の方に引きつけらるべし」と皮肉を述べている。


◎暗殺

当時の兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王で、名目上だけの存在であった。大村は事実上、近代日本の軍制建設を指導してゆく。大村は戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任した。山田は山口藩諸隊からを中心に約100名を選出し、9月5日からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。

また大村は、明治2年(1869年)6月の段階で大阪に軍務官の大阪出張所を設置していたが、9月には同じく大阪城近くに兵部省の兵学寮を設け、フランス人教官を招いてフランス軍をモデルとする新しい軍を建設を始めた。このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することも決定された。このように大村が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、大村が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある。

このように着々と既成事実を構築していた明治2年(1869年)、大村は軍事施設視察と建設予定地の下見のため、京阪方面に出張する。京都では弾正台支所長官の海江田信義が遺恨を晴らすため、新軍建設に不平を抱く士族たちを使って大村を襲うよう煽動する、などの風説が流れるなど不穏な情勢となっていた。木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、大村はそれを振り切って中山道から京へ向かう。

同年8月13日に京に着き、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませ、20日に下阪する。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分する。9月3日、京へ帰る。翌4日夕刻、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われる。静間と安達は死亡、大村は重傷を負った。その時の疵は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に負ったのであるが、なかんずく右膝の疵が動脈から骨に達するほど深手であった。

兇徒が所持していた「斬奸状」では、大村襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあったことが示されている。大村は一命をとりとめたが重傷で、7日に山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。9月20日ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まる。
10月1日、大村は河東操練所生徒寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれ、高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後、10月2日に天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町大阪仮病院に入院する。ここで楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが、病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなる。だが手術のための勅許を得ることで東京との調整に手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)とあるように手遅れとなっていた。果して10月27日手術を受けるも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜に死去した。享年46。

臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」と船越衛に後事を託した後「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めておけ。」と遺言していた。

大村死去の報を受けた木戸は、「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」(11月12日の日記)「実に実に痛嘆すべきは大村翁の不幸、兵部省もこの先いかんと煩念いたし候」(槙村正直宛の12月3日付の書)と、その無念さを述べている。

11月13日、従三位を贈位し、金300両を賜る宣旨が下された。遺骸は妻・琴子によって郷里にもたらされ、11月20日に葬儀が営まれた。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。明治21年(1888年)に孫(養子の嫡男)の大村寛人は益次郎の功により子爵を授爵、華族に列せられた。

大村の軍制構想は山田顕義、船越衛、曾我祐準、原田一道、大島貞薫らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。大村の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省(のち陸軍省)内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定されることとなる。











「世界は日本の八紘一宇に向かう」

2018-02-27 07:54:06 | 日本

西村眞悟さんが、「世界は日本の八紘一宇に向かう」について掲載している。
なかなかいい文章である。
以下、要約し学ぶ。



私には、宗教に関する学識は無く、信仰心が篤いことも深いこともない。
私は、政治の世界に生きる者である。
従って、信仰の立場からではなく、この五百年間、地球をほとんど征服して植民地とした欧米人のキリスト教とは何だったのかを書く。
現在の歴史段階は、欧米キリスト教世界の数百年にわたる世界支配が終焉したあとの諸国民の幸せをもたらす秩序を如何にして獲得するのか模索する段階にある。
思えば日本は、二十世紀に、たった一国でこの欧米の世界植民地支配体制を打破しようと孤軍奮闘した。そして、我が国は敗れたが、欧米の人種差別を抱えた世界支配は終焉した。
その戦闘を開始する際に、我が国は帝国政府声明を発し、アジア解放の志を「東亜を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽しみを分かたんと祈念する」と世界に宣言した。
その「東亜の明朗本然の姿」とは、欧米キリスト教世界に支配される以前の姿である。
ここで明らかなことは、大東亜戦争開始に際しての我が国は、直感で、「東亜共栄の楽しみ」は古に戻ること、即ち「復古」によって適えられると確信したのだ。
そうであれば、私の直感も述べたいと思う。
では、その「復古」とは、何処までの「復古」なのか。

宗教と戦争(闘争)と平和は、当然のことながら、人間と無関係にあるのではなく人間の存在のなかにある。
従って、それらは、人間の群である国家と民族の運命に深く関わってきた。
そして、人間が、善と悪と美と醜の両極を一身に内蔵して生きる存在である以上、国家と民族は、宗教の違いによって殺し合い、同じ宗教でも教義の違いによって殺し合う存在である。
それどころか、一人一人の人間も、同じ教会の同じ信者同士でも利害対立によって争い、時に殺し合う。
つまり、ある宗教を信じようが信じまいが、その宗教の目指すところが如何に美しく崇高であろうが、国家と民族と人間は、生存のため、利害の為に、闘争する。
宗教は必ずしも平和をもたらさず、反対に戦争(闘争)の原因となり、宗教と無関係な利害の一致が和解の原因となる。
このことが明瞭に現れているのが、過去ではなく現在の世界情勢である。
とりわけ、共通の先祖をもつ三つの宗教であるユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地エルサレムをもつ中東の情勢が、平和と反対のテロと紛争の坩堝となっている。
この現在までの世界を動かしてきたのは、二千年ほど前に中東で生まれ、ヨーロッパ大陸に広がったキリスト教を中心とした歴史、つまり、一神教の世界である。

日本に接したヨーロッパ人の一人、社会人類学者であるフランス人クロード・レヴィ-=ストロースは、二十世紀の初期に次の通り、日本を述べている。

「われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。

日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にあるのだ。」
 
そして、日本は、二十世紀において、アジアにおけるこのヨーロッパ諸国の植民地支配を打倒して、地球における「ヨーロッパ世界」の優越、つまり人種差別、白人優越の体制を終焉させ、
現在に至る人種平等・諸国民平等の世紀の幕開けを告げた。
よって、この現在の歴史段階に立って、日本人の観点から、五百年間にわたる「ヨーロッパ世界」によるアジア・アフリカの「異教徒支配」とは何だったのか。
さらに、「ヨーロッパ世界」と「日本」は何が違うのかを論じることにする。

それは、つまり、神々は、天は、何故、日本を、太古から今まで日本たらしめたのか、日本は何故、日本なのか、ということになる。
明らかなことは、日本には、天皇と神社(神道)がある、だから、日本は日本なのだ、ということだ。
 
我が国は、十六世紀の末に、秀吉が「ヨーロッパ世界」のアジア植民地化と人種差別の危険性を察知して彼らとの関係を切断したが、三百年後の十九世紀半ばに国を開いて明治維新を達成し、福澤諭吉の主張するように、国家の生き残りのために彼らの文明を学び、その文明の力を以て彼らと戦い、遂に二十世紀半ばにアジアを「ヨーロッパ世界」から解放した。
この歴史を踏まえた上で、明治維新以降の我が国の歩みを、ヨーロッパ帝国主義諸国と同じ侵略と植民地支配をしたと非難する思想戦に対抗しなければならない。
つまり、朝鮮は、我が国の台湾領有と朝鮮の併合を植民地支配と非難する。
しかし、我が国の台湾と朝鮮の統治は、「ヨーロッパ世界」の植民地統治とは天地の違いがある。
彼らの植民地統治は、異教徒や有色人種を人間とみなさない支配であるが、我が国の統治は同じ同胞としての統治である。
従って、我が国は小学校教育を台湾と朝鮮の全土に行き渡らせると共に、殖産興業への道を拓き、豊かな台湾、豊かな朝鮮を実現しようとした。搾取ではない。

我が国の、人種差別を受け満身創痍になりながらの明治維新以来の孤軍奮闘によって、二十世紀前半までの五百年にわたる欧米の「ヨーロッパ世界」による人種差別とアジア・アフリカ支配は終焉した。
そして、世界は、我が国の昭和十六年十二月八日の「東亜を明朗本然の姿に復す」という「帝国政府声明」と同十八年の「大東亜共同宣言」の通り、人種差別なき諸民族の個性を尊重する共存共栄の道に向かいつつある。
 
しかし、この段階に至って、世界は、テロと闘争という危機におののいている。
その内、北朝鮮問題のように、独裁者が保有しようとしている核を如何にして阻止するかは、ある意味で単純である。
邪悪な独裁体制を壊せばいいのである。壊す方法と時期の問題だけだ。
問題は、一神教による世界制覇と平和の維持という五百年の試みが、独善と偽善と異教徒の抑圧という人類の惨害をもたらして崩壊した後に、何を以て平和を維持し人を幸せにする指針とするのかである。
 
ヨーロッパよ、日本人が太古からもっている普遍的で根源的な神々の世界に戻れ。
これはキリスト教以前のヨーロッパももっていた世界だし、近代にいおいて、「ヨーロッパ世界」が滅ぼした原住民のもっていた真の意味の宗教である。
その滅ぼされた原住民であった彼らと、我々日本人は、何万年か前に、ユーラシアの何処かで同じ祖先をもっていた。
そして、ヨーロッパから最も離れた極東にあった日本だけが、その先祖のもっていた根源的な神々の世界を現在まで伝えてきているのだ。









「西郷と山岡、山田方谷のこと」

2018-02-26 09:33:54 | 日本

西村真悟さんが「西郷と山岡、山田方谷のこと」について掲載している。
なかなかいい内容なので、要約し学ぶ。



幕末の討幕派、戊辰の役の勝利者となった薩摩・長州・土佐・肥前の下級武士が、維新後、俄に栄達して権勢を誇り、東京と改められた江戸で、大邸宅に住み美妾を囲い贅沢な生活をしている様を薩摩に帰っていた西郷隆盛が、帰省した弟の従道から聞いて、維新の動乱のなかで、倒れていった者たちに、申し訳ない、と言って泣いた。
その後、戊辰の役で、西郷の指示の下に奥羽越列藩同盟の国々に攻め入った新政府軍に屈服した庄内藩の藩士達が、その降伏に際して寛大な処置を指示した西郷を敬仰し、遙々庄内から西郷の話を聞くために薩摩にいる西郷を訪れた際、西郷は彼らに、政の大體は、「文を興し、武を振るい、農を励ます」、の三つに在り、と述べた。
そして、万民の上に位する者の身の処し方を述べ、下の人々が其の勤労を気の毒に思うほどにならなければ政治は行われ難いと言った後で、それと正反対の維新政府の顕官達の現状を嘆き、涙をポロポロと落とした。
それを、庄内藩士達は次のように書き留めた。
以下、西郷南洲遺訓より。
・・・然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじく也。
今となりては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目なきぞ、とて、頻りに涙を催されける。

このように、維新後に薩摩に戻った西郷は、新政府顕官の上京の催促に応じなかったが、上京の勅命を受けては上京せざるをえず、上京し、岩倉や大久保や木戸そして伊藤などが一年以上の「欧米視察」をしている間に、維新創業の眼目である「廃藩置県」を断行した。
その間、新政府の最高位にありながら、粗衣粗食で通した。
この西郷が、大久保や伊藤の帰国後の朝鮮を巡る意見対立で政府の地位を退き、薩摩に帰郷するに際し、勝海舟と共に江戸無血開城の幕府方当事者であった山岡鉄舟宅を訪問する。
明治六年一月である。
その時の西郷の様子を、山岡の長男で後に子爵となった直記が次のように語っている。
当時子供のこととて、玄関の間で戯れていると、あたかも怪物に似て、粗大な風体のものが門からやってくるから、ひそかに見ていると、右手に太い木杖を持ち、左手に徳利を持って竹の皮の笠をかむり、わらみのをつけ、みぞれの降る寒いなかを、素足で雪をふみわけて玄関までやってきた。
見ると、すねを長くあらわし、わらじをはき、面相はまゆげが太く目が大きく、これに従って全面粗大で・・・
「おとっさんは内にいるか、西郷がお伺いいたしたと言うてくれ」というた。

そして、山岡鉄舟と話をした西郷は、薩摩に帰り、明治十年九月二十四日午前七時頃、城山で、東方に向かい、天子、明治天皇に挨拶して死ぬまで上京しなかった。
このときの山岡との話の内容は、山岡の未亡人英子(ふさこ)によると、西郷と山岡が、軍を朝鮮に出すことは下策(反対)である、という点で意見が一致したということだ。
今となっては、西郷が征韓論、つまり、軍を率いて朝鮮に渡ると言い張ったことになっているが、これは、その後栄達を遂げた伊藤などが、西郷を悪役にして自分たちの悪評を避けようとしたからである。
西郷は、薩摩に去るに際し、山岡にだけは真情を伝えておきたかったのだろう。

この西郷の、朝敵となっていた佐幕派の庄内藩士達に見せた涙と語った心情、そして、東京を離れる最後に、幕臣山岡鉄舟に真情を打ち明けたこと、これらを思えば、西郷には戊辰の役の敵味方の区別は無く、ただひたすら、近代国家に歩み始めた日本に遺したかったものは、尊皇の至誠に満たされた「士魂」であった。
と、私は思う。
この戊辰の役の戦死者を思えば、何時も泣いた西郷が、今を見れば、未だに続く長州閥の恵みをうけた総理大臣が、支那と朝鮮に気兼ねして靖國神社の英霊に参拝しないことを如何に思うか。

まず、英霊を思い涙をこぼし、「士魂」の欠落を嘆き悲しむであろう。

幕臣の山岡鉄舟と西郷との信頼関係を語った次に、西郷が、佐幕派である彼の言動から学んだのではないかと思われる幕末の卓越した実践者の言葉を紹介したい。
その人は、備中松山藩の山田方谷である。
この方の二つの言葉、

一つ、それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて、事の内に屈せず。
二つ、義を明らかにして利を図らず。

この山田方谷の二つの言葉は、共に理財論のなかで述べられている。
第一の言葉は、膨大な量に膨らんだ藩の財政を改革するために、まず、文を興す、即ち教育を振興させる、そして、武を振るう、即ち国防を充実させる、このことを断行しようとするに際し、反対する藩の財政専門家に言った言葉である。
そして、一挙に藩財政の赤字を解消した。
今もそうだが、大蔵省の役人には赤字を解消する為に増税(消費税)のことしか考えない。
反対に増税するために赤字を口実に使う。
しかし、財政の赤字は解消しない。
その理由は、「事の内に屈している」からだ。
この山田方谷の藩政改革の成功は幕末に行われた。
そして、維新後に、西郷が言った遺訓のなかにある言葉は、この山田方谷の成功例を観て言ったと私には思われる。如何であろうか。
次に、第二の言葉であるが、「義」と「利」を置き換えれば、今の政界の様になる。
即ち、今の政界は、 利を明らかにして義を図らずである。
選挙で「義」を明らかにした者は何処におる。
選挙で明らかにすべき「義」とは、現在も、山田方谷と西郷南洲と同じ、文を興し、武を振るい、農を励ます、ことだ。
教育費の増額と真の教育改革、歴史教科書の全面的書き換え、優良教員の給与増額と
良教員の教育現場からの排除(これにはカネがかかる)国軍の創設と軍備の増強そして農業と物づくり・製造業の振興である。













「大久保利通 公平無私の精神」

2018-02-25 08:16:47 | 日本

歴史街道に「大久保利通 公平無私の精神」が掲載されている。
以下、要約し学ぶ。



紀尾井坂の変。大久保利通が暗殺される
明治11年(1878)5月14日、大久保利通が暗殺されました。西郷隆盛と並ぶ薩摩藩倒幕派のリーダーで、維新三傑の一人に数えられることでも知られます。

人気という点でいえば、地元の鹿児島でも西郷とは比べものになりません。しかし、大久保の場合、自ら嫌われ役を買って出ている部分もあります。伊藤博文はこういいます。「あの人の威厳は一種天稟(てんぴん)であったが、珍しいほどの広量な人物で、公平無私であり、人というものは、どのような相手でも重んずるという風があった」。公平無私、つまり「公」に徹するに峻厳で、「私」を捨て去り、それが明治国家に必要なものであれば、どんな難題にも我が身を捨てて臨む、大久保の本領はそうした姿勢にあったように感じられます。

天保元年(1830)8月、大久保は鹿児島城下に生まれました。吉田松陰と同い年で西郷の3歳下になります。幼名は正介、後に一蔵と称します。嘉永元年(1848)、父親が世継ぎ争いの「お由羅騒動」に連座して島流しになり、大久保家は極貧生活を強いられました。食べ物にも事欠く日には、友人の西郷家の食卓に黙って連なったという話もあります。

3年後、島津斉彬が藩主になると父の処分は解かれ、大久保は蔵役、御徒歩目付を務めますが、斉彬に抜擢された西郷に比べれば、下役に過ぎません。しかし安政の大獄が始まり、斉彬は急死。西郷は奄美大島に流罪となります。

藩の下級武士の間で、西郷に次いで存在感を増していた大久保は、新藩主忠義の実父で後見役の久光に接近しました。久光といえばお由羅の子であり、斉彬派の人々からすれば快いはずがありませんが、大久保は久光の信頼を得て32歳で小納戸役に抜擢され、藩政に関与します。名より実を選んだのです。大久保は、久光が望む率兵上洛の準備を進めるとともに、西郷の呼び戻しを進言。しかし旧主斉彬が久光派に暗殺されたと疑う西郷は久光と相容れず、再び遠島に処されます。両者の板挟みとなった大久保は、一度は西郷と刺し違えることをも覚悟しますが、しかし冷静に薩摩藩の舵取りを果たす道を選びました。

元治元年(1864)に西郷を呼び戻すと、第一次長州征伐では薩摩藩がイニシアティブをとることを幕府に認めさせ、さらに薩長同盟を締結。常に西郷を表に出しつつ、大久保は裏で謀略面を担当し、薩摩藩を武力倒幕に向けて推し進めます。そして慶応3年(1867)の大政奉還後、岩倉具視と組んだ謀略の末に王政復古の大号令に漕ぎ着け、明治新政府の発足に至るのです。

明治政府の参議となった大久保は、明治4年(1871)には大蔵卿に就任し、西郷、木戸孝允らと廃藩置県を断行。その後、欧米を視察して日本の進むべき方向をプロシア風の「富国強兵」と見極めます。そしてそのためにすべての障害を排除する覚悟を固め、帰国後、朝鮮問題で揺れる政府から盟友・西郷を失脚させると、初代内務卿に就任。地租改正、徴兵制を実施、殖産興業政策をとりました。また不平士族に対しては断固たる態度で臨み、明治10年(1877)、西郷との西南戦争に勝利します。しかし、西郷の死に接すると、泣きながら自宅内をうろうろしたと伝わります。

そして翌年、参朝途上の馬車を紀尾井坂で石川県士族らに襲われ、暗殺されました。享年49。大久保の死後、巨額の借金が残りましたが、それは公的事業の補填に、自らの財産をあてていたためであったといわれます。














「西郷隆盛と大久保利通」

2018-02-24 07:22:39 | 日本

童門冬二(作家)さんが「西郷隆盛と大久保利通」について掲載している。以下、要約し学ぶ。


◎西郷自身が語る大久保との差

西郷隆盛と大久保利通が現代企業社会に生きたとすれば、リーダーとしてどう違うのか。西郷隆盛が、自分でこんなことを語っている。
「俺と大久保の差は、たとえば俺は、古い大きな家を壊し、新しい家をつくるのが得意だ。しかし、つくるのは本体だけで、内部の細々したことは苦手だ。そこへいくと、大久保は内部のどんな細々したことでも、着実に、丹念につくり出す。その才能には、到底俺はかなわない。しかし、またこの家を壊すことになると、俺の独壇場だ」

西郷は、徳川幕府という古い大きな家を壊した。そして、明治国家という新しい日本の家をつくり出した。が、その後を引き受けて、家の内部を整備し、明治国家として、日本を「ヨーロッパに追いつけ、追い越せ」という発展をさせたのは大久保利通である。その意味では、西郷が語ったといわれるこの言葉は2人の特性の差をよく言い表している。

西郷が語った言葉は、「情」と「知」の関係でいえば、西郷は類まれなる破壊者であるということだ。そして大久保は建設者だった。壊すには、確かに感情を動機にしたほうがパワーが大きい。しかし、建設は感情一辺倒では駄目だ。現実をよく見極めて、着実に、一歩一歩事を為していかなければならない。その意味では、西郷はどちらかといえば、遠くのほうを見るロマンチストであり、いってみれば、詩人的な要素があった。だから、時には大きく挫折する。あるいはせっかく積み上げた石の山を、自分から全部崩してしまうこともある。つまり、ゼロに戻ってしまう。しかし西郷の場合は、だからといって落ち込むこともなく、人を恨むこともなく、
「すべて、天の命ずるところなのだ。まだ、俺は人事を尽くしていないのかもしれない」
と反省して、新しい勇気を湧き起こした。大久保はそこへいくと、一歩一歩現実を見ながら着実に歩いていくタイプだ。明治維新後、大久保を知る多くの人たちがこういうことを言っている。
「西郷さんには、遠大なロマンがあったが、大久保さんにはそれがない。西郷さんは大きな夢を示す。大久保さんは、今日一日か、せいぜい明日あたりを目標にして、事を考える。決定的に違った」
もう一つの違いは、組織に生きる人間は、大きく分けて「組織を重視する人間」と「人間関係を重視する人間」とに分かれる。
つまり、難しい言葉を使えば「組織の論理を重視する」か、「人間の論理を重視する」かに分かれる。西郷隆盛は人間を重視した。そこへいくと大久保利通は、組織を重視した。特に組織の持つパワー、すなわち権力を重視した。

西郷の場合は、「組織の論理も、人間の論理によって突破することができる」と考えた。

大久保は反対に、「組織の論理は強固で、個人の力では突破できない」と考えた。

このあたりが、決定的に違う。
たとえば、西郷隆盛が仕事を進めるうえで、最も有力な方法として展開したのは、人間のネットワークをつくることである。それは、普通にいう閥のことではない。もっと、高い志によって、薩摩藩だけでなく、多くの藩や、場合によっては徳川家内部にも、自分と共鳴し、一緒に事を進めていく仲間づくりに勤んだことである。

また、彼は世の中に、3とおりの人間をしつらえた。3とおりの人間とは、
・学べる人間(師)
・語れる人間(友)
・学ばせる人間(後輩・部下)
のことである。

◎能力重視か、個性尊重か

西郷隆盛が、最初に師として仰いだのは薩摩藩主、島津斉彬であった。斉彬は、当時としてはたいへん開明的な大名で、ヨーロッパの知識も多く持っていた。いまの言葉を使えば、国際化、情報化に十分に対応していける力を持っていた。
だから、彼は薩摩藩主でありながら、常に、「国際社会の中で、日本はどうあるべきか。その中で、薩摩藩は何をすべきか」ということを念頭に置いていた。そこで、薩摩藩という小さな井戸の中の蛙のように、薩摩藩内のゴタゴタで終始、怒ったり悲しんだりしている西郷を、手元に引きつけて指導した。

斉彬が西郷を発見したのは、たとえ井の中の蛙であっても、西郷が類まれな純真な青年であったからである。また、胸に秘めた情熱が、桜島の噴煙のように熱かったからだ。つまり、斉彬は西郷を「オクタン価の高い人間だ」と見たのだ。西郷は、斉彬によってしだいに目覚めた。斉彬は、単なる主人ではなかった。完全に師であった。また斉彬を通じて、さらに新しい師である水戸の藤田東湖や、藤田のところに学びにきていた橋本左内をはじめ、多くの友人を得た。こういう多面的な他人との交流が、西郷隆盛に蜘蛛の巣のような拡がりを持った人間関係のネットワークをつくらせていく。そして、これがのちにどれほど役に立つかわからない。

西郷は鹿児島でも、若い連中とグループをつくった。『近思録』という書物を読み合う会だったが、これはやがて「精忠組」という政治グループに発展していく。西郷は、終始一貫この近思録派、あるいは精忠組のリーダーだった。
彼が、自分からリーダーを買って出たわけではない。後輩たちが、「西郷さん、リーダーになってください」とせがむのである。そういう、黙っていても、自然にリーダーの座に押し上げられてしまうような人徳と魅力が西郷にはあった。それは、西郷が、常にどんな人間に対しても温かかったからだろう。











「わが国最後の内戦、西南戦争とは」

2018-02-23 09:34:50 | 日本

山村竜也(歴史作家、時代考証者)が、「わが国最後の内戦、西南戦争とは」について掲載している。
以下、要約し学ぶ。



◎西郷隆盛と私学校党

相次ぐ士族反乱を鎮圧した内務卿・大久保利通には、最後の、そして最大の悩みがまだ残っていた。
故郷の鹿児島に帰ったままの西郷隆盛である。
西郷は、明治7年(1874)6月に鹿児島に「私学校」と称する学校をつくり、若い士族の教育にあたっていた。これは篠原国幹を長とする銃隊学校と、村田新八を長とする砲隊学校からなっていて、このことからもわかるように、かなり軍事的な色合いの強い学校であった。
ほかに、吉野山の開墾を目的とした開墾社、少年教育のための賞典学校も西郷は設立しており、これらも広い意味での私学校に含まれた。西郷自身は、開墾社での農作業に加わって汗を流すことはよくあったが、それ以外の学校での指導は自分ではほとんど行わず、すべて後進にまかせていた。
そのせいもあり、西郷の意志とは関係なく、私学校はしだいに反政府的な性格を強めていったのである。

また、鹿児島県令・大山綱良が、西郷寄りの人物であったこともあり、県内の要職を私学校の者が占めるようになった。別府晋介、辺見十郎太、野村忍介らがその例で、明治9年(1876)ごろになると、鹿児島県は政府の統治も及ばない部分が目立っていた。
その状況を、木戸孝允などは「独り独立国の如し」と慨嘆した。木戸は前述したようにここ数年体調がすぐれず、そのせいもあって政治に対する意欲さえ失っていた感があった。
しかし、大久保の場合はそういうわけにはいかなかった。明治政府の事実上の責任者として、そして西郷のかつての盟友として、鹿児島があたかも独立国の様相を呈している状況を見逃しておくことはできなかったのである。

最初に動いたのは大久保のほうだった。そのためこれを大久保の挑発行為ととることもできる。
明治9年12月下旬、中原尚雄ら薩摩出身の警察官など 23人が鹿児島に派遣された。名目は帰省ということだったが、その実は、西郷と私学校党の動向を探る任務をおびた密偵だった。
中原らが鹿児島に着いたのは、翌明治10年(1877)の1月半ば。そのことを知った私学校党は警戒したが、彼らをさらに刺激したのは1月下旬、政府の汽船が突然やってきて、鹿児島にある陸軍の火薬庫から夜間ひそかに弾薬を運び出したことだ。
保管してあった弾薬は政府のものであったから、本来はさほど問題のある行為ではなかったが、疑心暗鬼になっている私学校党は憤激した。そして1月29日夜、草牟田の火薬庫を襲撃し、大量の弾薬を奪って引き上げたのだった。
この報告を受けた西郷は、「しまった」と口走り、「なぜ弾薬などを盗むか」と残念そうにつぶやいた。

政府所有の弾薬を私学校党が強奪したとなれば、厳しい処置が下されるのは間違いない。下手をすれば私学校は廃止、そんな口実を政府に与えたことになるのだった。
西郷の落胆をよそにいきり立つ私学校党は、2月に入ると、中原尚雄らの密偵を全員捕らえて拷問を加えた。その結果、実は自分たちは西郷暗殺の密命をおびていると、中原が自白した
これは拷問に耐えかねて発した言葉である可能性が高いから、どこまで真実であったのかはわからない。しかし、私学校党のほうでは、やはり刺客であったかと激怒し、もはや誰も止められないほどに沸騰した。
西南戦争の勃発、そして…
2月5日、私学校本部で緊急会合が開かれた。西郷の意見を聞き、私学校党として兵を挙げるかどうか、決定する重要な会合である。
議論のなかで、永山弥一郎、野村忍介らの自重論も出たが、篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太らの主戦論が 200余人の参加者の圧倒的支持を得た。最後に桐野利秋が西郷自身の意見を求めると、西郷は、何もいうことはない、お前たちの良いと思うようにしてくれといい、
「この体はお前さあたちに差し上げもんそ」
と微笑んだ。一同はわき返り、出兵は決まったのだった。

翌日から私学校党を中心とする薩摩軍の編成が行われ、総数は1万 3000人を数えた。これを7つの大隊に分け、1大隊を 2000人とした。
そして2月14日、薩摩軍の先鋒が出陣を開始、17日には総大将の西郷も出発した。全軍がまず向かったのは熊本鎮台の置かれた熊本城で、そこを軽く突破してから、陸路東京に向けて進軍するという計画だった。

ところが 22日、薩摩軍が攻城を開始しても、熊本城は一向に破れる気配がない。司令長官・谷干城以下の鎮台兵の守りが予想外に堅固だったのだ。
薩摩軍は攻城を続けるが、そのうちに政府が6万もの征討軍を九州に送ったという情報が入る。やむなく薩摩軍は熊本城周囲に 3000の兵を残し、主力は北上を急ぐことにした。
すると27日、早くも到着した征討の政府軍が、薩摩軍と高瀬で激突した。激しい銃撃戦が展開され、両軍とも譲らぬ戦闘となったが、やがて篠原隊の銃弾が尽きて薩摩軍は退却を余儀なくされた。

緒戦で大きくつまずいた薩摩軍であったが、政府軍がそのまま一気に熊本城まで南下できたわけではない。熊本に至る途中には、要衝の田原坂があったからだ。
田原坂は、2キロほどのゆるい勾配の坂で、一の坂、二の坂、三の坂と曲がりくねっている上、道の両側が切り立った崖になっているために全体の見通しがきかなかった。政府軍が熊本に向かうには、どうしてもこの難所を越える必要があったのである。
薩摩軍は、地の利をいかして道の左右に壁塁を造り、敵を一斉射撃できる態勢をとった。この田原坂で敵を足止めできれば、包囲中の熊本城も手に入るのは確実で、戦況は大いに有利となるのだ。

3月4日、西南戦争中最大の激戦となる田原坂の戦いが始まった。初日の戦闘で薩摩軍は篠原国幹が戦死する痛手をこうむったが、降り出した雨のなか、一所懸命に政府軍と小銃で渡り合った。

政府軍の主力小銃が元込め式のスナイドル銃だったのに対して、薩摩軍は先込め式のエンフィールド銃であったから、5日以降も降り続いた雨には火薬が濡れて困らされた。
そこで薩摩軍は、銃に頼らず、抜刀して斬り込む戦法をとって、政府軍を恐れさせた。薩摩兵はほとんどの者が示現流、自顕流の剣を修行しており、その一撃必殺の斬撃は敵を震え上がらせた。

政府軍のほうでも、14日、旧会津士族が多い警視隊(警察官兵)のなかから抜刀隊を選抜して対抗した。彼らのなかには、かつて戊辰戦争で薩摩に痛い目にあったことを忘れておらず、「戊辰の復讐!」と叫びながら剣をふるった者もあった。
「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」とはのちに歌われた歌だが、両軍の膠着した戦いは16日間続いた。

そして3月20日、政府軍は猛攻の末についに薩摩軍を退却させ、田原坂を抜いた。戦力の劣る薩摩軍としては、むしろよく持ちこたえたというべきか。
4月15日、政府軍は熊本城に入城。薩摩軍は田原坂を撤退して以降、敗戦への道をたどっていくことになる。

熊本城を落としたあと、東京まで攻め上る予定が、結果的に九州から出ることもできずに薩摩軍は南下した。人吉から宮崎、延岡と敗走を続け、わずか 700に減ってしまった兵とともに西郷は9月1日、鹿児島に帰還した。

もはやこれまでと察した西郷は、従う者 370人とともに城山に登り、岩崎谷の洞窟にこもった。それを包囲する政府軍は、すでに5万の大軍となっていた。
政府軍の総攻撃が開始されたのは、9月24日の午前4時。砲声を耳にした西郷は、桐野、村田、別府、辺見らの幹部 40人ほどとともに洞窟を出た。そして一同、敵の銃砲弾が飛来するなかを、堂々と山を駆け下りていった。

やがて銃弾が西郷の太股と脇腹に命中し、西郷は倒れた。そして、かたわらの別府に向かい、「晋どん、もうここでよか」と告げた。
別府は、涙をふりしぼりながら腰の刀を抜き、端然と正座して手を合わせている西郷の首を落とした。享年 51。午前7時ごろのことだった。
別府のほか、桐野、村田、辺見らも西郷を追うようにして戦死をとげ、7か月にもおよぶ西南戦争はこの日、終結した。薩摩軍の戦死者約 5000人、政府軍の戦死者も 7000人近くにのぼったという。
多大な犠牲を払いながらも、わが国最後の内戦は、こうして幕を降ろしたのである。


















大宇宙生命の我

2018-02-22 06:46:25 | 日本

H29.12.21

大宇宙の無限生命よ!われはあなたの中に生活し、あなたの内に息している。
われはあなたである。
われはあなたの生命が顕現したものである。
われは楽観そのものである。
希望そのものである。
われは深き歓びに満ち溢れている。

「わが内に神が、今ここに神が!われは神なり、愛と光なり」 ※繰返す


声に出して言う!
「私は元気です!」  ※毎日10回以上

「元に戻れ!」    ※数回、ゆったりした気持ちで、アクションを付けて言う。
 身体全体の健康調整 →両方の拳骨を上下に、交互に、たたく。
 頭の調整      →掌の上に、顎に置き、唱える。
 背筋の調整     →両肘を伸ばして鉛筆を両掌にはさみ、前後しながらと唱える。











「神様からの伝言」

2018-02-21 08:15:23 | 日本

「神様からの伝言」


先ず、毎日唱えること。

1。愛してます
2。ついてる
3。うれしい
4。楽しい
5。感謝します
6。幸せ
7。有難う
8。許します


(8)つの末広がりの言霊暗記して、一日何回か唱えると、奇跡が起きます❗

愛の言葉は過去世の汚れをとります。
明るい未来が見えてきます❗
言葉は、神なり













「いまを生きる16の知恵」

2018-02-20 08:47:43 | 日本

「いまを生きる16の知恵」
              ―稲葉耶季

1.川の水のように自然の流れに沿う
2.自分の中のかすかな息吹を感じる繊細さを持つ
3.他者と同じ息吹の中で生きていることを感じる
4.興味のあることに集中する
5.不安や恐怖を持たない
6.喜びをもって生きる
7.感謝をもって生きる
8.風や太陽や月や星の語りかけを感じる
9.木や草や花や石と語り合う
10.人が喜ぶことを考える
11.心を静かにする時間を持つ
12.物をへらしてさわやかな環境にする
13.天然の環境のもとで少量の食事をする
14.ゴミを出さない
15.金や物や地位が自分を幸せにすると考えない
16.他者の生き方を肯定する













「対馬海峡危機?」

2018-02-19 08:12:18 | 日本

河井克行さんが「対馬海峡器機?」について掲載している。
以下、要約し学ぶ。


古来より、朝鮮半島の情勢はわが国の独立と平和に甚大な影響を与えてきました。663年白村江の戦いから始まり、近代では1873年のいわゆる「征韓論」、1894年日清戦争、1904年日露戦争、1910年の韓国併合、そして戦後は1950年からの朝鮮戦争…。いつの時代も、朝鮮半島に中国、ロシア(ソ連)、欧米列強といった大国の覇権が及ぶことは日本の国家存立の基盤を損なう脅威であるとの認識が共通してありました。

そしていま再び、わが国の平和と繁栄を大きく揺るがす脅威が朝鮮半島からもたらされています。北朝鮮独裁体制による核とミサイルの脅威です。さらに、今回の危機をいっそう複雑にしているのが北朝鮮に“融和的”な姿勢を示す韓国の文在寅政権の存在です。残念ながら、平昌五輪は「スポーツの祭典」ではなく、金正恩に乗っ取られた「政治宣伝(プロパカンダ)の祭典」として、後世に伝えられることでしょう。

この五輪開催の機会をとらえ、安倍晋三内閣総理大臣が平昌を訪問され、金永南最高人民会議常任委員長との「立ち話」で、拉致、核、ミサイルについてのわが国の断固とした主張を述べたことは、「南」の“融和的”な姿勢との鮮やかな対比を北朝鮮に強く印象付けることができました。

日朝の最高指導部が言葉を交わしたのは、2004年小泉純一郎首相が金正日国防委員長と会談して以来、実に14年ぶりのことでした。また、文在寅大統領に米韓合同軍事演習の予定通りの実施を念押ししたことは、後から効く極めて重要な動きでしたし、安倍総理大臣とペンス米国副大統領があからさまに揃った動きを五輪開会式などで見せ付けたことも、韓国の無警戒な南北融和姿勢に釘を刺すうえで大きな意義があったと考えます。

ところがこの安倍総理大臣の念押しに対して、文在寅大統領が「内政の問題」と反発したと報じられました。これは日本が朝鮮半島の安定に果たしてきた役割をよく理解していない認識に基づくものです。半島危機に際して日本は、“傍観者”ではなく“当事者”にほかならないことを、韓国民と国際社会に強く訴えるべきだと考えます。1953年以降、朝鮮戦争は名目上の休戦がつづいています。

国際連合の旗の下で戦った米英仏加など16ヶ国からなる国連軍(UNC)の後方司令部はいまでも米軍横田基地に置かれています。また、横田、座間、横須賀、佐世保、嘉手納、普天間、ホワイト・ビーチの在日米軍七基地は国連軍の基地としても指定されているのです。半島の事態によっては、自衛隊を含め、日本は好むと好まざるに関わらず、“当事者”としての判断が求められるのです。

私が今後懸念する事態は、韓国・文政権が平昌五輪が終わった後も米韓合同軍事演習のさらなる延期を米国に要請すること、そしてそこから発生するであろう米韓関係と日韓関係の悪化です。そうなれば、韓国は北朝鮮に加えてさらに中露にも接近していくことでしょう。この日米韓連携の分断こそ、中国の企図するところです。

中国は、北朝鮮危機の解決に協力する見返りとして、(1)米韓合同軍事演習の段階的な廃止、(2)在韓米軍の削減、(3)在韓米軍の撤退、を米国に要求することが考えられます。まさにその第一段階である合同軍事演習の中止を、米国の同盟国であるはずの韓国から言わせることに成功すれば、中国と北朝鮮にとってはまさに「願ったりかなったり」の展開です。彼らはこの構図を熟知しており、韓国文在寅政権はこの流れに乗りつつあるように見えます。

南北首脳会談の開催は、核やミサイルの問題解決に何ら進展がないにもかかわらず、巧みな“政治ショー”としてあたかも緊張が低くなったかのように演出されるに違いありません。そしてその光景を、日本や韓国の一部の政党やメディアが「歴史的な南北対話の始まり」だとか、「朝鮮半島に雪解けの時来たる」とか言って持て囃すことも容易に想像がつきます。

韓国の20~30歳代の有権者の多くは、文在寅政権の北朝鮮政策に対して批判的だとする世論調査の結果が報じられました。民主主義国家における外交・安全保障政策は、国民世論の支持なくしては進められません。日米同盟および日米韓連携の深化を求める世論喚起を、今後米国だけでなく、韓国社会に対しても積極的に行う必要があります。

韓国を日米韓の枠組に引き止めること、絶え間なく韓国の政府当局者と共に日米韓の緊密な協力の重要性を強調する声明を出しつづけることが大切です。

これからの数ヶ月間、日本の外交・安全保障は正念場を迎えると考えます。対馬海峡が新たな「38度線」になる事態は何としても避けなければなりません。










「大馬鹿になれ」

2018-02-18 07:02:30 | 日本

馬鹿の上にもう一つ“大”の字をつけるといいね。大馬鹿になればよいのだよ。大馬鹿になるということは、現在意識も潜在意識も捨ててしまうということだ。つまり人間智を捨てることが、神の無限智を汲むことなのだね。
小賢しい人間の知恵で対処するのではなく、我を捨てて何もつかまない、青空のように広い神の智慧と一つになって生きなさい、という意味である。

私たちの感じている現実世界とは、実は人類全体の集合意識が顕わしたところの架空の世界かもしれないのだ。
 
この世界は「思う通りになる世界」であり、この世は物質で出来ており、思う通りにならないと思っていれば、その通りの世界が現出してくるのである。
「思う通りになる世界」が今、ここに忽念として現出してくるはずである。

環境と自分とを対立するものと錯覚し、その環境の中に小さな自分があるという一般的な考え方がある。それに対して「神の子」の悟りに基づいた見方は全く逆に考える。環境は「神の子」が創造した生命顕現するための場であり、むしろ環境は私たちの中にあり、私たちはそれを如何様にも変えていく力を持っているのである。
これを仏教では「三界唯心蔵」とも呼び、、森羅万象全ては仏の心に浮かんだ観念であるとも云っている。
 
錯覚というものは、内にあるものを外にある様に見るところの顛倒(さかさま)の想いであります。これを「顛倒夢想」と『般若心経』には書いてあります。顛倒とはさかさまの意味である。無い物がある様に見え、ある物が無い様に見えることを謂う。夢想と云うのは夢中の想い。夢という奴も何もないものをあるように見ている。物質はないのに、ある様に見ている。肉体は無いのにあるように見ている。吾々は宇宙という容れ物の中に、自分がいるんだとこう見ているのだけれども、実は宇宙は自分の心の中にある。すべてが自分の心の世界なのである。宇宙旅行と云うのも、自分の心で描いた世界に、自分の心で描いたところの、心で設計したロケットに乗って旅行する。それをお釈迦様は 「三界唯心蔵」と言った。三界即ち現象界は、唯、心のうちに蔵(しま)われている。心の中に蔵されている。

宇宙が自分の心に中にあるとすれば・・宇宙を地球を周囲の人を変えることを求めるのではなく、まず自身の心を変えることに目を転じるべきである。自分の心のチャンネルが変われば神の無限供給の世界が展開してくる。

自分の意識を変えるためには、頭で考えていては限界がある。
何でもいいから、体を使って動いてごらんなさい。人生の壁を壊すきっかけは、日常にいくらでも転がっている。

人間の“我”の心で造った道であるから途中で行き詰まることになるのである。人間の智慧才覚で、“これが善であると固く把んでいる”ような道は本当の道ではないのである。それは大道ではないのである。では、大道に載るには如何にすべきであろうか。そのためには“人間智”を棄てなければならないのである。“人間智”が無くなったところに、神の智慧があらわれるのである。自我を放棄し、自我を超えたとき、あたかも積乱雲の上にまで飛行機が飛翔すれば、常住の蒼空の輝きが見えるように神の智慧が輝きはじめるのである。
 
自我を放棄し、自我を超越し、迷いの積乱雲上に超出する道は如何にすべきであろうか。
祈るがよいのである。自我の観念を棄て去り、ひたすら神と一体ならんことを期し、神想観し、「われ今、わが好悪を棄て、私心を去り、“我”の判断を棄て、心を空しうして神の導きたまう叡智と一体ならんことを期す。神の叡智われに流れ入り給いて、いま御意の如く導きたまうのである」と念じて、しばらく無我無心のまま神と融合する心境でいるのがよいのである。

(谷口雅春師 掲示)












「高周波は生命力を活性化する」

2018-02-17 07:00:23 | 日本

坂上玲子さんが「高周波は生命力を活性化する」について掲載している。
以下、要約し記す。



高周波とは、虫や鳥の声、川のせせらぎ、風の音、自然界には当たり前にある音で、人間を含めた生命体は、この高周波を聞く、受け取ると生き生き活性化します。

一方の低周波は、日常生活に今となっては当たり前に存在している機械音などの人工的な音。車のエンジン音から家電製品のモーター音、これらを聞くと人間の脳はストレスを感じて、細胞も萎縮してしまいます。

文明化が進むについて、高周波主体の生活から低周波主体の生活へと切り替わり、人間関係だけでなく、環境面において、現代人は知らず知らずストレスフルな状況へと追い込まれています。

都会は、家の中もモーター音による低周波、外も車を始めとする人工音にまみれており、機密性が高まった近代住宅は、外からの低周波音を遮断するのには優れていますが、一方で自然界の高周波も遮断してしまいます。

古い家は、隙間風が入ったりと何かと現代においては不便なところもありますが、日本家屋の昔ながらの作りは、外界の自然の音を室内に取り込む特徴もあり、人工音の増加だけでなく、現代家屋の機密性の問題もあって今は高周波と日常的に触れられない生活となっています。

例え、八ヶ岳のような自然豊かな地域にいても、ずっと室内にいては、外界の音は遮断され、人工音にまみれて不健康な生活となってしまう可能性があるのです。

だからこそ、休みの日には自然豊かなところに出かけて、心身ともにリフレッシュする人々が増えていますが、これは高周波の視点からすれば、体が求めている自然な流れであり、今後ますます自然からのエネルギー注入は必要となりそうです。

人間の脳は、なんと耳から90%以上ものエネルギーを補充しており、血液などからは10%未満に過ぎないようです。人間の可聴領域は、20Hzから2万Hz。2万Hz以上が高周波であり、聞こえないけど「ある音」、波動で感じます。

高周波を聞かせると、脳波が大きく変化し、ストレス波であるβ波が減り、α波や瞑想状態に出るθ(シータ)波が強く出てきます。高周波の入った音楽を聴くだけで脳と体が若返えります。
また次々にインスピレーションが湧き、思ったことがすぐに実現します。
他にも将棋が大好きな子供が、すぐに全国優勝したり、受験勉強や資格試験に合格したり、人によっては幸運体質となって、年収が5倍、宝くじが当たった話までエピソードは尽きません。
これはやはり脳が変わり、体も心も意識が変わり、引き寄せる現実が変わったからだと思います。









「水が燃えるオオマサガスが地球を救う」

2018-02-16 07:05:35 | 日本

ずいぶん前に大政社長の、このオオマサガスとの出会いがあった。 凄い開発なのに何故か大きな進展がなかったのを記憶している。時代が早すぎたのかもしてない。だが今の時期ならば世間に受入らるると、わが輩は思う。。大いに頑張って欲しい。

以下、天下泰平のブログを要約し掲載する。



オオマサガス。

正式には「OHMASA-GAS」という名称であり、これは「Oxygen Hydrogen Mixed Atomic Symmetrized Aeration Gas」の略です。

簡単にいえば酸素と水素が結合した新しい未知のガスであり、このOHMASA-GASを開発したのは、東京の大田区にある中小企業の日本テクノ株式会社。
開発者は、通称「下町の発明王」と呼ばれる大政龍晋(おおまさりゅうしん)社長です。

大政社長は工学博士であり、国内外を含めて150個以上の特許を持っており、社長室の中には首相からの賞状、都知事から表彰など、様々な功績が残されています。

すでに78歳となる大政社長ですが、今も作業服を着ながら現役バリバリで仕事と研究に励んでおり、初対面の自分の印象としてはまさに映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドク博士のような方。研究のことになると、もう言葉が止まらず、身振り手振り熱烈に語ります。

それはそれは、本当に衝撃的な素晴らしい未来エネルギーでした。

原料はなんと「水」。

水からガスを作り、そのガスが燃えてエネルギーになります。

「水が燃える・・・」
これがどんなにすごいことでしょうか。

普段何気なく使っている天然ガスといっても、基本的には地下資源、化石燃料であり、本来意味があって地下に眠っていたものを掘り起こし、人類のエゴで使って、その弊害として二酸化炭素の排出、大気汚染、地球環境破壊など大きな問題となっています。

ところが、オオマサガスは原料が水だけに、燃やしたところで発生するのは水蒸気のみ。
水クラスターが多く含まれているため爆発性もなく危険がない安全なガス。
なんの危険性も有害性もないどころか、そのガスを植物や動物、それこそ人間が吸うと老化が止まって健康となり、地球にとってもプラスとなるエネルギー源なのです。

さらに、水が環境に良いガスになるだけでなく、そのガスを使って発電実験もしています。

驚くべきことに、10kwhの電力で作ったオオマサガスで40kwhの発電ができたそうです。

プロパンガスだけで20kwhの発電が可能なので、この事実だけ考えると10kwhの電力で作ったオオマサガスで2倍の20kwhの発電をしたことになります。

つまり「入力より出力が大きくなる=永久機関(フリーエネルギー)」です。

とはいえ、まだオオマサガス単体では爆発力もなく、既存のガスとの混合でないと発電などの大きなエネルギーにはならないので、完全なフリーエネルギーとまではいきませんが、ただオオマサガスの特徴の1つに「核融合」もあります。

ガスバーナーにオオマサガスをつなぐと、ボーっと青白い細いレーザーのような炎がでます。

この炎、数百℃までしかならず、ガスバーナーとはいえ、スーッと手を通しても火傷せずに暖かい炎です。

水から生まれたガス、水から生まれた炎は、とても優しく温度も低いのですが、それはメリットでもありデメリットでもあります。

これでは、とても鉄などは溶かすことができず、金属によっては4000℃以上でないと溶かせない金属もあります。

ところが、通常は数百℃程度の温度の低い炎ですが、オオマサガスの炎は、対象物に当たると「核融合」がはじまり、突如として5000℃ほどまで上昇します。

もはや「太陽」が出現したかのように、その場でチタン(1668℃)やタングステン(溶解温度3422℃)を溶かしていました。

フリーエネルギー。

それは使い方次第で人類を救うエネルギーともなれば、兵器などにも利用され、人類を破滅に導くエネルギーにもなります。

それを目の当たりしたようで、人類の意識とフリーエネルギーの台頭は非常に深く関わっていると改めて感じました。

それにしても、原料はどこにでもある水。そこから有害性のないどころか、クリーンで生命体にとっても有益なガスエネルギーとなり、さらに発電、発火、その他の様々なエネルギーにまで活用できる、夢のような未来エネルギーのオオマサガス。

一体どうやって、水からガスを作るかといえば、それには低周波の振動によって水を特殊な羽で撹拌(かくはん)して乱流を発生させ、そこに電気分解を起こすと水の中からシューシューと白いガスが発生します。

この低周波「振動撹拌装置」がポイントであり、これによって通常の水が圧力のかかった特殊な水へとすでに変わって、実はこの水だけでもずっと腐らず、生命を蘇らせる活性水となっています。

かの有名な水の伝道師「江本勝さん」もまた、この大政社長の研究に注目しており、長年探し求めていた水を開発したとして絶賛したほどでありました。

この撹拌した活性水は、実はあらゆる菌を無害化するだけでなく、驚くべきことに放射能も完全に無害化します。

これらもすでに実験で実証済みであり、現在の日本テクノの技術を使えば、汚染水などは7時間ほどで完全に無害化できます。

原発の燃料プールなど、今後何万年も廃棄不可能と言われてる核汚染物も、この技術を使えばいとも簡単に元の地球資源へと戻すことができます。

さらにすごいことに、放射能の汚染水を振動撹拌装置によって無害化するだけでなく、これを電気分解することで、放射能が元素転換され、別の金属となって水中に出現します。

これも実験済みで、なんと「セシウムから白金(プラチナ)」を生み出すことにもなったのです。

まさに「ゴミ(マイナス)が宝(プラス)へ」変わる瞬間。

地球環境を改善するだけでなく、人類とっても友好的な資源を生み出し、循環的な世界を生み出していく「真の錬金術」。

これが日本発のテクノロジーとして完成しているのです。

それにも関わらず、相変わらず日本という国は、いくら結果が出ても、こういった科学では解明できないことは簡単には取り入れないもの。

特に除染関係は、それがすでに利権ビジネスにもなっているので、本当に放射能を消される技術が出てしまうと困ってしまいます。

そうこうしているうちに、日本テクノの大政社長のもとには、世界各国からすでに多くの技術提供のオファーが来ています。

今、一番必要とされている国で使われず、何よりも開発者の母国であるのにも関わらずに使えない皮肉な現状。

国に頼っても良い社会を生み出すのは難しいので、やはり消費者から、一般大衆から意識を高め、啓蒙活動を進めていくしかありません。

オオマサガス(日本テクノ)を是非とも応援してくださいね。









「憲法9条を守れ?と叫ぶ人たちが見て見ぬふりする最大の矛盾点」

2018-02-15 08:28:31 | 日本

長谷川幸洋さんが「憲法9条を守れ!と叫ぶ人たちが見て見ぬふりする最大の矛盾点」について掲載している。
参考になるため、以下要約し記す。



◎「戦争放棄」は日本の専売特許?
 
多くの人は憲法9条と聞くと、つい戦争放棄などを定めた条文に目が行ってしまう。だが、実はそれよりも「国連憲章」をしっかり読んだほうがいい。平和を実現する考え方は、そこに示されているからだ。

日本国憲法には、国連憲章の考え方が色濃く反映されている。象徴的なのは、他国への武力行使を原則として禁じた憲章第2条4項だ。それは、こう記している。

『すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。』(http://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/)

ここにある「武力による威嚇又は武力の行使」という言葉には聞き覚えがあるだろう。憲法9条にも出てくる文言だ。9条1項は次のように書いている。

『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』

これを読んだだけでも、憲章2条4項と憲法9条1項の類似性は明白である。

それも当然だ。時系列を振り返ると、米国が中心になって作った国連憲章に連合国が調印したのは1945年6月だった。2カ月後に日本が降伏し、連合軍総司令部(GHQ)最高司令官だったマッカーサー将軍は翌年2月に日本政府に憲法草案を提示した。

政府はマッカーサーの草案を多少、手直ししたが、骨格はそのまま受け入れた。占領軍の指示は拒否できなかったからだ。それで「戦争放棄」や「戦力不保持」「交戦権の否認」などが決まった。

「戦争放棄を掲げた日本の憲法は世界のお手本だ」などと語る人々もいるが、戦争放棄は日本国憲法が世界に先駆けて掲げたわけではない。先に国連憲章が戦争を禁止している。付け加えれば「戦争の違法化」は国連憲章が最初でもない。1928年のパリ不戦条約で初めて明示された。


◎自衛隊はなぜ生まれたのか
 
憲法が46年11月に公布された後、大事件が起きた。1950年6月、北朝鮮が朝鮮半島の38度線を超えて韓国を攻撃し、朝鮮戦争が勃発したのだ。

東京のマッカーサー司令部は事態に慌てて、韓国を防衛するために日本に駐留していた米軍を残らず朝鮮半島に送り込んだ。すると、日本に兵隊がいなくなってしまった。当時の日本は武装解除していて、日本独自の軍隊はなかった。

一方、日本共産党は当時、暴力革命を目指していた。マッカーサーはもぬけの殻になった日本に共産革命が起きるのを心配して、日本政府に再軍備を要求した。吉田茂首相は軍国主義の復活を懸念したが、拒否はできなかった。

政府は2カ月後の50年8月、要請を受け入れて「警察予備隊」を創設した。これが自衛隊の前身である。外形的に見れば、マッカーサーは自分が作った憲法で戦力不保持を決めておきながら、自分で破った形になる。ここをどう考えるか。

「マッカーサーのご都合主義」といえば、そうとも言える。

その後、マッカーサーは最高司令官を解任されたが、米国政府も日本の再軍備を積極的に推し進めたのは事実である。日本が51年にサンフランシスコ講和条約に調印して独立を回復した後、警察予備隊は52年に保安隊に改組され、54年に自衛隊として発足した。米国は「自衛隊が9条違反」と考えなかった証拠とみてもいい。


◎自衛隊が戦える「条件」
 
なぜ、米国は日本に再軍備を促したのか。それは共産主義勢力に対抗するために、日本の軍備を必要としたという政治的理由が大きかった。加えて、国連憲章が例外的に「軍隊による武力行使」を認めていたからでもある。それは次の憲章第42条に記されている。

『第42条 安全保障理事会は、第41条に定める措置では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。』

ここに示されているように、国連安保理は第41条で定めた経済制裁や運輸通信手段の断絶によっても不十分なときは、加盟国の陸海空軍を動員して、最終的手段として武力行使もできる。それから第51条だ。

『第51条 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。』

他国から攻撃された国連加盟国は安保理が動くまでの間、個別的または集団的自衛権を行使して反撃できる。以上のように、国連憲章は(1)安保理が認めるか(2)安保理が動かない間は、個別または集団的自衛権の行使として武力行使を容認していた。

だから、日本が自衛隊を保有したとしても(1)か(2)の武力行使をする軍隊であれば、米国は容認できた。逆に言えば、自衛隊という軍隊は(1)か(2)以外の武力行使はできない。それ以外の軍隊は、米国から見れば「トンデモナイ存在」なのである。


◎「9条平和論」の矛盾

冒頭に記したように、日本では憲法問題を考えるとき、あまりにも憲法の条文自体にこだわりすぎて「ああでもない、こうでもない」と解釈論ばかりが大手を振ってまかり通っているからだ。それでは本質を見失ってしまう。

憲法9条改正問題の本質は「日本の平和と安全をどう守るか」である。

条文解釈論が焦点になったのは、篠田教授が『集団的自衛権の思想史』(風行社)や『ほんとうの憲法』(ちくま新書)で強調しているように、多くの憲法学者があたかも「憲法はオレのもの」と言わんばかりに、憲法解釈を独占してきた事情もある。

そして、左派勢力は多数派の憲法学者による解釈を「錦の御旗」にして「9条を守れ、9条が日本の平和を守った」などと宣伝した。

彼らは歴代自民党政府を「対米従属」などと批判してきた。そうであるなら米国が作った「憲法を守れ」と叫ぶのではなく、彼らこそが自主憲法制定を唱えるべきだったのではないか。護憲派が政府を対米従属と批判するのは本来、倒錯している。


◎「憲法学者」が正しいとは限らない
 
私は憲法の解釈をするなら、まず国連憲章を前提にすることが重要と考える。国連憲章こそが国際社会の平和と秩序を保つ基礎になっているからだ。この点は、これまでのコラムで何度も指摘してきた(たとえば、http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38926)。

解釈の出発点は、憲法が禁止した「国権の発動たる戦争」が「国連憲章が認めた(1)と(2)の武力行使」も含むのかどうかだろう。「含む」と解釈するなら、憲法は憲章が認めた武力行使も禁じている話になる。逆に「含まない」なら、禁じていない。

私は「含まない」と判断する。同じ米国が起草したのだから、憲法も国連憲章の考え方を基礎にしている、と考えるのが自然だからだ。国連憲章を棚に上げて「集団的自衛権は違憲だ」などと叫ぶ憲法学者は根本から間違っている、と言ってもいい。

日米安保条約も国連憲章も集団的自衛権を前提にしている。とりわけ、旧安保条約は前文で国連憲章が個別的及び集団的自衛権を認めていることを記したうえで「これらの権利の行使として」日本が国内に米軍基地を置くことを希望する、と明記した(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43908)。 それを違憲というなら、日米安保条約を締結し(1951年)、国連に加盟した(56年)日本政府の行為が違憲という話になってしまう。

以上を踏まえたうえで、どう憲法を改正するかは政治と国民の判断である。

ただ、やがて国民の理解が深まって「戦力不保持と自衛隊の存在は紛らわしい」という話になれば、戦力不保持規定を外しても、もちろんかまわない。それは、もしかしたら最初の改正ではなく、2度目、3度目の改正をするときの課題かもしれない。

憲法改正論議はこれから本格化する。強調したいのは、憲法学者が専門家であるからといって彼らが正しいわけではないという点である。








「一ノ谷の合戦、平敦盛と熊谷直実(『平家物語』)」

2018-02-13 17:55:42 | 日本

元暦元年2月7日(1184年3月20日)、一ノ谷の合戦が行なわれました。奇しくも清盛逝去からちょうど3年後、平宗盛率いる平家軍は「鵯越の逆落とし」で有名な、源義経の奇襲攻撃によって、源氏軍に大敗します。

この前日、平家一門は福原において、清盛の法要を営んでいました。そこへ後白河法皇より源平の争いを停止するよう和平勧告があり、平家一門はこれを信じたがために守りが手薄となって、義経の奇襲を許したという説があります。

それはともかく一ノ谷付近まで進出した義経は、軍勢の大半を軍監の土肥実平に預け、海側の西城戸方面から攻めることを命じ、自らは僅かな手勢で平家軍背後の断崖絶壁を駆け下りることを決しました。義経は鹿がこの谷を越えることを聞き、「鹿が通えるのであれば、馬も通えよう」と言ったと『平家物語』は記します。

折しも土肥勢の攻撃が始まり、さらに東からは義経の兄・範頼の軍勢も平家軍に挑みますが、堅固な陣を敷く平家軍を攻めあぐねます。頃はよしとみた義経は、絶壁を騎馬で駆け下り、平家軍の背後に突入、予想もしなかった場所から現われた敵に平家軍は大混乱に陥り、平忠度をはじめ多くの有力武将を失いました。その中には、まだ少年の平敦盛の姿もありました。

敦盛は嘉応元年(1169)、平清盛の弟・経盛の末子(3男)に生まれました。幼い頃から笛が上手く、祖父・平忠盛が鳥羽法皇より賜ったという「小枝(さえだ)」(一説に「青葉」とも)の笛を譲り受けていました。

一ノ谷の合戦時、敦盛は16歳。従五位下ながら官職には就いていなかったことから、「無官大夫(むかんのたゆう)」と称されていたといわれます。 敦盛は平家一門として一ノ谷の合戦に参加していました。小枝の笛を錦の袋に入れて腰に差し、

「練貫(ねりぬき)に鶴繍(ぬ)うたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もえぎにおい)の鎧着て、鍬形(くわがた)打ったる兜の緒をしめ、金(こがね)作りの太刀を佩(は)き、二十四指(さ)いたる切斑(きりゅう)の矢負い、滋藤(しげどう)の弓持って連銭葦毛(れんせんあしげ)なる馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いて…」(『平家物語』)

といういでたちです。

やがて、義経の奇襲が成功して平家方が総崩れとなると、敦盛は郎党らとはぐれてしまい、やむなくただ一騎、沖の船を目指して馬を泳がせます。ところがそこへ、

「大将軍と見参らせ候え。敵に背中を見せるとは卑怯なり」

と声をかけた者がいました。源氏方の武蔵武士・熊谷次郎直実です。

敦盛にすれば、挑発的な言葉を無視して、沖の船に向かうこともできました。しかし彼は、武士の誇りを捨てて生き延びるよりは、己の武士の名を惜しむことを選びます。 海から取って返し、熊谷直実に勝負を挑んだ敦盛は、波打ち際で直実に組み付かれ、落馬します。

取り押さえた直実が首を掻こうとしてよく見ると、相手はまだ16、7の紅顔の美少年。自分の息子ほどの年齢です。さすがの直実も哀れに思い、手にかけることをためらいました。しかし、その背後には、すでに土肥、梶原ら味方の軍勢が迫り、直実を注視しています。もし、直実が見逃した.としても、すぐに別の者が襲い掛かることは明白でした。

逡巡する直実に敦盛は、自分が誰であるかは名乗らずに「お前のためには良い敵である。名乗らずとも首を取って人に見せよ。さあ首を取れ」と促し、直実は「ならば我が手にかけ、後の菩提を弔い申そう」と、泣く泣く敦盛の首を掻き切りました。

やがて敦盛が腰に差していた小枝の笛によって、直実は自分が討った少年が敦盛であったことを知ります。これを機に、直実は武士の生業に虚しさを覚え、出家することになります。 この敦盛を題材にした幸若舞『敦盛』の一節を、織田信長が好んだことはよく知られています。

かくして一ノ谷の戦いは源氏の圧勝に終わりました。しかし、総大将の宗盛は脱出に成功し、戦いは屋島へと舞台を移すことになります。




◎「青葉の笛」の背景

一の谷の  いくさ破れ  討たれし平家の  公達あはれ    
あかつき寒き  須磨の嵐に  聞こえしはこれか 青葉の笛             


 【平家物語・巻九:「敦盛最期(あつもりのさいご)」】

平家の軍が合戦に敗れたので、熊谷次郎直実は、「平家の貴公子たちが助け船に乗ろうと、波打ち際の方に逃げなさるだろう。ああ、立派な大将軍と組み合いたいものだ」と思い、海岸の方へ馬を歩ませていくと、練貫に鶴の縫い取りをした直垂の上に萌黄匂の鎧を着て、鍬形をつけた甲の緒を締め、黄金作りの太刀を腰につけ、切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖の船を目指して海へざっと乗り入れ、五、六段ほど泳がせたのを、熊谷は「そこにおられるのは大将軍とお見受けする。ひきょうにも敵に後ろを見せられるのか。お戻りなされ」と扇を上げて招いたので、その武者は呼ばれて引き返してきた。

波打ち際に上がろうとするところを、馬を押し並べて、むんずと組んでどっと落ち、取り押さえて首をかき切ろうと甲を無理にはぎ取って見れば、年十六、七ほどで、薄化粧をしてお歯黒に染めている。わが子の小次郎の年齢ほどで顔かたちがまことに美しかったので、どこに刀を突き立てたらいいかわからない。熊谷が「いったいあなたはどのようなお方でいらっしゃいますか。お名乗りください。お助けしましょう」と言えば、「お前は誰か」とお尋ねになった。熊谷は、「物の数に入る者ではありませんが、武蔵野国の住人、熊谷次郎直実と申します」と名乗った。「それではお前に向かっては名乗るまいぞ。お前にとってはよい敵だ。自分が名乗らなくとも首を取って人に尋ねよ。誰か見知っている者があろうぞ」とおっしゃった。熊谷は、「ああ、立派な大将軍だ。しかし、この人一人を討ち取ったとしても、負けるはずの戦に勝てるわけではない。また、討ち取らなかったとしても、勝つはずの戦に負けるはずもなかろう。小次郎が軽傷を負っても自分は辛く思うのに、この殿の父上はわが子が討たれたと聞いたら、どんなにか嘆かれるだろう。ああ、お助けしたい」と思って、背後をさっと見たところ、土肥と梶原が五十騎ほどで続いてやってくる。

熊谷が涙をおさえて申したのには、「お助け申し上げようと存じましたが、味方の軍勢が雲霞のようにやってきています。きっとお逃げにはなれないでしょう。他の者の手におかけ申し上げるより、同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのご供養をいたしましょう」と申したところ、「ただもう早く早く首を取れ」とおっしゃった。熊谷はあまりにいたわしく感じ、どこに刀を立てたらよいかもわからず、目も涙にくもり心もすっかり失せて、どうしていいかわからなくなったが、そうしてばかりもいられず、泣く泣く首をかき切った。「ああ、弓矢をとる武士の身ほど情けないものはない。武士の家に生まれなければ、どうしてこのような辛い目に会うであろうか。情けもなく討ち取り申し上げてしまったものだ」と嘆き、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いていた。

 ややしばらくして、熊谷はそうしているわけにもいかず、その武者の鎧直垂を取って首を包もうとしたところが、錦の袋に入れた笛を腰に差しておられた。「ああ、おいたわしい、この夜明け方、城内で楽器を奏しておられたのはこの方々だったのだ。今、味方には東国武士が何万騎かいるだろうが、戦の陣へ笛で笛を持つ者などおそらくいないだろう。高い身分の人はやはり優雅なものだ」と言い、九郎御曹司義経公のお目にかけたところ、これを見た人は涙を流さずにいられなかった。
 後に聞くと、若武者は修理大夫経盛の子息で大夫敦盛といい、年齢十七歳になっておられた。
 そのときから熊谷の出家の思いがますます強くなっていった。